第8話

 第三部


 二〇三八年六月五日 土曜日


                  1

 司時空庁のタイムマシン発射施設は、新首都の南東の海沿いにある。施設の西には、海に注がれる蛭川ひる沿いに、堤防が南北に走り、南の岸壁の下には那珂世湾が広がっている。北には田畑の奥に樹英田きえた区の住宅街の屋根が並び、その向こうに商業区域のビルが見える。施設の東から那珂世湾沿いに南に続く陸地には、国立公園に指定されている広大な森林があり、そこに生い茂る巨木に支えられた緑の屋根が昇ったばかりの太陽に照らされていた。

 タイムマシン発射施設の敷地は広い。西側の蛭川の対岸に、その更に西の縞紀和しまきかず川までの間の広い平地に建設された新首都総合空港があるにもかかわらず、この発射施設の敷地内の西側には専用の滑走路が海に向かって敷かれていた。北の内陸側には何棟もの低層の建物が並び、その間を走る舗装された道路が碁盤の目を描いている。敷地の内陸側の東寄りには中層の大きなビルが建ち並び、そのビル同士を何本もの渡り廊下が結んでいた。そこから少し離れて、敷地の南東の隅に森林と海を望む形でガラス張りの高層ビルが一棟だけ建っている。そして、これらとは別に、巨大な筒状の建造物が設置されていた。南北に伸びるその巨大な円筒形の建物はタイムマシンの発射管であり、さながら海に向けられた大砲のようである。相応の長さをもったその発射管の先端からは、海岸を越えて海上の浅瀬部分まで一本の金属製のレールが敷かれていた。

 レールの先端で数羽の鴎が、海風に打たれて羽を逆立てながら、陸地からの死角になる位置に巣を拵えていた。すると、天空から轟音が鳴り響き、強い風が舞った。鴎たちが一斉に飛び去る。上空を五機の無人戦闘機が海に向かって飛行していった。編隊を組んで飛行するその戦闘機は、その後から飛んできた別の五機の無人戦闘機と合流し、そのまま上昇していく。その下の那珂世湾の海上には、数隻の中型軍艦が波に上下しながら距離を空けて留まっていた。

 海沿いの総合空港の駐機場には大型の民間旅客機が何十機も留まっていたが、滑走路上に出ている機体は一機も無い。隣のタイムマシン発射施設の滑走路には何台もの軍用ジープがあちらこちらに駐車している。その周囲では武装した白い鎧姿の兵士たちが機関銃を構えて立ったまま周囲を警戒していた。特に発射管の周囲の警備は厳重だった。その向こうの中層ビルの窓には、走って移動する兵士たちの人影が映っている。発射施設の敷地を囲む高い塀に設置されたゲートは全て閉じられ、その外の路上からも車や人が遠ざけられていた。

 一つだけ扉が開けられたままのゲートがあった。周囲の見回りを終えた白い鎧姿の兵士たちが隊列を組んで走ってくる。兵士たちが中に入っていき、扉が閉じられた。内側からロックがされた扉を東の空からの朝日が照らす。

 管理棟ビルの管制室の窓から発射管を見下ろしていた津田幹雄は、後ろに立っている佐藤に言った。

「佐藤君、警視庁と連絡はついたかね」

 佐藤雪子は答えた。

「はい、何とか。警察庁には知られないよう、内密に処理することが出来たようですわ」

 津田幹雄は窓に顔を向けたまま言う。

「では、新日の連中が申請した道路占用許可申請は、許可されなかったのだな」

「はい。昨日中に不許可決定が出たそうですわよ」

「そうか。新日の奴ら、わざと尾行を振り切って見せて、我々の注意を自分たちに引き付けたつもりだったんだろう。一方でこっそり道路占用許可を申請して撮影許可を得る作戦だったのだろうが、そうは問屋が卸さん。陽動作戦など、疾うにお見通しだ。やはり、あの別府という記者をマークさせておいて正解だった。お蔭で、新日の内部協力者から情報が入る前に対処することができたよ」

 佐藤雪子は笑みを浮かべて言った。

「では、後は侵入してくる記者たちの捕獲ですわね」

 津田幹雄は満足気な顔で振り返ると、少しだけ下に落ちた眼鏡を指先で持ち上げながら言った。

「そうだな。協力者からの情報では、三名プラス一名が、撮影に乗じて侵入する予定だということだ。まあ、その撮影が中止になれば諦めるかもしれんが、やけを起こして突入してくるかもしれん。松田君、STSの警備態勢は」

 壁際に並んだ何台もの平面モニターに目を配りながら、松田千春が答えた。

「はい。万全であります。通常の三割増しの人員で警備しておりますので」

 津田幹雄は松田の方に歩み寄りながら尋ねた。

「理由は付いたか」

 松田千春は振り向いて答える。

「はい。午後の議員団の臨時視察のための事前警備という名目で、増員しております」

 松田の前で立ち止まった津田幹雄は、割れて突き出した自分の顎を親指で触りながら思案した。

「うーん。確かに抜き打ちの視察は渡りに舟だが、一応、『抜き打ち』となっているからな。事前に警備を増強しているというのも、変な話しだろう。書類上だけでも『有事緊急警戒態勢の再確認』という名目にしておきたまえ。そこに議員さんたちが、視察に来た、その方が、辻褄が合う」

「分かりました。すぐに変更しておきます」

「そうしてくれ」

 直ぐに振り向いた津田幹雄は、後ろについて来ていた女性に言った。

「佐藤君、議員の先生たちへの対応の準備は、もう出来ているね」

「はい。給仕、コンパニオン、料理人、マッサージ師など、こちらも万全の体制でおもてなし出来る体制ですわ」

「予定は」

「先生たちは、午前中は発射施設の方をご見学いただき、正午には、そのまま搭乗者待機施設の方にご案内いたします。そこで施設が搭乗者たちに提供する食事を『試食』していただき、午後は施設内の各レジャー設備を簡単に見学。後は自由に施設内設備をご使用いただいて、実際にその快適性を実感していただくということで、準備していますわ」

 津田幹雄は口角を上げて頷いた。

「うん、それでいい。『抜き打ちの視察』の日程を、わざわざ事前に報告してきた訳だ。相手もそのつもりなのだろう。今後の増便の件もあるし、先日の襲撃事件で受けた被害の補修費を国から追加で出してもらうということもある。彼らの機嫌を損なわないよう、精一杯に振舞ってくれたまえ」

「はい。お料理については最高級品を揃えさせましたので、存分に『試食』を堪能していただけると思いますわよ」

「うん。わざわざランチタイム前に来るとは、大方、それも期待してのことだろう。好きなだけ堪能させてやれ。だが、厨房の方は大丈夫なのかね。人員が足りんのじゃないか」

 心配そうな顔でそう尋ねた津田に佐藤雪子は答えた。

「ご心配なく。調理を請け負っている業者にアルバイトを増員させました。厨房の中は、今朝早くから大賑わいですわ」

「そうか。料理は大事だからな。――そうだ。個室を使いたいという先生がいたら、一泊くらいさせて、自由に使わせてやればいい。コンパニオンの時間も合わせて空けておけ。それから、損傷箇所は一階のロビーから見せれば十分だ。上のエレベーターホールの現場は絶対に見せるな。銃弾の痕を見られてはいかん。被害は改装工事中の事故ということになっているからな」

「はい。一階ロビーの方の銃痕は、すべて補修が終わっておりますので、ご安心下さい。上の階へはエレベーターの扉の故障ということで、上がれないとでも言っておきますわ」

 津田幹雄は再び眼鏡を持ち上げて言った。

「ま、実際にもそうだしな。よかろう。とにかく、これで議員団への対策は万全だな。有働の奴め、私に難癖をつけるつもりに違いない。だが、そうはいかん。ここが襲撃された事実を聞きつけて、子飼いの議員たちに抜き打ちの視察を命じたのだろうが、その中に既に私に寝返っている人間が多くいるとも知らないとは、哀れな老人だ。ああ、そうだ。事前に情報をくれた議員には、特に手厚く接待するように。いいね」

「はい。かしこまりました」

 佐藤雪子は腰の前で手を重ねて丁寧に御辞儀をして見せた。それを見て満足気な笑みを浮かべている津田の背後から、松田千春が尋ねた。

「ですが長官、有働前総理が、わざわざ今日という日に議員団を送り込んで来るということは、彼は田爪瑠香の発射実験のことを知っているのではないでしょうか」

 津田幹雄は松田の方に顔を向けずに答えた。

「そうかもしれんな。だが、議員団がやって来るのは午前十時前だ。有働の私邸に集合して彼が朝食を済ませてから、ここにやってくるらしい。だから、全て終わった後じゃないか。まあ、有働武雄という男が朝型の人間でなくて助かったよ。松田君、実験終了後は、速やかに機材等を撤収するように。細かなデータの収集は後日やるように研究員たちにも伝えるんだ」

「分かりました。しかし、議員団が予定時刻よりも早くやって来ましたら、いかが致しましょう」

 津田幹雄は左腕の高級腕時計を見ながら答えた。

「この時間になっても来ていないということは、もし予定よりも早く来たとしても、あとは発射シーケンスの最中か、その直後だろう。その場合は、発射施設の緊急稼動点検中だとでも言って、外で足止めしろ」

 少し考えた津田幹雄は、天井を見上げながら続けた。

「いや、待てよ。待機施設ビルの方がいいな。あそこの中なら、外の音も聞こえんし、光も見えん。佐藤君、至急、送迎用のバスを用意してくれ。もし議員団が早めにやって来たら、それで待機施設までお送りするんだ。着いたらすぐに、地下のシアターホールとダンスホールに案内しろ。そこで、実験が終わるまで時間を稼げばいい」

 佐藤雪子が尋ねる。

「新日の記者共が現われたら、どうされますの」

「やって来る人数も特徴も分かっている。外にいるSTSの隊員が速やかに身柄を確保するはずだ。心配はいらん。相手は、ただの文屋だ」

 そう言った津田幹雄は、松田と佐藤の顔を交互に見ながら言った。

「とにかく二人とも、急に入った議員の視察の対処という余計な仕事に、よくここまで速やかに対処してくれた。感謝している。だが、ここを乗り切るまでは、気を抜かんで欲しい。ここが正念場だ。頼むよ、佐藤君、松田君」

「はい」

「お任せください」

 佐藤雪子と松田千春は、それぞれ返事をした。

 部屋の中央にホログラフィーが表示された。投影された背広姿の男が津田に報告する。

「長官、総合空港の訓練司令本部にいらっしゃる奥野国防大臣から、ホログラフィー通信です。メインパネルに出しましょうか」

 津田幹雄は軽く溜め息を吐くと、頷いて言った。

「そうしてくれ」

 津田幹雄は管制室の奥に一段高く設置された自分の机に移動した。彼が革張りの重役椅子に腰を下ろすと、机の上の丸い皿状の機械の上にホログラフィーで奥野の上半身が投影された。

 ホログラフィーの奥野恵次郎は、いきなり尋ねてきた。

『どうだ、進捗は』

「はい。万事抜かりなく。隣の空港の方は、いかがでしょう」

『大丈夫だ。予定通り、上空で無人機を旋回させている。タイムマシンの発射時間が近づいたら、こっちの指揮官と時刻合わせをしてくれ。一秒と違わず出現予告ポイントに緊急着陸させねばならん』

「分かりました。心強いご支援、痛み入ります」

『なあに、どうせ空軍予科から正規パイロットを選抜する時期だ。無人機のパイロット候補生の実力テストには、ちょうどいい』

「そうですか。やはり、正規のリモート・パイロットは御使用にならないので」

『奴らに今更こんな基礎的な飛行訓練をさせる理由が無い。それに、新兵の訓練生なら、緊急着陸訓練に使用する総合空港と、隣にあるそっちの滑走路を間違えて着陸させてしまうことも有りうるだろう。事故が起これば、後日、国防委員会から調べられるだろうからな。その時のことも考えておく必要がある。今日の場合は訓練生でいい』

 津田幹雄は椅子の背もたれに体を倒して言った。

「しかし、訓練中のセミパイロットが使用するのは、ダミーの無人機では? 効果が期待できますかな」

 奥野恵次郎は憮然とした顔で答えた。

『弾薬類も可燃性燃料も、通常よりも多く積ませてある。心配はいらん』

「そうですか。ですが、訓練パイロットで本当に大丈夫なのですか。ここから見る限り、随分と飛行隊形が乱れているようですが」

 津田幹雄はわざと窓から空を覗くふりをして見せた。

 ホログラフィーの奥野恵次郎は横を向いて言う。

『大丈夫だと言って……おい、飛行隊形が乱れているぞ。整えさせろ』

 再び前を向いた奥野恵次郎は、津田に言った。

『とにかく、何か有った場合の対処は、こちらに任せろ。君は自分の仕事に専念すればいい。いいな』

 津田幹雄は椅子の背もたれに体を倒したまま答える。

「分かりました。そろそろ時間ですので、これで」

『うむ。しっかりと頼むぞ』

 津田幹雄は返事をせずに通信を切断した。椅子から立ち上がりながら、吐き捨てるように言う。

「馬鹿が……」

 そして、壇から降りてくると、指先で眼鏡の角度を整えながら言った。

「松田君、例の準備は出来ているな。奥野大臣の先程の調子では、やはり国防軍は当てにならん。我々で結果を出すぞ」

 松田千春は首を縦に振った。

「はい。構造もプログラムも、全て従来どおりに戻してあります。到達時間の設定も、ご指示の通りに。搭乗者が気付くことは無いと思われます」

 津田幹雄は松田に向けて人差し指を振りながら言った。

「そうだ、それでいいんだ。とにかく、田爪瑠香を過去に送ってしまえば解決なんだ。遠い過去にな。この世界の時間軸上に戻って来ることはない。それで全て解決だ。――まったく、新兵のパイロットの練習機を使うだと? 聞いて呆れるよ。そんなことで責任逃れを画策している場合かね、まったく」

 津田幹雄は強く舌打ちした。松田千春と佐藤雪子が黙って頷く。

 津田幹雄は窓の方に顔を向けた。

 タイムマシンの巨大な発射管が朝日を照り返していた。


                  2

 広い部屋の中には無人戦闘機の操縦ボックスが幾つも並んでいた。部屋の奥の壁は大型モニターに覆われており、その前に十個ずつ三列の操縦ボックスが並ぶ。その後ろの一段高い位置に作られた管制室とはガラスの壁で仕切られていた。

