第6話 出航

 「20日間。遠いな。」

 弥太郎は香からの話を聞いてからずっと考え込んでいた。イギリス人が仲間以外に凶暴であることは一先ず後回しにした。いざとなれば誘惑するなり、高価なものを渡したりしてさっさと軍門に下ってやり過ごそう。20日間はおそらくオランダ商船で進んだときの日数だろう。小型船が多くを占める船団では1ヶ月はかかる。カルカッタで交易路をして日本人の居留地を少し建てれたら大成功だが、無事帰ってくることを第一に考え行動することを心に誓った。


 年が明け正月をつつがなく終え6日が経った。

直弼の部屋では炭と肉の焼けた匂いが漂っている。煙の真ん中には七輪があり、4人がそれを囲んでいた。

「いよいよ、明日出航ですわね。」

「そうだよ!楽しみだね!」

 ナーと香は盛り上がっていた。

 弥太郎が静かなのは相変わらずとして、直弼も静かだった。この男はまだナーが自分の陰武者となることに納得出来ていなかった。弥太郎と香から陰武者をナーに行ってもらうことの利点を説かれていたがこの不器用な青年は自分の腹に落とし込むのに人一倍時間がかかった。

 「直弼様!歴史に残る前夜祭と行きましょうよ!」

 ナーは極力明るく振る舞い、皆に酒をふるまった。

 「もうすぐ自分は死ぬかも知れない」

 こういうときだけ変に勘がするどい少女は思った。計画を持ち掛けられたあの日、深く考えず返事をしたことに少し後悔している。自分が死ぬことではなく、今みたいに4人で過ごす平穏な時間が壊れるかも知れないことに。


 ナーにとって4人でいるのは居心地がよかった。一緒に育った香は姉さんのような存在だった。直弼と弥太郎は中国語訛りの強かった頃から何でも話せる存在だった。22才になったナーは中国語の訛りは抜けていた。可愛い少女のような見た目をしたこの女性は、軍事学だけでなく、土木工学にも長じていた。初めは弥太郎と直弼の世話人だったが、名君直中にも才能を認められ、マラッカの建設総括監という役職に就いた。数年に一度の旱害に悩まされていたマラッカ。都市から離れた山の裾を流れる河から用水路を敷設し、大規模な灌漑施設をつくった。これもナーの設計だった。井伊家の年寄り連中からも一目置かれるようになった建設総括監のナーも、4人でいるときだけは子供に戻れた。



 1830年1月7日、マラッカの町人は七草粥を食べていた。だが今年は七草粥よりも大きなイベントに皆が首ったけだった。マラッカの港に町民の大半がいた。昨夜までの雨が嘘のように空は青空を見せ、照りつける太陽が眩しかった。太陽の光にひときわ反射し、きらきら光る鎧をまとった武士が船団のひときわ大きな船の先頭に立っていた。皆、大将の号令を今か今かと錨のあげる準備をしていた。ほら貝が港から鳴り響いた。よくとおる澄み切った声で先頭に立つ眩しい鎧が声を上げた。

 「出航ー-!!」

 一同は歓声と同時に帆を掲げ錨を上げ、力いっぱいオールを漕ぎ始めた。ひと際大きな船が自信満々に小舟たちを引っ張っているように見える。大型船が進むと後ろは波が大きくなる。ナーはこの波の力を利用して小型船の速度を上げられるよう計算して船の位置を決めてあった。

 大型船の波とすぐ後ろの中型船3隻によって起こる大きな波と小さな泡が複雑なダンスをしている。小型船達はよろめきながらも必死に前の大きな船たちに食らいついて進んだ。

 中型船には直弼と弥太郎、そして香が乗っていた。直弼は立派な甲冑を身に付けてはいる。大型船に乗り込んだナーの次に目立つ。弥太郎は、濃紺の浴衣に白と黒の帯を身に着け直弼の右側に立っている。真剣で常に何かを考えていますと言わんばかりの真剣な表情だった。直弼の左手には直ぐそばに着物を着た香がいる。中型船に乗り込んでいる町民たちはこの立派な甲冑を着た武士の愛人だと思っていた。香は船が揺れても優雅に、まるで別世界の天女のように慌てない。全ての振る舞いが貴婦人そのものだった。天女の着ているものは今まで見たことがない変わった模様だった。淡い水色と淡い緑の模様が上手に組み合わさり、白を基調とした帯には金色の紐のような模様が綺麗に調和されていた。

