第10話 新宮藩 瓢箪家老

 多恵が亡くなった時、まず勝蔵がすがって泣いた。

「いやだ、いやだ、俺たち皆を置いていかないでくれよー」

茫然自失した弥太郎と菊江は勝蔵の姿を見て涙が溢れてきて、その日は三人でただ泣き明かした。

 葬儀を終え、道場を再開すると弥太郎も菊江も弟子達の前では今までと変わりなかったが、夜寝床に入ると多恵を思い出しては泣く日々だった。

しかし、多恵のまるで自分の死をわかっていたかのような順番という言葉と三人がそれぞれ相手を思いやる気持ち

勝蔵

「俺が多恵様の味を守って二人にちゃんと食べさせる」

弥太郎

「もう、菊江の親は私一人だ、しっかりしなければ。それに勝蔵に頼ってばかりでは情け無い」

菊江

「勝に負担をかけぬよう、これからは私が父を支えていく」


と徐々に心の整理をつけて、多恵のいない生活に慣れていった。


 

 そして三年たち、董平と俊介は宮坂塾を終え、次の道に進んでいた。


 董平の父作太郎は商人仲間から信頼厚く相談に訪れる者も多く、その中で創意工夫で解決できそうな件を董平に任せた。意外な事にこれが楽しくなった董平は勝蔵を誘って万屋として開業し繁盛している。


 俊介は医術の道を選んだ。

藩の医師長谷川宗純の元で学び、ゆくゆくは独立し菊江と一緒になって医師と道場を両立していきたいと考えていた。

まだ菊江の気持ちは確かめていないが、嫌われているとは思っていない。

ただ一つ気になるのは董平の存在だった。

やけに仲が良いし、家にも頻繁に出入りしている。

しかし見ている限り何というか男女の好きではなさそうだ。

親友の董平に先に聞いてみるか、菊江に告白するのが先か悩んでいた。




 新宮藩筆頭家老尾木国光はここ数日憂鬱であった。

原因は娘の柊子である。

毎日泣きながら

「私はあの方以外は嫌でございます。どうか

あの方を婿養子に迎えて下さいませ!」と訴えるのだ。

この藩の家老ともあろう国光がわがままな娘の願いなど一蹴すればよいだけの事なのだが、どうも柊子には弱い。

 

 現藩主水野孝徳は先代の死去に伴い後を継ぐと学友でもあった尾木国光を筆頭家老に就任させ改革を行った。

国光は今までのゆるい武士中心の財政を改め、商人から農民まで全てに金が回るような仕組みを宮坂塾出身の者達と作り上げた。

その結果藩はさらに潤い、領民達からは藩主と共に絶大な人気を得て、中身は剃刀のように切れるが、顔の形が瓢箪そっくりだったので、瓢箪家老様と親しみを持って呼ばれるようになったのである。

