第4話 新宮藩 矢幡の願い
ここが新宮藩か……。
まだ稲葉源蔵に出会う前、諸国遍歴していた弥太郎だが、名も知らぬ藩であった。
乗船中に矢幡からこの藩の財源は主に熊野材、熊野炭であること、材木問屋の仕事は山の管理から先山、木挽、流通まで一手に担うことなどを教えてもらった。
船着場を降りると、矢幡と多恵は籠に乗り、
弥太郎と菊江は歩いて矢幡の店に向かった。
……なるほど、町は人も多いし活気がある。そして熊野三山の雄大な山並みが美しい。
船着場には、矢幡屋と記した大きな材木置き場があったが、店は意外にこじんまりとしていて、店の裏口から中庭に出ると客用の別棟があり、しばらくここに滞在するよう言われた。
翌日、矢幡に誘われ山の麓にある木挽所に行った。矢幡を見て職人が軽く頭を下げ、黙々と仕事をしている。
「ここには、二十名の職人がおりまして、各々大鋸で玉、板、角材に仕上げていくのでございます」
「勝蔵来ておくれ」
歳の頃は三十位であろうか、引き締まった身体に顔は浅黒く、目が糸のように細い男が近づいて来た。
「木挽の頭領、勝蔵でございます」
「旦那、いつ大阪から帰って来たんだい?」
勝蔵がぞんざいな口を聞いた。
「昨日さ。どうだい?次の出荷には間に合いそうかい?」
「ああ、大丈夫だ。ところでこの旦那は?」
弥太郎の方を向いて聞いた。
「私の大切なお客人の稲葉弥太郎様だ。覚えておいておくれ」
「勝蔵殿、よろしくお頼み申す」弥太郎は深々と頭を下げた、
勝蔵は丁寧な弥太郎に気を良くして
「おお、まかせろや。面白い博打場やいい女はちょいと詳しいからいつでも教えるぜ」
「これ、勝蔵、大切なお客人と言ったろう。いきなりそのような話しをするな」
とたしなめられたが、ニヤッと笑って
「いや、矢幡の旦那には聞けねえこともあるだろうからよ」悪びれずに言い返す。
仕事をしている職人たちもクックと笑っている。
矢幡はため息をついて
「次に参りましょう。少し山を登ります」
と歩き出した。
先山の作業場は山の中腹にあった。
先山は木挽と違い五人一組で作業をしていて、職人は散らばっている。中から一人の六尺はありそうな大男がのそっとやってきた。
「これが先山の頭領、八郎太でございます」
矢幡は同様に弥太郎を紹介して、弥太郎もまた深々と頭を下げた。
八郎太は無言で頭をひょいと下げ、仕事に戻っていった。
「勝蔵は一人者ですが、八郎太は女房と娘がおりまして、家族思いの真面目な性質です。
先山だけでなく、木挽の者達からも頼りにされていて、互いの領分には口を出しませんが、勝蔵も年上の八郎太の言うことだけには耳を貸します」
弥太郎は先山の職人達の斧と鋸を使い大木を倒していく作業に心惹かれた。
……皆、太ももや二の腕がすごい太さだ。
この仕事で鍛えられたのだな……。
帰りがけ、弥太郎は矢幡に
「私は先山の方がむいている思います、八郎太殿に口を聞いてもらえますか?」
「……はぁ?何をおっしゃっているので?」
「今日、私を連れて来たのは職を選べということだと思ったのですが?」
「なんと!」矢幡は笑いをこらえて
「そのようなつもりではございません」
「え!私はてっきりそうだと……」
もう、矢幡は腹を抱えて笑い出した。
「すみません、稲葉様が真面目なお顔で先山希望などとおっしゃるものですから、つい……、
ますます、私は稲葉様が好きになりました」
その夜、二人で酒を飲み交わしながら
「あの者達は幼少より、親方から技を叩き込まれ職人として育てられました。
腕はよいのですが、寺子屋にもろくに行かず、皆読み書きができないのです。楽しみと言えば酒、女、博打で、その日の稼ぎを使ってしまう毎日です。
私は彼らを変えたいのです。違う楽しみを見つけさせて気持ちを豊かなものにしてやりたい。
それを稲葉様にお願いしたいのです」
「私に何をしろと?」
「剣を教えていただきたいのです」
「剣はやりたいと願う者でなければ、上達しません。彼らは興味もないのでは?」
「読み書きと同じで学ぶ機会に恵まれなかっただけなのです。稲葉様の剣を見れば習いたいと思う者が必ず出てくるはずです」
