1-2
「それにしてもこんな時間まで寝坊するのは小学生以来だな……」
「博士は少し働き過ぎです。昨日も働きづめだったのでしょう。少しは休息をとるようにしてください。」
ワーカーホリックであることは自覚しているが、それぐらいしなければ仕事が片付かないのだからしょうがない。先程は愚痴をこぼしたが、別段保科の仕事量が他の職員に比べて多い訳ではないのだ。天才鬼才が集うこの執政部付属の研究所において、ほとんどコネで席を保証されている自分が人並みの仕事をこなすには時間を犠牲にするしかないというだけの話である。
とはいえ、ひとえに心配から声を掛けてくれたであろう彼女にそんな言い訳をするのも忍びなくて――すっと目を背けると、軽蔑を含んだ視線が横っ面に痛い。
おかしいな。
表情はいつもと変わらないのに。
「……分かってる。今日一日は労働から足を洗わせてもらおう。」
「それが良いです。」
その場凌ぎの言葉だったが、シリカは満足したようで顔に微笑みを復活させる。
気のせいだろうか、お決まりのポーカーフェイスも少し機嫌が良さそうに見えた。
「時に、博士は今日何をするつもりだったのですか。」
「いや。まだ何か決めてたわけじゃないよ。」
「そうだったんですか。先程の言い方からして、すでにご予定を立てているものと。」
「仕事を休むという計画を立ててたんだ。しかし、どうしたものか……、実際こうしてその時になると、やる事なんて積み上げたゲームの消化ぐらいしか思いつかないな。」
「何とも非生産的な趣味ばかりですね……、私はてっきりお祭りにでも出かけるのかと思っていましたよ。」
お祭。
余りに自分の生活からかけ離れた言葉の飛来に、一瞬単語の意味がゲシュタルト崩壊を起こしかける。やっと言葉の意味が理解できた後も、はて何故この行事がこのタイミングで出てきくるのだろうと思ってしまったが、すぐに脳裏に思い当たるものが現れた。
そういえば毎年建国記念の日には、市民コミュニティ主催の夏祭りを海岸で行っているのだった。きっと今ごろ海岸通りの商店街は大勢の観光客で賑わっていることだろう。
――まぁ、中にはそんなの全く関係の無い人間もいる訳だが。
「……あぁ。そんなものもあったな。」
「随分冷めた感想ですね。」
「そりゃそうだろう。少なくとも私が行く場所ではないし、行く理由もない。」
そもそも仕事疲れで外に出るのも
「寂しい人ですね。」
「やかましい。そもそも男一人で祭りを回って何が楽しいんだ。」
色々言い訳してみたが、結局のところそれが一番素直な理由だった。
基本的に祭りとは友人でも恋人でも、気の置けない誰かと一緒に行くから楽しめるものだ。けして一人で回る祭りの情趣を否定する訳ではないが、搾りかすのようになった気力を酷使してまで実行する理由にはならないというのが、徹夜明けの男の切なる実感だった。
一方のシリカは、そのセリフを聞いた途端にピコンと整った眉を震わせる。
「ほう。成程、ふむ。そういう流れならありでしょうか。」
彼女が突然独りでブツブツと呟きだしたので、何事かと保科は椅子に背を預けたまま
「どうした。自分は手を下さずに事件を裏で操る悪役系の演出は君には似合わないぞ。」
「そうでしょうか。かのジェームズ・モリアーティは数学の天才であったと聞きます。その点では力不足ではないと思いますが……」
話が逸れ出したことを察したのか、机を挟んだ向こうの彼女はそっぽを向いたまま、んんっとわざとらしく咳をして、一呼吸を置く。それから、デスクの上に身を乗り出してぱっとこちらに向き直った――その顔に、これまで見たことも無いような神妙な笑みを浮かべて。
刹那。微風がブラインドの隙間を抜けて、流麗な銀糸の髪が宙に流れた。
ふわりと漂う薬品の香りの近さに、心臓が少し余分に脈を打つ。
「博士は先程男一人で回って何が楽しいのだと言いました。――では、それなら私と一緒ならどうですか。」
「……君が?」
――ああ。私はこの眼を知っている。
――綺麗で、純粋で、少し悪戯っぽい。
そして研ぎ澄まされたナイフのような光を閉じ込めたような、この眼を――
まだ状況を飲み込めない保科に対し、決定打のように彼女はこちらの顔を一心に見上げ、すっと息を吸い込んで、言った。
「はい。つまり、私とデートをしましょう。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます