7-1 Outcast

 神戸市は朝から激しい雨に降り込められていた。サイエンス・リバティ、CeRMS総合研究棟五階のオフィスの窓には強い風が雨水を叩きつけていて、外の様子は滲んでよく見えない。出水倫治は窓から視線をはずして正面に向き直る。眼前のデスクの向こう側で窓を背にして原賢治が座していた。

「岸音葉はどうしてる」

「基礎研の談話スペースに。俺が話を聞いたので、用件はほとんど済んでます」

「そうか。ならいい」

 原はかるく頷いて目をつむる。音葉がここへ来るのは彼の計算のうちだ。

 音葉はこの日の午前中に車でCeRMSにやってきた。昨日の新田とHI-44の逃走に手を貸したその足で来たのだろう。ほとんど眠っていないらしい充血した目は、しかし傍目にもそれとわかるほど怒りを含んで潤んでいた。

「新田さんの研究は、HI-44はいったいなんなんです? あの個体は新田さんの細胞からできたクローン体なんでしょう? こんな研究を擁護することは私たちの研究室にはできません」

 基礎研究チームの代表者として応対した出水に、音葉はそう言い募った。出水が黙って曖昧に頷いて言葉を促すと、音葉は耐えかねたように強い語気で言った。

「それ以上に、私が許せないんです。あのふたりには性的関係がある。クローンとドナーがそんなこと、考えられない。どうかしています。人間のしていいことじゃないでしょう。あの人たちを逃がしてはいけない」

 音葉の来訪によって、原と出水は新田が三島駅前にいることを把握した。個人的なつてで雇った警備会社の人間を向かわせたのち、原は音葉を通じて彼女の上司の許准教授と、分子生物学研究所の多村教授に連絡を取っていた。新田たちの滞在先で身柄を確保できればそのまま神戸へ連れ戻すが、逃げられた場合でも退路を断つためだ。

「分生研はこちらの予測通りの対応ですよ」

「ああ。多村は新田を受け入れない。あの研究室はHI-44の保護を拒否する」

「多村さんは実験生命倫理学の第一人者ですしね。新田が自分の実験体と、まして自身のクローン個体とセックスしたなんて聞いたら味方につくはずがない」

 出水は表情のない白い顔でそう答えながらめがねを押し上げた。原はそれを見やって、こちらもまったくの無表情で淡々と問う。

「出水は新田をどう誘導したんだね」

「ちょっと背中を押しただけです。新田はもともとあれに情が移りすぎていたんで」

 出水が口元だけでかるく笑みをつくる。雨音がさらに強くなって、続く原の返答をしばしの間かき消した。


 ホテルを出た新田とヒカリは、車で国立分子生物学研究所へ急いだ。まだ午前中だが、重たい梅雨空の下は暗く、本格的に雨が降り始めている。どこかで傘を買いたかったが余裕がなく、二人とも髪と肩を濡らしたままだ。三島駅前のホテルから研究所まではたいした距離ではないはずだが、新田にはそこまでの十分あまりの時間も惜しく思えた。

「このまま行って大丈夫なの」

「昨日連絡しておいたから中には入れてもらえると思うけど……」

 多村研への訪問だと告げると守衛の男はとくに気にする風でもなく駐車場ゲートを開いた。頭から突っ込む形でいちばん手近な空きスペースへ停めると、新田は助手席のヒカリの手をひいて雨の中を駆け出した。

 ガラス張りのエントランスは天井が高い吹き抜けの構造で、天井からDNAの二重螺旋を模した金属製のモビールのようなアート作品がさがってゆっくりと回転している。不思議そうに見上げるヒカリをそこに残し、新田は左手の事務のオフィスの小窓を叩いた。

「すみません、多村研に伺うとお知らせしていたものです。CeRMSの新田です」

「多村研に……? 少々お待ちください」

 総務の女性は当惑した様子で内線電話をかけている。しばらく小声で話したあと、受話器を手で覆いながら、

「申し訳ありません、多村研究室にはおつなぎできません」

「どうしてです」

「多村教授から、新田さんにはお帰りいただくようにとの指示で……」

「そんな……、せめて理由だけでも先生の口から聞かなくては帰れません」

「すみませんが、これより先は入構証なしでは入れませんので」

 静かに言い合う新田と女性のうしろから、ヒカリがおそるおそる近づいてきて新田の腕をひく。

「どうしたの」

「ヒデアキくん、あの人が先生?」

 ヒカリがそっと右手で示した先に、吹き抜けの奥の階段を降りてこちらへ歩み寄ってくる男の姿がある。小柄な体躯にややラフな素材のジャケットとパンツを揃いで着込み、ネクタイはないが、きっちり高価そうな腕時計をはめている紳士然とした壮年。いかにも洞察力のありそうな大きな目と、強固な意志を感じさせる広い額のその顔つきは、新田が師事していた頃の面影を濃く残していた。

「……多村先生」

「新田、ひさしぶりだね」

 多村幸介(タムラ・コウスケ)は片手をかるく挙げて呼びかけた。つやのある革靴が、よく磨かれたホールの硬い床をコツコツと鳴らす。その音がヒカリの前で止まり、新田は言いかけた言葉を飲み込む。

「きみが『ヒカリ』か。そうか、こんな美しいものがね……。うん、すばらしい成果だ。新田は私の教え子だけある」

「先生、それならどうしてー」

「新田がこの子になにをしたか、我々にはもう報告があったんだ。クローン作出そのものはまもなく適法となる。この子のために方が整備されるのだから。しかし、きみがしたこと、クローンとその親個体本人との性行為は、今後も認められることは決してない」

 多村はあくまで穏やかな口調で諭すように言う。その内容は絶望的に辛辣だった。新田は思わずヒカリの腕を身に引き寄せて庇うようにした。多村はもはや新田に友好的な恩師ではないのだ。

「私たちは実験生命倫理を守る立場だ。きみたちを守ることは、もうできないよ。帰りなさい」

 そう言い残してホールを去る多村の背を、新田とヒカリはただ見つめる。二人の頭上では、銀色の二重螺旋がくるくる回りながら、窓から差した雷光を反射してきらめいた。

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