「私は、この時のために場はもう用意してあるのです。
稲葉様、そこで私に稽古を見せていただけませんか?」
弥太郎はそれから寝床に入っても、中々眠れなかった。
まさか剣を教えてほしいとなどと言われるとは……。
弥太郎は備前の道場を去って、もう武士相手の道場はやらぬと決めていた。
弱い者達に身を守る術の剣を教えながら生計を立てたいという願いは心の底にあったが、それが叶うほど世の中は甘くないこともわかっている。
あの職人達は、はたして私の剣に興味を持ってくれるのだろうか……。
それに、菊江だ。菊江の事はどうするか。
翌日、木挽所の材木置き場を抜けてしばらく歩くと建物があった。
「ここでございます。こんなに早く使える日が来るとは嬉しい限りです」
中に入ると、六十畳の広さの道場と二十畳の部屋が三つ、控えの部屋や台所まで全て完備してあった。
弥太郎は菊江も連れてきていて、
「では、これより稽古を始めます」と矢幡に言うと、二人は木刀を取り出し、礼をして素振りを始めた。
矢幡はまさか菊江が一緒にやるとは思ってなかったので驚いたが、すぐに子供だということも忘れて引き込まれていった。
弥太郎は五尺半の背丈で筋肉質のがっちりとした体格。目鼻立ちがはっきりしていて、特に目が大きく少し垂れ、愛嬌のある顔である、
菊江はまだ背丈は三尺ほどで、顔は父親に瓜二つだった。
二人は背丈の差があるにも関わらず、動きは寸分の狂いもない。
……ただの素振りなのに、凛として美しい。
千回素振りが終わると、新陰流の型を始めた。
まず二十の型を二人で同時にやる。これも動きに狂いがない。
次に打ち手と受け手に分かれた。
弥太郎が打ち手の時は当然手加減している筈なのだが、素人目にはかなり強い打ち込みで、
それを菊江は事もな気に受けている。
「ここまでが新陰流の基礎でござる。
最後にもう一つお見せいたします」
と言うと、用意しておいた一尺四方の板切れを二ヶ所にかけると、二人は木刀を置いて、離れた位置に立った。
そして、菊江が走り出し、横から弥太郎が小石を投げて妨害するのをよけながら、板切れに手裏剣を命中させていく。
側転、回転など多様な動きで矢幡は目が追いつかないが板切れを見ると手裏剣が刺さっていた。
……この様な神業を人はできるのか。
弥太郎と菊江が礼をして、終了しても余韻にひたっていた。
矢幡殿、と声をかけられて我に戻った。
「ああ、すみません、まるで夢を見ているようでした」
菊江に道場の掃除をさせている間に、別室で
矢幡と話した。
「菊江には驚いた事でしょう。他人に見せたのは貴方が初めてです」
「確かに想像もしていませんでした。しかし、素晴らしい技を見て、今も胸が高鳴っております」
「菊江の祖父も私もこの才を見た時、驚き戸惑いました。これが男子ならともかく女子となるとどうしたらよいものかと。
しかし、本人が望むならば性別などにこだわらず才を伸ばしてやろうと決めたのです」
矢幡は目を潤ませ聞いていた。
「私の実父を思い出しました。私は矢幡の父に望まれて養子になりましたが、実父は学者でした。実父は常々子供には学問を与えよ、地位や性別など関係なく才ある者が育っていき、この世を変える、と言っていたのです」
「ただ、学問ならともかく武芸となると菊江は奇異の目で見られてしまうのではないかという不安もあるのです」
「心配なさる気持ちはわかりますが、才を与えられた者は、それを世の中に返さなければいけません。
菊江様はしっかりしたお子でございます。
稲葉様が見守りながら、やりたいようにさせればよろしいのではないでしょうか」
そして、矢幡は襟を正し、両手をついて
「私はここで学問所と道場を開きたいのです。
学問所といってもまず職人達が読み書きができる程度を目指してやらせます。
そしてその隣の道場で稲葉様と菊江様が剣術を教えていただければ、私の夢がかないます」
なんと、道場だけでなく学問所まで開きたいとは……弥太郎はただ見つめていた。
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