5-1 Outflow
二週間の検査と実験のプログラムが進行するなか、音葉はヒカリの心理面や感情面の発達サポートにも着手していた。ヒカリの脳内にはあらかじめ記録チップが組み込まれており、それを通じてある程度外部からの情報入力や操作が可能になっているが、情緒についてはまだほんの子供の状態で「生まれて」きた。新田がチップへのアクセスを厳重に規制していることもあり、感情教育は人間が対面で手ずから行ってやるよりほかない。
「それにしてもヒカリはめちゃくちゃ吸収が早い」
「そう? マナツさんはいつも褒めてくれるね」
「どういう脳みそになってんだか研究しがいがあるよ。この一週間だけでもずいぶん大人になったなあ」
佐原はそう言いながらノートパソコンを閉じると、大きく伸びをして唸った。隣では、音葉ともう一人、許研究室の三人目のポスドクである瀧本日暮がタブレットに今日の面談のデータを記録している。瀧本は臨床心理士資格を持ち、児童心理や情緒の発達が専門の研究員だ。窓際の椅子に並んだ三人の研究者を、向かい合って着席したヒカリがまっすぐ見つめる。カウンセリングに使った小部屋は窓が大きくとられ、研究棟に接するように植えられた木々の若葉が萌える明るい緑色がよく見えた。
「そうだ、そろそろヒカリも外に出ていいってさ。ラボじゃ狭いし、職員寮の一部屋を貸してくれるらしいよ」
「わあ、じゃあ、もうみんなみたいなご飯も食べられる?」
「そうね、そろそろ通常食でいいはずです。ヒカリさんの部屋には、こちらから管理食の配送をするから」
音葉が応えると、佐原が荷物をまとめてヒカリの元へ歩み寄る。
「よし、ヒカリの部屋の準備するよ。一人暮らしは初めてだからね、生活のしかたもわかんないでしょ。マナツ先生が指導してやる」
「部屋の備品はだいたい居室に届いてると思うけど、あとはそうね……、衣類とか、衛生用品かな」
「オトハさんも来て! わたしのお部屋なんでしょう、うれしいもの。みんなに見せたい」
ヒカリは輝くように笑んで音葉の左手をひく。その穢れなさに一瞬動揺した音葉は、思わずぐっと言葉に詰まる。
「お洋服欲しいな、あのね、今日読んだ本に出てきた服がかわいかったの」
「通販のサイト見よう。経費で落としちゃうからね」
佐原と音葉に左右を囲まれて、ヒカリはそのすべてを信頼しきっているように見える。音葉はなるべくその表情を見まいと目を伏せた。
「見て、ほら、わたしのお部屋」
研究室の一角を借りて自分の研究を進めていた新田を、ぐいぐいと引っ張るように自分の部屋へ連れてきたヒカリが笑う。職員寮の新田と同じフロアのワンルームは、許研究室のスタッフたちの手で整えられ、最低限の単身生活が営めるようになっていた。
「すごいね……、ずいぶん立派にしてもらったじゃないか」
まるで「普通の女の子」の部屋みたいだ、とは口に出さずに留める。ヒカリは新田の手をひいて室内へ導くと、小さなローテーブルとクッションのあるラグの上へ座ってニコニコと喜んでいる。なにがそんなにうれしいのか、新田にはよくわからない。ラグのどこに身を置いたものか計りかねて、新田は壁に背をつけるように座った。
「ヒデアキくん、CeRMSではガラス越しに見てお話を聞いてるだけだったし、ここに来てからもわたしはラボから出られなくてあまり会えなかったでしょう。ずっとこうしたかったの、うれしいな」
「ああ……、そうか、そうだね」
「いつも話しかけてくれていたのは、わたし、わかっていたけど応えられなかった。やっとゆっくりお話できる」
「うん」
自分の声が掠れるのを新田は自覚する。ヒカリが安心しきったような、甘えたような視線でこちらを見る。ヒカリの視線にはいっさいのブレがなく、いつでもまっすぐで、それが時として相対する人間に強い力を及ぼした。
「ヒデアキくん、もっとこっちに来て」
「ヒカリ」
だめだ、と続けようとしたと自分では思っていたが、実際ヒカリの耳にどう響いたのか新田にもわからない。釣り込まれるように上体を起こした新田の胸に、ヒカリの小さな体が飛び込んできた。
「ヒカリ!」
「ずっとこうしたかったんだもん」
ヒカリは新田の肩を抱きしめて胸に顔を埋める。新田は抱き返してやっていいのか判断できず、かといって振り払うこともできないでいる。身動きしないままで息だけが浅く早まっていく。
「ヒデアキくん、わたしーー」
「だめだ、ヒカリ、いけない……、僕は」
「どうしてだめなの? こういう感情のことを『好き』っていうんでしょう?」
新田は泣き笑いの表情になってヒカリを強く抱いた。ヒカリの感情教育など依頼しなければよかったのだ。ただでさえ許されない実験で彼女を生み出した自分が、そのクローンと、由来になった細胞の人間自身、ふたりの「同一人物」どうしでこんな感情を持つなんて。
「ヒデアキくん、泣かないで」
ヒカリが新田の顔を覗きこみ、頬と無精髭を濡らす涙を指で拭う。新田はめがねが汚れるのも構わず涙の流れるままにしている。その頭頂に顔を埋めるように、ヒカリは自分の小さな胸で精一杯新田を抱きしめた。
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