6-1 Speak Out to me

 音葉の運転する統合研の白いセダンは、岡崎I.Cから新東名高速道路に入った。徐々に暗くなっていく空の光の名残からより遠ざかるように東へと向かう。ヒカリはキャリーケースと並んで後部座席にかしこまって座り、黙って窓の外を見ている。肩までの髪はハーフアップにまとめて、いつか佐原が選んで買い与えた、グレーの五分袖のリブニットに細いブルーデニムを合わせてきている。これなら市街地に出たとしても、ごく普通の若い娘に見えるだろう。

「オトハさん、これからどこにいくの」

「三島の国立分子生物学研究所の多村先生のところ。新田さんの大学時代の恩師なんですって」

「その先生、やさしい?」

 音葉は意外な問いかけに虚をつかれ、少し笑って応える。

「そうね……、ヒカリさんのことはよくご存じのはず」

「そう。ヒデアキくんの先生だったらきっといいひとだね」

 トンネルに入り、車内が真っ暗に景色と一体化する。白と橙のライトの光が、窓の外を流れて軌跡を残した。ヒカリがそれを珍しそうに見上げて息をつくのを、音葉はミラー越しに見た。

「……ヒカリさん」

 言いかけた矢先、助手席で音葉のスマートフォンが振動して着信を知らせる。新田からだった。

「岸さん、僕も岡崎インターから高速に乗ってます。どこかで合流しましょう」

「私は分生研にこのまま行けます。あと三十分もあれば着くわ」

「直接行くのはあなたが危ない。僕がヒカリを預かります。岸さんはなにも知らないことにして、統合研へ帰ってください」

 新田がゆっくりと言う。ヒカリは新田の声が聞こえるのがうれしいらしく、ドライブモードのスマートフォンを目を輝かせて見つめている。

「でも、新田さんを探しにきたCeRMSの人とはどうなったの? 新田さんのことは神戸へ連れていくつもりだったんでしょう」

「ああ……、彼なら大丈夫です、僕が話をつけました」

「そう、それならいいけど……、じゃあ次の沼津のサービスエリアに寄って待ってます」

「ええ。僕はもう少しかかるので、着いたらまた連絡しますね」

 通話を終えると、車内はしんと暗く沈む。音葉は沼津P.Aの表示にウインカーを点滅させた。ヒカリは運転する音葉のほうへ身を乗り出して問いかける。

「オトハさん、さっきはなにを聞こうとしてたの」

「え? ああ、そう、話の途中だった」

 音葉はかるく頭を振って顔まわりの髪を払う。こんな質問はヒカリ本人にしか、訊けない。

「ヒカリさん、あなたは……、あなたと新田さんは、どういう関係なの? ただの研究対象ではないんでしょう」

「わたしとヒデアキくん?」

 ヒカリが不思議そうに返すのが音葉をいらだたせた。恋人にしては歳が離れすぎているが、新田がヒカリを研究するうちに恋仲になったとか、あるいはそもそもそういう仲の女性がどういうわけか被験体になったとか、そんなところだろうか。ふつうの研究対象との距離感だとは、音葉には思えなかった。

「ヒデアキくんは、わたしだよ。わたしは、ヒデアキくんからできてるの」

「……なにを言ってるの?」

 音葉は息をのむ。ヒカリがきらきらと星屑を散らすような笑顔で話すのを、駐車場に車を停めた音葉は、まじまじと振り返って見る。

「わたしたちは同じ人間。わたしはヒデアキくんの遺伝子改変個体だから」


 新田が着いた頃には、沼津サービスエリア内はほとんどのフードコートの店舗が閉まり、二十四時間営業の売店と自動販売機の灯りだけが眩しい休憩スペースには人の姿もまばらだった。大型車の駐車スペースに面した大きなガラス窓の前のベンチに、紙カップのコーヒーを両手で抱えてジャケットを羽織った音葉と、それにもたれるように座ったヒカリの姿がある。ほとんど眠ってしまっているらしい。

「岸さん、ヒカリ」

「新田さん!」

 音葉が振り返った拍子に、ヒカリの頭がその肩を滑り落ちる。ヒカリは、わあ、と声をあげて目を覚まし、ここがどこだかわからないという顔をして周りを見回した。

「ヒデアキくん! きてくれたんだ」

 ヒカリが笑顔で新田に向けて両手を伸ばす。なんのてらいもないその仕草に、新田は一瞬まごついてから、左手でヒカリの髪をくしゃくしゃと撫でた。ヒカリは立ち上がって、軽い足音を立てて新田のまわりに円を描くように駆ける。