しかし、それを耳にするたびに娘の柊子を哀れに思ってしまう。

 国光の妻麻美は評判の美人で娘三人を産んだ。

次女と三女は麻美に似て美形なのだが、長女の柊子は国光に瓜二つで、小さい頃から妹達と比べられ劣等感の塊となって美しい物に執着するようになった。

そしてとうとう自分の婿まで見つけてきた。

無視もできず、とりあえずどんな男か調べさせてはいるが、期待などできるはずもない。


 ところが……悪くない。いや、むしろ理想の婿だ。

柊子の夢中になった細貝俊介という若者の印象である。

御用人木島の報告では、難関宮坂塾に十四で合格した秀才で性格も真面目で穏やか、親の身分こそ徒士ではあるが次男ゆえ自分で身を立てようとしている。

いやいや、表面だけではわからん、もしかしてとんでもない女垂らしかもしれぬ、これは直に会って見極めなければと思ったのである。


 ご家老からの呼び出しは、細貝家に激震が走った。

しかし、家族にどんなに聞かれてもさっぱり覚えのない俊介は覚悟を決め出向き、

門で名を告げ内玄関に案内されると、頬を紅潮させた特徴のある顔の若い娘が出てきて、部屋に案内された。


しばらくすると尾木が入ってきて

「おお、待たせたな。面をあげ楽にしてくれ」

平伏していた俊介は、想像していたのと違う温みのある声に少し驚きゆっくりと顔を上げた。


尾木は顔をまじまじと見た。

……なるほど、見目麗しいとは女性に使う表現と思っていたが、この若者こそ当てはまる。


「突然の呼び出しで驚いた事であろう。

そちに会って話しをしたかっただけなのじゃ、緊張せずともよい」


「ははー」そうは言われてもまともに目を合わせられない。


「わずか十四で宮坂塾に合格したそうじゃな。

大したものだ。わしは十九でやっと受かったのに」


「恐れ入ります。私はたまたま運が良かっただけで、もう一人十一で受かった天才がおります」


「ああ、矢幡の息子じゃな、知っておる。

でもそなたも優秀には違いない。行く道をもう決めておるのか?」


「医術を習得したく、長谷川宗純先生の元で学んでおります」


「そうか……。どうじゃ、私の元に来ないか?」


「と、申しますと?」


「医術を辞めて私の元で藩政に関わってみないか?」


「恐れながら、そのような重責はとても私には無理かと」


「これは大出世だぞ、普通は喜んで受けると思うが」


「何とぞ、ご容赦を」


「理由を教えてくれ」


「……心に決めた人がおります。その人と生きていきたいのです」


こんな美青年が意外な答えだった。

「もう約束しておるのか?」


「いえ、まだ相手には確かめておりませぬ、

私が勝手に決めているだけでございます」


これもまた意外な!どんな女も喜んで受けるだろうに、真面目な奴だ。

「そうか……。でもそれで何故断る?そんなに医師になりたいのか?」


「その人は武家の娘ではないので」


「武家の養子にでもなり、嫁入りすればよいだけのこと、わしがいくらでも口を聞いてやる」

尾木はもう柊子のためではなく、この青年を何としても欲しくなった。

一途な真面目さ、そしてこの美しい容貌の虜になっていたのである。


「わしはそなたをとても気に入った。医術の道は諦めて、わしの元で働いてもらいたい。

これは命令だ。

ただ、わしも鬼ではない。時間をやるのでその娘を説得してこい。もし叶ったらわしが全て整えてやる」

「しかし、もし嫌と言われたらその時は男らしくきっぱり忘れるのだぞ」


そうは言っても、この若者の思いを断る女などいないだろう。

柊子には気の毒だが、また顔のよい男を見つけてやるしかない。


俊介はいきなりの申し出に言葉を失ったが、命令と言われては従うほかない。

絶望感のまま家に帰ったが、家老に仕えるという話しに家族一同大喜びで俊介の気持ちなど誰も思ってくれない。


 その夜は下弦の月だった。 

今の自分はあの月の満ち欠けのようだと思った。

 菊江は季節や天候など自然の変化を敏感に感じとる。

董平はそれを膨大な書物から得た知識で解説してくれる。

それまで自分の道を開く事しか興味のなかった俊介が、こうして月を眺めるようになったのも二人のおかげなのだ。

非凡な二人の間にいて自分の凡庸さを思い知らされても一緒にいられる喜びの方がはるかに大きかった。

董平や菊江に出会いあの美しい黄金の月明かりに照らされた夢のような時間を過ごしてきた。しかし半月の今日思いもよらない命を下され、これから段々欠けていく月のように嫉妬と策略が入り混じる暗い城内をさまようのだろうか。

せめて菊江がそばにいてくれるなら救われるのだが……。


俊介は翌朝翡翠を見にやってくる菊江を待ち、自分の思いと今の状況を説明した。


「私は貴方とずっと一緒にいたい。どうか嫁にきてくれませんか?」


「私も俊介さんのことは好きですが、武家の嫁などなれませぬ。それに私はずっと父の側にいたいのです」


「先生とていつかは先にいなくなります。貴方は

その後道場をやっていけるのですか?」


「そこまで考えたことはないですが、生きている間はただ父を支えたいのです」


「私に嫁いでも、道場は続けてよいのです、そうすれば援助もできる」


「俊介さんは藩政に関わって、権力も持つようになるでしょう。それは父が最も嫌う事なのです」


「こんなに好きなのに貴方は私より先生を選ぶというのですか!」

俊介は涙を流していた。


菊江の最も弱い涙である。

しかしこればかりは承諾できない。

「……嫁にはいけませぬが、身を任せる事はできます」


「私と男女の仲になってもよいと?」


「はい」


「本当に意味がわかって言ってるのですか?」


「経験はありませんが、わかっているつもりです」


信じられない事を言うと俊介は思った。

しかし、もし深い仲になれば菊江の気持ちも変わるかもしれない。

「では、これから数日私と過ごしてもらいます。その間貴方を片時も離さない!」


菊江は初めて、弥太郎に家を留守にする口実で嘘をつき俊介が尾木から借り受けた郊外の屋敷で二人濃密な時を過ごした。


経験のない菊江は最初は剣の修行をするような感覚で俊介に身を任せていたが、段々こつを覚え快感を得るようになってきた。

そして、俊介が耳元で囁く甘い言葉に最後は頷きそうになった。


……負けては駄目!父上の教えを思い出すのだ!

菊江は祖父から剣の基礎を学び、父からはより実践的な技を教え込まれた。


「菊江よいか、戦いは常に命に関わるものと思い、相手の先の先を読むのだ」


弥太郎は普段は優しいが、剣を持つと形相が変わり、そんな父に畏敬の念を抱いている。

たとえ今俊介への愛情とこの快楽に負けて嫁いだとしても必ず後悔するのはわかっていた。


最後まで菊江は頷かず、俊介は

「貴方は頑固で冷たい人だ」

と涙を流して諦め、二人は別れたのである。

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