邪眼(5/6)

 その男はあまりに愚かなために、自分が何をしているのかを理解していなかった。

 自分の力に驕り、男は闇の勢力を束ね始めたのだ。人狼吸血鬼闇精霊たちを手始めに、あらゆる魔物怪物を取り込みながら、男はその勢力を着々と拡大していった。悪魔の小団体を傘下に収めた頃からその勢力の成長は加速し、無数の屍の上に、やがて闇の勢力のほぼすべてを手中に収めることになった。

 男はそれが自分の野望の結果だと信じていたが、実際には闇の勢力たちの欲望が形になっただけのものだった。それらに取って神輿の主は誰でも良かったのだ。


 闇の中の勢力の台頭は対極の勢力の注意を呼び覚ました。天使たちが下界に降りてきて、何が始まっているのかを探りだした。

 こうして天界と魔界の大戦は始まった。最初は小競り合いから始まり、それは急速に下界全域に広がった。戦乱と闘争の炎が燃え盛り、悲嘆と悲劇の幕が開いた。

 後にこれは闇大戦とただ一言だけで呼ばれるようになった。ごく一部を除けば人間たちにはあずかり知らぬところでの戦いであった。

 その能力だけに収まらずに、あらゆる魔物と魔導書と魔道具の力を借りて、その愚か者はついに天使の牙城の一角を崩し、天界の中心たる光の玉座へと攻め込んだ。

 そして神と対峙した。


「神さまに出会ったんですか!?」エマが目を丸くした。

「出会っていないよ。玉座は空だったんだ」

「なんだ」エマが落胆した。


 だが玉座は本当の意味で空ではなかった。

 神は実体を持たなかった。それ以上の存在であったから。

 それは宇宙そのものであり、一つの大いなる意識であった。それに実体はない。他とは分離できないのだ。そして意識はあったが人間で言うところの自我は持っていなかった。

 存在している空間自体がそれであり、流れゆく時間のすべてがそれであった。あらゆる肯定がそれであり、あらゆる否定もまたそれであった。

 光はそれであり、闇もまたそれであった。

 人間たちが神と呼ぶ存在は、まだそれを正しく表す言葉を創りだしてはいなかった。


 神はその愚かな男の挑戦を受けず、戦いもしなかった。

 その代わりに神は分け与えた。


 神の中にあった無数の経験の内から百年分を。大勢の人間や魔物や天使、それに大地や大海に生きてきたあらゆるものたちの経験を、私の中に流し込んだ。

 莫大な水流に飲み込まれるように、私はその経験に飲み込まれた。無数の人生が注がれ、無数の後悔と欲望、そして喜びが与えられた。

 私は止めてくれと叫んだが、神は止めてはくれなかった。

 それは止めどなく注がれ、与えられ、満たされ、詰め込まれた。

 経験は注ぎ込まれる端から忘却されていったが、それでも私は学ぶことからは逃れられなかった。

 すべてが終わった後に、そこにいたのは魔王子ダークではなく、敬虔なるファーマソン神父であった。


 目を丸くして見つめるエマに私は微笑んだ。

「百年の経験を経て、私は成長した。つまりその・・」私は恥ずかしさに言い淀んだが、それでも何とか後を続けた。「・・反抗期が過ぎたんだ」


 自分の黒歴史を見つめるのは恥ずかしい。

 何が闇の王子だ。何が魔界の先陣だ。何が世界を手に入れるだ。

 数多の愚かな独裁者と同じ幼稚な幻想にどっぷりと浸って、あの愚か者はいったい何がしたかったのだ。あの時の私はただただ権力に飢えていただけだった。

 ボーンズ少年のような犠牲者を量産しながら、その目的すら定かではない血まみれのマラソンを続けていた。

 これを恥と言わずして何を恥と言おう。

 ただ無目的に燃え広がる炎。その存在のどこに誇りがある?

 終わることのない飢え。そのことのどこに美しさがある?

 ただ人の上に立つこと。そのことのどこに人生の意義がある?


 それに比べて今の私は日々を充実して生きている。

 公園の陽だまりの中で育やかな風を楽しむことすらできるようになった。

 地平線に沈む夕日を美しいと感じることができるようになった。

 笑いさんざめく仲間たちの中で幸せとまで感じることができるようになった。

 

 どれもダークが持ちえなかったもの。

 どれもダークが知りえなかったもの。

 どれもダークが味わえなかったもの。


 私が神に洗脳されたのだと噂する奴らもいる。

 だが真実は違う。私は学んだのだ。

 そしてまだ学び方が足りなければ神は何度でもその経験を分かち合ってくれるだろう。


 それだけは願い下げだ。


「だからな、この話は二度と私に聞くな」

 私は締めくくった。これ以上話していては恥ずかしさの余りに顔が燃え上がってしまう。

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