第7話 急転
航海2日目。風が時折ゴーゴーと音を立てて船を揺らした。しかし、幸いにも雨はそれほど強くなかった。しぶきのような雨は視界を遮った。このため全ての船で松明を照らした。この雨ならば出航を知らせるほら貝の音は聞き取ることが出来た。大型船は煌々と松明を炊き、皆に位置を知らせていた。1日目程は進行出来なかったがそれでも目的地に近づいていることを感じ、乗組員たちは高揚していた。この日の夜は味噌で味付けたスープだった。長い航海において、栄養失調は天敵だ。結核等の病に繋がりかねない。城の栄養士たちにあらかじめ航海中メニューを決めてもらっていた。
2日目になっても、船酔いしている人間はそれほど多くなかった。乗組員たちマラッカにいるときから、夜は船で過ごすように命令されていた。船酔いに慣れる訓練だった。この訓練の立案者も弥太郎であった。彼は本当に抜け目がなかった。
直弼は特に何もしていない。が、弥太郎は、常に些細な計画や訓練は直弼が考え命令したことにした。このため、乗組員たちは直弼の明晰さを讃えていた。直弼は名君の階段を上り始めたのだ。
出航してから19日が経った。雨の日も風の日もあったが船団は1隻もはぐれることなく順調だった。このまま、無事にインドに着くだろうと皆が思った。弥太郎はインドに着いてからのイギリス人との交渉方法を考えるようになっていた。
香は優雅に直弼と子どもの頃の話をしていた。自分は貧乏だったが直弼のおかげで立派な貴婦人になれたことを感謝していることを伝えたりしていた。直弼は嬉しそうだった。直弼自身も幼少のころ幸せだったかと問われれば首を傾げなければならなかった。名君と呼ばれる父の子供のころといつも比べられた。期待に答えようと、なるべく尊大に振る舞うあまり士族の子供たちから嫌われずっと一人ぼっちだった。弥太郎がいなければ寂しさの余り心が折れていただろう。
気が小さい優しいこの青年は、道で怪我している貧乏な童にも手を差し伸べた。怪我をしている犬でさえ手当をしたりする少年だった。
父の周りの者たちからは
「君主とは時に残酷な決断をしなければいけません。誰彼構わず優しくするのは褒められた行動ではありません。」
とよく𠮟られていた。
香やナーなどの一風変わった異端児たちにも優しかった直弼のことをよく思わない連中は大勢いた。しかし、名君である父が寛大に息子の行動を容認した。取り巻き連中を上手くコントロールしていたため直弼の変に優しい行動は特に問題にならなかった。
名君、直中は様々な人と手を取り合うことが重要だと何となく考えていた。息子は息子のやり方で仲間を作っていけば良いと何となく思っていた。
息子思いの父だが、その優しさが息子には上手く伝わっていなかった。愛情に飢えていた直弼にとって弱い者に優しくすることで愛情の渇きを満たしていたのかも知れない。
そんなことを直弼は、船の上でポツリポツリと香に話し始めた。香は優しい眼差しで直弼の話を聞いていた。商売をしているときの男性をたぶらかす眼ではなく。母親が息子を見るような優しい眼差しだった。
19日目の航海は快晴だった。風は少し強かったが、穏やかな日だった。
「ブゥオォォーーーーーーン」
突然、緊急を知らせる法螺貝の音が左から響き渡った。この航海で一度も吹かれたことのない敵襲を知らせる音だ。直弼たちは一斉に音の鳴る方に顔を向けた。黒い漆塗り色の巨大な帆船が小型船を横からなぎ倒しながら進んでいるのが目に移る。。風の向きと潮の流れを利用したこの禍々しい黒船は異様な速度で直弼たちの先頭を走る大型船に近づいた。
大型船の男どもはすぐさま武器をとり戦闘の用意をした。ぶっきらぼうに大型船の横に張り付いた黒船から次々と荒々しい髭を生やした男どもが出てきた。浅黒い顔に堀が深い男たちだった。浅黒い顔の髭の男たちは軽装のため、次々とナーの乗る大型船に飛び乗って。髭男たちは軽快に動き回り、ナーたちの乗組員に切りかかってきた。