 ここは新市街から少し離れた内陸にある空軍の施設である。滑走路がない敷地に建つこの建物は、無人戦闘機を遠隔操作する「操縦室」の一つであった。戦闘機の「リモート・パイロット」たちが、地下にあるこの部屋から空の上の無人戦闘機を遠隔操作するのだ。

 幾つもある「操縦室」の中で、訓練機用の操縦室であるこの部屋は、普段はシミュレーション操作のために使用されることが多いが、今日は最後列の一列だけが実飛行の訓練として稼動していて、奥の二列は使われていない。手前の十個のボックスだけが薄暗い部屋の中で光を放っている。

 前面と左右、上部を壁と屋根で囲まれた操縦ボックスは、その内側と床に貼られた薄型モニターに、無人機に搭載されたカメラが捉えた空の景色をリアルタイムで映し出している。各ボックスの中には幅が極端に狭い背もたれの椅子が設置されていて、そこに無人戦闘機の「セミパイロット」が一人ずつ座っていた。

 彼ら「セミパイロット」たちは皆、訓練生であることを示すマークが刺繍された深緑色の真新しい繋ぎ服を着ていた。ヘルメットは被っておらず、代わりに、片方の耳にだけ無線式のイヤホンマイクを付けている。それらの若い訓練パイロットたちは、時々振り向いて、椅子の背もたれの後頭部の位置の左右に設置された背面モニターの映像を確認しては、前方の計器類のホログラフィーと周囲の空の景色に目を配っていた。足乗せの前から伸びた操縦桿の先端に取り付けられているコントローラーを左右の手で握り、コントローラーごと倒して操縦桿の角度を変えながら、その上の十字ボタンや背面の丸ボタンを、それを掴んでいる左右の手の親指と他の指で素早く押す。若いパイロットたちは、時々横を向いて遠くを覗き見したり、操縦桿に合わせて体を倒したりしながら、今、実際に那珂世湾の上空で飛行している無人戦闘機をここから遠隔操作していた。

 稼動している各操縦ボックスの椅子の後ろを、同じ深緑色の繋ぎ服を着た中年の男が見回っていた。彼の袖にはウイングマークが縫い付けられていて、胸元には幾つもの星印が刺繍されている。訓練生たちの教官である彼は、咥えた葉巻を口から放し、煙を吐きながら、荒声を飛ばした。

「いいか、ヒヨッコども! 一度も空を飛んだことが無いお前らみたいなボンクラに、高い無人戦闘機の操縦桿を握らせてやっているんだ。たかが着陸訓練だと馬鹿にせずに、気合入れて取り組め! わかったな!」

 訓練生たちの操縦状況を確認し終えた教官は、ガラスで仕切られた管制室へと続く短い階段を上がりながら、若いパイロットたちに最後の注意をした。

「上空で安定飛行を維持しろよ。下は民間空港だ。民間機の上に落とすんじゃねえぞ。今日の訓練機は本物の弾薬とリザーブ燃料まで積んだフル装備だ。墜落したら大爆発を起こすからな。重量がいつもと違うことを忘れるなよ。角度計と高度計には目を配れ。遠心力数値にもだ。いいな」

 管制室の中に教官が入ってくると、モニターが並ぶ机に座っているオペレーターたちの中の一人が報告した。

「教官、空港の訓練司令本部から連絡です。飛行隊形を正せと」

 教官は慌てて机の上に並んだモニターの一つに目を遣ると、近くにあった卓上マイクを掴んで奪い取り、それに向かって大声で怒鳴った。

「六番機、遅れているぞ。しっかりと横隊列を維持しろ。そんなんじゃ、敵機や敵ミサイルに間を抜かれちまうだろうが。自分が乗ってるんじゃねえんだ。もっと詰めろ。機体を盾にするんだよ。分かってんのか!」

 教官は六番機のパイロットの返事を待った。

『きゃー、この水着、エロい。見えちゃうー』

 教官が耳につけているイヤホンマイクから黄色い声が聞こえた。教官が顔をしかめる。声はまた聞こえた。今度は甲高い男の声である。

『それ、破けやすいからね、気をつけてよ。はい、そのまま足上げてー。カシャッ』

「混線しているのか? 安物はこれだから……」

 そう言って首を傾げた教官は、耳からイヤホンマイクを外すと、再び管制室から操縦室へと移動した。

 階段の途中で立ち止まった彼は、腕時計を見ながら、訓練パイロットたちに直接指示を出した。

「いいか。時刻合わせが済んだら、画面の指示に従って、指定された座標位置に機体を下ろせ。完全に停止して初めて着陸の完了だからな。その時、一秒、一センチでも指定時刻と位置がズレていたら、腕立て一〇〇〇回……」

 教官の視界にフラッシュの閃光が入った。その方角を二度見した教官は、我が目を疑った。使用されていない最前列の操縦ボックスの向こうで、あられもない恰好でポーズをとる若い女たちに、奇抜な恰好をしたカメラマンがレンズを向けている。

 勇一松頼斗ゆういちまつらいとだった。

「エアコンの風でペラペラっと捲れて……そう、いいわねえ。見えてても後でモザイク入れるから、気にしないでね。そう、胸をよせてー、――最高。もう一枚いくわよ」

「よそ見をするんじゃない。操縦に集中しろ!」

 訓練生たちにそう怒鳴った教官は、階段を駆け上がり、管制室のドアを開けるとすぐに言った。

「いったい、何をやってるんだ、アレは!」

 教官補佐の若い兵士が説明した。

「何でも、LustGirlsラストガールズとか言う人気アイドルグループの広報動画撮影グラビア写真撮影らしいです」

「グラビア撮影だと? こんな朝っぱらからか。まだ七時過ぎだぞ」

 教官は再び腕時計を見た。彼の視界の隅に、ボックスの席から横に首を出して奥を覗いている訓練生の姿が映る。教官は再び管制室の外に出ると、大声で怒鳴りつけた。

「モニターを見ろ、モニターを。よそ見すんな!」

 管制室に戻ってきた教官は、教官補佐の男に尋ねた。

「どうして、こんな所で撮影するんだ。しかも、こんな時間から。誰が許可した」

「国防省の広報課のようです。ここ数年、入隊希望者が減少しておりますので、てこ入れに、兵士の募集サイトにアイドルが施設内を案内する立体動画を付けるそうなんです」

 教官は管制室のガラス越しに撮影の様子を眺めながら言った。

「水着の女が案内する動画を載せるのか。軍のウェブサイトに」

 教官補佐の男は淡々と説明した。

「無人機のパイロットたちが、いかに安全で快適な環境の施設で気楽に戦闘機を飛ばしているかを強調する動画らしくて、常夏の砂浜をイメージして、水着姿で案内するんだそうです。それに、今日しか彼女たちのスケジュールが取れないそうなので、同時にグラビアも撮影するんだとか」

 葉巻を灰皿に押し付けた教官は眉間に深い皺を刻みながら、足下を指差して怒鳴った。

「ここは国防施設だぞ! 軍事施設だ。しかも、無人機を遠隔操作する極秘の施設じゃないか。撮影して世に晒してどうするんだ!」

「そこは、重要な部分を隠して写らないようにするってことで、折合いが付いたみたいです。ああいう風に」

 教官補佐の男はガラス壁の向こうを指差した。フラッシュライトに照らされる際どい水着姿の女性たちの後ろで、中年の女と少し若い男が幕を広げている。二人の視線の先を辿ると、しゃがんでカメラを構えている男の後ろに立っている制服姿の軍人が、しきりにあちらこちらを指差して、幕を広げている二人に指示を出していた。

「ああ、もうちょっと右の方も。その通信ユニットの一画が写ると困りますから」

 幕の左右に立てた棒を握っている山野紀子と別府博は、その制服姿の軍人が指定した場所まで移動した。

 山野紀子が大きな声で言う。

「もうちょっと、右ですね。ほら、別府君、幕をもう少し広げて。しっかり隠すのよ。大事な所が写っちゃったら、ご迷惑だから」

 別府博も大きな声で答える。

「はい。もっと広げましょうか。この際だから、こっちまで」

「そうね。こっちも、もう少し広げて、よっ、この辺りまで広げてみようかしら。どう? ライトお、この幅で大丈夫う」

 顔の前でカメラを構えた勇一松頼斗も、大声で返事をする。

「オーケー。それで全部隠れてるわ。なーんにも写らない。ノープロブレムよ。ほら、あんたたち、そんな格好で、そんな所に立ってたら、兵隊さんたちの気が散るでしょ。お仕事中なんだから。はやく、こっちに並んで。さっさと撮り終るわよ。その後に、こちらの広報の方の動画の撮影も残ってるんだから。急いで急いで」

「はーい」

 口を開けて管制室のガラス越しに水着の女性たちを見ていた教官は、思わず呟いた。

「ま……まったく、あんな恰好で……あれは、もはや水着ではないだろ……」

 教官補佐の男が咳払いをする。

 教官は姿勢を正すと、再び管制室から外に出て、階段を降りながら、訓練パイロットたちを怒鳴りつけた。

「こら、よそ見をするなと言っているだろうがあ! 実際に弾薬を積んだ飛行機が空を飛んでいるんだぞ。市街地に落ちたらどうする。しっかり操縦桿を握れ! こら、キサマ、口が開いとるぞ!」

 教官の指導の途中に、甲高い声が割り込んでくる。

「きゃあ、水着が破けちゃったあ。やっぱり、紙製は駄目だあ」

 山野紀子が部屋の隅を指差して言う。

「向うに予備があるから、付け替えてきなさい」

「はーい」

 幕の端を持っていた別府博は、あくび交じりで山野に言った。

「ふああー。眠い……編集長、こっちに撮影場所を切り替えて正解でしたね。散水車の手配もしないで済んだし」

「ま、炎天下で撮るより良かったかもね。梅雨時だって言うのに、降らないから、朝から暑いもんねえ、今年は。その点、この基地の中ならエアコンもばっちりで快適だし、日焼けする心配も無い。撮影機材もここの広報の人たちの照明とかを使わせてもらえるから、撮影に相乗りさせてもらえて、よかったわ。こうやって撮影部分の規制があっても、事前に作っておいたこの幕のお蔭で、何とかなりそうだし」

 山野紀子は別府にウインクして見せた。

 別府博は眠そうな顔で言う。

「それにしても、道路占用許可、やっぱり駄目でしたね。あいつら、徹底的にこっちの邪魔をするつもりみたいですね」

「かもね。昨日の夜、急遽、相乗りでここでの撮影が決まったのも、この子たちのプロダクションが私たちの代わりに国防省の広報と交渉してくれたからよ。プロダクションの社長さんのお蔭ね。きっと、私たちじゃ蹴られていたと思うわよ」

「でも、ライトさんが、今日じゃないと撮影日程が空いてないって言い張ったんでしょ。だから社長さんも渋々、相乗り撮影で交渉を……」

「ま、いいじゃないよ。終わり良ければ、全て良しよ」

「まあ、そうですけど。連中、今後も邪魔してくるでしょうねえ。これからは、どうやって闘うつもりです?」

「何言ってるの。私たちは記者よ。言葉の力で闘うのよ。それしかないでしょ。――あ、そんな所で着替えていたら、兵隊さんたちに全部見えちゃってるわよ。もう少し、こっち側で着替えなさい。そう、その辺」

 使用されていない操縦ボックスの中で着替えていた女性に、山野紀子は壁際のスペースを指差して、そこで着替えるよう指示を出した。

 別府博が山野に言った。

「そこの方が、よく見えるんじゃないですか」

「いいのよ、これで」

 山野紀子はニヤリとする。

 壁際で堂々と水着を着替えている女性を凝視していた教官に、管制室から出てきたオペレーターが階段の手すりから身を出して叫んだ。

「教官……教官……教官!」

「ん? なんだ」

 振り返って見上げた教官に、そのオペレーターは言った。

「二番機の機首が下がっています!」

「なんだと。二番機、ボーっとするな。四番機、お前もだ。前を向け、前を!」

 ボックスの後ろを右に左に移動して指導する教官の声に混じって、山野の声が聞こえてくる。

「ライトお、ちゃんと大事な所は隠れてるう? はみ出してないわよねえ」

 勇一松頼斗が大声で答える。もちろん、国防施設の大事な所の話である。

「この角度からだと、ちょっと見えちゃってるわねえ。もう少し、左右に広げて、そう、そのくらいかしらねえ」

 山野紀子は執拗に大声で尋ねた。

「でも、見えてるでしょお」

 勇一松頼斗は丁寧に大声で答えた。

「レンズ越しには見えないようにするから、大丈夫よ。でも、そっちの兵隊さんたちからだと、丸見えかもしれないわねえ」

 山野紀子は大声で感想を述べた。

「うわあ、こんなラストガールズ、雑誌なんかじゃ絶対に見せられないわねえ。やっばーい」

 右往左往する教官の低い声が響く。

「おい! 二番機、操縦桿を握れ、操縦桿を! 馬鹿、六番機、機首が下がり過ぎているぞ!」

 教官は汗を流しながら、操縦ボックスの後ろを駆け回った。


                  3

 ワイシャツ姿の神作真哉と背広の上着を着た上野秀則が、川辺の草むらの中に伏せて身を隠していた。双眼鏡を顔の前で構えた上野秀則は、それで遠くを覗いている。そのレンズの先には低い堤防が横に立ち塞がり、その堤防の上の狭い道路の向こうに、司時空庁のタイムマシン発射施設を囲む高い塀が道路に沿って遠くまで連なっていた。彼の隣で伏せていた神作真哉は、首を反らして空を見上げている。彼は少しずつ顔の角度を低くした。彼の視線の先では、一機の無人戦闘機が錐もみ状に回転しながら斜めに降下していた。機体はそのまま一直線に進み、堤防の端の斜面に衝突して激しく爆発すると、その場で大きく炎上した。

 神作真哉が言った。

「よし。シゲさんは」

 上野秀則は双眼鏡で施設の正門付近を覗きながら答えた。

「大丈夫。上手く隠れてる。俺たちと一緒で、侵入の機会を探っているようだ」

 神作真哉は近くのゲートを望みながら頷いた。

「そうか。――防災隊の配備は、何故か通常より遠ざけてある。となれば、軍も司時空庁も、自分たちで消火するしかないはずだ。どこかのゲートが開いてSTSの兵隊が出てくるぞ。どこが開くか、よく見とけよ」

「ああ、任せと……」

 突如、唸り声のような音が短く響き、続いて水に何かが飛び込む音と爆発音が同時に聞こえた。音がした方へと振り向いた二人の視線の先では、遠くの那珂世湾の海面で大きな炎と黒煙が上がっていた。

