第9話 新宮藩 順番
睦月生まれの菊江が十四になった年は悲しい年だった。
如月半ば勝蔵が探していた姉おもよは
とっくの昔に亡くなっていたことがわかった。
矢幡作太郎の妻須美は琴の名手で作太郎から勧められ塾を開くと、確かな実力と優しく丁寧な指導、そして矢幡屋が後ろ盾という安心感から大勢の弟子を持つようになった。その中には商人の内儀達も多く、自然と藩中の色々な噂が耳に入ってきて、それはまた矢幡屋にとっても貴重な情報源となっている。
作太郎は勝蔵の姉の消息もわかるかもしれないと期待していたが、少しも手がかりがないまま時が過ぎ諦めかけていた矢先、今評判の小間物屋の話しを聞いた。
小間物屋の主人佐平治は遊女のお貞にぞっこんで身受けの金を作るため、化粧水を作りそれをお貞に使ってもらい改良して貞小町という名で売り出した。
これが美しくなると評判を呼び、売れに売れて儲かった金で無事お貞を見受けすると、それからは色白で肌の綺麗なお貞が店に出て女達の悩みを聞きながら化粧方法などを教え今や藩一番の人気店となっている。
このお貞という元遊女は勝蔵の姉おもよと年が近い。もしや何か知っているかもしれないと須美から聞いた作太郎はさっそく文を書いて番頭に届けさせた。
大店の矢幡屋からの文は佐平治を驚かせたが、翌日夫婦で矢幡屋を訪ねて来てくれた。
作太郎が
「わざわざ、ご夫婦で来てくださるとは……。こちらからお伺いしましたのに」
「いえいえ、お探しのおもよさんという方の事をお貞は知ってるというので、これはすぐお知らせしなければと思い不躾ながら直接来てしまいました」
「おお!それは勝蔵がどんなに喜ぶことか、ありがたい」
「それが……」
佐平治はお貞と顔を見合わせて申し訳なさそうに
「おもよさんは亡くなったそうなのです、
それを勝蔵さんに知らせてよいのかわからず
まず、矢幡屋様に相談しようと思い来たのでございます」
「なんと……詳細をお聞かせ願えますか?」
お貞が売られた遊郭に、おもよもほぼ同時に売られ年が近い二人はすぐ仲良くなり助け合いながら見習いとして遊女の下働きをしていた。
お互いの素性も語り合い、おもよは貧しい百姓の子で弟と一緒に売られたが、怪我をした弟は途中で捨てられたと涙を浮かべて話していたそうだ。
ところが売られて一年も経たぬうちに流行病が蔓延して遊女たちも次々とかかり、その看病に駆り出された。
そのうちに二人ともうつってしまい、幸いお貞は軽くて済んだが、おもよはどんどん悪くなり、最後は快復したお貞が看取る事となってしまった。
作太郎は知らせるべきか悩んだ。
しかし、今の勝蔵なら乗り越えられると思い
お貞に申し訳ないが、勝蔵と会ってもう一度おもよの話しをしてやってくれと頼んだ。
お貞は
「私も優しいおもよちゃんが大好きでした。
おもよちゃんにいっぱい助けてもらったのに何もしてあげられなかったのが悲しくて……。
勝蔵さんに話す事ができればせめてもの供養になると思うのです」
後日、矢幡屋の一室でお貞と二人だけにしてもらい姉の様子を聞かされた勝蔵は、やはり落ち込んだ。
もう顔もうろ覚えの姉だが、死んでいたはずの自分は生きて今幸せなのに姉は何もできずに死んでいったのかと思うとあまりにもやるせない。
この世にたった一人という孤独感が突然勝蔵を襲い人混みを求めて町をさまよい、いつのまにかならず者にからまれ殴られていた。痛みも感じずこのまま死んでもいいと思った瞬間声が聞こえた。
「私の大事な弟子に何をする!」
悲鳴が聞こえ、バタバタと走る音が聞こえた。
その後静寂が訪れ、上から盛んに何か言われている。
「おい勝蔵、しっかりしろ、大丈夫か?」
聞き覚えのある声で意識が薄っすら戻り目を少し開けると上から八郎太と弥太郎、菊江が覗き込んでいる。
これより少し前、作太郎から姉の死を聞いた八郎太は勝蔵の家に様子を見に行くと不在だった。
心配になった八郎太は弥太郎の家に飛んで行き
「先生、俺と一緒に勝蔵を探してくれないか?
