硝子と空蝉

斑鳩彩/:p

1章

1-1

 目が覚めると、文房具の芸術的な散乱がそこにあった。

「……博士。起きてください。」

 心の温度を感じさせない無機質な声色。

 一切の抵抗も許さない玲瓏れいろうなその響きが、朧気な意識を真っ直ぐに貫いて――、急に見慣れた部屋の全容が輪郭を帯びてくる。

 書類の散らかった仕事机。飲み残しが淡い層を残すコーヒーカップと、微かに香るカフェインの匂い。蛇腹じゃばらのブラインドから差す細い陽光が、薄闇に佇む仕事机の上に横断歩道のミニチュアを作っている。細く開かれた窓からは遠慮がちに気怠い風が深緑のエッセンスを運んできては、覚醒と眠りの両方の欲求を煽り立てていた。

 そんな有り触れた研究棟の一室を背景にして、ドアの前に一人の少女が立っている。

 未だ靄の掛かったような意識で眼を擦り、保科ほしなりゅうは机に身を起こす。

「シリカ? ……おはよう。」

 おはようございます、と少女は曖昧な笑みを頬に浮かべ最低限の所作でお辞儀を返した。

 年齢は背丈から推測するに十代後半位だろうか。まるで西洋の陶器人形ビスクドールのような滑らかで白い肌に、歪み一つ無い端麗な目鼻立ち。腰元まで伸びた白い直髪は硝子細工の透明度で、部屋の僅かな光を集めては自ら発光する様子は、まるで天使の光背の如くである。その頭の先から指先まで一つの欠けもなく完成されたボディを見れば、信仰深い人間でなくても女神の実在を思い浮かべるに違いない。

 そんな隙の無い風体に包まれた彼女だが、一方で外見を着飾る事にはとんと興味が無いらしい。アクセサリーの類は一つも付けておらず、薄い肩甲骨に掛けた白衣は明らかにサイズが大きい。この美貌と放埓ほうらつのバランスの異質さが、見る者に酷くちぐはぐな印象を与えていた。

「……随分とよく眠ってらっしゃいましたね。」

「らしいな。熟睡とは程遠いけど、何だか生まれ変わったような気分だ。」

 こうして仕事場で眼を目を覚ますのは初めての事ではないが、到底慣れるものではない。

 身を起こしつつ、うんと腕を天井に突き出して、バキバキに固まった背筋をめいっぱい伸ばす――、すると弾みで何か軽いものが背中をするりと滑り落ちる感触がある。振り返ってみると、青い毛の撚れたタオルケットが床に落ちていた。

 さっさと拾い上げてしまおうと手を伸ばしてみたものの、指先一つ届かない。そうして数センチの距離に悪戦苦闘している間に、横からシリカがやって来てひょいと掴んで抱きかかえた。

「すまない。」

「いえ。これくらいなんてことありません。」

「――これは君が掛けてくれたんだろう。気遣い感謝する。」

「そんな。最近の博士は特に働き詰めでしたから。これくらい当然です。昨日も夜まで働いてらっしゃったんでしょう。」

 同情するようなシリカの言葉に、「ああ。全く、けいちゃ――、局長も人使いが荒いよ。こっちは休日返上で働いてるのに、仕事は増えてくばかりだ。」と愚痴をもらす。

 その瞬間何か重大なことが頭の端を掠めた気がした。

「……うん? ちょっと待て。」

「はい。どうされましたか?」

 青髭の残る顎をしげしげと擦りつつ、保科は違和感の元を辿ってゆく。

「……今日はいい天気だな。」

「――? はい。天文台の観測によれば雲量0で文句なしの快晴です。」と藪から棒の話題変更に小首を傾げるシリカ。

「まさに日本晴れというやつか。しかしここのところは猛暑続きでどうにも参る。」

「私はともかく、博士には辛い気候でしょう。天文台の発表によれば最高気温は三十三度にもなるとか。」

 それはまた一段と暑い日になりそうなものだ。

 地球温暖化は学会でも既に過去の話題となったというのに、あまりその実感は得られないのが現実だ。

 クーラーの効いているこの部屋でも、掌に落ちた陽光はしたたかな熱を帯びている。

 ひかり――、太陽。

 寝起きで鈍った脳が違和感の存在を探り当てる。

「答えてくれ、シリカ。今は何時だ。」

「はい。現在時刻は一時十五分四十二を回ったところです。」

「……まさか。冗談だよな。」

 現実を受け入れられない様子の保科に対し、シリカは文房具とごちゃまぜになってデスクの端に散らかされたリムレス眼鏡を持ってきて、彼の耳に掛けてやる。するとすぐに拡張現実ARの仮想スクリーンが起動し、ホーム画面を視界に映した。

 中空に映写された画面の端で動きつづけるデジタル時計は、丁度一時十六分を回ったところだった。

 ――タスクバーに赤々と映る『建国記念の日』の文字が目に眩しい。

「……何故、気づいていたならもっと早く起こしてくれなかったんだ。休日が半分消し飛んでしまった。」

 保科はまるで突発性の頭痛にでも襲われたようにパシンと額を叩いて呻き声を上げる。彼の年齢には似合わない額にうっすらと浮かんだ苦悩の跡が更に歪んで強調された。

「申し訳ありませんでした。次からは気を付けます。」

 表情を曇らせつつ慌てて頭を下げようとするシリカに対し、保科はしずかに右掌みぎてを出してさし止める。

「いや――、言い方が悪かった。君に責任は無い。いつも君の善意に頼りきりな私が悪いんだ。顔を上げてくれ。」

「……はい。すみませんでした。」

「構わない。しかし、何故だ。君はいつも私の意思にかかわらず強制的にでも起床させてくるだろう……?」

「それは――、今日も一度は博士を起こしたのですが、後五分待ってほしいと言われたのです。私も鬼ではありませんから、多忙な平日ならまだしも偶の休日まで睡眠の幸福を奪うのは良くないと考えまして、言われた通り五分間博士の覚醒を待機していたのですが。」

「……あぁ、うん。成程。」

「その後刻限を過ぎても目を覚ます気配がありませんでしたので、随分お疲れなのだろうと思い織物をかけさせていただいたのですが――」

 シリカの口から次々と晒される己の醜態に、今度は保科の方が慌てて話を遮る。

「も、もう良い。大丈夫だ。君の配慮には感謝する。ありがとう。」

 はぁ、と重々しい溜息を吐き出して、椅子にもたれかかる。

 ぼんやりとシミ一つ無い白い天井を眺めていると、段々世界がぐにゃりと曲がったように遠近感が無くなってくるのを感じた。

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