7-2 Outcast


 ホテルを出た新田とヒカリは、車で国立分子生物学研究所へ急いだ。まだ午前中だが、重たい梅雨空の下は暗く、本格的に雨が降り始めている。どこかで傘を買いたかったが余裕がなく、二人とも髪と肩を濡らしたままだ。三島駅前のホテルから研究所まではたいした距離ではないはずだが、新田にはそこまでの十分あまりの時間も惜しく思えた。

「このまま行って大丈夫なの」

「昨日連絡しておいたから中には入れてもらえると思うけど……」

 多村研への訪問だと告げると守衛の男はとくに気にする風でもなく駐車場ゲートを開いた。頭から突っ込む形でいちばん手近な空きスペースへ停めると、新田は助手席のヒカリの手をひいて雨の中を駆け出した。

 ガラス張りのエントランスは天井が高い吹き抜けの構造で、天井からDNAの二重螺旋を模した金属製のモビールのようなアート作品がさがってゆっくりと回転している。不思議そうに見上げるヒカリをそこに残し、新田は左手の事務のオフィスの小窓を叩いた。

「すみません、多村研に伺うとお知らせしていたものです。CeRMSの新田です」

「多村研に……? 少々お待ちください」

 総務の女性は当惑した様子で内線電話をかけている。しばらく小声で話したあと、受話器を手で覆いながら、

「申し訳ありません、多村研究室にはおつなぎできません」

「どうしてです」

「多村教授から、新田さんにはお帰りいただくようにとの指示で……」

「そんな……、せめて理由だけでも先生の口から聞かなくては帰れません」

「すみませんが、これより先は入構証なしでは入れませんので」

 静かに言い合う新田と女性のうしろから、ヒカリがおそるおそる近づいてきて新田の腕をひく。

「どうしたの」

「ヒデアキくん、あの人が先生?」

 ヒカリがそっと右手で示した先に、吹き抜けの奥の階段を降りてこちらへ歩み寄ってくる男の姿がある。小柄な体躯にややラフな素材のジャケットとパンツを揃いで着込み、ネクタイはないが、きっちり高価そうな腕時計をはめている紳士然とした壮年。いかにも洞察力のありそうな大きな目と、強固な意志を感じさせる広い額のその顔つきは、新田が師事していた頃の面影を濃く残していた。

「……多村先生」

「新田、ひさしぶりだね」

 多村幸介(タムラ・コウスケ)は片手をかるく挙げて呼びかけた。つやのある革靴が、よく磨かれたホールの硬い床をコツコツと鳴らす。その音がヒカリの前で止まり、新田は言いかけた言葉を飲み込む。

「きみが『ヒカリ』か。そうか、こんな美しいものがね……。うん、すばらしい成果だ。新田は私の教え子だけある」

「先生、それならどうして-」

「新田がこの子になにをしたか、我々にはもう報告があったんだ。クローン作出そのものはまもなく適法となる。この子のために法が整備されるのだから。しかし、きみがしたこと、クローンとその親個体本人との性行為は、今後も認められることは決してない」

 多村はあくまで穏やかな口調で諭すように言う。その内容は絶望的に辛辣だった。新田は思わずヒカリの腕を身に引き寄せて庇うようにした。多村はもはや新田に友好的な恩師ではないのだ。

「私たちは実験生命倫理を守る立場だ。きみたちを守ることは、もうできないよ。帰りなさい」

 そう言い残してホールを去る多村の背を、新田とヒカリはただ見つめる。二人の頭上では、銀色の二重螺旋がくるくる回りながら、窓から差した雷光を反射してきらめいた。


 激しい雷雨の中を車へ駆け戻った新田とヒカリは、雨水を髪から滴らせて黙って座っていた。ヒカリは雨の混じった涙を頬に伝わらせ、無言で目を見開いて前を向いている。新田は少ない荷物からハンドタオルを出すと、ヒカリの目元や頬を拭う。ヒカリは子供のようにされるがままで強く目をつむった。

「ヒデアキくん、どうするの、これから」

「逃げるしかない。ここにはさっきの追手が必ず来るから」

「でも、逃げるって、どこへ」

 どこにも当てはない。どこにも隠れる場所はない(There is no place to Hide)。もはや多村研究室にヒカリを保護してもらうことも、HICALIプロジェクトを告発してもらうこともできない。ヒカリの存在が公になればCeRMSの存続も危うくなるが、そもそも国家機密であるHICALIプロジェクトのすべてが外部に公表されることは考えられそうになかった。その前に関係する機関や組織が廃止や改組によって存在しないことになったり、関係者が内密のうちに処分されたりするのだろう。ヒカリは貴重な成果物だから原たちは必ず「回収」しにくるはずだが、新田については生かしておくほうが問題になるはずだ。新田はある程度最初から自分の行く末を覚悟していたものの、今となってはヒカリと別れることが耐えがたかった。

「……そうだ」

 急にヒカリが泣きやんで声をあげる。新田のスマートフォンを取り上げてしばらくいじったあと、操作がわからないらしく新田へ押し戻して口早に言い募った。

「アカリちゃん、アカリちゃんに電話をかけて。あの子ならわたしがCeRMSから来たって知ってる」

「どうしてあの子が」

「いいから、今は早く」

 ヒカリがそらんじる番号で新田が発信する。数コールで相手が出た。若い女性の、ヒカリとまったく同じ声。

「はい」

「新田です。ヒカリの……」

 続く適切な言葉が思い当たらず、新田は言い淀む。電話の相手は小さな声で、ふふ、と笑って応じた。

「『ヒデアキくん』ですね。待っていました。まずは私たちのところに匿います。急いで」

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