第8話 新宮藩  青春

 寺子屋道場に通い始め、八郎太と勝蔵は半年で目標の五段まで習得したが、その後も続けていた。


 八郎太は貸本屋の常連になり慈篤に漢字や意味など教えてもらいながら読書に夢中になった。

本は自分を違う世界に誘ってくれる。

字が読めるようになると、こんなに世界が変わるとは想像もできなかった。

そして道場もなんと楽しいことか。

身体を動かしていると全ての雑念が消え、終えた後の疲労感が心地良い。

雨の日が少ないと稽古ができないので、夜中にそっと出て人気のない場所で素振りをした。

一日がもっと長ければ読書も道場も思う存分できるのにとつくづく思う。

もう、自分の中の闇に引き込まれそうな八郎太はどこにもいなかった。




 勝蔵が熱中したのは意外にも算術だった。

数は知れば知るほど奥が深い。

八郎太に助けられてからも、またいつ捨てられるかわからないという思いに怯えて生きてきた。

しかし、ここに通うようになってその気持ちが少しずつ変わり始めている。

この世の道理などどんなに説かれても、親に穀潰しと幼い頃から殴られ、挙句に売られた勝蔵には嘘っぱちにしか思えなかった。

でも算術は誰が解こうと正しい答えが一つだ。


慈篤は勝蔵の変わりようを見て嬉しそうに言った。

「勝蔵さん、あんたには算術の才がある。もう私には教えられないので、これからはこの本で独学しなさい」

渡されたのは塵劫記という書物だった。

「わからないことは、董平さんに聞くといい」


「董平さん?あの子はこれがわかるのかい?」


「董平さんは天才だ。神社の奉献算題の主は董平さんだ。それを藩中の算術好きが楽しみに待っているのだよ」


「へぇ!菊江お嬢といい世の中には凄いお子がいるもんだな」


「勝蔵さんだって負けてないよ。釣りを誤魔化されていた人がわずか一年でここまでなるとは

大したもんだ」


「いや、それを言わないでくれ」

勝蔵は頭を掻きながら苦笑いして

「戻れるもんなら戻ってあの時の俺にこの阿呆!と怒鳴ってやりたいくらいさ」


 一方道場の方は続けていたが、本心は苦手であった。

素振りをしていても集中できず、周りで竹刀を振り上げられると昔の辛い体験から頭を抱えて虫のように丸まってしまいたくなる。

ある日弥太郎から残るよう言われて、いよいよ

これで終いかと覚悟していたら

「勝蔵、手裏剣やってみるかい?」


「え?先生よ、俺は素振りもまともにできないのにいいのかい?」

手裏剣は剣術の段をとってからというのが弥太郎の方針だった。


「私は力のない者に身を守れる術を教えてやりたくて道場を開いたのだ。勝蔵は強くなりたいのだろう。手裏剣ならば相手と向き合わなくても稽古ができるぞ」


弥太郎は勝蔵の身体の傷跡を知っていた。

それを勝蔵が道場に通う理由と勘違いし、声をかけてくれたのだ。

勝蔵は同情されるなどまっぴらごめんだが、何故かこの申し出は嫌ではなかった。

弥太郎親子は誰に対しても公平でつかず離れず丁寧に教える。

二人に憧れた勝蔵はそばにいると守られているようで安心した。

今まで味わった事のない感情だ。

そして弥太郎が沢山の弟子の中で自分を気にかけてくれたのがとても嬉しかったのである。


「先生、手裏剣教えてくれ。俺、今度こそ頑張るよ」




 俊介は幼い頃より容姿の事ばかり言われるのに辟易していた。

俊介を見た者は必ず端正な顔立ちを褒め称え、

家督は継げずとも養子の口はいくらでもあるなどと好き勝手に言う。

「顔を利用し生きるなんて絶対に嫌だ!」

この状況を変えるには己れで道を開いていくしかないと決意し猛勉強して宮坂塾に入った。

そこで董平という天才的な頭脳を持つ友ができ、董平が連れてきた菊江を好きになった。

道場に入門を許され今は充実した日々を送っている。

さらに、菊江と二人だけで過ごす時間を持つ事ができた。

菊江は幼少より祖父源蔵に川辺に連れて行かれ、水中に飛び込んで魚や虫を獲る翡翠の動きを追えるよう鍛えられた。今でもその訓練を続けている。

俊介はそれを知り、ある日待ち伏せして偶然を装い一緒に行ったのが始まりである。

まさかこの私が待ち伏せするとは……

今まで数多の女性に待ち伏せされ煩わしいと思っていた自分は何と傲慢だったのだろう。

菊江を好きになって初めてその気持ちがわかった。




董平は二歳の頃にはもう大人の話すことを理解し、父から一通りの教育を受けると後は書庫部屋で好きに過ごすよう言われ、片っ端から本を読み漁り知識を深めていった。 

家族は董平の天才ぶりに歓喜し、父はその才を人のために使わなくてはいけないと言うが、頭は良くてもそんな方法はわからない。

