v案件 (3/4)
アンディを頭とする神学生軍団が到着するとこの小さな教会の中はいきなり賑やかになった。
神学生軍団は総勢三十名。流石にこれだけの人数が教会に泊まるわけにはいかないので近くのホテルを借り切ることになった。教会はあくまでも司令部の役割をすることになる。表向きはこの教会で巡回神父の神学上の講演会があることにしてある。
この学生たちの内二人ほどが人外の存在だ。残りは普通の人間だが、いずれもある種の力を持っている者たちだ。時代が違えば魔女や魔法使いと呼ばれることになる連中で、過去に対策局にスカウトされて神学生になっている。
スカウトされて訓練を受けなければいずれ気が狂っていた連中だ。野放しの魔法とはそれほど精神の健康に悪い。
教会の聖なる台の上に所狭しと並べられた武器を見ると、何かが間違っているという強い印象が沸き上がって来る。特にそれが若者たちの手にあると。
武器は銃の類が半分で、残りはすべて刃物だ。それも奇怪な形をした刃物が多い。これらは対策局の伝統的な武器であり、最近作られた物もあれば百年前から使われている物もある。
よくもまあこれらを持って税関を潜り抜けることができたものだと呆れた。神学生たちはノーチェックだったのだろうか。
エマが甲斐甲斐しく若者たちの世話をする横で、私はアンディと作戦を立てた。
吸血鬼たちが集まっているのは廃業したダンスホールで全体は円形をしている。ホールの中心は入口とは何重もの扉で隔てられていて防音構造になっている。その左右には控室や倉庫などが配置されている。
建築されたのはなんと千九百年代だ。色々な法律が複雑に絡み合ってどうにもならなくなり最後にはニューヨーク市に委託され、そのままとなっている。改修しても破棄してもどちらにしろ法に触れる極めて厄介な代物だ。
廃ダンスホールの正面は板張りで封鎖されている。あまりにも長い間そうされていたので、今では誰もそれをおかしいことだとは感じなくなっている。夜も昼も人通りがある場所なので、神学生たちを労働者に偽装することにした。ストリーホームサービスという会社の制服をでっちあげ全員分の用意をする。
これらすべてを三日で用意したのだからバチカン対策局のニューヨーク支部はとても有能だ。
*
用意ができた次の日に早速動いた。
目標の廃ダンスホールへと急行する。予め周囲の店には作業の予定を伝えてある。正面にバンを二台止め、離れた場所にトラックを二台止める。作業員に扮した神学生たちはばらばらに集まり、様子を見ながら廃ダンスホールの正面扉を通って内側に集合した。
積み上げた木箱の中から武器を取り出す。手に手に奇怪な武器を持ち、興奮に顔を赤らめた彼らの姿はどうみても怪しげなカルト集団だ。
合図と共にダンスホールの舞台へとつながる扉の横に並ぶ。
そこからは相当に派手な演出になった。正面扉の鍵は小型の爆薬で焼き切った。外を歩く群衆の注意を引く前に素早く全員でダンスホールの正面扉を開けてなだれ込み、扉を閉めた。一旦閉め切れば音は漏れない。ここは防音構造なのだ。
もしかしたら警察には何らかの通報が行ったかも知れないが、そちらはもちろん根回し済みだ。
吸血鬼の一番大きな弱点は昼の時間は眠りについているという事だ。正確に言うと眠りではなく一時的に死体に戻っているというのが正しい。どれだけ大きな音を立てようが眠りから起きはしない。その体を火で炙ろうが斧で切ろうがのろのろとしか動けないのだ。
夜は向こうが無双する。昼はこちらが無双する。それはまさに喜劇的な逆転劇である。
どうしてこれほど大きな弱点が存在するのかは対策局でも議論になったことがある。その時出た結論は吸血鬼が血しか摂取できないということだった。なにぶん血の大部分は水だ。血液は栄養自体は豊富だが、カロリーが低い。それを主食にする以上、カロリーの消費を抑えることは死活問題だ。ゾンビのように活動速度を落とす代わりに、一日の半分をほぼ冬眠に近い状態で過ごすように進化したのが吸血鬼なのだ。
やれやれ、私たちはお伽噺の世界の住人なのに、科学というものは手厳しく制限をかけてくれる。
