第7話 新宮藩  薫平と俊介

 薫平が細貝俊介に会ったのは、宮坂塾の学問吟味本試の日だった。

本試会場の東禅寺客殿に俊介が現れると、皆彼の美しさに息を呑み静まり返った。 

俊介はこの雰囲気に慣れている様子で一礼して入ると、うっとりと見惚れていた薫平の隣に着席したのである。

薫平はそれまで人の容姿など気にした事などなかったが、間近で見る俊介は目鼻立ちが見事に整い、肌艶も良く唇は紅を塗ったように赤く瑞々しい。動悸が止まらず手が震えた。

本試が始まりようやく我を取り戻すと、周りから勧められて目的もなく受けた塾だが、彼と学べるならば悪くないと俄然やる気が出てきた。


 そして七日後、五人の合格者の中に薫平と俊介もいた。 


 宮坂塾は矢幡作太郎の実父で蘭学者の

枚方嘉蔵が、新宮藩の富裕層から優秀な人材を育てて欲しいと依頼を受け開いた難関塾である。

身分を問わず何回でも受けられ、合格した者は蘭学を柱に国学、和算まで学べ望む方向に道が開けた。

作太郎もここで学び

「お前は学問より商いで成功する」という父の助言に従い矢幡屋の養子になった。

実際、それまで小さかった矢幡屋は作太郎が継いでから新宮藩一の材木商になったのである。 

 嘉蔵が亡くなった今は、ここを卒業した渡邊重吾が引き継いでいる。

 

