邪眼(2/6)
結局三人でサングラスをかける羽目になった。一番色の濃いヤツをだ。神父服に尼僧服、神学生の服。三人揃って怪しいサングラス・トリオの出来上がりだ。
準備ができたのでタクシーに乗り込んで行先を告げると運転手が絶句した。
「神父さん、あんた正気かい。あそこはヤバい所だよ」
「知っている。神のお導きである人物に会いに行くんだ」
「そっちの若い尼さんと坊やは置いていったらどうだい。無事で済む保証はないよ」
この運転手は良い人間だ。わざわざこちらの身を心配してくれる。
神よ、彼の魂に祝福を。
「心配してくれてありがとう。大丈夫だ。あそこがどんなところかは良く知っている」
うん、確かに良く知っている。あそこは地獄もかくやと言うべき吹き溜まりだ。
何とか運転手を説得して目的のスラム街に到着する。我々を下すとすぐにタクシーは消え去った。タイヤの一つも盗まれる前に逃げ出すのは正しい行いだ。
路地に入り、角を三つばかり曲がる。路地はどこもゴミだらけだ。
「マスター?」エマが言った。「つけられています」
「三人だな。気にするな。こちらの行き先がはっきりするまでは手を出してこない。この街の有力者の知り合いだった場合には襲撃者は命を失うことになるからな」
「これから会いに行くのはお偉いさんなんですか?」
「違うな。どちらかと言えば小者だ」
エマとアンディは顔を見合わせた。その手が隠し持っている武器に触れるのを私は見逃さなかった。もちろんそれらは訓練用ではない。
私はビルの階段を登り、部屋番号を確かめた。ここだけは他の部屋とは違い頑丈な鋼鉄のドアだ。スライド式ののぞき窓がついている。昔とちっとも変わらない。
壁に開いた弾丸の痕以外は。
以前と同じであればよいがと思いながら、扉をノックする。
扉についた覗き穴が開き、眼付の悪い太った顔が覗く。ガンオイルの臭い。扉の向こうでショットガンを構えているのだろう。
「何の用だ?」男は聞いてきた。
「アザースはいるか?」
「あんた誰だ。今日は誰もアポは取っていないぜ」
「ダークが来たと言ってくれ」
覗き窓が閉まり、扉の向こうで巨体がもそもそと動く音がした。やがて小さな悲鳴が聞こえ、何かドタバタと騒ぐ音がした。
やれやれ。アザースの野郎。いつになったら私から逃げおおせることはできないと理解するんだろう。エマとアンディをその場に残して、廊下の端まで行き、そこの窓から覗いた。アザースが向かいの建物の上を走っているのが見えた。アザースの住処はいざと言うときすぐに逃げられるように、窓の外に脱出ルートが作ってあるのだ。
私は窓の上枠に指をかけてビルの外に飛び出すと、建物の壁を蹴って跳躍した。そのまま隣のビルの屋上に飛び降りると、今度は三歩の動きでアザースを捕まえた。襟首を掴んでアザースを宙に吊り上げる。
「久しぶりだな。アザース。元気そうで何より」
「ああ、ダークさん。久しぶりです。その服装は一体どうしたんです?」
私の手に吊り上げられて、もしゃもしゃの赤毛の小男が左右を忙しなく見ている。
なんでもいいから何か助けになるものがないかと探しているのだろう。
アザース。本名は誰も知らない。というか彼のことを知りたがる人間などこの世には居やしない。知りたいのは彼が持っている情報。アザースは情報屋なのだ。それも人間の暗黒街だけではなく、闇の世界の情報も握っている珍しい情報屋だ。
「訳アリでね。今は対策局のエージェントをやっている」
私の言葉を聞いてアザースは目をぐるぐる回した。自分の耳が信じられなかったらしい。まあ、無理もない。アザースは昔の私を良く知っているから。
「とりあえず元の部屋に戻ることに異論はないか?」私は聞いた。
「もちろんです。ダークさん。こんな目立つところであんたと話をしていたりしたら、明日には俺は死体になっている」
「そりゃいいな。世界が少しは静かになる」
それ以上は何も言わずに、私は元のビルに跳んで戻った。小脇にアザースを抱えたままでだ。足下には二十メートルの空間。ヤツは恐怖の余りに悲鳴を上げたが、なに、知ったこっちゃない。
窓からアザースの部屋に戻る。ボディガードが目を大きく見開いてから手にしたショットガンを向けようとしたが、私の方が速い。そいつの手から銃をもぎ取って床に捨てた。動きを制限しなかったのでそいつには何も見えなかっただろう。強烈な衝撃と共に手の中からショットガンが消え、私の手の中に現れたように見えたはずだ。彼の指が折れなかったのは単なる偶然だ。
