第27話 体調の異変

 綾は心配そうな顔で背中をさすってくれている。手のひらの温もりが伝わってくる。気のせいか、なんだか楽になったような気がした。

「あ、ありがとう。もう大丈夫だから」

 そう言って僕はふらつきそうになる体を覚られぬよう、なんとか立ち上がった。

 まだ綾が心配そうに見るので僕は軽くストレッチをしてみせる。


「本当に大丈夫? 」


「もちろん。へっちゃらさ」


「ほな帰ろうや。……田中も腹減って目眩がしただけやろ。よう分かるで。ウチやってろくなもん食ってないのにこんなに歩いたから、ヘロヘロや」


「よし、宿泊施設に帰るぞ」

 長野先輩の声を合図に、僕たちは外へと出た。

 外は相変わらずの強烈な日差しだ。

 上から下から突き上げてくる熱気に耐えながら、僕たちは歩き続けた。


 宿泊施設に帰るなり、僕は激しい疲労を感じ、もはや立っていられなくなった。帰ってくるまでもかなりやばい状態だったが、みんなを心配させないよう、必死で歩いていた。だが限界が来たようだ。

 冷や汗がにじんでくるのを感じた。急激に目眩がし、味わったことのないレベルの悪寒さえする。

 僕はみんなが食堂に行くのを見ながら、自分の部屋へと入っていく。


「徹君、どうかしたの? 」


「ちょっと疲れたから……少し休むよ。何かあったら起こしてくれ」

 何とか変調を覚られぬレベルで喋ることができたのではないだろうか。僕は部屋へと入っていった。

 心配そうにしているのが分かったが、なによりもまず横になりたかった。

 エアコンのスイッチを入れ、倒れ込むようにむき出しのベッドに横になる。

 瞬間、グルグルと視界が回るのを感じた。

 貧血なのか?

 そう思った瞬間、胃が熱くなり、起きあがると同時に胃の内容物を床へと吐きだしていた。黄色い異臭を放つ液体を吐きながら、僕は必死に音を立てないようにした。

 しかし、吐瀉物が床に落ちる音を消すことはできない。部屋の防音性能が高いことを祈った。

 全てを吐いてもまだ吐き出したりないのか、嘔吐は止まらなかった。喉が、胃が異音を発する。両手で口を押さえ、それを押さえ込もうとする。

 器官に「それ」が逆流したのか、激しく咳き込み、口を必死で抑えていたため、鼻孔から飛沫が飛び出し、床に散る。

 苦しさで涙が溢れてくる……。

 再び激しく咳き込むと、なま暖かい感触が口に当てた両手に伝わる。手を見ると、胃液は驚くほど真っ赤に変わっていた。

 しばらく僕は四つんばいになったままの体勢でこの状況が通り過ぎるのを待った。

 かつて無いほどの痛みが体中を襲う。そして悪寒。知らず知らずに涙が溢れ、床へと落ちていく。口を必死で押さえ、呻き声を出さないようにする。

 食堂にいる彼らに悟られてはいけないのだ。


 体感時間で20分くらい過ぎたのだろうか……。なんとかこの異変は峠を越したようだった。僕は這うようにして床の隅に置いたバックまで行くと、バスタオルを取り出し、両手についた液体を拭き取った。

 何とか立ち上がり、ベットの側にたどり着くと、しゃがみ込んで吐瀉物とそれに混じった鮮やかな赤い液体を拭き取った。何度か拭き汚れはほとんど分からなくなった。

 このタオルは使い物にならないな。

 クルクルと丸めると、ビニール袋に押し込んできつく縛り、ベッドの下に押し込んだ。臭いも気になったので窓をすかす。


 僕はベットに横たわった。まだ目眩と頭痛、僅かながら嘔吐感が残っている。口の中も胃液と血の味が残っている感じだ。目を閉じてもその感覚は変化なかった。

 これはかなりまずいかもしれない。そんなことを思いながら、僕の思考はやがて停止していった。


 どれくらいの時間が経ったのだろうか?

 水の音がどこかから聞こえる。次にはべちゃりとした冷たい感覚が僕の顔面に広がる。

 その冷たさが心地よい……。


 目を開けると、部屋の窓から夕日が差し込んでくるのが分かった。どうやら夕方まで寝てしまったようだ。


「あ、起こしちゃった? 」

 声のする方を見やると、僕の枕元に綾が座ってこちらを見ていた。近くには洗面器があり、水がたっぷりと入っている。

 

 僕の額には絞りの甘いタオルが乗せられている。


「ずっといたのか? 」

 その問いに小さく頷く。

「だって、何かすごく体調が悪そうな顔をしてたんだもの。心配するよ、普通」


「そんな顔してたかな」

 実際、最悪の体調で、あのまま食堂に行っていたら大変なことになっていただろう。限界ぎりぎりの状態でなんとか部屋に戻ることができたのは奇跡だった。いまだ気分は最悪の状態だが、それを彼女に気づかれずにしないと。


「ホント、すごい顔してたんだから。普段でもへなちょこな顔してるけど、さっきの徹君はそんなもんじゃなかったもん」


「失礼な……。僕はいつもはもっとりりしい顔をしてるよ」


 ぷっと吹き出し、笑い出す綾。


「何がおかしいんだい? 」


「あはは、まあそんな冗談を言えるくらいだから、大丈夫そうね」

 相変わらずキツイ事を言う。


 僕は彼女の様子をうかがう。先程の吐いた臭いは残っていないだろうか? 僕の表情に異変を感じてないだろうかを。

 ……どうやら覚られてはいないようだった。

 しかし、危なかった。もし、嘔吐しているところを見られたらどんなことになっていたか。綾が取り乱してしまう姿が目に浮かぶ。

 最悪の事態を避けられ、僅かながら気が楽になった。


「みんなはどうしている? 」


「部長からのメッセージを入手したけど、観る方法が無いみたいだから、ただぼーっと食堂で座っているんじゃないかな」


「そうか……」

 僕はあのことを言うかどうか考え込んだ。

 でも、人の荷物を勝手に漁った事を知られるのも何だし……。


「徹君、どうかしたの? ……何か隠している事があるんでしょ」

 ズバリと核心を突いてきた。

 彼女に隠し事はできないようだ。


「いや実はね、昨日の晩、建物内を見回ったときに部長の部屋にも入ったんだ」

 僕はすべてを話すことにした。

「その時にちょっと気になって、部長のバッグの中身を調べたんだよ」


 驚いたような目をして、綾は僕を見る。



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