4-2 Hideout


 ヒカリが目を覚ます。明るい朝だ。カーテン越しに陽光がさして、ベッド脇で論文を読みながら付き添う新田のめがねに反射していた。ヒカリとはじめて会話するのだと思うと、新田はなんと声をかけていいかわからない。

「……ヒデアキくん!」

 しばらく視線をさまよわせていたヒカリは、目の前にいるのが新田とわかると短く叫んで身じろぐ。新田はようやく緊張をといて顔をほころばせた。

「はは……、僕のことそう呼んでたのか。知らなかった」

「なんで外にいるの? わたしのインキュベータは? もうハッチしていいことになったのね?」

「うん……、僕が勝手に連れてきちゃったんだ。しばらくここに隠れさせてもらうんだよ」

 新田は小さな子供に教え諭すようにゆっくりと言う。ヒカリは最低限の発話や思考ができる程度には脳神経系を調整してあったが、これから感情面の教育をしてやる必要がありそうだった。岸音葉を信頼していいかはわからないが、潜伏との取引の都合上、彼女にその辺りの協力や助言を仰ぐことになるだろう。

「そろそろ経口で液体を摂ってもいいか。ほら、飲めるかい」

 ペットボトルの蓋を開けて手渡してやる。上体を起こしたヒカリは、少し零しながらもゆっくりと水を飲み込んで目を丸くしている。喉越しや冷たさがおもしろいのか、しばらくニコニコと笑って繰り返した。国産のミネラルウォーターなら滅菌してあるから大丈夫だろう。

「僕は職員寮の部屋を借りてるから、少しそっちへ行くけど……。岸さんを呼んだからちょっと待ってて」

 チャットアプリで岸を呼び出すと、まだ九時前だがラボに出ていると返信があった。ヒカリはいかにも不満げに眉を寄せて新田のシャツを掴む。

「わたしもヒデアキくんと一緒に行く」

「まだ早いよ。少しずつ外に慣らしていくんだ。じきこの部屋からも出られるようになる」

「本当? そしたらわたしも連れていってね」

「いい子にしていたらね」

 新田は思わずそう言ってヒカリの頭に手をやっていた。ヒカリは子犬のように目を細めてうれしそうに新田を見上げる。新田は自分の行動と、ヒカリからの屈託のない信頼とに驚いてしばらく呆然とした。

「……新田さん」

 ふいに声をかけられて振り返る。ビニールカーテンの向こうの戸口に、岸音葉の姿があった。

「ああ、すみません。ヒカリの意識が戻って、しばらくは覚醒状態にありそうなので」

「新田さんは寮でしばらく休んでください、昨日から寝てないんでしょう? ここでは食事もできないし、寮はお風呂もありますから。着替えはちょっと街まで買いに行かないとならないけど」

 そう言いつのる彼女に押されるように部屋を出る。うしろからヒカリの視線がいつまでもついてくるのを感じながら、新田には振り返る暇が与えられなかった。


 研究所の敷地内には木立に囲まれたアパート式の社員寮がある。研究の性質上頻繁に実験室に顔を出す必要のあるものや、自宅が遠くて通勤が困難なもの、また新田のように特殊な研究に関わっていて身元を特定されたくないものに貸与されているという。空き部屋を急遽借りた新田は、掃除や整備がされていないのも気にせずシャワーを浴びると、床にへたりこんで大きくため息をついた。

「はあ」

 ヒカリを保護してもらう予定だった分子生物学研究所にはしばらく行けそうにない。生命倫理や医療における人権問題を研究テーマにする多村教授に、HICALIプロジェクトそのものを海外の有名雑誌に告発する論文を準備してもらっていたが、それが外部に知られてマークされたのだろう。原賢治が手を回したに違いない、と直感的に思う。

「……ここにもいつまで隠れていられるものか」

 新田の洗い髪から滴り落ちる水が、埃っぽいフローリングに散ってあとを残す。そのままくずおれるように床で眠り込んだ彼を、間に合わせのカーテンの隙間から初夏の光が強く照らしていた。


「新田さん、今日からのHI-44の検査と実験の日程です」

「脳波や面談による検査はわかりますが、CTやMRIもとるんですか。ここで?」

「霊長類用の大型機器を揃えてるラボに借りるんです。人間用の医療機器はさすがにこの研究棟にはないから」

 音葉はそう言って髪を耳にかけて首をかしげた。研究室のディスカッション用のテーブルで向かい合った新田は、書面に目を通しながら眉根を寄せている。いくらHumanとはいえ、HI-44は彼の研究対象の個体だ。情が移りすぎているのが気になっていたが、音葉にもそれをあからさまに指摘しないだけの温情はあった。