もちろん、ここにも人間の警備員が何人か雇われていたのは夜の女王リビアの所と同じだ。自動小銃を構えた連中が音に驚いて飛び出て来たが、瞬きをする間に私が全員寝かせた。明日になれば胸に大きなアザをつけて痛みに呻きながら目覚めることだろう。
人狼相手に喧嘩を売る方が悪い。
吸血鬼の昼間の護衛には人狼が最適なのだが、今のご時世、大概の人狼は対策局に登録されているので、ここの違法な吸血鬼如きが雇えるわけもないのは不幸中の幸いというもの。
「殺さないのですか?」
昏倒した警備員たちを指さしながらアンディが言った。
ああ、アンディ。君は神学生なのだよ。私は心の中で嘆いた。慈悲というものを持ちなさい。
「殺さない。そのままにしておきなさい」
「でもこいつらは人間なのに吸血鬼に味方しているのですよ」
「吸血鬼にされた中に彼らの家族が居るのかもしれない。彼らにもどうしようもない理由で警備をやっているのかもしれない。同情の余地はある」
私の返事を聞いてアンディは沈黙した。大変によろしい。アンディはとても素直で、おまけに頭の回転が良い。
何重にもなったドアをあけ放ちながらダンスホールに飛びこむ。厳重に目張りをされ、一筋の光さえ入らないようにされているホール一杯に、吸血鬼が積み重なって寝ている。
マスクをつけた神学生たちが手にした武器で吸血鬼たちを破壊し始めた。長い鉄棒などは可愛い方でアンディなんかはチェーンソーを振り回している。古式豊かな白木の杭などは必要ない。要は吸血鬼の肉体を破壊して、その中の呪われた血を外に流し出してしまえば良いのだ。
一応ここに来る前に全員腹一杯に聖水を飲んできている。吸血鬼の血が多少かかったぐらいで呪いは移らない。神学生たちは容赦なく武器を振るった。
体を切断されると流石に吸血鬼でも目を覚ましたが、動きは亀のように鈍い。地面を這って他の吸血鬼の体の下に潜り込もうとするが、いずれも果たせずに破壊された。
銃声が外に漏れたらさすがにまずいので銃は敢えて使わない。
私はざっと計算した。ここにいるのは全部で二千体という所か。予想される吸血鬼の数より明らかに少ない。
私は積み重なった吸血鬼の間を歩き回った。一つ一つ顔を確かめる。とうとう最後には全部の吸血鬼が破壊されたが、吸血鬼のボスであるリチャードはどこにもいなかった。
ヤツの寝床はどこか別の秘密の場所にあるということだ。あるいは群れが複数あることになる。
神学生たちが手早く吸血鬼の死体を麻袋に収めると、外のトラックへと運び始めた。廃材を撤去しているように見せるために、折れた木材なども目立つようにして運び出す。それを監督しながら私は考えていた。
残りの吸血鬼たちはどこに居る?
そして肝心のリチャードはどこにいる?
全員に撤退の合図を出した後、私は教会に戻った。
その三日後だ。エマが誘拐されたのは。
*
エマの寝室に置かれた一枚のカードに書かれていたのはお決まりのセリフだ。
指定の場所に指定の時間に一人で来い、というアレだ。警察には知らせるなとは書いていなかったが、もちろん警察と相談するような話ではない。相談なんかしたら警官が全員吸血鬼にされかねない。
すでに満月は過ぎ去っていて人狼の力は衰えている。おまけに今回は向こうもそれなりの準備を整えているだろう。何よりもエマが人質になっているのは痛い。うん、不利な条件ばかりだ。
無論、どうしようも無ければエマは見捨てる。それが対策局のやり方だ。だが私のやり方ではない。氷のように冷たい生き方を是とするのなら、そもそも私はファーマソン神父にはなっていない。
カードの事はアンディには秘密にしておいた。もし知られれば来るなと言っても来るだろうから。
幸い私には切り札が一つある。これで何とかしよう。
深夜十二時にカードに書かれていた住所を訪れた。指定された地下鉄駅に入り、入ってはいけない場所に入り、開けてはいけない扉を開け、潜ってはいけない場所に潜り込む。まるで自分が盗賊になったような気分を感じた。
小さな小さなランタン型の玩具のライトを一つだけ腰に吊るしてある。人間ではこの程度の明かりだと何も見えないが人狼には十分だ。それは吸血鬼も同じで、やつらは暗闇でも目が見える。これから起きるのは闇に生きる者たちの闘争なのだ。
武器は大きなナイフが一本。波型の刃がついたヤツで、刃には薄く銀が引いてある。はぐれ狼が相手に雇われていた場合にはこういう武器がないと埒が明かなくなる。
