第12話 新宮藩 薫太郎

 薫太郎と名付けた小さな愛らしい赤子は稲葉家に新たな幸せをもたらしてくれた。


菊江が産後まもなく道場に復帰すると、董平と勝蔵が薫太郎を仕事場に連れて行き交互に世話をしながら作業をこなし、乳の時間になると菊江がやってくるという生活になった。


夫婦逆転だの、亭主にめんどうを見させていい気なものと陰口を叩く者もいたが、董平も勝蔵も可愛い薫太郎の成長を間近で見られ噂など気にもならなかったし、菊江も二人が幸せであれば自分は何を言われようとかまわなかった。


董平と勝蔵はこんな機会に恵まれたのだから、親子にとって役に立つ物を作ろうと知恵を出し合い、まず薫太郎のために大八車を改造した乳母車を作り行き来に使うと、これが評判となり同じ物が欲しいと注文が殺到した。

それ以来薫太郎のために何か作ってやると

めざとい客が押し寄せ二人の店は藩中に知れ渡るようになっていった。




 薫太郎が三歳になると

菊江が試しに手裏剣を教えたがまるで興味を示さず、動揺した菊江は弥太郎に相談した。


「お前から生まれた子でも、この世に出たら

もう別の人格だ。自分と同じ才を持ってるとは限らないし、期待してもいけない」


「では、私はどうすればよいのですか?」


「何もするな、母として見守ってやればよい」



薫太郎は物静かで口数も少なく董平達の作業場でもいつも勝蔵が作った木のおもちゃを組み合わせて一人で遊ぶ子だった。


 薫太郎が五歳になったある日、勝蔵は屋敷の庭で手裏剣用の的を作り直していた

手裏剣は勝蔵もかなり上達して菊江との稽古が楽しみの一つとなっている。

的を工夫し、難易度を上げてそれに命中させた時の爽快感は格別だ。

そこへ、外出していた董平と薫太郎が帰ってきた。

「勝、何してるの?」


「坊、おかえり。的を作っているんだよ」


「薫もやりたい」


「手裏剣を?」


「うん、いつも勝の稽古みてたから薫もできる」

  

