架空の書評・著者不明『正しいドミノの倒し方』

だいなしキツネ

パラドクシア・ドミナティオ

 著者不明の本書『正しいドミノの倒し方(原題 Create Domino)』は、2010年、アンカラ旧市街の地下で発見された。朽ちた羊皮紙に記された原文は、当初は新約聖書の外典と思われていたが、解析の進んだ現在においては16世紀頃に書かれた戯作の類いだと考えられている。それがこのたび黒戸夕子のくだけた翻訳で、山入書房より出版された次第である。


 原題が示す通り、本書はドミノの起源を問う。ドミノは16世紀のヨーロッパの宮廷で楽しまれていたことが確認されている。当初は倒すことよりも並べることを重視していたようだ。ところが本書は、並べるものではなく倒すものとしてのドミノを探究する。ドミノ倒しの萌芽が16世紀には既にあったということが見て取れるだろう。もっとも、それはこの作品の主題ではない。主人公の道化師は「並ぶドミノに価値があるのは、それが倒され得るからだ」と述べる。なるほどそれは宮廷道化師がいかにも言いそうなパラドクスだ。王族はこの挑発に唆され、美しく並べられたドミノを次々と倒してまわる。問題はここからだ。ドミノが正しく倒れないのである。


 ドミノをひとつパタリと倒せば、隣のドミノも押されて倒れる。我々はそう思い込んでいないだろうか。これは現代において常識だが、過去いかなる時代もそうであったという保証はない。デイヴィッド・ヒュームが論じていたように、今日の常識は、たまたま昨日通用したものが今日も通用し、明日も通用するであろうと期待されるところのものである。しかるに、本書のドミノたちは王族が倒そうとすればするほど強固に抵抗する。あるドミノは地に足をつけて離さず、あるドミノは飛び上がって華麗に頭上を舞う。どれ一つとして倒れない。次第にドミノのどんちゃん騒ぎが始まり、王族は夜も眠れなくなる。ついに王は負けを認める。そして道化師にドミノを倒して欲しいと懇願する。しかし、道化師はいう。「この世に神がいる限り、ドミノが倒れることはない」と。


 ドミノが正しく倒れるには何が必要だろうか。重力、そして対称性だ。引力の中心は神ではなく地球にあり、その力は万物に平等に作用しなくてはならない。また、その法則が過去現在未来等しく通用するという対称性を持たねばならない。これは、神がその権能を、地球や自然法則といったものに移譲することを前提とする。ドミノを作るということは、ドミノが我々の知る仕方で倒れるように、正しく世界を作り直すということに他ならない。

 ルネサンスも後期に差し掛かった当時、人類は片足を宗教に、片足を近代科学に突っ込んでいた。神の威光は既に遠ざかりつつあった。宮廷道化師はパラドクスの体現者として、凝り固まった社会の慣習を通俗的にほぐす役割が求められていた。その彼が、ここでは預言者の顔をしている。あたかも、宗教的であることが彼らへの風刺であるかのように。道化師はドミノたちの狂乱にタクトを振るうことで王族を嘲弄し、神への忠誠を示したかったようだ。もしかしたら彼は、道化師こそが救世主であるという、最大のパラドクスを演じたかったのかもしれない。


 本書の最後、道化師は神に祈りを捧げる。わたしはあなたを信仰する。だから決してドミノを倒してくれるな、と。するとドミノは閑と静まり返り、一つまた一つと倒れていく。辺りはドミノの死骸が散乱していた。

 それを見て、王族はホッと安堵する。そして道化師が救世主を演じるという不遜によって、彼らに安寧をもたらしたことを称賛する。道化師の表情は青ざめていた。道化師は、彼自身の意図とは裏腹に、神を遠ざけることに成功したのだ。いまやドミノは重力の虜である。神の創造は、ここに完成された。

 近代文明への完全なる移行。現代の読者であればニーチェの箴言を思い出すのではないか。神は死んだ。しかし、本書の道化師は次のように告げて物語を締めくくる。それは、わたしたちの〈正しさ〉が、誰の屍の上に聳え立っているのかを示唆するものとなるだろう。すなわち、


「神は我々を見放した。我々は既に死んでいるのだ。」

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架空の書評・著者不明『正しいドミノの倒し方』 だいなしキツネ @DAINASHI_KITUNE

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