吸血鬼には銀はそれほど効き目がないが、それでも十分に役に立つ。吸血鬼の本体はその呪われた血だ。その血の周りに粘土のように変質した肉がついているのが吸血鬼というものなのだ。
吸血鬼は普通の人間の十倍程度の怪力を放つことができるし、その肉体は銃で穴は開くがどこを撃っても致命傷にはならない。ただし、傷が塞がるのは満月の晩の人狼ほど速くはない。だから傷をつければ血は流れる。大量の血が肉から離れてまき散らされてしまうと、吸血鬼は自我を失って死に至る。心臓に杭を打つというのはそのための方便だ。
だからこのナイフでも十分に吸血鬼は殺せる。一振りで首を切り落とせば良いし、私にはそれができる。弾に限りがある銃は持ってこなかった。残りの装備で武器になると言えば厚手のベルトだけだ。
問題は待ち構えている吸血鬼の数だ。昼の吸血鬼はどれだけいても脅威にはならないが、夜は違う。そして今は深夜だ。
通路の先から匂いがした。腐った血の匂い。廊下の先に吸血鬼が二人いる。
彼らも私に気が付き、こちらに近づいて来た。
「ファーマソン神父だな?」一人、いや一匹が口を開いた。
向こうはその気だったが私は会話をする気は無かった。元より話し合いに来たわけではないから。
すばやく二人の間を駆け抜けざまに、ナイフを振った。一人はそのまま大人しく倒れたが、もう一人は飛ばされた自分の首を掴み何とかもとの場所に戻そうとした。だが頭と体が切断されているためそれには失敗した。しばらく自分の腹に自分の頭を押し付けていたが、やがて倒れて動かなくなった。血が流れ過ぎたためだ。
そのままトンネルを進む。抜けた先は古い地下鉄の廃駅だった。相当広い。
ニューヨークにはこの手の廃駅が放置されたままになっている場所がある。その昔、金持ち専用として作られた駅である。そのまま地下鉄計画は頓挫したが、埋め戻すなどという手間をかけるはずもなく、そのまま放置されている。
廃駅の中は豪華な内装が廃墟の雰囲気を漂わせながらそのまま残っている。黄色の非常灯がいくつか左右に灯っていて薄闇を作り出している。本来通電はされていない施設だが、きっと吸血鬼にされた電気工事士の仕業だろう。
光が無くても生活できるのに、光をつけるのは大概がボス吸血鬼の趣味だ。自分たちが暗闇を這いまわる地虫だというイメージを受け入れたくないのだと思う。
その広い空間のすべてを今は吸血鬼たちが埋めていた。どれも古びた服を着て、やつれた顔の中に白い牙だけが目立っている。
高位の吸血鬼たちは貴族趣味の習慣を離さないが、この種の底辺吸血鬼はあくまでも労働者、言わば働きアリだ。人間扱いもされないし吸血鬼としてもまともな扱いはされない。急速に拡張している吸血鬼のグループによく見られる現象だ。
この場にいる吸血鬼の総てが微動だにせずに部屋の中央を見つめている。そこにあるのは一際高くなった演説台だ。
演説台の上にエマがいた。吸血鬼馬鹿息子のリチャードがその横に立ち、彼女の首にその手をかけている。高位吸血鬼の爪はカミソリよりも鋭い。ヤツがその気になればエマは一瞬で死ぬ。
リチャードの目がこちらに向いた。
「本日のゲストのご登場だ。皆の者、拍手!」
その場にいた全員が一斉に拍手を行い、廃駅の中がいきなりの轟音で満たされた。
頃合いよしとみてリチャードが手を上げると、今度は一瞬で静寂が訪れた。吸血鬼が見せる完璧な全体主義は見ていて気持ちが悪い。彼らは一つの群れが丸ごと一個体なのだ。
吸血鬼の本体がその体の中を流れる血であることは説明したな?
この群れの全員の血が同じものなのだ。そしてその血が一番濃いのがリチャードの体に詰まっているモノということになる。
「さあさあファーマソン神父。こちらに来たまえ」
吸血鬼の群れが左右に分かれ、演説台までの道が開いた。むせ返るような吸血鬼の腐った血の匂い。気分が悪くなるというより殺意が沸き起こる臭いだ。
吸血鬼たちに睨まれながらその間を進む。ここにいるのは全部で二千人という所か。数か月前には彼らもごく普通の人間で、それなりに楽しい人生を送っていただろうに。今は血に飢えた目をしたただの獣だ。牙を剥きだして私を睨んでいる。
怖かったかって?