「マック、止めろ」アザースが叫んだ。「向こうに行って大人しくしてろ」
賢明にもマックはそうした。私はちょっとだけほっとした。できたての死体の臭いの中で会話をするのは、あまり気持ちのよいものではないからだ。
無数の鍵のついた玄関扉を開き、エマとアンディを招き入れる。
アザースの家は外からは想像がつかないほど綺麗に片付けられている。ボディガードの大男は家政婦もやっているのだろうか。壁には色々な種類の魔除けが飾られている。見る者が見れば、それがどれも本物のまだ効力がある魔除けだと分かるだろう。
人狼避けの魔除けもあったが、真っ黒に焦げて微かに煙を上げている。何だか悪いことをしてしまったような気がする。人狼避けの魔除けは意外と値が張るのだ。
アザースの仕事部屋は一番奥だ。柔らかそうなソファが小さなテーブルを前にして配置されている。
「さて、ダークさん」気を取り直したアザースが言った。「何をお望みでしょう?」
プロとの会話は、実に話が早くていい。
「最近この辺りで石化を使った者がいる」
アザースは片方の眉を上げてみせた。知っているということだ。アザースは自分の表情を完全にコントロールできる。彼が嘘を吐く気なら、普通の方法では見破ることはできない。
「その話は聞いたことがあります。さて、いくら払えますか?」
私は返事をせずに手近にあったテーブルランプを取り上げた。その真鍮の足を何気なく曲げ、これも真鍮のランプシェードを指の力だけで潰してみせた。これは人狼に取ってはそう難しいことではない。筋肉のリミッターを外す方法を学べば良いだけだ。強い力は筋肉を損傷させるが、人狼に取ってそれは何の問題にもならない。数秒で治る。
「勘弁してください。ダークさん。これは真っ当な商売なんですよ」
「冗談だ」私は言った。「対策局の予算は潤沢だ。ただ私は人に舐められてボッタクられるのが嫌なだけなんだ」
「ダークさんを舐める人間なんてこの世にはいませんよ。いたとしたら死んでいる。特に私は明朗会計です。ごまかしは無し、正当な報酬しか頂きません」
アザースは言い訳をした。匂いで分かる。死ぬほど私を恐れている。今にも破裂しそうな心臓が強烈なビートを奏でている。だがこと仕事の話となるとアザースは一歩も引かない。強欲というわけではない。自分の仕事のスタイルに文字通り命を賭けているだけなのだ。
宜しい。話を先に進める頃合いだ。
対策局の予算は潤沢だが、理由なく無駄使いをするとアナンシ司教に睨まれることがある。私はそれが恐ろしい。
「ゴブリングループが新しいボディガードを雇ったって話があります。俺はそいつが石化使いじゃないかと睨んでいるんです。厄介なことに犠牲者はゴブリンたちが始末しちまうんではっきりしたことは分からないんですが」
「ゴブリン? ゴブリン・マフィアの連中か」
ゴブリンは闇の世界のゴミ拾いだ。小さくて緑色の体。頭もそう良くはない。だがその分、群れる。そして群れを成すと中には賢いヤツも出てきて頭になる。そうしてできたのがゴブリン・マフィアという組織だ。
神が己の姿に似せて創り上げたのが人間なら、悪魔が己の姿に似せて創り上げたのがゴブリンだ。邪悪で欲深でおまけに卑劣。人間の悪いところばかりを煮詰めたような連中と言えば理解してもらえるだろうか。
アザースはゴブリンたちのボスが棲む場所の住所を寄越して来た。
「カードは使えるかな?」
私は対策局から支給されているブラックカードを取り出してみせた。表も裏も真っ黒の無記名のカードで、文字通りのブラックカードだ。リミット無しでいくらでも使えるカードで、もし紛失なんかしようものならばアナンシ司教に八つ裂きにされるという楽しい代物だ。
「もちろんです」
アザースはどこからか機械を取り出してきてカードを通した。ごまかしは無しだ。
アザースはこと仕事に関しては誠実を貫いている。元よりそういう性分というわけではなく、ただ単にアザースが扱う顧客は馬鹿にされたと感じると狂暴になる手合いが多いからだ。その結果、アザースは自分で作ったルールを異常なまでに厳密に守るようになったというわけだ。