 上野秀則が双眼鏡で覗きながら言う。

「――あらら。もう一機、海上に墜落したみたいだぞ」

 神作真哉が困惑した顔で言った。

「おいおい、一機で十分だろ。国防兵士、しっかりしろ。水着ギャルの誘惑に負けるな」

 上野秀則は再び正面の方角を向き、双眼鏡を顔に当てて覗きながら言った。

「まあ、若い訓練兵だからな、仕方ないかもな。こっちも、それが狙いだし。お、二番目のゲートが開いた。消火器を持ったSTSの連中が出てくるぞ」

「おい、うえにょ。向うも」

 上野秀則は双眼鏡を下ろして神作が指差した方角を確認すると、再び双眼鏡を顔の前に上げて、その方角を覗きながら言った。

「だから、上野だ。――よし、ツイてる。シゲさんたちの向かいのゲートも開いたぞ。ええと、一人、二人……三人。出てきたのは三人だ。他には誰も居な……」

 その時、更にもう一機の無人戦闘機が発射施設内の滑走路付近を目掛けて坂を滑り降りるように直進し、そのまま塀の向こう側に消えた。直後に激しい爆発が起こり、振動が地面を伝って響いてきた。神作真哉と上野秀則は、一瞬だけ身を後ろに反らした。塀の向こうで黒煙が上がり、それを下から赤い炎が照らしている。

 神作真哉は煙と炎を呆然と見つめながら、呟くように言った。

「――マジかよ。中に落ちたぞ……」

 再び双眼鏡で覗いていた上野秀則が、肩を上げながら言った。

「そうだ、行けシゲさん。今がチャンスだ!」

 その上野の発言を聞いて、神作真哉はハッした様子で言った。

「こっちも入るぞ」

 立ち上がろうとした彼のシャツを掴んで、上野秀則が止めた。

「待て、真ん中のゲートが半開きになってる。今の敷地内への墜落で、警備兵が混乱してるんだ。あっちの方から入った方が安全……」

 頭上で激しい衝突音がした。反射的に首をすくめた二人は、すぐに上を見上げた。真上の空から、衝突した二機の無人機が炎に包まれて落下してくる。神作真哉が叫んだ。

「ヤバイ! 逃げろ!」

「くそう、マジか」

 神作真哉と上野秀則は慌てて立ち上がると、全速力で走ってその場から離れた。少し間を空けて、先程まで彼らが伏せていた場所に炎の塊が落下した。飛び込むように地に伏せた二人の背後で大きな火柱が上がる。二人が咄嗟に両腕で頭を覆うと、その上を千切れた翼が水平に回転しながら通過していった。頭を手で覆ったままゆっくりと顔を上げた二人は、堤防の斜面に深く突き刺さっている大きな翼を見て顔を見合わせた。すると今度は、後ろの炎の中で遅れて爆発し始めた無人機の部品が金属片を高速で四方に散らし始めた。神作と上野は身を低くしたまま再び走り出し、更にその場から離れた。

 ようやく堤防の下にたどり着いた二人は、そこを一気に駆け上った。そのまま慎重に周囲を見回しながら、塀に沿って敷かれた道路を走って横断する。

 半開きのゲートの扉の横の壁に飛び込むように背中を当てた神作真哉は、川辺で激しく炎上している二機の機体の残骸を見ながら言った。

「冗談じゃないぞ、おい。紀子の奴、何やってんだ……」

 遅れて上野が到着したのを確認した彼は、ゲートの隙間の方に顔を向けた。

「頼むぞ、誰も居ないでくれよっと」

 一気にゲートの隙間から敷地の中に体を入れた神作真哉は素早く周囲を確認して言った。

「よーし、セーフ」

 息を切らしながら上野秀則も中に入ってくる。

「ハア、ハア、――走ったのは、何年ぶりだ……やっぱり、歳だな……ハア、ハア……」

「しっかりしろよ、うえにょ。大丈夫か」

「お前は、学生時代の、ボクシングで、鍛えているだろうが、俺は、中学の時から、ずっと、天文部だったんだ。無茶言うな。ハア、ハア、ハア……」

 神作真哉は、敷地の中に建っている幾つものビルを見上げながら言った。

「だから、双眼鏡を覗くのが上手いんだな」

 上野秀則は自分の手を見て言った。

「しまった、双眼鏡を置いてきた……」

「いいよ、もう。それより、ここからはカメラの方が大事だ。カメラだけは絶対に手放すなよ」

「分かってるよ」

 上野秀則はワイシャツの胸ポケットに入れている薄型のデジタルカメラを確認した。

 神作真哉は向こうの高いビルを指差しながら言う。

「とにかく、あの建物が発射管理棟だな。ってことは、今、丁度ここが、西の裏手か。防災隊が持っている過去の配備図面では、この先に職員用のドアが……」

「シッ。――隠れろ!」

 上野に引かれて、神作真哉は大きな鉄製のゴミ箱の影に身を隠した。その前を白い戦闘服姿の数名のSTSの隊員が駆けて通り過ぎていく。彼らが出てきたドアをを確認した神作真哉は、上野に言った。

「よし、行くぞ」

 神作真哉と上野秀則は、その隊員たちが出てきて開け広げられたままになっているビルの通用口へと走っていった。


                  4

 空軍基地の無人機操縦室では、非常ランプが灯り、室内は真っ赤に照らされていた。並んでいる全ての操縦ボックスの上下左右のモニターは一面が赤くなってノイズが走っている。操縦桿から手を放した訓練パイロットたちは、皆、途方に暮れていた。

 教官が血相を変えて管制室に駆け込んできた。

「落ちたのは!」

 オペレーターの一人が答えた。

「二番機、四番機、六番機。空中で衝突したのは、八番機と十番機です」

 教官は速足で管制モニターの前に移動しながら指示を出した。

「サブシステムに切り替えろ。一、三、五、七、九番の各機は、墜落回避行動! リモート復帰に備えろ!」

 オペレーターたちが慌しく機械を操作し始めた。その中の一人が答える。

「駄目です。サブシステム、機能しません!」

「なんだって? 機体は!」

「那珂世湾の上空で円周上を旋回中です。旋回周囲は半径五キロ!」

 別のオペレーターが報告する。

「訓練司令本部より入電。奥野大臣です。大型モニターに展開します」

 操縦室の前に広がっている大型モニターに奥野恵次郎の姿が映し出された。彼は表示されると直ぐに怒号をあげた。

『何をやってるんだ、馬鹿者共があ!』

 管制室の中の教官は、ガラスの向こうの大型モニターの方を向いて直立した。気を利かせたオペレーターの一人が卓上マイクを教官の前に持ち上げて支える。教官は直立したまま敬礼した。

「は。申し訳ございません」

 机の上のモニターを見ていた教官補佐の男が叫んだ。

「教官長、もう一機落ちます! 今度は一番機です!」

 大型モニターの奥野恵次郎も、周囲にいる通信兵からの報告に顔を向けている。大型モニターの向こうで騒めきが起こった。再びこちらを向いた奥野恵次郎は凄まじい剣幕で教官に怒鳴る。

『また司時空庁の施設内に落下したぞ! どうなっているんだ!』

 教官は背筋を正して宙を見たまま、深刻な顔で答えた。

「は! 只今、全機の操縦システムがフリーズしました。何者かにハッキングを仕掛けられた模様です!」

 大型モニターの奥野恵次郎は唖然とした顔で言った。

『馬鹿な。システムはSAI五KTシステムを通しているんだぞ。ハッキングなど、あり得んだろうが!』

 教官は困惑した顔で言う。

「しかし実際に、すべてのパイロットの操縦モニターが……」

 ドアが開けられたままになっていた管制室の入り口から、外の操縦室内の黄色い声が聞こえてきた。

「きゃあ、この水着、汗で透けちゃってるう。恥ずかしいー」

「紙製だから、仕方ないわよ」

「この赤い照明が最高だわ! ほらっ、前髪をかき上げて、そう、そうよ、その顔、いいわあ、最高よ!」

 大型モニターの奥野恵次郎は、斜め上を覗き込んで目を凝らしながら言った。

『あいつらはなんだ! そんな所で何をやっている!』

 教官は周囲を見回した。教官補佐の男が、奥野が映っている大型モニターの上のカメラを指差す。操縦室内の様子は奥野がいる訓練司令本部にも届いていた。教官は額から滝のように汗を流し、直立したまま、涙目で弁面しようとする。

「あ、いや、これは何かの手違いでして……」

 大型モニターの奥野恵次郎は、こちらに身を乗り出して一言ずつ強調しながら怒鳴りつけた。

と訊いているんだ! 貴様、そこが国防の重要拠点だど分かっているのか!』

「はっ! も、申し訳ございません!」

『敬礼をしている暇があったら、さっさと、そいつらを摘まみ出せ!』

 操縦室の大型モニターでは、大きく表示された奥野が無音のまま口を動かしていた。操縦室内に通信の音声は送られていない。鬼のような剣幕で憤怒している巨大な奥野の映像の前で、LustGirlsラストガールズのグラビア撮影は快調に進んでいた。

 カメラのピントを調節しながら、勇一松頼斗が水着姿の女たちに言う。

「よし。ラスト一枚。カシャ。――はいっ、終わりい。お疲れサマンサあ。良かったわよお、みんなあ」

 大型モニターを背にして立つ山野紀子が言った。

「お疲れ。じゃあ、後は、ここの広報用の動画撮影だから、こっちの『普通の水着』に着替えてね」

「ええー。水着も迷彩色なんですかあ。ダサーい」

「しかも、これ。オジサンが穿くトランクスみたいじゃない。なによ、これ」

 女たちは口々に不満を述べた。

 別府博は床に座り、手作りの幕を巻いて片付けている。彼の横に立って腕組みをしながら、山野紀子は呆れた顔で水着姿の女たちに言った。

「ここの広報の人たちが一生懸命走り回って準備してくれた物なんだから、文句言わないの。確かに迷彩柄のビキニなんてサマーセーターと同じくらい意味不明だけど、仕方ないでしょ。ほら、さっさと着替えて」

 手を振った山野紀子は、そのまま管制室の方に向かって叫んだ。

「すみませーん。ここでみんな着替えますけど……見ないように……あら?」

 彼女は遠くの様子を眺めながら、声を漏らした。

「な、何か、随分とシリアスな感じね」

 操縦ボックスから出てきて深刻な顔で立っている訓練パイロットたちの間を、険しい表情の技術兵たちが慌しく移動している。伝令兵が管制室の階段を駆け下り、操縦室から外に駆け出していった。管制室の中では、オペレーターたちが必死の形相で下を向いて機械を操作している。

 勇一松頼斗が山野の背後を指差す。山野紀子は振り向いた。大画面に映し出された奥野大臣が、目を剥いて何かを怒鳴り散らしているが、音声は聞こえていない。

 山野紀子は言った。

「あっらー、奥野大臣。――こりゃ、相当に怒ってるわね……」

 すると、そこに駆けつけた教官が額に汗を、目に涙を浮かべて山野たちに怒鳴った。

「さっさと出て行け! 緊急事態なんだ! 頼む、出て行ってくれえ!」

 山野紀子と別府博と勇一松頼斗と半裸の女たちは、慌てて荷物と機材と迷彩柄の水着を持って操縦室から出て行った。


                  5

 空港ビルの一室に国防軍の訓練司令本部が設けられていた。臨時に設営されたその司令拠点には、多くの機材が運び込まれていて、一時的に室内に並べられている。設置されたモニターや機材の前には、軍服姿の若い女性兵士たちが座っていた。イヤホンマイクを耳にはめた彼女たち「オペレーター」は、モニターの映像やホログラフィー画像に目を配って必要な情報を収集し、背後の上官たちに次々と報告する。立ったまま窓の外の空をにらんでいる国防軍情報局長の増田基和ますだもとかずは、オペレーターたちからの報告を聞き取りながら、状況を整理していた。増田の横で折りたたみ式の椅子に座っている奥野恵次郎は、簡易机の上に立てられた小型モニターを鬼のような形相でにらみ付けている。そのモニターには、空軍基地の無人機操縦室の管制室内の様子が映し出されていた。小さなモニターに向かって指を突き向けながら、血管が浮いた顔を紅潮させて、国防大臣奥野恵次郎は怒鳴った。

「貴様ら……いったい自分たちが何をやったか、分かっているのか!」

 小さなモニターに映っている教官補佐の男は、更に小さく身を縮めながら、困惑した顔で言った。

『いや、私は何も……』

 奥野恵次郎は歯を剥いて声を震わせる。

「無人戦闘機がいくらするのか分かっているのか。それを次から次に落としやがって。責任者を出せ! 教官長はどうした!」

『そ、それが……教官長殿は気を失って医務室に……。それで指揮が混乱していて……』

 彼の報告が終わらないうちに、モニターでレーダー哨戒をしていたオペレーターから声が飛んだ。

「三番機、五番機、旋回軌道を離脱! タイムマシン発射施設に向かっています!」

 奥野恵次郎は下唇を噛んで窓の外に目を向けた。空で小さく映る飛行物体が筋雲を引いて東へと向かって行く。

「大臣!」

 増田基和の大きな声が響いた。

 反射的に横を向いた奥野恵次郎は、頷いた。

「うむ。指揮権を一時委譲する。しかるべく対処せよ」

 増田はすぐさま一歩前に出ると、早口で指示を発した。

「コードレッドだ! これより、三番、五番、七番、九番の各機を『敵』とみなす。海上展開している哨戒艇に三番機と五番機を撃墜させろ。空軍にはコード一○七を発令。正規パイロットで無人機を二機、スクランブル出動させろ。標的は七番機と九番機。これは訓練ではない。空海協力して標的の撃破に全力を尽くせ!」

 増田からの司令をオペレーターが次々に伝えていく。

 増田の指示は続く。

「発射施設の屋外にいるSTS隊員は総員退避。緊急回線で命令を出せ。施設内の民間人労働者も直ちに避難させろ。発射施設内に配置している警備用のロボットは全てシャットダウン。人員退避の安全を最優先させるんだ」

