邪眼(1/6)
ナイフを持ったアンディが前に出ると、素早い突きを繰り出した。エマは手にした短棒でそれを受けると、もう一方の手に持った短棒をアンディの上に振り下ろした。
アンディの動きは素早かった。首を後ろに振ることで短棒を躱すと、ナイフを滑らせてエマの親指を素早く切りつけた。練習用のナイフに刃はついていないが、それでも皮膚が裂けて血が飛び散った。
「そこまで」私は宣言すると、エマの手から短棒を取り上げた。
エマはこう見えても負けん気が強い。武器を取り上げないといつまでも戦いを続けたがる。
「自分の体の力のみに頼った動きでは、いつまでも経ってもアンディには勝てないぞ」
私が注意するとエマは険しい顔をした。
人狼は無尽蔵の体力と素早い復元能力を持っている。そのため人狼になったものの多くは無敵感を持つことになる。だがその感覚に身を任せることは間違いなのだ。銀の武器を使えばごく普通に人狼に傷をつけることができるし、人狼よりも強い怪物はいくらでもいる。
弛まない訓練こそが生き残るための秘訣なのだ。
二人がやっているのはかなり荒っぽい訓練に見えるがそれは違う。
エマは人狼だから普通のナイフでは死なない。心臓を刺されてもしばらくの間もの凄く痛い思いをするだけですむ。
アンディはそうもいかないので、この練習用の棒はわざと脆い素材で作ってある。殴られたら頭蓋骨の代わりに棒が砕けるようにだ。もっともその衝撃は強烈で、もし殴られればアンディは丸一日はベッドで唸ることになる。だから二人とも真剣に戦うことになる。
もっともアンディには私以外の者には明かしていないある秘密が存在する。そのため単純な攻撃ではアンディを倒すことはできない。エマがその秘密に気付くまではアンディはエマに勝ち続けることになるだろう。
私の胸ポケットの中でスマホがメールの着信音を鳴らし、画面に『クソ野郎』の文字と共にアナンシ司祭の名前が表示された。私はそれを無視しようかとも思ったが、やはりメールを開いてみた。
こと仕事に関してはアナンシ司教はひどく厳しい。仕事をサボった連中にはとてもとても酷いお仕置きが行われることは誰でも知っている。
それ以外の点ではアナンシ司教は話が分かる。エマを勝手に対策局にスカウトしたことにも文句を言わなかったし、彼女を人狼化したことにも不満は漏らさなかった。それどころかエマと二人で平らげたレストラン一件分のステーキの領収書もちらりと一瞥しただけで受け入れた。
その点ではアナンシ司教は良い上司なのだ。
仕方ない。どうせまた厄介な仕事の呼び出しだろうが、働かざる者食うべからずの鉄則がある。
私はアナンシ司教の元に向かった。
アナンシ司教はバチカン特殊事例対策局のトップで、しかも自分の机と椅子から一瞬たりとも離れたことのない人物だ。
当然ながらいくら彼でもトイレや食事には行っているはずなのだが、誰もその瞬間を見たことがないのも事実だ。
アナンシ司教の体は巨躯と言ってもよい。脂肪でできた人間ピラミッドと言えばそのイメージにもっとも近い。それがいつもの定位置にどんと聳えているのだから迫力がある。
彼の存在を知る者が対策局の外部にはほとんどいないことは幸運だった。でなければ世界各地の登山家たちが彼を初登頂しようと群がって来ていただろう。
私が対策局のオフィスに入ると、アナンシ司教はじろりと私を睨み、手にした書類を投げつけて来た。
「スカウトに行ってこい」
「あの化け物ジェット機には乗りませんよ」
一応念を押す。無駄な努力であるが。アナンシ司教がそうと決めたのならば、そうなるのだ。
「心配するな。列車で行ける範囲だ。それにそこまで急な話ではない」
それに対する返答は私の疑いの目だ。
「今回の任務は新人のスカウト。有望株だ。まだ自分が何者なのかに気づいていない」
私はざっとその書類に目を通した。相手の調査報告、それとさらに追加の三枚の報告書。今までに三回スカウトが送られたという証拠だ。そしてそのいずれもが失敗している。全員入院中だ。症状は石化症。次に魔術治療師がここに巡回してくるまで彼らは冷たい地下倉庫で眠り続けることになる。
今回の相手は石化能力持ちということは物凄く厄介な案件ということだ。
「それとその書類に書いてある目標がもし本物なら確保してこい」