私は立ち上がった。
「ああ、それからアザース。今の私は対策局のファーマソン神父だ。覚えておいてくれ。今後はその名前だけを使ってくれ」
「わかりました」
アザースの顔に小狡そうな表情が過った。何を考えているのかはわかる。この情報をどうやって金に換えようかと考えているに違いない。
少しだけアザースには釘を刺しておこう。
「私はダークという名を捨てた。二度とダークには戻りたくない。でももし誰かがファーマソン神父はダークだと言いだしたりしたら、また私はダークに戻ってしまうかもしれない。この意味が分るな?」
私はにっこりと笑ってみせた。
そうして、アザースの表情を読む。顔面の筋肉が緊張する音。発散するホルモンの匂い。呼吸の速さ。心臓の鼓動音。訓練された人狼には人間の全身の『表情』を読むなど造作もない。
アザースは怯えていた。それもひどくだ。ダークの時代には、私はただの一度も笑ったことがないのでそのせいかもしれない。
「わかりました。ファーマソン神父。あなたは今までもファーマソン神父だし、これからもファーマソン神父です」
アザースは本気で言っていた。
彼が私の情報を売らないとは思わなかったが、売るとしてももの凄い値段をつけることだろう。ふたたび怒り狂ったダークに出会うことに見合うだけの金額とはいったい幾らになるだろう?
「うん、二人とも正しい認識に達したようだ」
私はエマとアンディを引き連れてアザースの部屋を後にした。背後で鋼鉄の扉にしっかりといくつもの鍵がかけられる音がした。
その帰り道、予想通りに襲われた。
*
そいつらは若い不良たちのグループだった。破れたジーンズにやたらと鎖のついた服。無意味に染めた髪。腕にはお決まりのタトゥーを入れている。
地元のリトルギャングたちだなと思った。
これがダークだったら行先を塞がれたことに腹を立て、最初の動きでこの半数の内臓を引きずり出していただろう。だが彼らにとって幸いなことに、今の私はファーマソン神父だ。私は自分の中にまだ残っているダークにつけた鎖の手綱を放しはしない。少なくとも今のところは。
「この路地は俺たちの縄張りなんだぜ。通るつもりなら通行料を出してもらおうじゃねえか。神父さんよ」
リトルギャングの一人、一番派手な格好をした男が前に出て言った。髪はトサカ。パンクロックを気取っている。
ここで言い争っても無駄だ。どのみち彼らの言い分には一分の理もない。
「アンディ。彼らの武器は?」私は尋ねた。
「喋っている男はナイフをポケットに入れています。左後ろの男が腰の後ろに拳銃を差しています。右の端の男は鎖をベルト代わりに巻いています。それと隠した手のひらの中にナックルを持っています」
よし、アンディは合格だ。きちんと訓練の成果を上げている。
「エマ。君一人でやってみなさい」
エマは頷くと前に出た。リトルギャングたちがたじろいだ。さすがに尼僧を傷つけるという行為に気後れしたのだろう。
「おい、何か勘違いしていないか。俺たちは別にあんたたちを傷つけようというわけではないんだ。ただボディガード料を・・」
エマの動きは素早かった。ナイフを取り出そうとポケットに手をいれた男の顔面に強烈なパンチを叩きこむと、その体を突き飛ばした。意識を失った体が拳銃を持った男にぶつかる隙をぬって前に出ると、見事な弧を描いた蹴りを拳銃男のこめかみに打ち込んだ。次の瞬間には右に跳び、男の金的を蹴り上げると、最後に残った男の背後に回り、うろたえる相手の腕を逆手に取って抑えつけた。
股間を抑えて蹲った男を見て、私とアンディが顔をしかめた。思わずその痛みを想像してしまったのだ。
ふむ、エマも一応は合格だ。訓練の成果が出始めている。ただ蹴りを使うのは禁止するべきかもしれない。モーションが大きい蹴りは相手が刃物を持っている場合は大きな弱点になるし、なにより尼僧服の下が大きくはだけるのは批難されるべきことがらだからだ。例えスパッツを下に履いていようとも。
エマが締め上げている男に私は顔を近づけた。
「誰に頼まれた」
「誰にも頼まれていません」顔を青くした男が答える。
匂いを嗅ぐ。確かに嘘はついていない。エマが男を解放した。
「今度からは神の使徒は襲わないように」
私はそう注意すると十字を切った。アンディとエマが小さくアーメンと呟く。それから呻いている男たちを路地に転がしたまま、その場を後にした。
