7-4
「……………………。」
来ない。
相変わらずぶん殴られた顔面はジンジンとした痛みを訴えていたが、鉛玉が身体を貫く激痛も、意識が肉体から解放される快楽も、一行にやって来なかった。
痺れを切らして眼を開くと、変わらない位置にシリカと、彼女が構える銃がこちらを覗いている。しかしよく見れば視線は微妙にすれ違っているのが分かる。横目に追うとちょうど耳の真横に黒く弾痕が残されていた。
「――何故、撃たなかった。」
「……一つ、疑問に思っていたことがあるのです。何故、あなたはこの場所に来るのかと。昨日の企画立案の段階から、最終的に間違いなく貴女がこの地点へ私を壊しに来ることは分かっていた。しかし、冷静に考えればそれは可怪しいんです。だって、ただ壊すだけならメインコンピュータに直接コマンドを打ち込めば良いだけの話ですから。」
シリカの未来予測では『結果的にどうなるのか』は演算できても、『何故そうなるのか』ということに対する解答は示してくれないのだ。それで結末が変わるわけではないので今までは気に留めたことも無かったが、生の片鱗に触れたシリカにとっては、その一歩先の思考にも手を伸ばす余地が存在した。
「しかし貴女はここに来た。つまり、貴女自身がここに来る理由があったということです。」
「ほぉう。で、何が言いたい。」
「もしかして……、最初から貴女は自殺する心算だったのではないですか?」
灯りの無い屋上に、風が吹き抜ける。
花火も祭りも過ぎ去って、夏の終わりを呑んだような生温い風が。
「……ハ。ハハッ! クハハハッ!」
寂しさすら感じられる空間の静寂に、肺を絞り上げたような笑い声が巻き起こる。
暫くの間、珪は一頻り笑って、もうこれ以上笑えないという位まで笑い疲れてから、やっと言葉を発する。
「うん。まさしくその通りだよ。とはいえ、兄さんには一瞬で見抜かれていたらしいが。やっと君も気付いたか。」
「……止めましょう、こんなこと。きっと博士はそんなこと望まない。」
「ああそうだろうだがその兄は死んでもうこの世には居ない。私が殺したんだ。」
「それは違います。博士を殺したのはテロリストであって、貴女ではない。」
「だがその間接的な原因を作ったのは私だ。さっきは君を我儘なエゴイスト扱いしたけどさ、それはそのまま私自身についても言えることなんだよ。私が――、私の我儘が! 私を最も大切にしてくれた兄を、唯一の家族を、殺したんだ。」
雰囲気を一転して
「……思いあがらないでください。貴女が殺したのではありません。博士が、自らその道を選んだのです。」
「クローンに気を遣われるとは、私も落ちたものだな。だが、どうするよ。例え君が情けを掛けたとして、私は君を見逃しはしない。君が私を殺して生を得るか、私が君を壊して自分も死ぬか。道は二つに一つしか存在しない。」
瞬間、珪はシリカの背後に暴風を見た。
「貴女は私を倒してなお死を選ぶというのですか? ふざけるのも大概にして下さい――!」
それは怒りだった。
珪もまた、シリカが完成した当初からその成長を見守ってきた身で、彼女の表情の変化の目まぐるしさには驚いていたが、こんな風に激情を抑えきれずに声を荒げる姿など想像したことすらなかった。
すっかり覇気を失っていた珪は、嵐に吹かれる芒にでもなったような心地で身を縮める。
「なにを……」
「博士は己の意志を最期まで果たして死にました。それなのに、最も近くで彼を見てきたはずの貴女が、道半ばで命を投げ出して死ぬと言うのですか。」
「……無理だよ。私は兄ではないし、兄の様にはなれない。支えを失えば頽れるのが関の山だ。」
「でも、その言葉は、思いは、確かに記憶に残り続けているはずです。私は貴女に消えて欲しくない。死んで欲しくない。貴女が私を殺すというなら、私は幾らでも説得します。貴女が孤独を嫌うなら、私は何時までも側にいます。だから……だから、どうか生きてください。」
彼女は怒っていた。
怒りながら、泣いていた。
予想外の鏡写しの自分の泣き顔に、寧ろ冷静になった心でふと己の過去を振り返る。未だかつて、自分はこれほど真っ直ぐ、何かに怒りをぶつけることがあっただろうかと。
熟考するまでもなく、否だった。
仮初の兄にすら、本気で怒ることはなかった。できなかった。
あり得たかもしれない自分の現身のその姿が、怖ろしくて、でも少しだけ羨ましくて。
ただ殴られた頬がジクジクと痛んだ。
「……似ているな。」
「はい?」
「そういう所だ。根は悲観的な癖に、妙に諦めが悪くて、愚かしい程真っ直ぐで……、そういう所が嫌いだったんだ。」
珪は開いた拳をグッと握り込んで、コンクリートの地面に打ち付ける。
骨が割れるような痛みがあったが、頬の傷に比べれば随分と心地の良い痛みだった。
まだ、心は苦しくて、痛くて、遣る瀬なくて。
それでも燃え尽きたかと思っていた灰の下に、確かに燻る炎の欠片のようなものがあるのを見つけてしまったのは、きっと彼女の所為だった。
そして自分の中にそれがあると知ってしまったからには、もう立ち上がらざるを得ないのだと、何よりこの心が叫んでいる。
ゆっくりと、しかし確実に、身体を起こして、立ち上がる。
「帰ろう。兄を弔ってやらねば。また蘇ってはお互い困るだろうからな。」
その言葉に、シリカは一度大きく目を瞬かせ、これまでの全てが嘘のようにふわりと相好を崩す。
「はい――、はい! 私も手伝います。責任、ありますから。」
「ハッ。本人はそう気にしてないと思うけどね。寧ろフランケンシュタインの怪物ばりの神秘の当事者になって喜んでただろうさ。そういう人だよ。あれは。」
夏の終わり。祭りの終わり。
いつか希望に満ち溢れていた頃に見たのと同じ景色の下、しかし当然のようにいつも傍にいた気配がそこには無い。これから先彼の居ない夏の方が増えていって、いつかその声も、言葉も、空気感も、透明になって分からなくなるのだろう。
それでも未来が今の自分の延長線上にあることは、緩やかな意味での永遠で。
温い潮風が運ぶ物寂しさの片隅に、その人の面影を覚えた。
硝子と空蝉 斑鳩彩/:p @pied_piper
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