 町民たちは皆思い思いの恰好をしている。裕福なものはたちは直弼と同じ中型船に乗り込んでいることが多い。綺麗な麻の着物や浴衣に袖を通しているものたちが町で有力な商人や武士であった。彼ら優雅な者たちがこの大船団を資金面からバックアップしている。もちろん、中型船には優雅な者だけではない。腕っぷしに自信のある若い荒々しい男どもとそれを支える軽装の女たちが乗り合わせている。男達はオールを漕いだり帆を調整したり舵を変えたりした。見張りも男が行う。船の前方と側方、後方等、16方位見渡せるよう配置されている。全ての船の見張りの位置はあらかじめナーが決めてあった。このため、見張り役は自分たちの居るべき場所が分かった。見張りの周りを囲うように軽装の女たちが立っている。彼女らは見張りの男たちが見たことを船の中央にいる弥太郎に伝えに行く役割だ。

 数秒ごとに弥太郎のもとには見張り役の情報を伝えに女たちがやってきた。16方位に見張りがいるため、情報はひっきりなしに入ってきた。弥太郎は冷静に話を聞き、伝えに来た女たちの動揺を解いてやる。そして、船の方向や速度を変える必要がある時だけ、周りの伝令役の女たちを使ってオールを漕ぐ男どもや帆を張る男どもに伝えた。基本的にはこの伝令方法を大型船やそれぞれの中型船で行っている。

 方向を変える等の命令を下す人間は各船に一人だけにした。これが弥太郎が下した一つ目のルールだ。船頭多くしては目的地にはたどり着かないことをこの賢い鋭い顔をした青年は知っていた。

 そして、各船、緊急の連絡がある場合はほら貝を吹き周囲の船に知らせる。また、中型船。小型船は大型船についていくことが最重要ルールとした。その他のことは臨機応変に各船で行ってもらう。

 伝令の方法も事細かに決められている。他にもどれくらいの時間進行したら休むのか。右手に見える大陸からはどれくらいの距離をとれば良いのか等。細かくルールを決めておき、参加する町民に前もって伝えてあったため、よく訓練された船団のように見える。とにかく短銃明快なルールを決めることこそが烏合の衆をまとめる最も効果的な手法だと弥太郎は考えていた。

 

 1日目の航海が終わった。船の後方にはマラッカの山がうっすら見える。夜空は曇り、星は見えない。星が見えなくては進路が分からず船を進めることが出来ない。しかし、今回は右手の陸地を目印に進んでいけば良いから問題はない。が、船を夜進めることはしなかった。慣れていない船乗りでは浅瀬の岩に船をぶつける危険がある。それに、旅は長い。日の入りとともに休み、日の出とともに出航することを決め、船列を乱さないようにした。

 昼間の航海中から、大型船と中型船3隻では4500人分の米を炊き、野菜や肉を調理しておく。夜になると小舟が中型船に飯を取りに行く。中型船で皆と一緒に食べるか小型船でご飯を食べるかはそれぞれの判断に任せていた。初日は皆、最寄りの中型船の食堂で食べることになった。

 スパイスの効いた良い香りが船内を漂う。1日目の夜はカレーだった。カレーの発祥地はインドらしいが、マラッカの現地人が食べていたことを参考に日本人風な手を加え、今では貿易船での航海中の代表的な食事メニューとなっている。カレー発祥の地に向かって航海をしていることを考えると何やら滑稽だなと弥太郎はカレーを温かいカレーを口いっぱいに含みながら思った。

 1日目は順調だった。綺麗なはずの夜空は分厚い雲に覆われていた。風は強くなり、波は少し慌ただしく逆立ち初めていた。明日は雨になるだろう。

 明日は船を進めることよりも、船団が1隻もはぐれないことを最優先し航海することが直弼の口から皆に伝えさせた。勿論、大型船にいるナーにもそのことを伝えた。伝令兵を使って伝えても良かったが、弥太郎は自ら小型船海に浮かべ伝えに行った。ナーは薄ピンクの綺麗な浴衣に身を通しており、真剣な表情でうなずいた。この小さなルビーの原石のような少女は夜は鎧を脱いでいた。夜の海に輝く宝石のように美しい少女だった。少女の小さい肩にこの船団の命運が託されている。勿論、このことを知っているのは直弼たち3人だけだった。

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