宮坂塾の学問吟味を勧められ受けた先で俊介と出会い、自分は男が好きなのだと自覚した。

さらに父が稲葉一家を連れて帰り、菊江と親しくなった。

この二人は董平にとって特別な存在になり何も楽しくなかった日常が一変した。

俊介が道場に入門したので、後を追って董平も入門したがもうすでに辞めたくなっている。

しかし、菊江と俊介二人だけにしたくはなかった。




それから三年


 八郎太は今は寺子屋は辞めて仕事と道場以外は読書の日々を送っている。

道場は八十人近くの大所帯になったが、八郎太はその中で一二を争う腕前になっていた。



 勝蔵は董平の算題を解けるようになり、董平とすっかり仲良くなっていた。

手裏剣も上達し、手裏剣の稽古場の仕掛けや弥太郎や菊江のために手裏剣作りもしていた。

ある日仕掛けに夢中になりすっかり遅くなってしまい、弥太郎の家で晩飯を食べていけと誘われた。

多恵は料理が趣味で食材を生かして作るのが得意である。

勝蔵は遠慮がちに一口食べるとあまりの美味しさに

「これは美味い!どうやったらこんな味になるんですかい?」と思わず聞いた。


多恵は満面の笑みを浮かべて

「嬉しい事を言ってくれますねぇ」


「いや、お世辞じゃねぇよ、本当にこんな美味いもん食べたことないですよ」


「一番の褒め言葉を貰いました」


「先生やお嬢が羨ましいぜ。いつもこんな美味いもん食えるんだから」


「弥太郎様も菊江も美味しいとは言ってくれますが、一言だけなのです。つまらないったらないんですよ」


弥太郎は頭を掻きながら

「美味いもんは美味いとしか言いようがないのだよ、なあ菊江?」


「はい、父上。私もそれ以外の言葉が見つかりません」


「ね、勝蔵さん。いつもこんな調子ですよ」


「こんなに手をかけてるのにそれだけじゃ多恵様が気の毒だ。どうやって作るんだい?」


「え?勝蔵さん料理に興味があるのですか?」


「俺は一人もんだし、この先所帯も持つつもりもねぇ。でもこんなもん食べられるなら自分のためだけでも作って見てぇよ。」


「それならここに来て下さればいくらでも教えて差し上げますよ」


菊江は

「是非そうして下さい。私が怒られるのが減って助かります」


「でも俺なんかが家に来ても大丈夫かい?」


「何を言う?勝蔵なら大歓迎だ」


「そうですよ。菊江に教えても中々覚えてくれないので、私も楽しくなります、勝さん」


勝蔵は胸がいっぱいになって

「じゃあ、お言葉に甘えて時々寄らせていただきやす」と涙を堪えて言った。


 それから勝蔵は多恵に料理を教えてもらい、そのまま夕餉を一緒にとって帰るようになった。




 董平は一年道場に通ったが辞めてしまった。

菊江がある日やる気のない董平に剛を煮やし

「董平さんは何が目的で剣術をやってるのですか?」


董平は観念して

「私は俊介も菊江さんも大好きなんだ!」


「はぁ?何を言ってるのですか?」


「二人だけで仲良くされるのは嫌なんだ!私も一緒にいたいんだ!」


「そんな理由で通っていたのですか……」


董平は自分の気持ちが不可解なのだが、俊介に恋焦がれているのに、何故か菊江のそばにもいたい。


この人はまたこのような駄々をこねて……。

董平は感情を相手にぶつける。菊江はこれが苦手でどう対処してよいのかわからない。

「……でも、剣術はそんなに甘くはありません。

やる気がなければ続けても意味はないのです。

私は俊介さんも董平さんも大事な友達です。

董平さんが道場をやめても何も変わりないです」


「じゃあ、勝蔵さんと一緒に家に行ってもよいかい?」

弥太郎一家は寺子屋道場開きと同時に矢幡屋の離れから道場に近い一軒家を借りて引っ越していた。


「董平さんは料理に興味があるのですか?」


「私は勝蔵さんと好みがよく似ていて気が合うんだ。料理を習ってると聞いて羨ましくてしょうがなかった」

 勝蔵とは算術の質問をされたのがきっかけで仲良くなった。

宮坂塾に在籍している者でさえ、算術の分野では対等に話しをできる相手がいなかったが、勝蔵は知識がなくても理解力、洞察力に優れている。

董平もハッとさせられる事が多く刺激になった。

勝蔵となら父の言う「人のために才を使う」という何かをできそうな気がしていた。


「母上は構わないと思いますが、董平さんのご両親に許可を得ないと……」


「許可してもらったら、行ってもいいかい?」


「まあ……」


 それから董平は道場をやめ、かわりに勝蔵と共に菊江の家に出入りするようになった。


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