 矢継ぎ早に発せられた司令に従い、迅速に任務に取り掛かっていたオペレーターたちから、次々に結果が報告された。

「通信が全て遮断されています。タイムマシン発射施設にアクセスできません」

「緊急無線通信でもコンタクトできません。暗号回線も遮断されています」

 増田は冷静に対応した。

「伝令兵を送れ。付近に展開中の防災隊に施設職員の救助依頼。大臣、よろしいですね」

「已むを得ん」

 奥野の承諾を確認した増田が追加の指示を出す。

「警察は第三ラインまで下がらせろ。周辺道路を封鎖、民間人の保護が最優先だ。発射施設の他の通信回線状況は」

 オペレーターの一人がホログラフィーを素早く操作しながら、大きな声を出した。

「全ラインが遮断。繋がりません。司時空庁タイムマシン発射施設は現在スタンドアロンです。繰り返します、発射施設は現在、スタンドアロン!」

 増田は部屋の隅に顔を向けた。ヘッドセットを被っている迷彩服姿の通信兵が旧式無線機の前に座っている。増田は彼に指示を出した。

「多久実第一基地に緊急指令。第一、第二、第三中隊を直ちに出動させろ。展開地域は司時空庁タイムマシン発射施設!」

 その通信兵はすぐにモールス信号を打電し始めた。

 別のオペレーターが落ち着いた声で冷静に状況を報告する。

「哨戒艇からの熱線探知ミサイルが五番機を撃墜。続いて後発が三番機を追っています。標的との距離は三百メートル……二百メートル、百、五十、――命中。レーダー上より標的は消失」

 続いて他のオペレーターの声が順に届いた。

「哨戒艇より報告。両機の撃墜を目視で確認。三番機、五番機の破片は海上に落下。陸上に被害はありません」

 奥野恵次郎が大きく息を吐いた。

「ふう……なんと片付きそうだな」

「まだ分かりません。これからです」

 厳しい顔でそう言った増田基和は、窓から空をにらんだ。彼の視線の先では、大空に白い大きな輪が浮かんでいる。輪の中で、残った二機の無人機が不気味な旋回飛行を一定速度で続けていた。

 暫くしてオペレーターの一人が報告した。

「ファルコンワン、ツー、攻撃可能空域に到達しました。遠隔操作パイロットに通信を切り替えます」

 室内のスピーカーから、空軍基地の無人機操縦室にいる正規パイロットの声が広がる。

『こちらファルコンワン。旋回中の七番機、九番機をモニターに捉えています。指示されたし』

 イヤホンマイクを耳にはめた増田が指揮した。

「攻撃コードを省略。貴殿の攻撃権限により、七番機、九番機を直ちに撃破せよ」

『了解。これより、攻撃を開始する』

 奥野恵次郎は座ったまま机の上に身を乗り出して、窓から外を覗き見た。

 天空で輪を描いて旋回飛行する無人戦闘機たちを目掛けて、筋雲を引いた二機の無人戦闘機が猛烈な速さで直進していく。すると、円形を描いて飛んでいた二つの機影が大きく外側に旋回して、順に東へと飛行していった。

 再びオペレーターが報告する。

「七番機、九番機、飛行方位を変更。タイムマシン発射施設に向かって直進中。――進路を更に変更、海上に向かって旋回行動。――二機が離れました。七番機が北東に、九番機が北西に直進。七番機、再度、旋回を開始します。続いて九番機も旋回を開始」

「データ照合完了。自軍の追跡回避飛行パターンに適合マッチ。敵は、こちらの攻撃パターンに対し回避行動をとっています。パターンコードはSツー・ヒトマル」

 それを聞いた奥野恵次郎は焦った顔で言った。

「当たり前だ。うちの軍の無人機だぞ。こっちの手の内は全て機体のコンピューターにプログラムされているんだ。無人機同士で落とせる訳ないだろう。さっさと熱線探知ミサイルで撃ち落せ」

 増田基和が直ぐに訂正した。

「無駄です。フル装備の無人機なら、探知回避用の誘導弾も搭載しています。フレアを放たれたら、ミサイルは追えません」

 奥野恵次郎は机を叩きながら怒鳴った。

「さっきは成功しただろうが!」

「まぐれですよ」

 増田基和は動揺しない。そして、すぐにオペレーターに言った。

「哨戒艇に指示。こちらの無人機の攻撃を支援しろ。ジャミング・レーザーを照射して、七番機と九番機のコントロールを奪え」

 オペレーターたちは海上の軍用船にすぐに指示を伝える。

 海上で大きく弧を描いて二方向に分かれた二機の無人戦闘機は、それぞれ時計回りと半時計回りに旋回しながら、内陸方向へと飛んできた。それぞれの無人戦闘機を後から飛来した無人戦闘機が懸命に追う。逃げる無人戦闘機は方向を変えて更に急旋回すると、今度は猛烈なスピードで直進を始め、打ち合わせたように空中で交差した。追尾する二機の無人戦闘機が互いに近づく。一瞬、増田が眉を寄せた。奥野恵次郎は思わず声を上げる。

「ぶつかる!」

 だが、その二機の無人戦闘機は、すれすれの距離で見事に交差し衝突を回避した。二機は急旋回すると、再び標的を追う。机の上に身を乗り出していた奥野恵次郎は、窓から空を見上げながら、強く拳を握り締めた。合流した七番機と九番機は、互いの位置を入れ替えながら、タイムマシン発射施設に向かって直進していく。その後を正規パイロットが遠隔操縦する二機の無人戦闘機が、機体を左右に振りながら猛スピードで追いかけた。すると急に、前を飛ぶ七番機と九番機が水平飛行を始めた。

 再びオペレーターたちが増田に報告する。

「哨戒艇よりジャミング・レーザーが照射されました。七番機に命中。九番機にも命中です。自動捕捉により両機を追尾。七番機、九番機の遠隔操作通信を遮断しました。有効時間は十七秒。距離、二コンマ七、プラスマイナス三キロメートル」

「ファルコンワン、七番機をロックオン。ファルコンツーもロックオンしました」

 増田は躊躇することなく言った。

「よし。落とせ」

 スピーカーから正規パイロットの冷静な声が、たて続けに聞こえる。

『ファイヤー』

『ファイヤー』

 すぐにオペレーターたちが、レーダーで確認された状況を報告した。

「両ファルコン機よりロベルト・ミサイルを発射。到達軌道上を進行中。高度よし。――ミサイルがレッドゾーンに到達。九番機、マーク。距離、五百、三百、二百、百、五十、――命中。続いて七番機にも命中」

「七番機、九番機、レーダーより消失。信号反応なし」

 奥野恵次郎は椅子の背もたれに身を投げて、鼻から大きく息を吐いた。

 スピーカーから声がする。

『こちらファルコンワン、ツー。各標的を撃破。攻撃権限の行使を停止し、これより機体を帰還させる』

 増田基和は言った。

「ご苦労。よくやった」

 しかし彼の表情は緩んでいない。

 オペレーターの報告は続いた。

「発射施設との通信が回復。全STS部隊との連絡も可能です」

 増田が再び瞬時に指示を出す。

「警備ロボのシャットダウンを急げ。避難人員を誤射する可能性もある」

 他のオペレーターからの報告が更に続く。

「哨戒艇より報告。七番機、九番機の撃破を目視により確認。七番機の機体残骸は海上に落下。九番機の機体は発射施設内に落下です」

 眉間に皺を寄せた奥野恵次郎が口を挿んだ。

「空港への被害は」

 一人のオペレーターが少し振り向き、増田の顔を見る。増田が小さく頷くと、そのオペレーターは奥野に答えた。

「ありません」

 別のオペレーターが早口で、しかし落ち着いたリズムで報告した。

「移動中の第一、第二、第三、各中隊がタイムマシン発射施設を攻撃有効範囲に捉えました。間もなく全中隊のオムナクトが目標に到着します。支援オスプレイも後続中。うち、先行機はヒトマル後に到着予定」

 続いて迷彩服の通信兵が増田に向けて親指を立てて見せた。その後に手信号も送る。

 頷いた増田基和は再び大きな声で指示を発した。

「第一及び第二中隊は施設建物内を探索。敵の侵入に備えよ。第三中隊は南方面にて海上からの攻撃に警戒。念のため空港とのレーザー通信を構築し、指示を待て。現地のSTS部隊に出向中の国防兵は第三中隊に組み込み、国防軍の指揮下とする。敵に警戒し、防災隊の救助・救出・消火活動の安全を確保せよ。これより指揮権を国防指令本部作戦司令室に移譲する。以上」

 増田基和はイヤホンマイクを外した。

 オペレーターたちが各自素早く機械を操作しながら、受け取った指示を各部署に口頭で伝えていく。通信兵も慌しく無線機を操作して、部隊に増田の指示を送った。

 緊張した空気が消えていない狭い臨時の司令室の中で、増田基和は深刻な顔のまま窓の外の景色をにらんでいた。


                  6

 空軍基地の駐車場で、山野紀子はレンタカーのトランクに荷物を積み込んでいた。隣で勇一松頼斗が撮影道具を丁寧に積み込んでいる。別府博は、向こうに駐車してある送迎用のミニバンにビーチガウンを着たLustGirlsラストガールズのメンバーを乗せていた。

 荷物を積み終えた山野紀子は、腰に手を当てて言った。

「ちょっと、どうなってるのよ。なんか、思っていたよりも大変な状況じゃない。まさかしんちゃん、また何か余計なことをしでかしたのかしら」

 スチール製の大きな箱をトランクに入れた勇一松頼斗が、呆れた顔で山野を見て、トランクカバーを閉めた。彼は不安な顔をしている山野に提案した。

「とにかく、電話してみたら」

「そうね」

 ジャケットの下のジレーの胸元に挟んだイヴフォンを操作して、山野紀子は神作のイヴフォンに電話を掛けた。

「あ、もしもし、真ちゃん。どう? 中に入れた?」

 山野の左目が青く光っていた。


                   7

 発射管の土台部分は低層のビルになっている。神作真哉と上野秀則はそのビルの中に居た。彼らが得ていた情報では、この建物の中のどこかにタイムマシンの整備ドッグがあり、機体はそこで発射の前の最終チェックがされているはずだった。

 窓の無い長い廊下の先では、白い戦闘服と防具で武装したSTSの兵士が周囲に目を光らせている。角に隠れてそれを覗いていた上野秀則は、後ろに下がりながら後方の神作を押した。上野が首を横に振ったのを見て、イヴフォンで山野と通話していた神作真哉が声を殺して言う。

「ああ、何とかな。今、発射管の真下のビルの中だ。それより、お前ら何やってんだ。無人機が雨霰のように降ってきたぞ。やり過ぎだろうが。ストリップショーでもしてたのかよ」

 立ち尽くしているロボットの前に浮かぶ山野の像が答える。

『知らないわよ。こっちはただ撮影してただけ。なんか、こっちも大変なことになっているけど、そっちで何かあったの?』

「とにかく、こっちは大混乱だ。なぜか国防軍の本隊から応援の部隊がオムナクト・ヘリやオスプレイで運ばれてきた。警備用のロボットは停止しているみたいだが、右も左も生身の兵士だらけだ。全く身動きがとれねえよ」

 山野の像は目を丸くして言った。

『ロボットも置かれてたの』

「ああ。予想以上の警備態勢だ」

『シゲさんたちは?』

「分からん。この様子だと、たぶん捕まってるな」

『そっか。でも、ま、それなら計画通りね』

 上野秀則が神作の肩を叩き、上を指差した。神作真哉が視線を上げると、天井に換気口の網目の蓋があった。天井の裏に通気用のダクトが走っているようだ。

 神作真哉は横目で見にくそうに天井を見回しながら言う。

「ああ、とにかく行くわ。ぐずぐずしてると、田爪瑠香を乗せたタイムマシンが発射しちまうからな」

 換気口の前に浮かぶ山野の像は、心配そうな顔で下を見ながら言った。

『気をつけてよ』

「ああ。じゃあ、後でな」

 神作真哉はイヴフォンの通話をオフにした。

 上野秀則が天井を見上げながら小声で言う。

「換気用のダクトだな。これ、タイムマシンの発射台の中まで続いているはずだよな」

「ああ、たぶんな。よし、お前、こっちに来い」

 神作真哉は上野を自分の前に移動するよう手招きした。上野秀則が移動する。神作真哉は下を指差しながら上を見て言った。

「ここに四つん這いになれ」

「あ? 俺が載せるのか?」

「当たりまえだろ。俺が四つん這いになって、その上にお前が載っても、お前の身長じゃ届かねえだろ」

「くっそー」

 悔しそうな顔をした上野秀則は、神作の足下で四つん這いになった。神作真哉は上野の背中の上に載り、手を上に伸ばして通気口の蓋を下に引いて開けた。一片に蝶番ちょうつがいが付いている蓋は、天井裏のダクトにぶら下がって下向きに開き、出入り口が口を開けた。その小さな四角い穴の縁に手をかけて、腕力で上に体を引き上げようとする神作。背中から神作の靴底が離れたのを確認した上野秀則は、すぐに立ち上がって神作の足を持ち、下から彼を押し上げた。神作真哉は狭い入り口からダクトの中に体をねじ込むように入れる。上野秀則は必死に神作の足を押し上げて、彼を補助した。神作真哉は上野の頭部を踏み台にして一気に上がると、中に腰から上を入れた。足を引き上げてダクトの中に入れ、狭い空間で長い体を横にする。なんとか反転してうつ伏せになった彼は、音をたてないようにして、ゆっくりと足下の方向に後退した。

 狭い入り口の前に顔を移動させた神作真哉の真下で、上野秀則が頭の埃を払っていた。入り口から少し頭を出した神作真哉は窮屈そうに体を動かして、体と入り口の隙間から左手を出して伸ばした。上野秀則は上着を脱いで、背中の靴の跡形を手で払っている。神作真哉が声を押し殺して言った。

「おい、うえにょ、何やってんだ。カメラだ。まずはカメラを……」

 その時、角の先の廊下の奥から兵士の声が聞こえた。

「なんだ、物音がしたぞ。向うだ。急げ」

 駆けつけてくる兵士たちの足音が響いてくる。

 上野秀則は、手を伸ばしている神作の横でぶら下がっているダクトの蓋を慌てて下から押し上げた。神作真哉はそれを左手で掴むと急いで引き上げて、内側から閉めた。神作真哉は息を殺して蓋の金網部分から下を覗く。