 二年毎に百人以上の希望者が集まり、まず初場で二十人に絞られ、本試で規定点に達した者が合格する。規定点に達しなければ合格者無しという年もある。


 矢幡薫平は幼い頃より神童と評判の子で六歳になる頃には四書五行を読破していた。

宮坂塾に合格した最少年齢はそれまで十七だったが、薫平は十一で受かって記録を塗り替え、

この年はもう一人徒士の次男細貝俊介も十四で受かり、若い二人が入塾を果たしたのである。

 俊介は顔が美しいだけでなく、性格も穏やかで優しく周りの者すべてを虜にし、薫平もそんな俊介に心酔していった。


 ある日講義が終わり、帰り道二人で話しながら歩いていると大柄な青年が突然前に立ちはだかった。


「おい細貝!お前また小夜殿に色目を使ったな」


「太田さん、その事は何度も申し上げた通り私には覚えがないのです。小夜さんという方も知りません」


「とぼけるのもいい加減にしろ!小夜殿はお前に文を渡してから、時々笑いかけてくれると言っておる」


「私は今、学問と道場で精一杯です。女性から文をいただいてもお断りしていますし、顔も見ておりません」


「なんだと!ちょっともてるからと調子に乗りやがって」


「私の中身など全く知らないのに外見だけで文を渡してくる方に興味などないのです」


「黙れ、黙れ」太田は怒鳴り、いきなり殴りかかった。


俊介は頬を殴られ、唇から血が出ていた。


「何をなさいます!」薫平は俊介を庇うように前に立ったが、太田は

「どけ!」と言って襟をつかんで横に投げ飛ばした。


「この人は関係ない、手を出さないで下さい!」と俊介が叫ぶ。


この騒ぎで人が集まって来た。


「今日はこれまでだ。お前は俺が根性叩き直してやるから覚悟しておけ」と言って去って行った。


「薫平さん、大丈夫か?」


「俊介さんこそ血が出てます。あの人はお知り合いですか?」


「太田さんという道場の兄弟子だ。思い込みが激しい気性で私の言う事など聞く耳持たない」


「道場の誰かに相談したらどうですか?」


「このような事で相談などしたくない。薫平さんも絶対言わないでくれ」


 そうは言ってもこのままにしておけない。

どうしたらよいものか、薫平はずっと悩んでいた。

そんな時、商談に出ていた父が客を伴って帰って来た。

客は親子三人で顔もろくに見ず挨拶を交わしただけであったが、父が寺子屋道場を開くと言い出しその親子の剣術を見せてもらった時は衝撃だった。

「武芸とはこのように美しいものなのか……」

鍛え抜かれた弥太郎のしなやかさと才能あふれる菊江の美しさに強く心惹かれた。

「稲葉菊江さん……」


ある考えが薫平の中に浮かんだ。


「菊江さん、お願いがあるのですが」


薫平とまともに話したこともなかったのに、いきなりお願いと言われて少々驚いた。

「何でございましょう?」


「私の大事な友が、乱暴を受けているのです。助けていただけませんか?」


「何故貴方が助けないのですか?」


「私は弱い、助けるどころかやられます」


「私はその方とは関わりないし、父から理由もなく外で剣を使ってはいけないと言われていますので、お引き受けできません」


「菊江さんはお強い、だから困ってる私を助けてくれてもよいではありませんか!」


「私はまだ薫平さんの事をそれほど知りません、いきなり助けてと言われても困ります」


すると、薫平は涙目になってワーワー泣き出した。


菊江はギョッとした。こんな泣き方を自分はした事がない。何……この人?

