6-2 Speak Out to me
翌朝の朝食会場で、初めて見るバイキング形式の設備にヒカリは顔を輝かせた。
「好きなものをとっていいのね?」
「食べられる量ならね」
ヒカリが見上げる視線をかわして新田はあらぬ方向をむく。昨夜を思うとまともに顔を合わせられたものではない。ヒカリ本人はまったく意に介していない様子で、うれしそうに食事の並ぶテーブルに駆け寄った。
「……まったく、なにをやってるんだ僕は……」
新田は後ろ髪を掻き回しながらヒカリのあとを追う。ヒカリには本心を隠し通したり、相手のためを思って嘘をついたりするほど複雑で迂遠な精神構造はないはずだ。それなら新田の前に示される彼女の表情やしぐさ、言葉、息遣いやかすかな身体からの気配、そういったものがヒカリの思いのすべて、見えているものが全部なのだ。それでも新田はわからないと感じる。これがヒカリのためになっているのか、自分がヒカリの幸せを手引きしてやれているのか、まったく自信がない。
上の空で皿に盛り合わせた朝食は、実演調理の様子がほとんど目に入らなかったオムレツに、焼き鮭と釜揚げしらす、ロールパン、焼き海苔、ヨーグルトという散漫な取り合わせだ。向かい合うヒカリはとにかく何もかも食べてみたいらしく、目についたものをひと匙ぶんずつ大皿に乗せて箸でつついていた。
「これなんだろう。おいしいかな、甘いの? パンにつける? パンってどれ?」
「僕のをあげようか……しかし、朝からよく食べるね」
「おなかが空いたの! こんなにいろんなことがある日ははじめてだから」
「……そう」
新田はめがねを押し上げながら思わずうつむいた。席を立ってコーヒーマシンに向かうと、サーバから熱いコーヒーをカップへ注ぐ。手が震えて、こぼさないようにするのに苦労した。
「わたしもコーヒー飲みたい!」
「ヒカリには早いよ……、繰り返し飲むうちだんだんおいしく感じるものだから」
「じゃあ今のこれが一回目ね」
ヒカリが笑いながら新田の手元のカップをさっと自分の前に引き寄せる。言い負かされるのが意外だが、「生みの親」としてはうれしいような気もする。新田は顎の無精髭を撫でて嘆息した。
熱いコーヒーを冷ましているヒカリに目をやりつつスマートフォンを確認すると、出水からのメッセージに気づく。出水は表向き原の指揮下で新田の捜索に参加しつつ、連日CeRMSや統合研の情報をこちらへ報告していた。
「切林が岡崎で救急搬送された。統合研の敷地で意識がないのを保護されたらしい」
「へえ」
「おまえだな」
一瞬の間もない返信に苦笑しつつ、新田は短く返す。
「知らないよ」
「そういうことにしとくけどさ」
出水のメッセージは本人のふだんの無表情そのままに感情の変化の表現というものがない。そういうところがときに繊細にゆれやすい新田の気に入っていた。
「三島まで来たよ。多村さんに会う」
「原さんの指示でもうこっちから追ってる」
「ヒカリさえ分生研に引き渡せればいい。僕は原さんに捕まるさ」
そう返信してスマートフォンをポケットにしまう。夢中になってコーヒーをちびちびと啜っていたヒカリは、思ったほど苦くないね、とうれしそうに新田に笑いかけた。
温泉に入りたいとごねるヒカリに新田が折れて、二人はチェックアウト前に大浴場に来ていた。自分で言っておきつつ、追いかけてくる人がいるから急いで逃げているはずなのにいいのだろうか、とヒカリは思ったが、
「もう分生研には人が着いてるだろうし、どのみち捕まるなら最後に楽しい旅行気分でも味わおう」
と新田はのんびりした口調で言う。
ヒカリは脱衣所で入浴方法の説明の掲示を真剣に読み、薄いタオルを片手に浴場へ入った。
「わあ」
やわらかい湯気の吹きつけるなか、研究所の職員寮やホテル客室のユニットバスとは比べものにならない大きさの湯船に目をみはる。「外」の生活を始めてすぐに、ヒカリは風呂というのが気に入った。あたたかい液に満たされた培養槽の中を思い出して安心するのだ。すぐにでも大きな岩風呂の温泉に飛び込みたいが、まずは体と髪を洗わないとならないことを思い出して向き直る。鏡の並ぶ洗い場には髪を洗っている先客が一人だけあった。女性がこちらをちらっと一瞥する姿に、ヒカリは思わず短く声をあげる。
胸下までの長い黒髪の若い女。細い手足に薄い胴体の、まだ子供の雰囲気を残した体つきに、目頭の深く切れ込んだいつも微笑んでいるような目と、丸くつやのある頬のその人は、まさしくヒカリにそっくりだった。
「え、そんな」
「……あなたは」
二人は顔を見合わせて同時に言う。重なる声の色も同じで、ヒカリは思わず身を乗り出した。
「あなた、HI-44でしょう。私たち、あなたが分子生物研究所に来るっていうから探していたの」
「どうしてわたしのこと知ってるの?」
「それは追って話します。私はアカリ。あなたの友達になれるはずよ」
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