 大急ぎで上着を着た上野秀則は、すぐに壁に手をついて寄りかかり、明後日の方に顔を向けて口笛を吹いているフリをした。

 角を曲がって飛び出したSTSの白い武装兵たちが、上野に銃口を向けて構える。先頭の兵士が声を上げた。

「居たぞ。侵入者だ」

 他の兵士が上野に機関銃の先を向けて怒鳴る。

「おい、お前。両手を頭の上に乗せて、床に膝をつけ!」

 上野秀則は渋々それに従った。

 頭の後ろで手を組んで膝を床につく上野の背後で、兵士がヘルメットに手を添えて通信している。

「こちらユニットフォー。三人目の侵入者を発見した」

 無線で返事が返ってくる。

『了解。どっちだ。長身の方か』

「いや、小さい方だ」

『服装は』

「情報どおり背広を着ている。そっちの二人は」

『こっちも情報どおりだ。赤いパーカーにジーンズと白髪頭にジャケットだった』

「そうか。じゃあ、残りは長身の男だな。白のワイシャツ姿だ」

『ああ。かなり目立つはずだ。楽勝だよ。とにかく、残りはあと一人だ。徹底的に捜せ』

「了解した。まず、こいつを連行する」

 その兵士は上野の腕を掴むと、背中の後ろに捻じり上げた。

「立て。来るんだ」

 上野秀則は兵士たちに連れて行かれた。他の兵士たちも周囲を警戒しながら去っていく。

 ダクトの蓋の金網から下を覗いていた神作真哉は、項垂れて言った。

「ああ……カメラが……」

 神作真哉は蓋の上に額をついた。


                  8

 レンタカーのAI自動車を別府博が運転している。後部座席には山野紀子と勇一松頼斗が並んで座っていた。

 朝早く集合して撮影に臨んだ三人は少し疲れていた。山野紀子は宙を見て独りで何かをボソボソと言っていて、勇一松頼斗も車窓に肘をついたまま、その手に顎を載せて外を眺めている。水着ギャルの接待に疲れた別府博は、眠そうな顔でハンドルを握っていた。彼は落ちてくる瞼を必死に上げて、何度も頭を振っては、欠伸を繰り返している。

 突如、勇一松頼斗が声をあげた。

「発射施設の上空で無人機同士の戦闘だって。かなり激しく、ドンパチやったみたいよ」

 彼は握っていたウェアフォンを顎に当てて他人と通話していたのだった。

 別府博は目を擦りながら、勇一松に尋ねた。

「戦闘? マジな奴ですか? ふああ……」

 勇一松頼斗はまた欠伸をした別府の頭を叩いてから言った。

「起きなさいよ。危ないでしょ。――カメラマン仲間の話じゃ、多久実たくみ基地方面からオスプレイやオムナクト・ヘリが何機も発射施設の方に飛んで行ったって。かなりマジみたいよ。みんな大丈夫だったかしら」

 別府博は頭を押さえながら言った。

「寝てませんよ。ちゃんと、起きてますって。ほら、もう着きましたよ。――それより、重成さんは囮で捕まる予定だったんですよね。後は、神作さんと上野さんと……」

 勇一松頼斗は横を向いて、隣の山野に言った。

「ねえ、編集長、ハルハルは? あの子は大丈夫なの?」

 勇一松に肩を叩かれた山野紀子は、人差し指を唇の前に立てて言う。

「シー、今、そのハルハルと話してるのよ。静かに」

 山野紀子の左目は青く光っていた。イヴフォンで脳内通話をしている最中だった。

 勇一松頼斗は頷いて、彼女の通話が終わるのを待った。彼は眉間に深い縦皺を刻んで、心配そうな顔で山野を見続けた。

 車内が暗くなった。

 三人を乗せたレンタカーは、新日ネット新聞ビルの地下駐車場へ続くスロープを下っていった。


                  9

 こげ茶色のドアが開き、上野秀則が兵士に背中を押されて中に入ってきた。頬を膨らませている彼は、後ろ手で縛られている。彼の後から白い防具で武装した二人の兵士たちが入ってきた。上野秀則は二人に押されて歩く。暖色系のLEDライトに照らされた短い廊下を抜けると、高級ホテルの一室のような広い部屋が広がっていた。廊下の終わりで立ち止まった上野の背中を後ろから白い鎧姿の兵士が強く押す。上野秀則は部屋の中にバランスを崩しながら駆け込んで来た。

 部屋の奥の壁際にはキングサイズのベッドが置かれていた。綺麗に整えられたシーツの上に、後ろ手に縛られたままうつ伏せて屈んでいる赤いパーカーにジーンズ姿の女が居た。彼女は大きな枕に顔を押し当てて泣いている。その横で、やはり後ろ手に縛られた胡麻塩頭の初老の男が、ベッドから足を下ろして角に腰掛けていた。

 重成直人は、こちらに歩いてくる上野を見て言った。

「よう。遅かったですな」

「んー。うん、うん」

 上野秀則は頬を膨らませたまま何度も頷く。ベッドの前まで歩いてきた彼を、また兵士が後ろから強く押した。上野秀則は赤いパーカーの女の隣にうつ伏せで倒れ込んだ。

 上野を突き飛ばした兵士が言った。

「こいつが小柄な平面顔。白髪ジジイに赤いパーカーの女。残りは長身の中年男だけだ」

 隣に立つもう一人の兵士が頷く。

「ああ、神作だ。情報では、そいつが一番厄介だそうだ。――ったく」

「賭けは俺の勝ちだな。言った通りだろ。長身の中年男が残るって」

 顔を上げて振り向いた上野秀則は、自分を押した兵士をにらみ付けて言った。

「誰が平面顔だ! この野郎。ふざけやがって」

 その兵士は上野たちを見下ろしながら言った。

「重成と春木と上野だな。残りは神作だろ。神作は何処に行った」

 ベッドの上で上半身を起こした上野秀則は、そっぽを向いて答えた。

「知らんよ。途中ではぐれたんだ。こっちが探して、ウッ」

 その兵士が上野の腹部に銃床の床尾を打ちつけた。身を丸くした上野秀則は、激しく咳込む。兵士は上野に言った。

「嘘を言うんじゃない。奴はどこだ」

 上野秀則はニヤニヤとしながら顔を逸らしていた。その兵士は機関銃を振り上げる。

 重成直人がその兵士をにらみながら低い声で言った。

「やめておけ。ここに来ることを誰にも言わずに来ていると思っているのか。俺たちがいずれ解放されることくらい、あんたらも分かっているだろう。こっちはマスコミだぞ。国の官庁に所属する兵士が尋問で一般市民に暴力を振るったとなれば、いろいろとマズイんじゃないか。まして、マスコミの人間に」

 その兵士は頭の上に振り上げた機関銃を下ろすと、悔しそうな顔をして舌打ちした。

 隣にいたもう一人の兵士が彼に言う。

「この爺さんの言うとおりだ。俺たちはコイツらを捕まえて、ここに入れておけと言われただけだ。余計な面倒に巻き込まれる必要はない。ほら、もう一人を探しに行くぞ」

 そう言って、その兵士は廊下の方に歩いていった。

 上野をにらんでいた最初の兵士は、一言だけ言い放った。

「クソッ。なめやがって」

 背中を向けたその兵士は、不機嫌そうに肩を上げて歩いていき、部屋から出ていった。

 部屋の中に自分たちだけになると、重成直人が上野に言った。

「大丈夫ですか、デスク」

「ああ……ああ、大丈夫、大丈夫です」

 上野が大きく息を吐いてそう言うと、重成直人は赤いパーカー姿の女に顔を向けた。

「もういいぞ」

 その女はピタリと泣くのをやめて体を起こした。彼女は首を細かく左右に振って垂れた前髪を横に動かすと、深刻な顔をして言った。

「やっぱり、思ったとおりでしたね。誰か密告者がいる」

 ベッドの端に腰掛けている重成直人は、赤いパーカー姿の永峰千佳を見ながら言った。

「ああ。どうやら、千佳ちゃんのことをハルハルちゃんだと思っているみたいだな」

 上野秀則が重成の顔を見ながら、眉間に皺を寄せて言った。

「ということは、年齢の情報は流れていない……ウッ」

 永峰から背中に膝蹴りを食らった上野秀則は仰け反った。

 重成直人が上野に尋ねる。

「で、これからどうします」

 上野秀則は苦しみながら答えた。

「ゲホッ、ゴホッ……とりあえず、神作が捕まるのは時間の問題でしょうね。後はハルハルだが、その前に、何とか山野に連絡を取らないと。密告者が分かりましたから」

 重成直人は天井の隅に視線を向けて言った。

「デスク、あれ」

 重成の視線を追って天井の隅を見た上野秀則が言う。

「監視カメラですか。音声は?」

 永峰千佳が答えた。

「マイクは付いていないみたいですね。どこかに仕掛けられているかもしれないけど」

 上野秀則は大きな声で言ってみた。

「そうかあ。神作がこの屋根裏にいるんだけどなあ。カメラがあれば、すぐには出てこれないなあ……」

 そして暫らくドアの方を見ていた彼は、今度は普通の声の大きさで言った。

「――と言っても、兵士が誰も入ってこないってことは、ここの音声は拾われてないってことだな」

 永峰千佳が尋ねた。

「キャップは、どこなんです?」

 後ろ手のまま体を捻って永峰の方を向いた上野秀則は言った。

「換気ダクトの中だ。その中を伝って、タイムマシンのある場所まで向かってる。それより、永峰、その枕の下のイヴフォンを取ってくれ」

 ベッドの上で数回跳ねて腰を枕の前まで運んだ永峰千佳は、背中を枕に向けて座ったまま、縛られた両手をその下に入れた。枕の下に転がっていた卵型の小さな機械が彼女の手に触れた。永峰千佳はそれを両手で掴むと、背中の方に少し持ち上げてから言った。

「あ、ありました……けど、なんか、ヌルヌルと……」

 上野秀則が言う。

「口の中に隠してたんだ。すまん」

「ちょっ、汚っ」

 永峰千佳は咄嗟にイヴフォンを放り投げた。ベッドの上を転がったイヴフォンは、ベッドと壁の隙間に落ちた。上野秀則が焦った顔で言う。

「あ、馬鹿、何やってんだ。山野に電話できないだろ」

「そんなら、自分で取って、かけて下さいよ」

 永峰千佳は、背後で縛り合わされた手をシーツで拭きながら、そう言った。

 上野秀則は前屈みになって自分の背後の両手を見せながら言う。

「俺だって、こうやって後ろで両手を縛られてるんだから、自分では掛けられないだろ」

 永峰千佳は重成の方を向いて言った。

「じゃあ、シゲさんにやってもらえば……」

 重成直人は首をゆっくりと横に振りながら答えた。

「俺は昭和生まれだから、そんな機械は苦手だよ。使い方が分からん」

 永峰千佳は、今度は本当に涙目になって言った。

「嘘でしょ。何でこんな人の口の中にあった物を触らないといけないのよ。もう!」

 ベッドから降りた永峰千佳は、背中の両手を壁とベッドの隙間に差し込んで、嘆いた。

「三〇過ぎたから? だから私の扱いは、これなんですか? オッサンの口の中にあったイヴフォンを、どうして私が……」

「オッサンって、お前……。俺は一応、社会部の次長なんだけどな……」

 上野秀則は下を向いて項垂れた。


                  10

 司時空庁タイムマシン発射施設の搭乗者待機施設ビル。そこは高級リゾートホテルに近い建物だった。契約によりこの建物の中から外に出ることを禁じられ、タイムマシンの発射日まで数日かけて様々なチェックや手続きをする搭乗予定者たちのために、施設の中には様々な保養設備やアミューズメント設備等が設けられ、充実した時間を過ごせるようになっている。朝昼晩の食事も豪華だった。その食事は地下の広い厨房で作られる。その厨房は、通常は、外部から派遣された一流料理人たちによって、タイムマシンに乗る予定の一人ないし四名分とその補佐役数十名分のコース料理が作られる場所だが、今日は視察にやってくる予定の議員団の議員たちの他、その秘書、関係者たちの分まで数百名分の食事を急遽準備しなければならず、厨房の中は異常に慌しい。臨時に増員された派遣職員たちで犇き合い、ごった返している。包丁がまな板を叩く音や、水分が一気に蒸発する音、調理器具がぶつかる金属音、ガラスが重なる高音が、あちらこちらで鳴り響いていた。奥の方では、白い調理着を着て縦長の白帽を被った一流料理人たちが、鍋を振ったり、食材を切ったり、盛り付けをしたりしている。手前の幅の広い流し場では、白い割烹着姿の女たちが一列に並んで立ち、忙しそうに野菜の皮を剥いていた。その先では、白い調理着に白いキャップを被った眉の太い筋肉質な男が立って、その調理場の一画を監視している。

 彼は高いベッタリとした声で言った。

「いいかあ、緊急警報なんて関係ねえぞ。一流の料理人ってのはなあ、いつ、いかなる状況でも、最高の料理を作るのが仕事だあ。上で火事が起きても、台風が来ても、そんなの関係ねえ。お前らも、手を抜くんじゃねえぞお。分かったかあ!」

 一斉に声を揃えて返事をする割烹着姿の女たち。彼女たちは、積み重ねられた食材のダンボール箱を背に、担当する野菜の皮を素早く剥いていった。その中で、一人だけ不器用に包丁を握り、ジャガイモの皮を必要以上に分厚く剥いている小柄な女がいた。彼女が剥いたジャガイモは、本来の大きさよりも二周り小さくなっている。汗を浮かべた額の上には大きめの三角巾を被り、顔には大きなマスクをしていた。その間の左目は、ピンク色に光っている。彼女の脳内にだけ浮かんで見えている山野紀子が言った。

『なんか、すごい気合が入ったシェフね。料理に命を懸けてるって感じじゃない』

 春木陽香はジャガイモの皮をせっせと剥きながら小声で言った。

「本当に命懸けじゃないですか。なんか、さっき、すごい爆発音が聞こえましたよ」

『もう、戦闘は終わったみたいだから、大丈夫よ』

「私の戦闘は終わってませんよ。剥いても、剥いても、キリがないし……」

 一人でブツブツと言いながらジャガイモの皮を剥いている春木を指差して、太い眉の男が言った。

「おい、そこの新入り。何ブツブツ言ってんだ。何か不満か?」

 春木陽香はすぐに取り繕った。

「あ、すみません。独り言です。つい、癖で。あはははは」

 その男は春木の傍まで歩いてくると、横から彼女の前のバケツを覗き、言った。

「なんだ、まだ半分じゃねえか。おせえなあ。あのな、ディナーの準備じゃねえんだぞ、ランチだからな。皮剥いただけのジャガイモを生で食わせるつもりかよ。調理する時間もあるし、アク抜きする時間もあるんだぞ。八時までには全部終わらせろよ。いいな」

「は、はい。皮剥き機になったつもりで、頑張ります!」

 御辞儀をした春木陽香に、その男は嫌味たらしく言った。

「いいか、料理人はな、まずは皮剥き三年だ。いくら、お偉い政治家先生からの紹介だからって、甘やかしたりはしねえからな。分かってるな」

「はい、ありがとうございます。頑張ります」

 男は去っていった。

 視界に映っている山野が言う。

『あらら、大変ねえ。でも、いい練習になったでしょ』

 春木陽香は、また小声で話す。

「ええ。そりゃあもう。肉じゃがやシチューの下準備には自信がつきました。もし今度、ジャガイモの皮剥きについての記事を書くことがあれば、かなり細かく書ける自信があります」

