8-1 Figure it Out
あたたかい水の中だった。やわらかく籠った音がどこからともなく響いていて、上下左右の感覚がない。自分がどう呼吸しているのかわからないから、これは夢なのだ、と新田は思う。膝を抱えてうつむいた丸い胎児の姿勢。その体勢がいちばん楽でいられると、どういうわけか知っている。
遠くで人の声がする。懐かしい、よく知った男の声だ。それが呼びかけるのが小さく、しかし確かにこちらに伝わってくる。
「ヒデアキ」
瞼をあげると、水の向こう、硬いガラスの透明な壁をすかして人影が動くのがぼやけて見える。白衣の男がふたり、新田のいる「水」の正面に立っていた。
「……これが例の個体……? 完成したものは存在しないはずだが」
「僕の一存で作ったんだ。この個体は公式には存在しない。人に知られたら免職どころじゃ済まないよ」
新田のほうへ近づいてきた最初の声の男がそう答える。くたびれた白衣に、グレーの体にフィットしたTシャツと黒い細身のパンツ姿で、めがねをかけているのがぼんやりと確認できる。
「これはHI-02-仮にヒデアキと呼んでるけど、僕の最初の成果物だ。美しいだろう。僕の体細胞から樹立した体性幹細胞をもとに作った完全なクローン体だよ」
「光山のクローン? 明らかに違法だ、考えられん」
もう一人の背の高くがっしりとしたシルエットの男のほうが言い募る。それを無視するように、光山と呼ばれた最初の男は続けた。
「この方法がもっと洗練されて実用化すれば、超少子化社会で産めよ増やせよの政策が女性を苦しめることはなくなる。遺伝的多様性は奪われるけど、通常の出生数と数をうまく調整すれば、僕らとクローンとの共生社会が作れると思ってる。今年の新型コロナウイルスの発生と世界的流行で、これからたくさん人が死ぬだろう。そのあとのことを誰かが考えなきゃいけない。それは原にもわかるはずだ」
原と呼ばれた男は沈黙してこちらを見た。光山はガラスに手をついてこちらへ語りかけるように言う。
「ヒデアキ、おまえがこの国の未来の礎になる。僕はおまえを守ってみせるよ」
「……!」
新田の夢はそこで醒めた。全身びっしょりと汗をかいている。小さな常夜灯が足元についた部屋はほとんど調度のない質素なもので、ベッドがふたつと簡単な物入れ、コンピュータの置かれたデスクがあるだけだ。ドアに近い側のもう一つのベッドでは、タオルケットを体に巻きつけてヒカリが規則的な寝息をたてていた。
「夢か」
窓には厚い遮光カーテンがかかっている。起き上がってそれをひいてみると、外は朝ぼらけの美しい霞がかった空で、昨日の激しい雷雨が嘘のようだった。しばらく窓の外を見ながらゆっくりと意識を現実に引き戻す。
電話口でアカリに伝えられたのは、三島市に隣接する長泉町の山裾の住所だった。分子生物学研究所から三十分ほど車を走らせると、田園風景から小高い台地の上の森のようなところに着く。ナビを見るとここで間違いないが、どういう施設や住宅があるのか一見ではわからない。目立たない木陰に車を停めて、研究室から着てきてしまっていた白衣をヒカリの頭に被せた新田は、彼女の手を引いて木立を奥へ駆けた。雨風を受けてざわめいて揺れる木々の中に、唐突にコンクリートの壁と小さな門扉が現れる。新田は濡れそぼったシャツの裾でめがねのレンズを拭うと、目立たぬように設置された小型カメラに並んだチャイムを押した。
「新田です」
「入って」
静かに開いた扉の内側は、先ほどまでの森とは一変した平らな草原のような開けた土地だ。周囲を取り囲むように植え込まれたのはばらかなにかの花卉で、たくさんの大ぶりな花が激しい雨に耐えて震えている。新田はそれに目をやる暇もなく正面のコンクリートの小さな建物に向かった。ヒカリは白衣の下でワンピースを肌に張り付かせ、濡れた頬を上気させて新田の手を握り並んでいる。アカリはふたりの前に静かに現れた。
「タオルがあるから使って。もう大丈夫。ここならCeRMSの人たちは入ってこないわ」
「ありがとう。でも、どうしてです。原さんが僕らを、ヒカリを放っておくはずない」
「説明はあと。まずはその格好をなんとかしなくちゃ。お風呂を沸かしてあるの」
アカリはそう言ってヒカリの頭にタオルを被せてゴシゴシと拭いてやったあと、笑いながら続けた。
「お風呂場は一つしかないから順番に入ってください。それとも、ふたり一緒のほうがよかった?」
着替えを渡され、この寝室というより研究室のスタッフ詰所か入院患者の病室のような部屋を案内されたのは、まだ午後のそれほど遅い時間帯ではなかったはずだ。そこから何時間眠ったのだろう。ヒカリも相当疲れていたようで、今もまだ目覚める気配はなさそうだった。
それにしても、と新田は思う。さっきの夢はなんだったのだろう。夢にしてはあまりに鮮明で詳細だったが、記憶にしては内容がおかしい。
「記憶……」
新田はぼんやりと考える。人に話したことはないが、新田には二十三歳より前、京都で一人暮らしを始めて都路大の大学院に通い出した頃より以前の記憶が実はほとんどない。自分の家族構成や履歴はそらんじることができても、それぞれの年代での具体的なエピソードを明確に思い出すことができないのだ。普段の研究生活の中では幼少期について他人に質問されることはめったにないし、ごくまれな機会がきても、嫌悪感をうっすら示して受け流せば詮索を嫌う人間として片付いてしまう。
「記憶か。そうなのか」
思わず右手で頭を抱えて新田はうめいた。ベッド脇の窓框に手を伸ばし、めがねをかけて部屋を見直す。知っている気がする。この部屋も、あの夢の中の水槽も、その向こうから呼びかけるあの声も、すべて。
「……目が覚めたかい」
顔を上げると、部屋のドアからその声の主が入ってくるのが見えた。黒い半袖シャツに細身のパンツ、ラフなスニーカー姿のその人は、おそらく新田より十歳ほど歳上。やわらかく乱れたグレーに近い黒髪の下、めがねの奥におだやかだが意志の強そうな目を光らせて、白髪混じりの無精髭で微笑む。
「……ヒデアキくん……?!」
いつの間にか隣のベッドに身を起こしていたヒカリが息をのんだ。新田は記憶の底から浮かんだ彼の名前を口にしていた。
「イサオ先生……」
「思い出したようだね。光山功(コウヤマ・イサオ)、懐かしいだろう。ひさしぶりだね。おはよう、ヒデアキ」
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