第32話 現場保持

「そんな馬鹿な……」

 僕はまともに立っていられない状態だ。あまりに唐突すぎて衝撃的な出来事に理解力がついていっていなかった。

 一体なにが起こっているのだ? そのことを自分の中で整理するのに時間を要した。


 人の死に立ち会うのは初めてだった。それもこんな異常な死に方をするのは。

 そして僕は初めて認識する。興奮状態にあったために気づかなかったが、異様な臭気が部屋中にたちこめていることを。


 異臭漂う部屋に一つの死体。床のあちこちに巻散らかされた吐瀉物。暫くの間、僕たちは何もできなかった。


 村野先輩が死んだのだ……。いや、間違いなく殺害された?!


「どうして、どうしてこんなことに」

 綾がぽつりと呟く。

 その瞳からは涙がこぼれ落ち、頬を伝う。崩れそうになる体を隣にいた深町先輩が支える。


「ありえないことだ……。まさかここまで」

 呆然としたように長野先輩が天を仰ぐ。


 僕は倒れた村野先輩を見た。

 俯せに倒れ込み、体はくの字でお尻を天井へ突き上げた状態だ。目は見開いたまま、口も大きく開いている。倒れ込んだときに床で打ったのだろう。鼻からは赤黒い血がどろりと垂れ、小さな血溜まりを作っている。白かった皮膚の色も若干ピンクがかっているように見えた。

 口の周りには胃の内容物が付着している。ツナの他にポテトチップスやチョコレートらしいものも見える。

 どうやら、彼女だけはいろんな食物を持って来ていて、みんなが空腹に耐えていたときも、持ってきた食物で飢えることは無かったようだ。

 —————明らかな毒殺。


 僕の頭の中で唐突に思考が始まる。

 さあて、犯人は誰なんだろうか……ね。

 僕と長野先輩が一晩中見張りをしていたから、外部から中に入り込んだ人間はいない。すると部員が犯人であることになる。部長の犯行予告DVDとは異なる内容となっている。

 ……それとも共犯者がいるのだろうか。


 そんなことを冷静に考えている自分に、嫌悪感を覚える。

 僕の目の前で、人一人が殺されたというのに、何を考えているのか。


 部員たちは明らかに動揺している。

 当たり前の反応だろう。自分たちの目の前で、知人が殺されるという非日常的な現場に遭遇してしまったのだ。衝撃を受けない人間などいないだろう。

 綾も深町先輩もただ呆然と亡骸を見つめるだけで、何の行動も起こせないようだ。

 あの長野先輩ですら、しばし動くこともできずにいる。


「長野先輩、村野先輩は一体……」


「信じられない……。まさかアイツが本気でこんなことを」

 僕の問いかけに気づかないのか、彼は独り言を言っている。


「長野先輩! 」


「あ、ああ。田中か、何か言ったのか? 」


「村野先輩は殺されたんですか? どうして……」


「ああ、毒殺だよ、見ての通りだ」

 そう言いながら、先輩は遺体に近づく。

 ポケットから財布を取り出し、中から10円玉を1枚出した。茶色く汚れたその硬貨を、村野が吐いた吐物に乗せる。

 しばらく置いて、再び硬貨を掴み、ティッシュでごしごしと擦り、こちらに見せた。

 驚いたことに、手あかや汚れで黒ずんでいた10円玉が、まるで新品のように銅の色で輝いている。


「10円玉の色の変化、漂うクヘントウ臭、皮膚の色のピンク化。瞳孔の散大、異常な発汗。これらの症状から、青酸中毒死だろう」

 あっさりと分析する。


「毒殺? なんですか。でも一体……」


「どういった方法で殺害されたとかそういったことは、この際問題ではないんだ」


「どうしてなんですか? 村野さんは殺されたんですよ! 」

 深町先輩が呻くように言う。

 綾も批判的な視線を彼に送っている。

 そうなのだ。僕たちの目の前で一人の部員が殺されたのだ。それが問題ではないとはどういうことなのだ。


「先輩が言うとおりです。人一人が殺されたのに、それは問題ではないというのはどういうことですか! 」

 僕も責めるように言い放つ。


 ため息をつくと長野先輩は遺体から離れ、吐瀉物で汚れた上着を脱ぎ、椅子に腰掛けた。

「村野が殺された事は、もちろん重大事だとは認識している。だが、それ以上に俺は衝撃を受けている」


「どういうことなんですか? 先輩、教えてください」

 綾が言う。

 彼女の顔は僅かながらも青ざめている。先ほど死に際の村野先輩に指さされ、あのように言われたのがショックなのだろう。


「今回のこれまでの事件。つまり村野が殺害されるまでの事件については、実はシナリオが存在していた。……すべて長谷川の考えたことだった」


「え、それじゃあ、私を襲ったのもですか」

 深町先輩が驚いたような目で長野を見る。


「そうだ。お前に怪我をさせたのは、アイツがリアリティを持たすために意図的にやったのか、暗闇だから加減ができなかったのかそれはしらない。だが、無線機の破壊、食料の紛失、長谷川の狂言殺人事件及び深町の傷害事件。そしてDVDによる部員皆殺し計画の暴露。これらはアイツがこの合宿を盛り上げるために仕組んだ物だったんだ」