『でも、あんた、料理の腕を磨くためにそこに入ったんじゃないんだからね。何としてもタイムマシンの発射を止めて、田爪瑠香を救い出すのよ。でないと、あんた本当にその調理師の派遣業者の社員になっちゃうわよ』

「分かってますよ。調理師免許どころか、料理の才能も持ってないのに、ここに転職したら一生ジャガイモの皮剥きで終わりそうですから」

『頼んだわよ』

「でも、なかなか抜け出せない……」

「おい」

「はい!」

 太い眉の男が春木の肩の上から顔を出した。彼は顔を春木の耳に近づけて言う。

「芽は残さず、ちゃんと全て取り除くんだぞ。いいな」

「はい。分かりました。ご指導、ありがとうございます。――あの、ちょっと、剥いた皮が溜まって邪魔なんで、捨ててきてもいいですか」

「おう、行ってこい」

 男の承諾を得た春木陽香は、包丁と剥きかけのジャガイモを置くと、ジャガイモの皮で一杯になっているバケツを持って厨房から出て行った。


 バケツを重たそうに持ちながら、左目をピンク色に光らせた春木陽香は言った。

「やりました。脱出成功です。これから、上の階に向かいます」

 階段の前に浮かんで見える山野の像が心配そうな顔で春木に言う。

『気をつけなさいよ。そこで戦闘があったってことは、兵士たちは相当に殺気立っているからね。もし兵士に見つかったら、変な動きはしないで、すぐに降参するのよ。撃ってくるわよ、きっと』

「分かりました。でも、何で私が料理会社に体験入社なんですか? これ、シゲさんが紹介された仕事なんですよね」

 視界の前に浮かぶ山野の像を段差と重ねないように、春木陽香は少し横を向いた。彼女は視界の隅で段差を確認して、慎重に階段を上る。

 階段の前に浮かぶ山野の像が両手を肩の高さに上げて首を傾げた。

『有働には全部バレてたってことよ。だから、彼の口が利くここの出入り業者を紹介してくれたの。シゲさんじゃなくて、一人だけ監視から外れたあんたを入れろってことだったのよ』

「まあ、お蔭で私は楽に宿泊施設の中に入れましたけど、最初の計画でも良かったんじゃあ……わっ」

『どうした?』

 視界の中央に浮かぶ山野の像が邪魔をして前がよく見えないまま階段を上っていた春木陽香は、何か人らしき物にぶつかった。彼女はバケツを置いて、視界の隅でその硬い物を見た。それは人型のロボットだった。手は四本付いている。そのロボットは階段の上の段に右足を乗せて、斜め上を見上げたまま停止していた。

 春木陽香は言った。

「あ、いや。ロボットです。警備用の。――でも、電源は入ってないみたいです」

『そう。真ちゃんが言ってたけど、どのロボットも動いてないって』

「そうなんですか。――あ、それで、計画を変えたのは、どうしてなんですか」

『どうもね、ウチの会社の中に、司時空庁と内通している奴がいるみたいなの。そいつから最初の計画が漏れていたのよ。道路占用許可申請のことも、ラストガールズのグラビア撮影のことも。有働はそのことを知っていたから、私たちに手を差し伸べてくれたんだと思う』

「私のこともバレてたんですか。調剤薬局で永峰先輩と入れ替わったこととか、会社に宿直しているフリをしてるってこととか」

『たぶんね。でも、手は打った。千佳ちゃんに、この前のハルハルと同じ恰好でそこに潜入してもらって、ハルハルとして捕まってもらったから。だから今は、奴らはあんたのことを追ってはいないと思う』

 ニコニコとした顔で語る山野の像を見て、春木陽香は眉を寄せて言った。

「なんか、安心は出来ないですけど……」

 階段の下から男の声がした。

「ん。なんだ、足音がしたぞ。誰か居るのか」

 春木陽香は慌てて小声で山野に言った。

「あ、来た。ちょっと切りますね」

 買ったばかりのイヴフォンを慣れない手つきで操作して通話を終了した春木陽香は、再びバケツを両手で持ち上げて、ヨタヨタと階段を駆け上がっていった。すると、下から声が響いた。

「待て、上に居る奴、止まれ!」

 踊り場に辿り着いた春木陽香は、下と上をキョロキョロと交互に見た。下から兵士たちが階段を駆け上がってくる足音が聞こえる。少し考えた春木陽香は、行動に出た。

「えいっ!」

 彼女はバケツを振ってジャガイモの皮をあたりに撒き散らした。

 暫らくすると、肩の高さで自動小銃を構えた白い戦闘服姿の兵士が二人、下から階段を上がってきた。兵士たちは息を切らし、駆け足で階段を上ってくる。

「くそっ。神作か、止まれ」

 踊り場に出てきた先頭の兵士が、そこを曲がろうとして、ジャガイモの皮で足を滑らせた。彼は天井に向かって数発の銃弾を放ちながら、床に転がった。もう一人の兵士がすぐに手を貸して転んだ兵士を引き上げて立たせた。その兵士は、角でうずくまっていた三角巾にマスクをしている割烹着姿の女に気づいて、慌てて駆け寄ってきた。

「大丈夫か、怪我は」

 春木陽香はしゃがんだまま首を横に振った。

 その兵士は尋ねた。

「誰か逃げていかなかったか」

 春木陽香は黙って上を指差した。

 その兵士のヘルメットの内蔵イヤホンから、仲間からの無線の声が聞こえてきた。

『どうした。発砲データが送信されてきたぞ。敵か』

「いや、今のは事故だ。ちょっと、足を滑らしただけだ。なんでもない。今、地下一階と地上一階の間の東階段の踊り場にいる。ここは問題ない。神作が上にいるかもしれん。これから追う。上の階からも味方を下ろしてくれ。挟み討ちにしたい」

『分かった。すぐに回す。そのまま探索を続けろ』

 通信を終えた兵士は、春木にもう一度声をかけた。

「ここの従業員か。部屋に入っているんだ。危ないぞ」

 二人の兵士はすぐに階段を駆け上がっていった。

 春木陽香はマスクを顎にずらして息を吐いた。

「ふう……」

 春木陽香は空のバケツを持ったまま、階段を上がっていった。


 一階の廊下に出た春木陽香は、そこから中央ロビーの方に歩いて行く。ロビーへと続く廊下の角から顔を出した彼女は、周囲を見回した。兵士たちはいない。

 春木陽香は改めて水平に景色を見回した。大理石を一面に敷き詰めた広いエントランスロビーが広がっている。

「うわあ、豪華あ……」

 彼女は視線を上に移した。半壊した巨大なシャンデリアの全体をに透明のシートが覆っている。吹き抜けの上の方に目を凝らすと、高層階の一部が青いビニールシートで覆われていて、目隠しがされていた。

 春木陽香は呟いた。

「やっぱり、襲撃は本当だったんだ……」

 ハッとした春木陽香は、空のバケツを床に置いて、割烹着のポケットに手を入れた。

「忘れるところだった……」

 彼女はポケットから薄型のレーザーカメラを取り出した。

「ライトさんから使い方を教わったんだった。レーザー撮影って、フラッシュの閃光が走らないんだっけ。ええと……」

 春木陽香はその小型の特殊カメラで周囲の状況を撮影した。壊れたシャンデリアや上層階のビニールシートの撮影を終えた彼女は、少し満足気な顔で独り言を発した。

「こういうのを使ってみたかったのよね。映画のスパイみたい。女スパイ・ハルハル……なんちって」

 レーザーカメラを持ってポーズをとってみた。ちょっと自分が恥ずかしくなった。

「――壊したらライトさんに叱られちゃうなあ。仕舞っとこ」

 春木陽香は、その借り物の特殊カメラを大事そうに割烹着のポケットに仕舞うと、再び空のバケツを持って、来た方角に戻っていった。


 春木陽香が注意深く階段を上っていると、また兵士たちの声が聞こえた。

「くそ。居ないぞ。やっぱり下だ。もう一度、一階ロビーから捜せ」

 今度は上の方から足音が聞こえてくる。春木陽香は慌てて戻り、三階の廊下に出た。廊下を走って奥に進むと、その先の曲がり角からも足音が聞こえてくる。彼女は周囲を見回して隠れる場所を探した。すると、向かい側にある結婚式場の打ち合わせ室のような作りのブースが目に入った。彼女は本能的にそちらに走った。春木の肩の高さの低い壁が立ててあり、その向こうに空間を空けて鏡が取り付けられた壁がある。兵士たちの足音が近づいてきた。春木陽香は空のバケツをひっくり返して置くと、それを踏み台にして、その低い壁を乗り越えようとした。プラスチック製のバケツが微妙にきしむ。

「ああ、どうか、太ってませんように……」

 壁を乗り越えた彼女は、すぐに壁の下に身を隠した。

「よし。セーフ、セーフ」

 春木陽香が満足気に笑みを浮かべていると、兵士たちの声が壁の後ろから聞こえた。彼女は置きっぱなしのバケツに気付かれないかと心配しながら、息を殺す。

「居たか」

「いや、こっちも居ない。早く見つけないと、津田長官に叱られるぞ」

「俺たちは出向で司時空庁に来ているだけだ。あんな奴の顔色を伺う必要はねえよ。とにかく、行くぞ。一階から再チェックだ」

 兵士たちの足音は遠くの方に消えていった。

「ふー。こっちの方もセーフ……」

 大きく息を吐いた春木陽香は、改めてその低い壁で区切られた一画を見回した。向こうの方には畳が敷かれているスペースがあり、奥に大きな姿見が立てられている。鏡の横には待針が指された針留めや巻かれたメジャーが置いてあった。どうも何かの試着コーナーのようだ。

 春木陽香は奥へと進んだ。壁の後ろへと続く廊下があり、その突き当たりに、映画館のドアのような分厚い革張りの両開きの扉がある。彼女はそこに進んで、片方のドアを押してみた。ドアは開いていた。

 もう一度、キョロキョロと辺りを見回した春木陽香は、ドアを押し開け、その中に吸い込まれるように入っていった。

 ドアは静かにゆっくりと自動で閉じられていった。


                  11

 赤いパーカー姿の永峰千佳は、ベッドに据わったまま、前屈みになっていた。背後で縛り合わされた両手でイヴフォンを持ち、腰から離して高く上げている。彼女は苦悶の表情を浮かべて、呟いた。

「うう……吐きそう……」

 永峰の後方で、上野秀則が後ろ手で縛られたまま前屈みになり、永峰が自身の腰の前に上げているイヴフォンに顔を近づけていた。彼の左目は黄色く光っている。永峰の背面で上げられている両手が動くたびに、それに合わせて頭を動かしながら、彼は言う。

「そうなんだ。だから、永峰を見てハルハルだと思うってことは、やっぱり、情報を流したのは、そいつだよ。最悪、変更した計画の全てが相手に漏れているかもしれん」

 上野の視界に映っている山野の像が答えた。

『そうなの。わかった。それじゃ仕方ないわね。こっちで調べるわ。ありがと』

 山野の不自然な返答に、上野秀則は眉間に皺を寄せながら話した。

「ところで山野、おまえは今、何処にいるんだ。まさか、近くにそいつが居るんじゃないだろうな」

 赤いパーカーのフードの前に浮かぶ山野の像が答える。

『うん、さっき、会社に着いたところ。今ちょっと忙しくて手が離せないの』

 少し考えた上野秀則は、山野が何かに気を使って通話しているのを察した。

「そうか、分かった。とにかく、俺たちは暫らくここで大人しくしている。そっちが済んだら、後は手はず通り頼む」

『分かったわ。そっちも忙しいのにごめんね。あ、そうだ。他に新ネタは入ってる?』

「新ネタ? ――神作か。いや、俺たちはホテルの一室みたいな所に入れられちまったから外の様子が分からん。たぶん、ここは搭乗者の待機施設ビルだ。神作はまだ発射棟のビルにいるはずだ。ダクトを伝ってタイムマシンのドッグに向かっているはずだが、ここに連れて来られていないところをみると、まだ見つかっていないんだろう。それより、問題はハルハルだ。永峰がハルハルじゃないとバレたら一気にハルハルの身が危険になる。この現状では、フリーになっているあいつが一番、田爪瑠香に近づいているはずだ。ここの連中はきっと神作よりもハルハルの捕獲に力を入れるぞ。もし施設の中でハルハルが田爪瑠香を見た後に捕まったら、あいつ、口封じのために殺されてしまうかもしれん。急いでくれ」

『へえ、そうなんだ。大変ねえ』

「あいつが田爪瑠香の撮影に成功したら、すぐに外に出すんだ。タイミングが大事だからな。慎重にたの……」

 部屋の中に白い防具の兵士が入ってきた。その兵士は永峰の背中で両手に握られているイヴフォンを見つけると、ベッドの所に駆けてきた。

「おい! 何やってやがる!」

 兵士は上野を突き飛ばし、永峰からイヴフォンを取り上げた。永峰千佳は急いで両手をシーツで拭いた。兵士は取り上げた小さな機械を見て、それがイヴフォンであると分かると、上野の方をにらみ付けて言った。

「貴様……」

 イヴフォンを激しく床に投げつけたその兵士は、そのまま戦闘用のブーツを履いた足でそれを踏み潰した。

 上野秀則が声を上げる。

「ああ! 新品なのに!」

 粉々に壊れたイヴフォンを見て、上野秀則は深く項垂れた。


                  12

 新日風潮編集室の自分の席に座ったまま、山野紀子は慌てて胸元のイヴフォンのボタンを押した。彼女は椅子の背もたれに身を倒すと、目頭を押さえて苦しそうに言った。

「うう……相手が強制終了すると、こうなるのね……いたたた」

「どうした、大丈夫かね。何かあったか」

 机の前に立つ黒木局長が心配そうな顔で尋ねた。

 別府と勇一松がそれぞれの席から黒木の背中と山野の表情を見ている。

 山野紀子は両肩を上げてゆっくりと首を回しながら答えた。

「いえ、別に……。ちょっと、イヴフォンの操作を間違えただけです」

 黒木局長は呆れた顔をしていたが、山野が調子を戻すと彼も真顔に戻り、尋ねた。

「それで、上野君や神作君のチームの行方は分かったかね」

 山野紀子は黒木から視線を逸らして、自分のイヴフォンを指差しながら答える。

「あ、いいえ。今の電話は他誌の芸能記者でしたから」

「芸能記者? そんな奴らが神作君の居所を知っているのか」

「知らないそうです。そもそも新聞記者の動向なんかは追ってないって怒ってました」

「そうか……。よわったな。那珂世湾上空で大規模な事故が起きたというのに、これじゃ人手が足りん。社会部の担当分野なんだがなあ……」

 黒木局長は頭を掻いた。

 山野紀子が尋ねる。

「事故なんですか」

「ああ。杉野副社長が軍と司時空庁に直接問い合わせたそうだ。軍は無人機を標的とした実弾演習だと言い張っているが、司時空庁の回答では、新人パイロットがリモート操縦していた無人演習機同士の多重接触事故らしい。空の玉突き事故だよ。市街地に墜落するのを避けるために、海軍が哨戒艇からミサイルを発射して空中で破壊した、そういうことだそうだ」