まさか。吸血鬼を恐れるなんてことをしたら人狼の名折れだ。
「おっと、そこで止まりたまえ」
リチャードの声に合わせて私の周囲を吸血鬼が取り囲んだ。前に出ている吸血鬼たちの手には銀の武器が輝いている。これだけの銀の武器を新しく準備したとしたら、相当に銀の価格が上がったことだろう。
「分かっていると思うが下手な動きをしたらこの女は死ぬ」
得意げにリチャードは宣言した。
「神の御名において、その神に仕える女性を返してくれないかな?」
一瞬、私の言葉に群れの半分が後ずさりした。人間であったときにキリスト教に関わっていた連中だ。彼らは十字架や神という言葉に対して忌避反応を見せる。だが残りは別の宗教かそもそも信仰心を持っていなかった連中だ。
やれやれ、わずかでも信仰を持つ者がたった半分だけとは世も末というものだ。
リチャードは私の軽口に敏感に反応した。
「馬鹿を言うな。お前はここで死ぬんだ。となればこの女を誰に返せばいい?」
思わず笑みを浮かべてしまった。吸血鬼の五大長老たちならそんなことは言わないだろう。特に夜の女王リビアは。彼女は私を良く知っているから。
人質は絶対的な力の差を引っ繰り返すことができる手段の一つだ。だがそれはあまりにも危うい手段と言える。それはひとえに私が出会ったばかりのエマの命を自分よりも大事にするという前提に基づいているからだ。
人質を諦めさえすれば、ここに私を殺せる者はいない。そして私に殺せない者もいない。
もしリチャードがもっと賢い吸血鬼だったら、私に意趣返しをしようなどとは考えずに、どこかの人口密集地の中に逃げ込んで百年ほど大人しくしていたことだろう。だが彼はそうせずに、こうして私の前に居る。
となると残る問題はただ一つ。私がエマを諦める気がないということだ。
これ以上子供たちが死ぬのを見たくない。それが偽らざる気持ちだ。
しかし困った。この距離ではいかに私が素早く動いてもリチャードがエマを殺すのを止めることはできない。何とかなると思ってここまで来たが何ともならない。
仕方がない。ここで使いたくは無かったが切り札を出すとしよう。
「さあつまらんハッタリは通用しないぞ。お前は死ぬ。今ここで。我が僕たちにばらばらに引き裂かれて」
リチャードが笑った。唇が割れ、長く伸びた白い牙がむき出しになる。
長い間監禁されていた馬鹿息子。何も学ばずに歳だけ取った間抜けな吸血鬼。
「いいか良く聞け。俺の伝説はここから始まる。かって闇の世界を支配しかけたタイラントは失敗したが、俺は失敗しない。この群れが最初の一歩だ。一年後にはこの国を。十年後には世界を俺をモノにしてやる」
「タイラントか」私はため息をついた。「愚かな男だったよ。虚しい夢を追って、つまらん悲劇を起こした」
ああ、確かに酷い話だった。どうしてあいつはああ愚かだったのか。私は彼を良く知っている。
「愚かではないさ。ただ失敗しただけ」
「愚かだったよ。この私がそう言うんだ」
「タイラントは人狼だったと聞く。同じ人狼のお前が英雄タイラントのことをそんな風に言うのか」
「英雄だと? 英雄なんかであるものか。大勢の人外の者たちを惑わせ、煽り、そして死に向かわせた。あれが英雄だなんて誰がお前に言ったんだ?」
私はもう一歩リチャードに近づいた。群れの中央の位置。リチャードに飛び掛かるには遠すぎるが、切り札の力が働くには十分だ。
リチャードはじっと私を見つめた。
「お前はタイラントに会ったことがあるのか?」
「あるとも言える。無いとも言える」
「意味が分からないな。喋ったことはあるのか?」
「喋ったことはないな」
もう一歩。
「なにせ鏡を見ながらお喋りをする趣味は無いのでね」
リチャードの動きが止まった。その瞳が大きく開く。
「ダーク・タイラント」
「その名は捨てた」私は返した。そうだとも。今の私はファーマソン神父。
リチャードは後ずさった。
「嘘だ」
「どう思うかは君の勝手だ」
そこまで来てようやくリチャードに勢いが戻った。
「ハッタリだな。お前はタイラントなんかじゃない。タイラントが対策局の犬になどなるものか。俺を騙そうとしてもそうはいかないぞ」