「できるだけひとりの人間として扱ってもらいたいんです。ヒカリにも僕らの話す内容や非言語コミュニケーションは伝わります」

「……善処します」

 そう応えて音葉はかるく微笑みを作る。立ち上がって書類をまとめると、新田の背後、部屋のスライドドアを開けて小柄な姿が滑り込んできた。

「ヒデアキくん!」

 この日の夕方から無菌的な処置が必要なくなったHI-44ーー「ヒカリ」だ。外の環境に慣れるため、許研究室のあるこのフロアの半分のエリア内を自由に行動させることになっていた。

「ヒカリ、その服と……その髪どうしたの」

「オトハさんにもらった。おさがりだって。髪はマナツさんに切ってもらったの、いいでしょう」

 くるりと一周して白いIラインのワンピースを見せるヒカリを、新田が目を丸くして眺める。ヒカリを追って廊下から長身の女性が小走りに入ってくると、

「ヒカリ! 勝手に行っちゃだめだよ、まだ髪の毛ちゃんと落としてないんだから」

 と息を切らして言い募った。彼女はポニーテールの房を揺らして顔をあげ、メガネの位置を直しながら笑う。

「ああ、新田さんにご挨拶がまだだった。佐原真夏。ここのポスドクです。専門は生命倫理・医学倫理」

「お世話になります」

 新田はかるくうなずいて応える。佐原は手に持ったままのハサミを腰のポーチにしまう。彼女は機動性を高めたいとウエストを一周するポケットの多いポーチをつけていて、そこから文具やデジタルガジェットや何やらを出すのがいつもの癖なのだ。

「まあ、ちょっと長かったからちょうどいいだろう。髪もなにか用途はあるだろうし……」

 新田がそう言って目を細めると、鏡のようにヒカリも微笑んだ。音葉は新田と佐原に向けて声を掛ける。

「すぐに脳波の検査に入ります。今夜はPSG、終夜睡眠ポリグラフィーだから」

「はーい。ほら、ヒカリ行くよ。私が検査に入るから」

「はあい」

 夜通し脳波を測定する試験だ。急ぐ必要はないのだが、音葉はつい口調が厳しくなった。名残惜しそうに振り返りながら出ていくヒカリに、新田は小さく手を振って応えていた。


 遮光カーテンで完全に外光を絶った室内で、椅子に座ったヒカリの頭に佐原が小さなヘラで固いクリームを塗りつける。頭に電極を取り付けるための基材だ。端子から延びたケーブルは小型の受信機につながれている。受信機は首から下げて歩き回れるように、長めのストラップがつけられていた。頭に続き、頬や顎にもセンサとマイクを貼り付ける。ヒカリはなんだかわからないが楽しそうだ、という様子で目だけキョロキョロ動かしていた。

「これでよし。トイレ行く時はこれ首にかけてってね。なにかあったらコールボタン押せば来るから」

「うん。もう寝てていいの?」

「音葉がオッケー出すまでは眠らないようにしてて。布団入るだけならいいよ」

「はあい」

「よし、セッティングできた」

 佐原が戸口で機器と接続したノートパソコンをチェックしていた音葉の元に戻ってくる。二人は部屋の明かりを消して廊下に出た。デスクに戻ってカメラとセンサ類を確認し、ヒカリの部屋のスピーカで指示を出す。

「検査を始めます。もう眠っても大丈夫です」

「はい」

 既に横になっていたヒカリが小さく応える。まもなく規則的な寝息の音と、睡眠に入ったことを知らせる脳波の波形が画面にあらわれると、音葉は眉間を揉んで息を吐いた。

「あとはセンサ類を取っちゃったりしなければ、このままデータ回収するだけだね。音葉はちょっと休めば」

「そうね……。少し真夏に任せて仮眠しようかな」

「ヒカリのことになるとどうも力むじゃん」

 佐原はマグカップを二つ出し、手早く飲み物を用意しながら言う。音葉の前にノンカフェインのハーブブレンドティーのマグを置くと、自分のマグにはインスタントコーヒーを規定量の倍の粉で濃く作った。

「ありがとう。……実験用の人間なんて扱ったことないもの。患者さんとも大動物とも違うから感覚が掴めない」

「それだけじゃなかろう、新田さんがヒカリに甘いのが気に食わんとみえる」

 コーヒーを啜って笑う佐原を、音葉が横目で睨みかえす。

「研究者としての姿勢の問題を言ってるの。いくら人道的支援が私たちの役目だとはいえ、あれじゃあまるで娘か、……その、恋人みたい」

「ハハ、恋人ねえ。新田さん独身なのかなあ」

「知らない。研究に関係ないもの」

 ノートパソコンの画面から視線をそらして音葉が低く言う。佐原がわざと茶化すことで、新田に深入りしないようにと暗に伝えてくれていることは充分わかっていた。

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