「ああ、そのように泣かないで!」

自分が薫平をいじめているような気分になり

「では、とりあえず一緒に様子を見に行きますから」

とつい、言ってしまった。


それを聞いた薫平は少し笑顔になり、

「本当ですか?」


「行くだけです。やるとは申しておりません」


「あ、ありがとう、菊江さん。貴方がいてくださるだけで心強い」


しまった!と菊江は思ったがもう遅かった。


 翌日から菊江は塾の終わる八ツ半に行き、出てきた二人を尾行し、俊介が家に入るのを見届けて帰った。薫平は途中で俊介と一旦別れ、きびすを返し菊江に合流した。


薫平は泣き虫で情けない印象だったが、ここ数日話しながら帰ると知識豊かで面白い子だった。

菊江は今まで、同じ年頃の子とこのように過ごした事がない。

剣術、学問は祖父や父から、女子としての嗜みは母から教えてもらっていたため、友がいなかったのである。

稲葉道場の頃一度だけ、同年代の女の子達と祭りを見に行ったことがあるが全く話しについていけなかった。

この時菊江は、自分は普通の女子とはかなり異なり、群れるのも戯れるのも苦手だと痛感した。

しかし、薫平といるのは楽しい。

これは菊江にとって新鮮な驚きだった。


そして尾行五日目太田は現れた。今回は木刀を挿している。


「お待ち下さい!」菊江がそばにいて強気の薫平は間髪を入れず躍り出た。


「また、お前か。邪魔するな!」


「大事な友に乱暴はやめてください」


「邪魔くさい!では、お前から片付ける」

と言って木刀を取り出した。


そこに菊江がスッと前に出て、

「木刀はこのような使い方をするものではありません」


「なんだ?この女」


菊江はその言葉が終わらぬうちに太田の股間を蹴った。

太田はあまりの痛みでたまらず木刀を落とすと菊江はさっと拾い、肩に一撃を与えた。

「うっ!」再びの激痛でへたへたと座り込み

「何と卑怯な!」


「素手の相手に木刀を持ち出す貴方と同じ事をしたまで」

「貴方がもうこの方に手を出さないのなら、私にやられた事は誰にも言わぬと約束します」

「まだ諦めぬのなら、小夜という方に今日の事を話します、どうなさいますか?」


「そ、それはやめてくれ!」


「では、約束していただけますね」


「わかった」太田は下を向いてつぶやいた。


菊江は、薫平に「さあ、これで話はつきました、帰りましょう」と言うと取り上げた木刀を太田の前に置き歩き出した。

次の瞬間、太田はその木刀を持つと力を振り絞って立ち「うおー」っと菊江に向かってきた。

菊江は振り向きざまスッと何かを投げた。

すると太田は足がよろめき倒れた。

太田の足には菊江が投げた手裏剣が刺さっていた。

「性根が腐ってる!」と菊江はつぶやいて、刺さった手裏剣を足から抜くと、太田の顔を覗き込み手裏剣を見せながら

「まだ、やりますか?」

「次は足ではすみませんよ」

太田は

「参った!」と言うと泣き出した。


薫平も俊介も菊江の手並みにただ呆然としているだけだった。


俊介の家はすぐそこで別れ際

「もう心配いりません、では明日また塾で」

と薫平が去ろうとすると、俊介がやっと口を開いて


「あの方は?」


「ああ、私の友で稲葉菊江さんというお方です」

と言って待っている菊江の元に走って行った。


 翌日、俊介は塾を休んだ。

薫平はやはり昨日の事で体調を崩したのかと心配していたが、その頃俊介は寺子屋道場に来ていた。

今日は雨で、八郎太達は九ツ半に寺子屋が終わりやってくる。

弥太郎と菊江はそれまで二人で稽古をしている。

そこに俊介がやってきた。

菊江は慌てた。父に知られたくないのに、一体何しにやってきたんだろう?

さっと走り寄り「何か御用ですか?」と小さい声で尋ねると


「昨日はお礼も言えず、失礼しました」


「お礼なぞ、無用です。お帰り下さい」


弥太郎が、後ろから

「菊江、知り合いか?」と聞いてきた。


菊江が返事をする前に俊介が前に進み出て、弥太郎の前に正座をすると

「私は徒士細貝弥之助の次男細貝俊介と申します。

矢幡薫平さんとは宮坂塾で一緒に学んでおります。

昨日、菊江さんに助けていただき、お礼も申し上げてなかったので今日参りました」


菊江は余計な事を話す俊介を苦々しく見ていた。


「菊江、これはどういうことだ?」


「すみません、薫平さんに頼まれてつい手を出してしまいました」と父に頭を下げた。


「私のせいなのです、私が不甲斐ないため、薫平さんと菊江さんが心配して来てくれたのです。

どうか、菊江さんを怒らないで下さい。

そして、私をこの道場に入門させていただけないでしょうか」


「うちは、武士のご子息は教えていないのだ、

貴方は藩の道場に行かれた方がよい」


「その道場の兄弟子にやられた私を菊江さんが助けてくれました。

私は武士の子といっても、下級武士の次男で家も継げず、学問で身を立てようと宮坂塾に入りました。

しかし、昨日菊江さんを見て自分が情けなくなったのです。

私は強くなりたい。

お願いです。どうか入門させて下さい」


「菊江、お前が招いた事だ、どうする?」


そもそも薫平の涙に負けて引き受けてしまったのが始まりだった。


「この人はあまりに弱く、自分に降りかかる災難に対処できないのです。もう関わってしまったゆえ、私が面倒を見ますので入門を許していただけませんか?」


弥太郎はいつの間に薫平と菊江が頼み事ができる間柄なったのか不思議だったが、菊江にとっては良い事だと思った。


「では、菊江お前が責任持ち竹刀素振り千回、

木刀千回こなせるようになったら、入門を認めよう、それでよいか?」


「はい、父上ありがとうございます」 


弥太郎は俊介の方を見て

「ただし、宮坂塾は休まないように。それが条件だ」


「はい、約束いたします。学問も道場も精一杯励みます」

俊介は目を輝かせ礼をした。


 後日、俊介から寺子屋道場に通うと聞かされた薫平は動揺した。

自分に一言もなく、直接頼みに行ったのか。

「強くなりたい」とは、本心だろうがそれは菊江に心惹かれたせいではないか?

菊江の方はまだ俊介など眼中にないが、美しい俊介がそばにいたらどうなるか……。

駄目だ!嫌だ!

俊介も菊江も私が最初に知り合ったのに、私抜きで二人が惹かれ合うなど絶対に許せない。

私も入門しよう。

なんとしてでも二人の間に入って阻止するのだ。




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