子羊たちがこれを機に改心してくれればよいのだが。
*
アンディたちは我々がこのままゴブリン・マフィアのところに直行すると考えていたが、その前にやることがいくつもあった。
最初にやることは手近のステーキハウスの襲撃だ。
これはエマのためだ。変貌初期の人狼は驚くべきほどの大量の食物、つまり肉が必要だ。この時期は軽い飢餓でも急速に人狼の大脳皮質による抑制を弱らせて、たいがいは周囲で一番簡単に手に入る獲物、つまりは人間を襲うようになる。
エマの場合はそうなっても私という存在がいるので大丈夫だが、それでも危険な橋を渡る必要はどこにもない。アンディが飢えたエマに腕を齧られてからでは遅いのだ。
ステーキハウスの中にあった肉の内、アンディが一枚を食べ、私が五枚、そして残りをエマがすべて平らげた。この神父集団の食欲には店のウェイトレスが驚愕の表情を浮かべていた。
これで夕食までは何とか持つだろう。我らの犠牲になった牛の魂に祝福を。
次にやることは手に入れた情報の確認だ。アザースは食えないやつだが、情報屋としては一流だ。自分の仕事には常に真摯に向き合っている。だからその情報の真偽については疑っていない。
だから調べるのはゴブリン・ギャングの別の情報だ。どんな連中で、どのぐらいの規模なのか。用心棒にどんな連中を使っているのか。私ならば情報を集めなくても大抵のことは力づくで解決できるのだが、それは私のスタイルではない。それにそのやり方をアンディたちが真似するようでは困る。これも訓練の内なのだ。
こういった情報すべてをアザースから買い取るのはてっとり早いかもしればいが、そんなことをすればいったいいくらにつくか想像もできない。きっとアナンシ司教は良い顔をしないだろう。予算は潤沢でも神の愛のように無限ではないのだ。
他に二つばかり情報屋を当たりだいたいのところを掴んだ。
このギャング団の規模は百人程度。ゴブリンは元々が群れる習性があるので、この規模は普通だ。主にやっているのはかなりディープでコアな売春だ。フリークスと呼ばれる連中を大勢抱えていて、絶対に身元を明かせない連中を相手にして商売している。
用心棒にはオークが数人使われている。オークは巨体が売り物の怪物で知力は低いが力は強い。分厚い頭蓋骨もあいまって、銃で撃たれたぐらいではそれほどの打撃にはならず、殺すには爆発物が必要になる。闇のギャングの用心棒には最適な種族だ。
その中に最近は新顔が加わっている。これが目標だ。外見上はただの人間だが、石化能力を持つのでもちろん普通ではない。
もしかしたらこの新顔が群れを統率しているのではとも考えたがそれは杞憂だったようだ。あくまでも新顔の用心棒でしかない。これは朗報だ。
ここまで情報を集めてもアザース以上に詳しいものは集まらない。やはり彼の腕は一流だ。
最後にやるべきことは襲撃の作戦を立てることだ。
このゴブリン・ギャングの戦力相手なら私一人でも十分に対抗できる。ただこれに石化の使い手が加わると話は相当に厄介になる。だがこちらにも強みはある。大概の石化能力は目を通じて働く。だから人狼には石化に対抗できる確実な手段が一つあることになる。そしてアンディにも十分に対抗できる強力な手段がある。
邪魔が入らないように最初にゴブリン・マフィアを皆殺しにしておくというのはどうだ?
少し考えてこの案は放棄した。ゴブリンは行動も思考も実に醜い生き物だが、彼らは彼らなりに存在理由を持っている。無暗にそれらを破壊するような真似はしてはならない。
これがダークなら一切躊躇わずに皆殺しにするだろうが、私はファーマソン神父であり神の慈悲を体現する存在だ。あまり派手なことはやるまい。
できることなら目標が一人のときに会いたいが、ここまで情報が出てこないというのはこの少年だか何だかはゴブリンたちが囲いこんでいるということだ。一人になる隙はないだろう。
となると一つだけ、実現できそうな案がある。しばらく考えて結論が出た。ゴブリンは信義というものを持たない。あくまでも自分たちの利だけで動く。だから彼ら相手ならばこの案は可能だ。
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