勝蔵の心を立たせるのは俺じゃ駄目なんだ。
確かに俺は山で勝蔵を助けたが、あの頃の俺は毎日苦しくて勝蔵の面倒をみる事で自分が癒されたんだ。でもそんな犬っころ可愛がるような愛情じゃあ心まで救えるわけがない。
俺は寺子屋道場に通うようになってその苦しさから抜け出せた。どこか投げやりだった勝蔵も先生達と知り合い、ようやく変わってきた時にこの知らせは残酷すぎる。勝蔵を失いたくない、お願いだ!」
「おお、もちろんだとも!八郎太も勝蔵も私の愛弟子だ、ほっとくわけにはいかない」
そして勝蔵が痛めつけられている場に出交わした。
「もう少し頑張れ、今医者に連れてってやるからな」
八郎太はひょいと勝蔵を背負い走り出した。
八郎太の背中は昔と変わりなく今も温かくて心地よい。そして弥太郎の「私の大事な弟子」という言葉がずっと頭の中でこだましていた。
勝蔵は弥太郎の家で看病してもらい、そのまま居候となった。
弥太郎一家にとっても勝蔵は特別な存在となっていて、ここで一緒に暮らそうと誘ったのである。
勝蔵が少しずつ日常を取り戻して梅雨の時期になったが、今年は雨がほとんど降らず、乾いた暑い夏がやってきた。
暑さに弱い多恵が体調を崩し、弥太郎と菊江が交代で看病し、炊事は勝蔵が引き受け
董平も見舞いの品をしょっちゅう持ってきて勝蔵を手伝い皆で一緒に晩飯を食べるという日々が続いた。
ようやく夏が終わりに近づき秋の気配を感じた頃
まだ本調子ではないが起き上がれるようになった多恵が久しぶりに晩飯を作った。
董平が秋の食材を沢山もってきてくれたのである。
正月かと思うほどの豪華な料理の数々だった。
「快気祝いを自分でこしらえたか?」
笑いながら弥太郎が嬉しそうに言うと
「はい、今日は朝からとても調子が良くて何を作ろうと考えたら楽しくて手が止まらなくなってしまいました」
皆で食べ始め、美味い美味いと盛り上がっていた時多恵が
「床についていた時色々考えました。死は突然やってくるものだと」
「何を言いだす!せっかく楽しいのにそんな話しをするな、縁起でもない」
「いえ、聞いていただきたいのです。夫婦といえども同時に死ぬ事はできませぬ。それなら私が先に逝った方が幸せだと」
「お前に先に逝かれたら私は悲しくてたまらんぞ!」
「でも貴方、お考えください。もし貴方が先だと私や菊江はどうなります?」
「そ、それは……。確かにお前達を残して死ぬわけにはいかん」
「ね、やはり順番としては私が先に逝く方がよいのです」
「しかし、それは今ではない!そんな話しを続けるならもう食べんぞ!」
「はい、はい、わかりました。
起き上がれず天井を眺めていた時、皆の食べる音が聞こえると幸せな気分になり、今またこうして一緒に食べられるのが嬉しくてしょうがないのです。この先もずっと今日のように皆で美味しい物を食べられますように」と手を合わせた。
「もちろんだ、来年も再来年も皆でこうして一緒に食べるからな」
しかし多恵は年を越す事ができなかった。
冬になり寒さが増してきたある日急に倒れそのまま意識も戻らず逝ってしまった。
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