第5話 新宮藩  熊野寺子屋道場

 それから、矢幡は着々と準備を進めていった。

寺子屋の手習師匠には以前から噂を聞いていた僧侶の慈篤という人物を考えていた。

面識はなかったが、教え方が巧みで退屈させずどの子にも優しく公平だと評判で、この人ならひねくれた職人達でも上手く扱えるのではないかと思ったのである。

実際会ってみると、なるほど聞いた通りの人で

寺子屋道場の話しをすると

「矢幡様の志に感服いたしました。

このような新しい試みに私を選んで下さって光栄です」

と快く引き受けてくれた。


 そして弥太郎とも顔合わせをし、三人で連日話し合いを重ね、雨で仕事ができない日に通ってもらう事を前提に、寺子屋道場開きの日を梅雨入り初日と決定した。


 まず、梅雨入り前に矢幡が皆をここに集め、

慈篤を紹介して寺子屋道場の趣旨を話した。

「よいか、読み書きや算術ができるようになると今よりもっと便利になり楽しくなる。

この慈篤先生が分かり易く教えて下さるから

必ず五段になるまでは通っておくれ。

一段上がるごとに褒美の品を用意してある」


すると、勝蔵が

「褒美の品って何だい?」


「それは、上がってからの楽しみだ」


「ここに来たって金が貰えるわけじゃああるまいし、今更習い事なんて楽しいはずがねえよ!」

他の職人達もそうだと頷いている。


「やる前から決めつけてどうする?とにかく

学ぶ事が大事なのだ。

これは私の命令だと思っておくれ。五段まで進んだらあとは辞めても構わない。


「旦那の命令なら仕方ない」

黙って聞いていた八郎太が皆の方を向き

「おい、お前達、普段世話になってる旦那が俺達のために考えてくれたことだ。別に遊べなくなる訳じゃああるまいし、その五段とやらまでやってやろうじゃないか」


信頼厚い八郎太の発言は皆にとって絶対らしく、勝蔵と職人達は不承不承返事をした。


話しが終わると次に道場に案内され、そこには弥太郎と菊江が待機していた。

矢幡が弥太郎達を紹介し、弥太郎が

「ここで娘の菊江と共に新陰流道場を開きます。これから、稽古を少しお見せするので興味がある方は寺子屋で手習いが終わった後に来てください」

二人は木刀を持ち、皆の方を向き礼をして

「では、まず素振りから。素振りが全ての基本となるので最初は誰もがここから始めます」

矢幡の時は説明なく披露したが、今回は次の動作にいく度に解説を入れ進めていった。

最後の手裏剣を披露して、礼をすると

「以上となります。勿論これはほんの一部に過ぎませぬ」


それまで静まり返っていたが、一斉に歓声と拍手が起こった。


「入門すれば、このお嬢ちゃんみたいにできるようになるのかい?」

「どの位やればこんな事ができるんだい?」


興奮冷めやらぬ質問が飛び交った。


弥太郎はしばらく聞いた後

「皆さんが当たり前にやってる仕事も私がすぐできないのと同じこと、積み重ねが必要です。

基本の素振りから修練していけば自然と身に着いていきます」


 慈篤はこの様子を見て、

「稲葉殿は皆の心をつかんだな……。私も、もう一つ手立てを考えなければ……」


 それから慈篤は職人一人ずつに話しを聞き、読み書きや算術の程度を書き記すことにした。

意外だったのは、皆個別だと見栄を張らずにすむせいか素直なのである。

勝蔵との面談になった。

「俺は今更何もやる気はないよ、道場だってあのお嬢ちゃんは大したもんだが、自分があんなのできるかよ」


「勝蔵さんは酒が好きだと聞いたが、どのくらい飲むんだい?」


「なんでぇ、いきなり?

まあ、いいさ。いつもよ、田楽串二本をつまみにして酒を三杯飲んで帰るよ」


「それで、お代はいくらだい?」


「もう、顔馴染みのお光って女中がいつもおまけしてくれて三十文だ」


「勝蔵さん、それはおまけどころか多く取られてる」


「知らないくせに何言ってやがる!」勝蔵は声を荒げた、



「実は勝蔵さんの行く居酒屋の酒と肴の値を調べたんだよ。

酒五文、田楽串一本6文だ。田楽串二本で十二文、酒三杯で十五文、合わせて二十七文なのに三十文だから三文多くとられている」


「なんでぇ!俺が馬鹿だから騙されてるって言うのかよ!」


「勝蔵さんは馬鹿なんかじゃない。算術を知らないだけだ。お光はそれをわかって誤魔化しているんだよ。

多分騙されてるのは勝蔵さんだけじゃない」


「俺の金だ。どう使おうと騙されようと勝手だい!」


「勝蔵さんが働いて得た大事な金だからこそ、守りたいんだ。どうだろう、私にその手伝いをさせてもらえないかい?」


「俺なんか頭悪いからできねぇよ……」

勝蔵はだんだんと威勢を失っていき、最後は黙り込んだまま帰って行った。


 さて、それからいよいよ梅雨入り初日を迎えた。

職人達は欠けることなく来たのである。

主人である矢幡への義理、慈篤による個別の面談、弥太郎達の見事な武芸などが心に響いての

喜ばしい結果だった。


 慈篤は全員の名札を用意しておき、名前を呼ばれた者がその名札を取りにいき着席する。

そして、辰ノ刻から講義が始まった。

とにかく、退屈させないよう、わからない者を見逃さないよう細心の注意をはらって進めた。

九ツ半に終わり、後は道場に行く者、残り学習したい者、帰る者、自由であった。


 道場に来たのは十八名で、その中には八郎太や勝蔵もいた。

道場の名札は慈篤から字が書けるようになるまでは作らないでほしいと言われたため、弥太郎が名を記載し、竹刀を渡す。

持ち方、姿勢など事細かに教え、一番前で弥太郎と菊江が見本となり素振りを始めた。

途中から弥太郎が一人ずつ直していく。

百回もやると皆身体がぶれてくる。百五十で

「今日はここまで」と終わりにした。

武士相手の道場ならば、百回どころか千回でも少ない位だが、この道場は楽しく長く続けられることを目的として、ゆるりと優しく教えていくつもりだった。


 そして一年後、寺子屋はまだ皆続けていた。

もう既に五段まで進んだ者もいれば、三段で止まっている者もいるが、皆仮名は覚え、簡単な足し算はできるようになっていた。

八郎太や勝蔵が熱心に続けていることも要因だが、やはり文字が読め、数がわかるということは生活に大きな変化をもたらしたのである。


 この評判を聞いて入りたいという希望者が殺到していた。

慈篤の他、三人も手習師匠を増やして寺子屋は雨の日だけでなくいつでも盛況になったのである。


 一方道場の方は、職人は六名に減ったが、代わりに藩中から弥太郎と菊江の噂を聞いて、入門者が増え、今では八十名近くに膨れ上がっていた。


 熊野寺子屋道場は新しい見本として、注目されるようになっていった。

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