 山野紀子は怪訝な顔で言った。

「司時空庁が発表したことを信じるのですか」

 黒木局長は厳しい表情を山野に向けて、押し切るような口調で言った。

「事故当事者の国防軍の発表よりは信憑性があるだろう。今回の場合、司時空庁は被害者だ。とばっちりを受けた訳だからな。腹癒せに色々と言ってくるのは当然だ。それに、あそこの情報収集能力は高い。とすれば、総合的に考えて、信じてもいい情報だろ。そんなことより、神作君だ。彼は今どこに居るんだ。連絡はつかんか」

 山野紀子は眉をひそめて言う。

「タイムマシンの発射施設に、数機が突っ込んでいくのを見たという情報がありますが」

 黒木局長は首を傾げてから答えた。

「知らんよ。きっと、撃ち落されて落下した機体の一部がそう見えたのさ。十機も飛んでいたらしいからな。すぐそこは樹英田きえた区の住宅街だ。そこに落とさないように、手前に落下させたのかもな。それより、君も元妻なら、彼の携帯番号くらい……」

 山野紀子は椅子から立ち上がると、黙って廊下の方に歩いていった。

「おい、どこに行くんだ」

 そう尋ねた黒木に、山野紀子は狭い廊下を歩きながら背中で答えた。

「確認してきます。裏取りは記者の基本ですから」

「おい、ちょっと待ちたまえ。その前に神作君の居所を……」

 山野紀子は黒木の問いに答えること無く、外の廊下へと出ていった。


                  13

 廊下の曲がり角に白い鎧姿の兵士が姿を現した。肩で構えた機関銃の銃口を前に向けたまま素早く角を直角に曲がった兵士は、廊下の先の景色を確認して安全を確認する。

「クリア。進行に問題なし」

 肩で据銃したまま腰を落として前に進む兵士の後から、津田幹雄が姿を現した。彼は当然のように角を曲がり、速足で発射施設内のビルの廊下を進んでいく。眉間に皺を寄せ、表情は険しい。彼は癇声を上げた。

「くそっ。国防軍は何をしているんだ。最悪の状況じゃないか。松田君、――松田君……松田あ!」

 立ち止まって振り向いた津田に、後ろからついて来ていた佐藤雪子が言った。

「松田部長は、タイムマシンの発射室に向かいましたわよ。状況の確認に」

「そうか。被害は報告されているか」

「いいえ。タイムマシンにも発射システムにも、被害は出ていない模様ですわ」

「じゃあ、予定に変更は無いな。発射予定時刻まで、あと何分だ」

 佐藤雪子は左手を持ち上げ、内巻きにはめられた高級腕時計を見ながら答える。

「五十七分です」

 津田幹雄は再び廊下を歩き始めた。彼は速足で進みながら指示を出した。

「大至急、田爪瑠香をタイムマシンまで移動させる。STSの警備兵を適正配置しろ」

「長官、それが……」

 最後尾をついて来ていた兵士の中の一人が津田に声を掛けた。津田幹雄が立ち止まる。

「何だ」

 その兵士は振り返った津田の前に歩み出て敬礼をしてから、彼に言った。

「コードレッドにより、指揮系統が一元化されました。我々STS隊員は現在、国防軍の直接指揮下にあります。警備態勢の変更は、軍の作戦本部の許可を取らなければ……」

 津田幹雄は拳を握ったまま肩を上げて言った。

「うーぬ……奥野大臣……あの馬鹿が……」

 佐藤雪子が隣に立つ兵士に尋ねた。

「長官の護衛は命令に入っていますの?」

「はい。警護の優先順位では、搭乗者と民間人の次に……」

「では、長官が直接、田爪瑠香を迎えに行って、タイムマシンまで付き添われては。それなら、移動経路を警備するのは、当然ですわよね」

 顔を向けた佐藤に、その兵士は敬礼して答えた。

「は。確かに」

「よし。そうしよう」

 津田幹雄はすぐに決断した。彼は兵士たちを指差しながら指示する。

「君と君、ここに残ってくれ。他は私についてきたまえ。他の警備兵は、経路に適正配置だ。ああ、佐藤君、君はここまででいいよ。ここから先は危険だからね」

「あら、お優しい方ですわ」

 上目遣いでそう言った佐藤に、津田幹雄は胸を張って応えた。

「ここからは男の仕事だ。ははは」

「勇ましい。素敵ですわ」

 津田幹雄は勢いよく振り返ると、白い戦闘服の兵士たちの先頭に立って歩き始めた。

「よし、行くぞ。残りの一人がどこかに潜んでいる。警戒を怠るな」

 兵士たちを率いた津田幹雄は、廊下の中央を得意気な顔で歩いていった。


                  14

 暗い部屋の中で、春木陽香は壁のスイッチを探していた。スイッチを探り当てた彼女が照明を点けると、高い天井から眩い光が室内を照らした。その部屋は、かなり広かった。ハンガーに掛けられて吊るされた衣装が奥の方までずらりと並んでいる。その衣装の列は長く、列の先にあるはずの突き当りの壁が見えない。見回すと、同じような衣装の列が何列も並んでいた。広大な部屋の中は無数の衣装で埋め尽くされていた。

 春木陽香は左右を交互に見ながら、衣装の列の間を奥へと進んだ。掛けられている様々な衣装は、奥に進むにつれて少しずつデザインを古くしていく。春木陽香は、時代順に並べられたそれらの衣装を見回しながら言った。

「わあ。いろいろ有るなあ。すごーい」

 天井からプレートが提げられていた。二〇一〇年代と書いてある。その下の古い漫画のキャラクターの絵がプリントされた服を手にとって、彼女は言った。

「ああ、これかあ。私も着てたなあ。懐かしー」

 その服を列に戻すと、彼女はまた奥へと歩き出した。

「なるほどねえ。ここで、タイムトラベルする行き先の時代の服に着替える訳だあ。で、外の鏡の前で試着して、補正したりする。そういうことかあ……」

 左右をキョロキョロと見回しながら歩いていると、遠くの方に煌びやかな和装が列からはみ出しているのに気づいた。春木陽香はそこまで駆けていった。近くでよく観察してみると、その衣紋掛に掛けられて一段高い位置に吊るされていた着物は、何枚もの衣が重ねられていた。

 春木陽香は、その十二単を下から見つめながら、首を傾げた。

「こんな昔まで行けるのかな……」

 暫らく考えてから戻ってきた彼女は、西洋風のドレスの前で立ち止まり、それを列から引き出して、目を輝かせた。

「わあ、素敵。レトロだけど、品があるわね。いいなあ」

 春木陽香は辺りを見回した。

「せっかくだから、ちょっと着てみようかな」

 割烹着姿の春木陽香が後ろを振り向くと、後ろの列にはベージュ色の詰襟の軍服が掛けてあり、それに軍帽とブーツ、外套が合わせてあった。彼女の脳裏に、フード付きのマントを着た朝美と黒尽くめでマスクを被った由紀が蛍光棒を振り回している姿が浮かんだ。

 春木陽香は手に持っていたドレスを見つめて、また暫らく考えると、首を振った。

「いけない、いけない。これじゃ、私、中学生のあの子たちと同じレベルだ。今は仕事、仕事」

 元の場所に近い所へと戻り、彼女は衣装の中から必要な物を物色し始めた。

「ええと、この割烹着姿じゃ、上の階では怪しいわよね。厨房は地下だもんね。この施設の上の階に居ても不自然じゃない恰好は……清掃員か。でも、わざわざ清掃員の格好して過去に行く人はいないよね。やっぱり、ここには無いかあ。何か、それらしい組み合わせは……」

 春木陽香は衣装を見ながら移動して、一九三〇年代と書かれたプレートの下で足を止めた。地味な色の質素な服が並んでいる。吊るしてある衣装をずらして適当な物を探し、その中の何着かを選択した。

「あ、これと、これにしよ。何か、こんな感じだよね。うん」

 春木陽香は、組み合わせてある衣装の中からばらばらに取り外した何着もの衣類を抱えて、試着室の方へと走っていった。


                  15

 神作真哉は暗い換気ダクトの中を少しずつ進んでいた。彼は、窮屈な空間で細かく体を動かしながら、愚痴をこぼした。

「くそ……狭いな……。昔の……映画で、こんなのを見たことが……、あいつ、どんだけ小柄なんだ……」

 突き当たりにぶつかった。ダクトがT字路になって左右に分岐している。

「ええと……どっちに行けば……ああ、そうだ」

 彼は、その狭い空間で体をくねらせて、ズボンのポケットに手を伸ばした。

「あの映画では、ライターだったけど、今の時代は、これですね……と」

 彼はイヴフォンを取り出した。ワイシャツの襟に挟んだイヴフォンを起動させ、それに記憶させていたデータを呼び出す。神作の視界に建物の設計図のような映像が広がった。

「ハルハルに、防災隊のメイン・サーバーから過去の訓練用図面をコピーしてもらっていて正解だったな。ええと、今いるのは……ああ、ここか。ということは、右だな。よっ」

 狭い空間で長い身を曲げながら、神作真哉はダクトの分岐点を右へと進んでいった。


                  16

 新日ネット新聞社の副社長室。その広い個室の奥には、こちら向きに大きな両袖の机と重役椅子が置かれ、周囲には十分なスペースが空いている。壁に飾られた大きな西洋絵画の下には、ゴルフクラブが挿されたバッグが立ててあった。部屋の中央には、大人数が座れる来客用の長い高級ソファーが向かい合わせて置かれている。山野紀子は、その片方のソファーの奥の位置に座っていた。部屋の中に居るのは、彼女と、向かいに座っている鼻の大きな男だけである。

 低い大理石製の応接机を挟んで、山野の向かい側に座っている杉野浩文すぎのひろふみ副社長は、険しい顔を見せて彼女に言った。

「じゃあ、今は、神作たちはタイムマシンの発射施設の中に居るんだな」

 山野紀子は頷いて答えた。

「はい。しかも、非常に危険な状態です。特に、ウチの春木は」

「まったく。何をやってるんだ、君たちは」

 顔をしかめた杉野副社長は、ソファーの横のサイドテーブルに置かれた内線電話機に手を伸ばした。

 山野紀子は凛として答える。

「取材です。人の命を救うための」

 杉野副社長は電話機に伸ばした手を止めると、一瞬だけ山野の顔を見た。そして、電話機のボタンを押すと、表面に浮かんだホログラフィーを操作して、電話を掛けた。数回だけ呼び出し音が鳴った後、電話機からホログラフィーで背広姿の肥えた老人が映し出された。彼は制止したまま動かない。若い女性の声が聞こえてきた。

『お電話ありがとうございます。飯田古市いいだふるいち法律事務所です。当事務所の営業時間は平日午前九時から……』

 留守番電話の応答メッセージだった。まだ営業時間ではないらしい。杉野副社長は電話機のボタンを押して、飯田弁護士のホログラフィーを消した。

 彼は不機嫌そうに言う。

「まったく、大事な時に使えない顧問弁護士だ」

 そして、すぐに背広のポケットからウェアフォンを取り出すと、表面に電話帳のホログラフィーを表示させて、検索を始めた。

 向かいの席でそれを見ていた山野紀子が彼に言った。

「副社長。もう一つ、重要な事実が」

「なんだ」

 電話帳のホログラフィーに目を凝らしながら無愛想にそう答えた杉野に、山野紀子は更に言った。

「その前に、一つ質問があります」

 今度は山野に視線を向けて、杉野副社長は言った。

「何だね。早く言いたまえ」

 山野紀子は落ち着いた声で杉野に尋ねる。

「新聞の方に圧力を掛けて来たのは、司時空庁の津田長官でしょうか」

 杉野副社長は電話帳ホログラフィーをスクロールさせながら、山野に答えた。

「取材停止の件か。そうだ。記事を出せば、全省庁からウチの記者を締め出すと言ってきた。だから記事掲載を断念した。それだけだ」

「ですが、重大な事実が判明した場合は、どうされるおつもりですか。例えば、神作チームの記者たちが、今日、津田幹雄の進退に関わる何かを掴んで来たとしたら」

 杉野副社長は視線をウェアフォンに落としたまま答える。

「物による。一発で辛島政権ごと吹き飛ぶようなネタなら、載せてもいいが、中途半端なネタでは、その後でウチが狙い撃ちされる。それでウチの記者が各省庁から締め出しを食らってみろ、ネット新聞のページは空欄だらけになる。そんなことが一回でもあれば、ウチの電子新聞のアクセス数は一晩で半減するし、二回続けば三桁に落ち込むだろう。そして、ウチは倒産だ。こっちはインターネットに掲示している時事新聞なんだぞ。君たちが出している紙の週刊誌とは違うんだ。高性能サーバーに空いたバイト数を、芸能ネタで埋めるわけにはいかんのだよ」

「新聞を守るために、真実に目を瞑れと仰るのですか」

 杉野副社長はウェアフォンを握っている手を下ろすと、山野の顔を見て答えた。

「そうは言ってない。政治絡みの記事は権力との駆け引きになる。君も政治記者なら、よく分かっているだろう。相手に闇雲に喧嘩を売れば、痛手を被るのはこっちだ。他の記事も全て出せなくなるんだぞ。だから、相手を打ちのめす、これといった確かなネタを掴むまでは記事は出せんと言っているんだ。記事が出せん以上、取材の正当性も失われる。自重するのは当然じゃないかね」