ついでのようにアナンシ司教は言った。
もしそれが本物なら、確保は命がけになる。そう心の片隅で思ったが、口にはしなかった。言うだけ無駄だ。アナンシ司教は仕事には厳しい。それはつまり人、いや人狼使いが荒いということなのだ。
私は批難の目を向けたが、アナンシ司教はそれを無視した。きっと対戦車ミサイルを向けられていたとしても同様に無視しただろう。
アナンシ司教は目の前の大きなテーブルの上に並べた小像を動かすのに忙しい。傍から見ていると何かのゲームに熱中しているようにも見える。
その大きな手が動き、狼を象った青ガラスの小像を動かす。私を示す像だ。そのついでにもう二つの小像も一緒に動かし、私の横に並べた。
それ以上は何も答えてくれなさそうだったので、私はオフィスを後にした。
*
旅の荷物と言っても大したものはいらない。替えの下着数枚が入ったトランクと、神父服の下に隠し持っている大きなナイフが二本。そしてこれが無いと格好がつかない携帯用の聖書。それだけだ。
ナイフの内の一本は刃に銀が引いてある。もう一本はごく普通のナイフだ。
銀のナイフはもし万が一に同族の人狼と戦う羽目になったときのものだ。こういった武器がないと人狼同士の戦いはお互いに毟りあうような不毛な戦いが延々と続いてしまう。もっとも私と一対一で遣りあえるような人狼はこの世にはいない。
なぜなら私は人狼の王だから。
いつもの神父服を着て周囲ににこやかな笑みを振りまきながら、駅の混雑した人々の間を抜ける。誰もが私の姿に気づくと微笑みかけてくれる。神父というのは良い職業だ。尊敬と愛情が常について回る。列車に乗り込み、予約しておいた四人掛けのコンパートメントに一人で納まる。
これは別に贅沢をしているわけではない。普通の席に座ると周囲の一般人に迷惑が掛かる可能性があるからだ。対策局の特殊工作メンバーを狙う連中は枚挙に暇がない。
単なる恨みから、魔術装備狙いの強盗まで動機はいくらでもある。用心しすぎということは無いのがこの職業だ。ましてや私の敵は多い。両手の指どころか両足の指を足してもまだ足りないほどだ。百の手を持つ巨人ヘカトンケイルならもしかしたら足りるかもしれない。
車両の臭いを嗅ぎ、爆発物が無いことを確かめる。古い油の臭い。錆びの臭い。三日前ぐらいの精液の臭い。誰かがここでお楽しみを行ったようだ。それと微かに蛇人族が残す警戒臭。だがこれはかなり古いので今は危険はない。
問題はなさそうだ。私は席に深く腰掛けると途中で買った雑誌を広げる。
ドアに影が差すと、アンディとエマが入って来た。匂いで気づかれぬようにうまく風下を伝って来たらしい。
私の批難の視線から目を反らすと、エマが隣に、アンディが向かいに座った。
最初に口火を切ったのはアンディだ。
「二人で休暇を貰ったんです。ついでだからマスターのお供をしようと思ったんです」
もちろんこれは嘘だ。対策局には休暇制度などという立派なものは存在しない。ウチは死ぬまで休みなく働かされる素晴らしくもブラックな職場なのだ。
「今回の任務は本当に危険なんだぞ」私は念を押した。
「分かっています」二人同時に答えた。
いったいいつからそこまで仲良くなったんだ? お前たち。
ここで二人を説得しようとすることは意味がない。二人は正反対の性格だが、強情であることだけは見事に一致している。
エマの強情さは元からの性格に加えて流し込まれた私の血が影響しているにせよ、アンディの強情さはどこから来ているのだろうと、ちらりと思った。
私は今回の仕事の資料を二人に見せた。
しばらく書類を読んだ後、アンディがため息をついた。
「石化能力。確かに厄介ですね。メデューサ、バシリスクいったいどちらでしょう」
「そこまでは判別できていないんだ」
私たちのような怪物には種族に応じてさまざまな攻撃特性があるが、中でも石化能力は特別なものだ。能力としては致命的に危険と分類されるぐらい攻撃的で強いものなのだ。
あらゆる武器に対して不死身とも言える大天使が石化能力により殺された事例すらもある。それを思えば決して侮れる能力ではない。
「あの、マスター」エマが口を挟んだ。「石化能力ってなんです?」