ナーは船が近づいて来たときはイギリス人かと思っていた。だが切りかかってくる彼らの風貌は野蛮人そのものだった。残虐な彼らは女を見ると次々と犯していき、食糧や衣類、交易のために積んでいた高価な絹や茶器を次々と自分たちの船に運んでいく。彼らは盗賊を生業とした、海のプロ集団、海賊だった。
海賊たちの軽装な格好に対し、重たい鎧をまとった鈍牛のようなナーたちは歯がたたなかった。戦国の合戦依頼、平和な江戸幕府では鎧や武器はほとんど進歩しなかった。唯一、とんでもなく切れ味が鋭くなった日本刀があったが、敵味方ひしめく狭い船の上では逆に邪魔になった。
ナーはすぐさま他の船に退却することをほら貝を吹いて知らせた。船内はあっという間に蹂躙され地獄絵図と化した。ナーは他人事のようにこの地獄となった船で立ちすくんでいた。
油断した。もっと上手くできたはずだ。他の船が逃げ切る時間を稼ぐことすら出来ていない。後悔と自責の念で動けなくなっているナーの目の前に髭を生やした大男達が立っていた。彼らは目の前にいる鎧が男のふりをしている少女だと分かった。そして、皆で鎧を着たナーを姦し、殺した。
ナーが退却の法螺貝を吹いたことで、全ての船が我先にと黒い船から距離をとろうとした。全船の突然の方向転換で海に異様な波が立った。統制のとれていない船団の退却によって波は荒れ、小型船のほとんどはバランスを崩し転覆した。2隻の中型船は、味方の船と激突しあい沈んだ、直弼の乗る船は、弥太郎の指示で直ぐに方向を変えず、その場で留まっていた、周囲が落ち着くのを見計らってから来た海を全速力で逆走した。退却の法螺貝が吹かれてから30分も経っていないが直弼たちの周りに船はいなかった。禍々しい黒い船は、船団の中で唯一コントロールされ退却していく中型船を見落とさなかった。
大型船を蹂躙しつくした禍々しい船は、目標を直弼たちの中型船に決めた。またしても異様な速度で直弼たちの船に近づいてきた。直弼たちは簡単に追いつかれた。黒い船の男たちは、大型船のときと同じ要領で中型船に飛び乗ってきた。
「終わった。」
弥太郎は観念した。
横で直弼が何やら叫び、慌てふためいている。だが、弥太郎は手遅れだと悟った。
ナーの大型船には腕っぷしのある男どもを選りすぐって乗船させていたのだ。その大型船が簡単に蹂躙されていた。自分たちでは歯が立たない。せめて香だけでも逃がしてやれないかと考えているが、目についたものを片っ端から犯し奪うだけの荒くれ男どもから隠してやれる自信がない。いっそ、香を短剣で刺し自分も死のうと思った。
弥太郎は人生で今が1番脳みそが冴え渡っていることが不思議だった。目まぐるしく変わる周囲の情景が一コマ一コマ写真が変わるだけのように事細かく弥太郎の脳内で処理されていた。弥太郎はゆっくりと懐の短剣を抜き、香に向ける。
全てを察した顔をしている香は弥太郎を見つめ、小さく頷いた。直弼が何やら叫んでいるが、もう弥太郎には聞こえない。
香を刺す覚悟を決めた。
次の瞬間、
「ドーン!」
大きな大砲音が西から聞こえた。見ると青と白を基調にした大小様々な帆船が5隻、こっちに向かっている。髭の荒くれどもは口々に何やら叫び合い、急いで自分達の船に戻っていった。黒い禍々しい船は青白の帆船から逃げるように東の海に消えていった。
「助かったの、か?」
直弼はその場に腰を落とし、弥太郎は短剣を落とした。
青白の船は堂々とこちらに近付いてきた。船の青色のメインマストには王冠をかぶった女性と薔薇のシルエットが白色で描かれている。
6尺を超える大男達数10人が青白の船から、血で汚れた中型船に乗り込んできた。
直弼は呆然としている。男たちは背も高いが鼻も高かった。マラッカの日本人町で稀に見かけるオランダ人達と顔つきが似ていた。
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