それならと勝蔵が少し小さめの手裏剣をとってきて持ち方から教えようとすると、薫太郎はさっと手に取り走りだすと作ったばかりの的に見事に当てた。


これには二人とも驚き、

「坊、見てただけで覚えたのかい?」


薫太郎はニコっとして頷いた。


董平は

「薫太郎、すごいぞ!母上とお祖父様にも見てもらおう」


すると薫太郎は頭を振って

「言わないで、母上はがっかりする」


「そんな事ない」


それでも薫太郎は頭を振るばかりであった。



 その夜薫太郎を寝かしつけると董平が今日の出来事を二人に話した。

菊江は手裏剣を見事に使った薫太郎に喜び、しかしその後の自分に対する思いを聞くと弥太郎に

「父上、私は薫太郎に嫌われているのでしょうか?」とおろおろしながら聞いた。


董平も勝蔵も何事にも動じない菊江のこの様な姿を見るのは初めてだった。



「菊江、動じるな。子育ては毎日が本番で稽古などできない。親だってへまもするさ。私もたくさんへまをしてきた」


「私は父上や母上に対してそんな思いはありません」


「親が無償の愛を持って育てればへまも忘れてしまうものだ」


「でも、薫太郎はずっと忘れないかもしれません」


「案ずるな、そうであってもただの思い出で恨みなど残さない」


勝蔵が

「そうさ、お嬢、俺なんて親に殴られ蹴られ、挙句捨てられたが恨んじゃいないぜ。親に全く未練はないし捨てられなかったら今の幸せな俺はいない。

坊はお嬢が大好きだ、好きだから下手なところを見せたくないんだよ」



「菊江、明日の朝の翡翠追い、薫太郎を連れて私も行こう、そこであの子の様子を見たい」


「翡翠は坊も喜ぶだろう。握り飯作るから持っていくといい」

勝蔵が嬉しそうに言った。



翌朝は天気もよく、三人で川に向かった。

そこは川幅が少し広くなり流れも緩やかになっていて鳥にとって絶好の餌取り場で菊江が小さな声で

「ほら、あの木の枝を見てごらんなさい」

と、指差した先に翡翠がいた。


薫太郎も囁くような声で

「なんて綺麗な鳥!」


「ね、とっても美しいでしょう。でも美しいだけでなく狩りの名手なのですよ。あの子をずっと見てなさい」


「すごい、魚をくわえた!」


「見えましたか?」


「はい」目を輝かせて何度も頷いた。


夢中になった薫太郎は、すぐそばのおにぐるみの木にひょいひょいと登り太い枝に跨った。

弥太郎は薫太郎の身の軽さに驚き、この子を教えるのは今だと確信したのである。



翡翠も狩りが終わるとどこかへ消えていき、皆で握り飯を食べ帰ることにした。

その道すがら

「薫太郎は剣術や手裏剣を習いたいか?」


「はい」


「では、私が素振りから教えよう、でも厳しいぞ、できるかな?」


「手裏剣は楽しいし、じじ様も大好きだから頑張る」


「そうか、では明日からやるぞ」


「はい!」



 六歳になると寺子屋と道場に薫太郎は入門した。

薫太郎は菊江と違い覚えるのが遅い。

しかし、董平や勝蔵に注意されながらも、寝食忘れてのめり込む性格だった。


 薫太郎が七歳の年、菊江は女の子を産んだ。

薫太郎の妹となる加恵である。


董平とは男女の交わりは無理なのだろうとあきらめていたが、董太郎の手が離れ少し寂しさを感じ始めた董平が子供がもっと欲しいと言いだしたのである。

董平は菊江だからその気になれると言って男の機能が働いた。

菊江は俊介と味わったあの快感を得られる事はなかったが、董平の子を産んでようやく夫婦になれたような気がした。




 薫太郎は十歳になり、剣術はかなり上達していた。もう木刀で稽古し二十の型も習得して

今は段を上がるのが楽しみだった。

手裏剣も弥太郎から特別に教えてもらっている。


 この日、弥太郎は薫太郎と和菓子屋に来ていた。弥太郎は団子が好きで時々買いにくる。

酒も付き合い程度で剣術の他には何も趣味がない弥太郎だが、団子だけは目がなかった。うまいと聞けば、どこへでも買いにいった。

薫太郎は祖父に必ずついてくる。

団子が好きというより、弥太郎の話しを聞きたいがためである。

皆の前ではあまり語らない弥太郎だが、薫太郎と二人になると昔の放浪の話しをよくしてくれた。

それが実に面白く、薫太郎のなかで次第に諸国遍歴への憧れが芽生えていた。

 


「先生?」

声をかけられて振り向くとそれは俊介だった。

十年ぶりの再会である。

「おお、俊介殿、お久しゅうござる」


「ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです。皆様お変わりありませんか?」


「ああ、おかげさまで。

俊介殿もえらく出世されたそうで、大したものだ」


「いえ、日々の務めをを懸命にこなしてきただけのこと、ところでそちらは?」

先程から薫太郎をちらちら見ていた俊介がとうとう聞いてきた。


きた!内心ひやひやしていたが、そこは年の功で

「ああ、私の孫でござる」と薫太郎を見ると


「矢幡薫太郎と申します」とひょこんと頭を下げた。


「それでは、菊江さんと董平の?」


「そうです、婚姻など縁がないと思っていた菊江が董平と夫婦になり母になったのです」


「菊江さんが母とは……、感慨深いです」


「董平と勝蔵の二人で菊江の足りない分を補ってくれて本当に助かってます」

「俊介殿はお子様は?」


「娘が一人おります」


「そうですか、さぞかしお可愛いでしょうな」


「まあ……」


「今日はどうしてこのような所に?」


「父が亡くなりまして」


「それはご愁傷様です」


「少し前に突然倒れ、意識もない状態で家族皆とうに覚悟はできておりました」

「でも、こうして偶然先生にお会いできたのだから父に感謝しなければなりません」


弥太郎は俊介に対して複雑な思いを抱えていたが、こうして久しぶりに話すと昔の素直で優しい俊介のままでやはり愛弟子である事に変わりはない。

しかし、薫太郎と会わせてしまったことには不安が残った。


俊介は多忙らしく、しばらく雑談すると名残り惜しそうに別れを告げ、最後に薫太郎に向かい

「貴方は菊江さんによく似ている。会えて嬉しい」

と言って去った。


帰り道、弥太郎は今日再会したのも運命とある決意をした。


同じく帰り道、俊介は薫太郎をずっと思っていた。

「あの子……私と同じ左利きだった。董平も菊江さんも右利きのはずだ……。歳はいくつなのだろうか?」











 





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