私とアンディはもうこの業界が長い。エマは先日加わったばかりなのでまだ知識がない。今度からは戦闘訓練の合間に座学も取り入れるとしよう。心にそうメモした。
一口に石化能力と言っても数種類に分かれる。
メデューサタイプの石化能力は相手に即座に石化を引き起こす。それはメヂューサの醜い顔に刻まれた魔法陣による効果だ。この能力は見た者すべてに同時に作用する広範囲の攻撃能力なのだが、鏡で反射されてしまうという大きな欠点がある。つまり相手が鏡を持っている時点で攻撃が封じられてしまう。
一方バシリスクタイプになるとまず最初にその視線を受けた人間は気絶する。それからゆっくりと視線の呪いに犯されて行き、死体となった後に石化する。この場合、石化視線は鏡で反射されないので、退治する側は鏡で相手を確認しながら対処することになる。
この両極端な二つの石化能力の存在が、その対処を難しくしている。石化能力のタイプが分からぬ限り、せっかくの鏡を相手に向けるべきなのか、自分に見えるように構えるべきなのかが判別できない。間違えれば即死することになる。
他にも怪物固有の石化条件もあり、単純に対処できるものではない。
今回もそれだ。
「最初の一人は真っ向から石化攻撃を受けた。不意打ちに近い」
私はアンディの手の中の書類を示した。
話が長くなりそうだと見て、エマが持ち込んだ大きな紙袋の中から何かを取り出した。フライドチキンのお徳用パックだ。エマの両手で一抱え分はある。それとコーラの大カップ。
少し気おくれしながらエマはハンカチを膝の上に広げた後にフライドチキンにかぶりついた。
アンディが行儀が悪いと批難の視線を向けたが、私は敢えて無視した。
エマの食欲を止めてはならないと、二人にはすでに教えてある。人狼感染からしばらくの間は人狼はひたすら食べ続ける。全身の細胞が人狼のものに置き換わるのには膨大なカロリーとタンパク質が必要になる。
それを妨害すると惨事が引き起こされる。
人狼が望まぬ食人に手をつけるのはだいたいがこの時期なのだ。強烈な飢餓感は大脳皮質による行動抑制を一瞬で圧倒し、人狼をただの無目的な食人鬼へと変えてしまう。そしてその後は犯してしまった食人の罪悪感から引きこもるか、裏返って殺戮の怪物になるかがお決まりの道だ。
エマのメンターは私なのだ。決してそんなことにはさせない。
「この最初の一人は入院していますね。石化解除が間に合わなかったと見てよいですね」アンディが指摘した。
「見つかったときはすでに全身が石化していたからな。放っておけば元に戻るまで十年はかかるだろう」と私。
「二人目。これは最初の報告を受けてから派遣された者ですね。しかも能力持ちだ」
アンディは書類の記述の一点を示した。
「装備を見ると小さな鏡のキーホルダーを持っていますね。となるとメデューサタイプは除外できるかも」
「あるいは相手側にそれだけの経験があり、鏡を避けて正確に攻撃したかだ。石化能力は視線を橋渡しに使うことが多い。相手の目と見つめ合うのが一番効果が高くなるのだ。もっとも近距離でいきなり見つめ合うケースというのも難しいか」
横で大人しく話を聞きながら、エマは黙々とフライドチキンを片付けている。食べ残された骨がどんどん積みあがっている。
「三人目が分からない。前の二人がやられたのを知っていたのに、今度も容易く術中に落ちている」
「でも死んではいないのですよね。話はできるのですか?」
「話ができるようになるまでこちらも後十年はかかるだろう」
私とアンディはため息をついた。
「埒が明かない。とにかく、石化能力を視線だと仮定する。その場合は目と目が見つめあうことが呪いが活性化する条件だ。サングラスをかけた相手には注意をするべきだな。こちらがサングラスを掛けるという手もあるが、神父服にサングラスはさすがに目立つのではないかと思う」
「いっそ私服にしますか?」とアンディ。
「それもいいが神父服は対策局の正式な制服でもあるからな」
何とも頼りない話だ。もう少し情報があればよいのだが、その情報源がすべて石になっているのでは手の打ちようがない。
私はエマからフライドチキンを一つ分けて貰うと、骨ごと噛み砕いて食べた。
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