「ほら、これでなにか飲み物を買っておいで。僕のコーヒーも頼むよ」

「はあい」

 ヒカリが自動販売機に走り寄っていくのを見ながら新田が言う。

「岸さん、ここまでありがとう。巻き込んでしまって申し訳ありません。今から帰って大丈夫かな」

「二時間くらいで戻れますから」

 音葉は新田の顔を見ない。ヒカリにも視線を向けず、窓の向こうで真っ暗な駐車場に停車した夜行バスが乗客たちをぱらぱらと吐き出すのを眺めている。

「そうか。気をつけて。僕はヒカリと行きます」

「ヒカリさんが、新田さんのいちばん大事なものなのね」

 思わずなにかが溢れるように音葉が口にした。新田は眉を上げて自分の後ろ髪をかき回す。音葉がなにを思っているのか整理がつかないのだ。

「ヒデアキくーん! いこう!」

「うん」

 飲み物を持ってドアのあたりで呼びかけるヒカリの声は明るかった。新田はかるく手を振って応えると、立ち上がって音葉に背を向ける。

「これからどこへ?」

「宿をとりました。ビジネスホテルしかなかったけど」

「……そう」

 音葉はすっと顔色を失って、荷物をまとめて立ち上がった。首をかしげる新田の前を足早に去る。ヒカリとすれ違いざま何か声をかけたようにも見えたが、新田には内容まで聞こえない。淡いベージュのジャケット姿は、駐車場の闇の中へ一瞬で溶け込んで見えなくなる。彼女がベンチに残した紙カップからは、半分以上残った飲みかけのコーヒーがまだやわらかい湯気をたてていた。


 新田は三島駅前のビジネスホテルの地下駐車場で車を停めた。建物はそれほど新しくないが、最上階に天然温泉の大浴場を備え、バイキング形式の朝食も出る観光客にも対応した宿だ。当日に申し込んだので部屋の選択肢がなく、二十室ほどのツインは満室だった。仕方なくとったダブルの部屋を前に、新田はさすがに落ち着かず、荷物をおろして狭い部屋の中をうろうろと歩き回る。

「今からでももう一部屋とったほうがいいんじゃないかな」

「どうして? なにがだめなの?」

「そりゃあその、ダメだろう、若い女性と僕みたいなのが同じ布団で寝るなんて……」

 新田が口ごもると、ヒカリはけらけらと笑いながら、部屋いっぱいのサイズのベッドの上で白い羽根布団を体に巻きつけた。布団の中から頭だけ出して新田を見つめる。

「いいんだよ。わたしはヒデアキくんのことが好きだもん。ヒデアキくんはわたしのこと好きじゃないの?」

「いや、それは」

「好きなひとになら、わたしの身体の大切なところを明け渡してもいいんでしょう? わたしもそれは勉強した。大人になるのならって、マナツさんが内緒で教えてくれたんだ」

「それはまあそうだけど……、僕とヒカリは-」

 ヒカリが布団を跳ねてベッドから飛び降りる。裸足のまま新田の元へ駆けた勢いで、両腕で思いきり抱きついた。新田はそれを受けとめる形で抱きかかえてしまってから、とっさに腕を引きそうになった。いつかの出水との通話を思いだす。出水の少し籠った早口の声。

 ヒカリを幸せにするためにここまでしてるんだろ。それならヒカリの意思を最大限尊重してやれよ。

 新田は長く息をついた。覚悟を決めて、ヒカリを抱く腕に力を入れる。わずかに身を離すと、ヒカリが不思議そうに新田を見上げている。その髪を片手で梳いて頸をかるく引き寄せた。新田はきつく目をつむる。その一瞬の口づけに、ヒカリの体がぴくりと跳ねるのが腕から伝わってくる。

「……ヒデアキくん」

「ヒカリ、いいね。僕はもう決めた」

 ヒカリは新田の腕の中で、真夜中の月下香のようにやわらかく匂いたつ笑顔をみせた。新田は少し驚いたあと、ゆっくりと自身も微笑む。ヒカリは新田の肩越しに、壁のケースへ刺してあったオートロック用のカードキーを抜く。キーケースが部屋の主電源スイッチがわりになっているのだ。一瞬で真っ暗になった室内で、ヒカリを抱えたままベッドへ倒れ込みながら、頬を寄せる彼女の小さな声を新田は聞いた。

「ヒデアキくん、大好き」

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