リチャードは私を指さした。
「お喋りは終わりだ。さあ、しもべたち。そいつを殺せ!」
リチャードが叫んだ。銀のナイフを持った連中が私に飛び掛かる。同時に私の頭の中で呪文が放たれた。
そう、あの呪文だ。別の事件の解決のために、バチカンの古文書保管室から持ち出した例の呪文。
こんな所で使う羽目になるとは。
この数週間私の頭に食らいついていた呪文が解放された。速やかに呪文の内容が頭の中から蒸発する。物凄い解放感だ。ただし使うのは呪文の前半分だけ。悪魔を抑えるための精霊の召喚部分だ。
光の精霊 マドウフ・ベイル
空中に光り輝く精霊が呼び出された。それは千の太陽の輝きよりも遥かに明るかった。光で作られた天使の姿から無数の光の翼が空中に伸ばされた。一瞬早く私は自分の目を覆い、床にしゃがみこんだ。
純粋な光。浄化の光。神の光。天地創造を引き起こした原初の光。
それは顔を覆った手を貫通し、瞼を通り抜け、視界を純白の一色で満たした。
廃駅中にありとあらゆる悲鳴が轟いた。
吸血鬼たちの体を光が貫く。太陽の何倍も強い光は、彼らの呪われた血を蒸発させ、その体をただの乾いた肉片へと変えていく。
焦げる臭い。焼ける臭い。乾いた臭い。
周囲を満たすのは無秩序に痙攣する死にゆく肉体。いや、それは正確ではない。彼らはとうの昔に死んでいる。
やがて静寂が訪れた。私は立ち上がり目を開いた。それでも視界はまだ真っ白なままだ。強烈な光で網膜がダメージを受けている。だがそれもすぐに元に戻る。人狼の回復力は普通ではないのだ。例え満月の晩でなくても。
真っ白な精霊、人の形をした存在が私の目の前に浮いていた。もはや輝いてはいないがそれでもまだ眩しい。その体を彩っていた無数の光の羽はすでになく、今は二枚の羽だけになっている。神はチリから人間を創り、炎と風から天使を創った。そして光を集めてこの精霊を創ったのだ。
「君は一体いつになったら私が忙しいと理解してくれるのだろう。なあ、ダークよ」
光の精霊は不満を漏らした。
「その名前はもう捨てたんだ。今の名前はファーマソン・W・ライトだ」
「それは驚いた。君が宗旨替えをするとは」
精霊は静かに中空に浮いたままだ。意地でもこの汚らわしい現世に足を触れるつもりは無いらしい。
「とにかくこうしょっちゅう呼び出されたのでは私もたまらない」
「前に呼び出したのはもう二百年も前になると思うが?」
「たった二百年だろ。私に取っては瞬きするだけの時間だ。もう呼び出さないと誓ってくれ」
私はその願いを無視した。要らない誓いを乱発するのは自分を不利にするだけだ。
「文句があるならテウルギア・ゴエティアに言ってくれ。あんたはあの本と契約したのだから」
精霊は片方の眉を上げて見せるとブツブツと口の中でつぶやいた。
「とにもかくにも助かったよ。マドウフ・ベイル」
精霊は周囲を見渡した。
「吸血鬼か。彼らも変わらんな。いつでも無目的に増えて、無意味に焼け死んで行く」
「仕方の無いことなんだろうな」
「仕方の無いことだ」精霊は答えた。
精霊の翼が震えた。魔導書から借りた力での召喚は長くは続かない。そろそろ時間切れのようだ。精霊は光の中に吸い込まれるかのように空中の一点へと収束して消滅した。
光の精霊が消えてしまうと廃駅の中を満たしているのは元の薄闇だ。非常灯だけが細々と点いている。周囲には骨と肉の残骸が積み重なっている。
ああ、えいくそ。これでまた苦労して古文書保管室への入室許可を取り直さないといけない。私は悪態をついた。
演説台の上にはエマが一人倒れている。
この群れのボスのリチャードは一人で逃げたらしい。やはり吸血鬼長老の直系だけあってあの光の洪水の中でも死にはしなかったようだ。だが瀕死の重傷であることは間違いない。光の精霊の力は半端なものではないのだから。
私は演説台に上り、倒れているエマを調べた。
体に傷はない。だがエマの意識は飛んでいる。調べていくうちにその首筋に傷跡を見つけた。並んだ二つの噛み跡。
エマは吸血鬼になりかけていた。
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