5-3 Outflow


 音葉が慌てて研究室玄関に向かうと、オートロックドアの向こう、エレベータホールで許と瀧本が来客者と話し込んでいる。めがねをかけた小柄な若い男は、カジュアルシャツにチノパンツという服装で、明らかに外回りの営業や事務方の人間ではない。研究系のスタッフが直接来ているのだ。

「新田さんがおられるんでしょう。私は話し合いに来てるんです。別に手荒な真似はしません」

「いえ、だからそのような方はうちの研究室には」

「ラボの中を見せていただくだけで構いません。ひとまわり確認したら帰ります」

 男は柔和な物腰で淡々とそう言う。音葉がドアからホールへ出たのと入れ替わりに入ってこようとするので、許が仕方なく体で受けて無理に引き留めた。

「できません。機密事項があります。関係者でなくては」

「なんですか、このラボは来客も受け付けないと?」

 こんな応対をしているのが所内の他の研究室の人間に見られたら大ごとになる。形だけでも中へ入れてやらないと、と焦る音葉の前で、ドアが開いてこちらへ声がかかった。

「切林、僕ならここにいる」

「新田さん!」

 新田はTシャツとジーンズに白衣をはおったいつもの姿で、片手をあげて眉を下げた。

「僕のことなら好きなようにすればいい。ここのラボに迷惑はかけられないよ。外で話そう」

 切林と呼ばれた男は言葉を飲み込んで引き下がる。ヒカリがどこにいるのか知りたいに違いないが、新田が出てきた以上は研究室に押し入るわけにもいかないと判断したのだろう。

「……岸さん、ヒカリを頼む」

 すれ違う一瞬、音葉に顔を寄せて新田が囁いた。音葉はかるくうなずくと、研究室内へ駆け戻る。居室のディスカッションスペースでは、事態が飲み込めないでキョトンとしているヒカリの傍らで、佐原が大きな荷物をまとめはじめていた。

「真夏、どうするの」

「ヒカリだけでも分生研の多村さんに引き渡せって、新田さんがさ。本人がどうすんのかわかんないけど、とにかく車出すよ。この子ひとりにするわけにいかないし、安全なところへ引き渡すところまではこっちがやんなきゃ」

 佐原は大量の実験データのバックアップをおさめたハードディスクとともに、ヒカリの当面の生活に要りそうな衣類や衛生用品、情緒教育のために用意してあった文庫本や、ラボのメンバー用の菓子の小袋までキャリーケースに詰めている。ヒカリはよくわからないままにそれを横で手伝っていた。

 音葉は白衣を脱いで所用車の電子ロックキーを壁のラックから取り出す。

「私が行く」

「音葉! 大丈夫なの」

 佐原が言外に、ヒカリと音葉とで二人きりで行動して平静でいられるのかと訊いているのはわかっていた。

「……新田さんに、頼まれたから」

 音葉がそう言うと、佐原は珍しく真剣な表情で頷く。荷物を抱え上げると、もう片方の手でヒカリの手をひく。研究室のいちばん奥にある荷物搬入用エレベータへキャリーを乗せた佐原は、ヒカリをそっと抱いてつぶやいた。

「よし。ヒカリ、いってらっしゃい。音葉の言うことちゃんと聞きなよ」


 新田と切林は研究棟の一階まで降り、ホールのフリースペースにあるテーブルについていた。来客者との簡単な打ち合わせや職員同士の談話などに自由に使えるものだが、今は利用者がおらず閑散としている。

「新田さん! どうしてこんな……、HI-44を逃がすなんて無理です。原さんにバレないわけないでしょう」

 切林は許研究室をあとにして新田と二人きりになると、緊張を解き大きく息をついて捲し立てた。

「こういう事態になったら僕は原さんのところへ頭を下げて帰るさ。ヒカリが保護されれば半分は目的達成だ」

「スキャンダルになりますよ。法的整備が完全に済んでからあの個体を公開するはずだったのに。いま事態が明るみに出たら、新田さんは罪に問われます」

「当然だろう。僕もそれは承知の上だ」

 新田はそう言うと眉を八の字にして笑う。悲しいときに笑顔をつくる癖があるのは新田自身にも自覚があった。

「ええと……、じゃあ今、HI-44はどこに」

「スタッフに託した。もう所外に出ているはずだよ」

「そんな……、原さんになんて言おう」

 切林がそうつぶやきながら、荷物をまとめて立ち上がる。新田はそのあとに続いて研究棟を出ると、薄暗い木立のなかの道を歩いた。駐車場のまでの道、早くに梅雨入りした五月末の一瞬の雨止みで、地面も草木も湿っている。植え込みのツツジが真っ赤な花弁をひらいて、甘露を受ける舌のように、雨粒を載いていた。

「切林が来た時にはヒカリはいなかったことにするとか」

「うーん……」

「--あるいは、切林はCeRMSにはしばらく戻らない」

「え?」

 切林が目を見開いたその横顔に、新田がいつの間にか片手で抱えていた鞄が振り下ろされる。軽量ナイロンの大型ショルダーバッグには、新田のいつもの荷物のほかに、電子天秤の校正用の鉛の錘が仕込んであった。側頭を殴られて地面に倒れ込む切林の上に馬乗りになると、小さなアンプルから出した薬液を瞬時に腕へ注射する。大動物実験用の麻酔薬を研究室から無断で持ち出してきていたのだ。

 新田はそのまま切林を抱えて引きずると、駐車場に泊めてあった自分の車の後部座席へのせた。ヒカリを搬送してきたときの隔離チャンバーがそのまま残っている中へ入れる。

「切林には申し訳ないけど、ヒカリと離れているのはやっぱり無理なんだ。僕も彼女と行くよ」

 そうつぶやいて、新田は静かに車を発進させた。

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