 種を明かせばあまりにくだらない事実の羅列だった。

 全ては部長のシナリオで進められ、仲が良くないと思っていた長野先輩の協力でそれはさらに強固な物となったのだ。

 僕たちは嵌められた?


「でも、合宿を盛り上げるために深町先輩に怪我をさせるなんて、あまりに異常すぎるわ! 」


「そう。その辺りから俺も変だなとは思っていたんだ。そして、その不安が現実となった。アイツが本当に人を殺すとはな。信じられない……」

 机に両肘をつき、俯く。


「どうして、それなら言ってくれなかったんですか! 私は、私は」

 室内に響いた深町先輩の声に一瞬みんなが言葉を失った。

 これほど感情をあらわに声を荒げる彼女を見たことがなかった。いつもおとなしそうに部長の側で微笑んでいるだけのイメージしかなかった僕は、少し驚いた。


「彼が私を殺そうとしたと思い、その事実にどれだけショックを受けていたのか。先輩は分かってくれないんですか! 」


「フン……、確かにお前には本当の事を言ってやった方が良かったかもしれない。だが、口止めされていたし、一人に話せばそこからみんなに漏れてしまうからな。それだけは避けたかった。せっかくアイツが考えた企画が無駄になってしまう恐れがあったからな。……それにお前がショックを受けたような態度をとるのは、てっきり長谷川から話を聞いての演技だと思っていた」


「私は、そんな演技ができる女じゃありません! 」

 怒ったような口調で叫ぶと、彼女は食堂から走り去った。


「先輩! 」

 綾が叫び、後を追いかける。


 二人だけとなった僕たちは暫くは黙り込んだままだった。

 室内に漂う異臭で吐き気がする。


「先輩、窓を開けていいですか? 」


「ああ、そうだな。この臭いではちょっと耐えられない。それに村野をどこかに移動させないとな」

 先ほどの口論など無かったように、呟く。

 僕は確かに吐き気がしていた。

 それはこの部屋に篭もった異臭だけでなく、自分の彼女に怪我をさせてまでイベントを盛り上げようとした部長と、話を聞いてなんら疑問も感じない長野先輩の態度に、言いようのない吐き気がしていたのだ。


 ……こいつら、狂っている……。

 オレ以上に狂っていやがる……。

 そう思わないか?


 突然、耳元で誰かが囁いた。

 何だ?

 この声は誰だ??


 長野先輩は椅子に腰掛けて虚空を見上げている。声の主は彼ではない。

 僕は大あわてで頭を左右に振った。

 食堂の全ての窓を開け放つ。潮の香りをまとった風が吹き込み、室内の異臭を追いやる。大きく深呼吸をすると、少し気分が良くなった。


「田中、村野を空いている部屋に運ぶぞ。手伝ってくれ」


「え、遺体を動かすんですか? そんなことしたら……」


「食堂に置いたままだと飯も食えないし、みんなで集まる部屋もない。それに小さい部屋の方がエアコンの効率もいいんだ」


 そこで彼の言う意味が分かった。

 客室は狭くて人の出入りもない。エアコンを最強にしておけば食堂に置いているよりは冷えるはずだ。そのほうが遺体の保管状況も良いだろう。

 この先、いつ頃警察が来るかは分からない。そのことを考えれば遺体の保存も考えなければならない。さらに食堂に遺体を置いたままだと、必然的にみんなの目に触れてしまう。部員達の精神状況や、死んだ村野先輩の為にも隔離された場所に移動させたほうがいいだろう。


「わかりました。どこへ移動させましょうか? 」


「二階は広いが女性陣の所に死体は持って行けないな。……一階は埋まっているから、……そうだな。長谷川の部屋に移動させよう」

 相変わらずどんなときも皮肉を言う男だなと思った。殺された遺体を犯人の荷物のある部屋に置くとは。

 何かを言おうと思ったが、止めた。


 遺体に近づくと、未だに見開いたままの瞳を閉じさせ、僕は彼女の両足を持った。

 まだ彼女の体は温もりを保っている。それがかえって気持ち悪く感じた。体は温かいが、すでに死んでいる……。完全な死体へと移行していくものが自分の手の中にある。

 それは違和感だけをもたらす。


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