第2話 美味しさの秘訣


「ねえ、聞いてみいひん?」

 

 料亭の玄関先を掃除している、白い割烹服姿の若いお兄さんに視線を送った。


「まだ時間あるやろ、もう少し探してみよ」


 1週間前に電話予約した花乃井の木屋町店「華庵」に向かっている。


 京阪祇園四条から鴨川を超え、もう一つ小さな川を渡って、左手を少し行った所にあるはずなんやけど、ない。 

 地図を片手に行くのやけど見当たらない。


 予約時間が迫っているし、調べとくわとウメに胸を叩いてしまった手前、少々焦る。

格子戸の並ぶ狭い路地裏を想像しながら歩いていたのやけど、道を一本間違えていて、けっこう広い通りにあった。


 よくテレビで拝見するご主人田村さんに迎え入れられる。

  店の奥へは、店内の床に敷かれた敷石を踏みながら進む。

 贅沢な造りや。

 少し打ち水がされていて何とも風情があるやん。

 

 カウンター席の手前が小上がりになっていてテーブル席が二つ、ほかにも座敷があるというので、さらに奥があるのやろか。


「では、とりあえず、かんぱーい」


 板さんの包丁捌きをカウンター越しに見ながら、隣り合わせに座ったウメとビールのグラスを合わせる。 

 最高。


 唇のクリーミーな泡を拭いながら料理に箸を伸ばす。

 目を見張った。

 結構長いこと生きてきて、食べることにはそれなりの投資をしてきたつもりでいたのやけど、初めての経験だった。 

 ミシュランガイド二つ星の評価はだてじゃない。

 

 そのあと高級そうな器がカウンターに並べられるたびに、へたっぴいなグルメレポーターよろしく、


「美味しいね。おいしいね」


 と連呼していた。

 

 ウメとは娘が幼稚園で同じクラスだったことがあり、そのときからの付き合い。


「ケースケ、進学先、決まったん?」

「うん、一応」

「ナオスケは?」

「大学には行かへん言うてる」


 ケースケもナオスケも女の子。家のことを何もせんでまるで男の子みたいやわ、と言う話からお互いそう呼び合うようになった。


「何で? ナオスケ勉強出来るんやのに」

「受験勉強したないんやて、推薦入学させてもらえる大学あったら、考えてもええなんてグウタラ言うてるん」

「ハハハッ」

「笑い事やないわ、ケースケはもちろん国立狙っているんやろ」

「うん、一応」


「両親揃って国立卒業しているんやもの、遺伝子が違うわ。最後の学生運動家やったんやろ」

「シッ」

 

 ウメは唇に指を当てた。


 思わず向かいで仕事する板さんに視線を走らせたが、下を向いたきりで作業に集中していた。


「国立言うたかてピンキリや。ビールお代わりするけどオカンは?」

「うん、ウチもよばれよ」


 何回目の乾杯になるのやろ。

 ビールはやっぱ生に限る。


「で、オーストラリアはどないやったん?」

「それがね、ビジネスクラスで行ったんよ。やっぱりエコノミーとは全然違うわ」

「へえ、すごいやん」


「ケースケもしばらく勉強に集中せなあかんし、パパには言うてへんのやけど」

「ええ春休みになったやない」

 

 どこの家でも男親には内緒があるようや。先日、お義父とうちゃんには言わんときやと言うて、義母がそっとお小遣いを握らせてくれた。

 

「ビールがすすむわ」

 

 いける口のウメはお代わりを頼んでいる。


 素晴らしい料理のあとのデザートにも力が入っている。

 クレームブリュレを一匙口に運ぶたびに、とろけそうな締まりのない顔になっていった。


「しあわせー」

 

 美味しいものを食べるということは、何という幸福なことなんやろ。


  会計の前にトイレへ行っておこうと立ち上がり、敷石を踏みながら出口の方へ向かった。ちょうど小上がりの真裏にあたるのやろか、ちょっと奥まった所にトイレはあった。


 驚いたことに、トイレの水を流しても音がしない。いつものゴーとかザーザーという、その音が一切しない。

 一瞬、壊れているのかと思い便器の中を覗き込んだ。

 確かに水は流れ渦を巻いている。


 もう一度しつこく流してみる。

 やはり無音。

 ああ、これも料理の味のうちなのや。


  食事をしている最中に、いかにもトイレを使用していますという無粋な音が聞こえてきた日には、せっかくの板さんの腕もぶち壊し。

 オカンの感動は星五つ。

 

 昼懐石7350円。ランチには少し贅沢な気もするけど、それだけの価値は充分すぎるくらいにあった。

 食に興味のないケチな旦那と来られへんのは、つくづく残念なことではあるんやけど。

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