 再びウェアフォンを顔の前に持ち上げて電話帳データを検索する杉野に、山野紀子が確認した。

「暫く時を待てと」

「そういうことだ」

 杉野副社長は半ば反射的にそう答えたが、一度大きく息を吐くと、ウェアフォンを上着のポケットに戻して、改めて山野に尋ねた。

「それで、とは何だね」

 山野紀子は真剣な面持ちで答えた。

「その新聞を窮地に立たせようとしている者がいます」

「どういうことだ」

「津田長官に、こちらの内部情報を漏らしている人間です」

 杉野副社長の眉間に皺が寄る。

「裏切り者か」

「はい」

「誰だ」

 山野紀子ははっきりと答えた。

「黒木局長です」

「黒木? 根拠は」

 山野紀子は杉野の目を見たまま、説明を始めた。

「当初私たちは、現場近くで私たちが実施する予定だったグラビアの撮影に乗じて先にウチの春木が潜入し、彼女の手引きで、こちらの神作キャップ、上野次長、それに重成記者の三名が発射施設内部に侵入して、施設の奥まで進むという計画を立てていました。しかし、先程の上野次長からの連絡では、その情報が、そっくりそのまま司時空庁側に漏れていた可能性があるということです」

 杉野副社長は少し間を空けたが、直ぐに山野に言った。

「誰かがリークしたというのは解かるが、それが黒木だという根拠は」

「相手側に漏れていた情報の内容です。司時空庁側は、追加で潜入に加わってもらったこちらの永峰記者を、ウチの春木だと思って、現在も拘束しているそうです」

 杉野副社長は一度首を傾げると、そのまま促した。

「それで」

 山野紀子は淡々と説明を続けた。

「私が永峰記者に潜入の際に着て行くよう指示した服装は、ウチの春木が司時空庁の監視から逃れた際の服装なんです。赤いパーカーとジーンズ。司時空庁の監視者に春木が身を隠したことに気付かれないよう、同じ服装をした永峰記者に春木と入れ替わってもらい、暫く春木を演じてもらいました。そして、そのまま、春木がウチの当直室に寝泊りしているかのように装っていたんです。もし、内通者が、今日彼らが潜入することを司時空庁に事前に伝えるとしたら、潜入予定者の氏名と共に、何らかの特徴を伝えるはずです。例えば、神作キャップなら長身の男、重成記者なら胡麻塩頭、上野次長なら……」

「うだつが上がらなそうな顔か」

「そうです。上野次長の場合は、私と副社長の意見が一致するように、それなりに客観的な特徴ではあります。ですが、ウチの春木には、これといった特徴がない。せいぜい、若い娘という程度です。多少可愛らしい所はありますが、それは主観的な好みの問題でしょうから、情報としては曖昧です。そこで、内通者から司時空庁に伝わった春木の特徴は、おそらく彼女の服装。それも、春木と永峰記者が入れ替わった際の服装です」

「どうして」

 杉野副社長は眉を寄せた。

 山野紀子が話を続ける。

「情報をリークしたのが内部の者なら、春木がウチの当直室に寝泊りしていたと認識していたはずです。もちろん、ウチの別府や勇一松は、春木が本当は別の場所で寝泊りしていることを知っていた訳ですが、もし彼らが情報をリークしたのなら、春木の服装が違うということも知っていたはずです。まして、入替わりの際の服装をそのまま伝えるはずがありません」

「つまり、春木君とウチの永峰が入れ替わった際の服装のまま、春木君が当直室に寝泊りしていたと思い込んでいる人物が内通者だということか」

「その通りです。――ですが、実際には春木は当直室には居なかった訳で、当然、その服装では誰とも会っていません。一方で、永峰記者は、春木と同じ服装をしたまま、一人だけ接触した人物がいます」

 杉野副社長の眉間に更に深く皺が刻まれた。

「黒木か」

 山野紀子が頷く。

「はい。五月二十五日火曜日の朝、寺師町の薬局で春木と入れ替わり、私たちと共に司時空庁の追っ手を振り切った永峰記者は、このビルに正午前に戻ってきました。そして、その赤いパーカーを着たまま、社会部の編集フロアに戻り、そこで上野次長に事態を報告したそうです。その後、元の自分の服に着替えるために更衣室に向かった。その際、一瞬だけ黒木局長とすれ違ったそうです。上野次長の所に神作キャップの居所を確認に来た黒木局長と」

「奴はそれが春木君だと思っていたということか」

「おそらく。彼女は包帯を頭に巻いていましたから、顔が見えなかったのでしょう。だから、春木がそのままの服装でうちの当直室に寝泊りしていて、同じ服装で今日の潜入を決行すると考えた。いや、思い込んでいた。だから、その服装を司時空庁側に伝えたのだと思います。春木の特徴として」

 杉野副社長は首を傾げると、ソファーに深く身を倒した。

 山野紀子は更に説明を続ける。

「ちなみに、上野次長の話では、司時空庁側は潜入する予定の記者たちの氏名を正確に把握していたそうです。――実は、上野次長ではなく、ウチの別府を代わりに行かせるという案もありました。しかし、潜入して掴まる役は『新聞』組で引き受けるという結論になり、上野次長が当初の予定通り潜入することになったんです」

 ソファーに身を倒したまま、杉野副社長は山野に言った。

「じゃあ、潜入する予定のメンバーは流動的だったんだな。確定したのは、いつだ」

「昨夜遅く。ここの社会部の編集フロアで」

「その時に、君らの他に社に残っていたのは」

「黒木局長と谷里部長です」

 杉野副社長はすぐに身を起こして電話機に手を伸ばした。ホログラフィーによる立体通信のキャンセルボタンを押して音声のみの通話に切り替えると、今度は内線ボタンを押して秘書を呼び出した。秘書が出るとすぐに、彼は受話器が置かれたままの電話機のマイクに向かって声を発した。

「社会部の谷里部長に繋いでくれ」

 暫らく待つと、谷里のオフィスに電話が繋がった。杉野副社長は相手の声がスピーカーから聞こえる状態にしたまま、電話機のマイクに向かって穏やかな声で言った。

「ああ、谷里君。朝早くからすまんね。ちょっと訊きたいんだがね。君、下の風潮社の記者の春木君という人物を知っているかね」

 谷里部長の声が返ってきた。

『はい。この頃よく、ウチのフロアに顔を出していますので。例の山野さんと一緒に。何か、上野君や神作君と共に司時空庁の記事の件でコソコソ動いているようです』

「そうか、けしからん奴だ。実は、こっちに請求書が届いていてね、それが何のことか分からないんだ。端の方に『春木』とだけ記載されている。君、何か心当たりは無いかね。ここ十日間の、何かの使用額のようなんだが」

『さあ……何でしょう。――あ、社会部のフロアのパソコンでネットゲームでもしていたんじゃないですか。たまに、そういう駄目な社員がいますでしょ。だいたい、週刊誌の記者ですから、まじめに仕事をしているとは……』

 彼女の返答の途中から杉野副社長が話し出した。

「そうか。いや、もういい。悪いが、君から黒木局長にも尋ねといてもらえるか。ちょっと、困っていてね、急いでいるんだよ。レスポンスが早いと助かる」

『分かりました。すぐに訊いてみます』

 杉野副社長は電話機のボタンを押して通話を切ると、腕組みをして山野の顔を見た。彼は言う。

「さて。掴んで尻尾が出るか、スカか……」

 暫らくすると、サイドテーブルの上の電話機が鳴った。内線ボタンが点滅している。杉野副社長は、やはりまた立体通信をオフにして、音声のみの通話方式で電話に出た。黒木局長の声が聞こえてきた。

『おはようございます、副社長。話を聞きました。風潮社の春木君の名が記された請求書が届いているとか』

「そうなんだ。何か思い当たることは無いかね」

『おそらく宿直の際の宿泊経費ではないかと。彼女は、この十日ほど下の風潮社の宿直室に泊まり込んでいたようですからね。その際の光熱費の請求が、間違ってウチに回ってきているのではないでしょうか』

 杉野副社長は一度、山野と顔を見合わせると、すぐに電話機のマイクに顔を近づけて、黒木に尋ねた。

「そうか。どんな子かな。そんなに長く泊まっていたのなら、一度くらい見ていても不思議じゃないのだが」

『そうですね、私も一、二度しか見たことは無いのですが、あまりこれといった特徴のない、普通の感じの子ですね。よく、赤いパーカーを着てますよ。ご覧になったことはないですか』

 杉野副社長は眉間に皺を寄せながら、声は穏やかに作って答えた。

「――ああ、思い出したよ。赤いパーカーだな。――そうだ、早朝から悪いが、君、後で私の部屋まで来てくれないか。人事のことで君に話がある」

 少し高くなった黒木の声が返ってきた。

『じん……は、はい。ありがとうございます。では、すぐに伺います。よろしくお願い致します。失礼します』

 通話を切った杉野副社長は、再びボタンを押し直し電話を掛けた。今度は受話器を持ち上げて耳に当てている。

「ああ、私だ。人事部長の自宅に繋いでくれ」

 杉野副社長は受話器を耳に当てたまま暫らく待ち、再び話し出した。

「うん、私だ。副社長の杉野だ。休み中にすまん。実は、一人動かしたい男がいる。来週までに、この本社から動かせる所で一番遠い所は何処かね。職級は何でも構わん。――そうか。悪いが君、今から出てきて至急手配してくれたまえ。――そうだ。大至急たのむ」

 受話器を電話機の本体に戻した杉野副社長は、山野の方を向き直して言った。

「それで。潜入して拘束されているウチの大事な記者たちを、君はどうやって救い出すつもりかね。当然、そこまでの計画も立ててあるのだろう」

 山野紀子は姿勢を正したまま答えた。

「もちろんです」

 杉野副社長は山野の目を見て尋ねる。

「その後の責任の取り方もかね」

 山野は頷いたが、杉野副社長はそれから目を逸らして言った。

「ま、君の会社のことは、私はどうこうは言えんがね」

 山野紀子は真っ直ぐに杉野の目を見たまま、言った。

「いえ。御社の記者たちを巻き込んでしまったのは事実です。ですから、こうして伺いました。本当に申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げる山野を見ていた杉野副社長は、それまでの険しい顔を弛めて、上着のポケットからウェアフォンを取り出しながら、彼女に言った。

「――まったく。君は昔から変わらん女だな。分かった、行きたまえ。早いとこ、旦那を救ってやれ。放っておくと、あいつが一番無茶をするからな」

 立ち上がった山野紀子は、再度、杉野に一礼した。

「失礼します」

 出口のドアに向かう山野の背後で杉野副社長の声がする。彼はウェアフォンを耳の下に当てていた。

「ああ、光絵会長ですか。私です。新日ネット新聞の杉野です。ご無沙汰しております。あの、畏れ入りますが、実は少しお力を借りたいことが……」

 山野紀子は振り向いて杉野を見た。

 杉野副社長はソファーに座って通話をしながら、手を振って早く出て行くように山野に促した。

 山野紀子は黙ってもう一度、杉野に頭を下げると、その広い副社長室から出て行った。


 秘書室の前を通って広い廊下に出た山野紀子はイヴフォンをいじりながら廊下を歩いていた。向うから黒木局長が小走りでやってくる。彼の足取りは軽い。彼は山野に言った。

「お、山野君、忙しそうだね。さては、君も新聞に引き戻されたか。いや、実は私も今、副社長から呼ばれた所だ。何の話かは分からんが、人事の話だと言っていた。人事の。急な話で驚いたが、とにかく、色々と細かく積み上げてきた甲斐があったよ」

 山野紀子は冷ややかな視線を送りながら言った。

「そのようですね」

「ま、元ご主人のことは心配しなくてもいい。私には、それなりにコネクションもあるんだ。解放されるよう、私が何とかしてやろう。大船に乗った気でいなさい。はははは」

 大きな声で笑いながら、彼は副社長室の方へと歩いていった。

 誰も、黒木に神作たちが司時空庁のタイムマシン発射施設に潜入しているとは言っていない。勿論、拘束されているかもしれないことも。

 彼の背中を見つめながら、山野紀子は溜め息を吐いて呟いた。

「別府君と同レベルね……」

 その時、彼女のイヴフォンが鳴った。山野紀子は急いで通話ボタンを押す。

「もしもし、真ちゃん? 今どこなの?」

 彼女は小走りで階段へと向かった。


                  17

 狭く暗い換気ダクトの中で、真っ黒に汚れた顔の左目を緑色に光らせながら、神作真哉は声を殺して言った。

「お前なあ、なんで大事な時にマナーモードにしてるんだよ。馬鹿か」

 ダクトの中に浮かぶ山野の像が、笑いながら答える。

『ごめん。無事なのね、よかった』

 現実の今の山野の様子とは違うことが分かっていても、少し気を悪くした神作真哉は、不機嫌そうに答えた。

「よくねえよ。困ってんだよ、ものすごく」

『どうしたの?』

「今、換気ダクトを通っているんだ。もう少し進めば、すぐそこにタイムマシンが見えてくる、はずた。で、撮影したいんだが、肝心のカメラが無いんだよ」

 山野紀子の像が両手をバタバタと上下させて目を見開く。

『ええー! 何してんのよ。持って行ったでしょ。落としたの?』

「ちっげーよ。うえにょだよ。あいつ、カメラを持ったまま兵士たちに捕まりやがった」

『もう、何やってんのよ。それじゃ意味無いじゃない。どうして真ちゃんはいつも大事な物を忘れるのよ。例の釣竿だって、ずっと、うちに……』

 換気ダクトの中で神作真哉は広げた手を前に上げた。

「分かった。もう、それ以上言うな」

 一度深呼吸した神作真哉は、気分を変えて山野に言う。

「それでな、さっきから、このイヴフォンで撮影できないかと、色々と試してるんだが、よく使い方が分からないんだ。で、お前に電話したって訳」

 ダクトの中に浮かんでいる山野の像は、腰に手を当てて、体ごと首を横に傾けた。

『……あのねえ、その端末、カメラレンズが付いてないでしょ。撮影は出来ないのよ』

 神作真哉は目を丸くして言った。

「な……マジか」

『マジよ』

「動画の記録も?」

『全部無理。レンズが付いてないって言ってるじゃない』

「はあー……」

 神作真哉は落胆して額を床に打ち付けた。音が響く。

 近くの廊下に居たSTSの兵士たちが天井付近からの物音に反応して視線を向けた。天井から吊られた換気ダクトの中から微かに声が聞こえる。兵士たちは高い角度で据銃してダクトの下へと進んでいく。

 暗闇の中に浮かんでいる山野の像は、両手を上げて神作に言っていた。

『もう、そこまでで十分よ。撮影できないんじゃ、津田とも交渉できないわね。これ以上無理すると危ないから、真ちゃんは大人しく投降して。後はこっちに任せて』

「馬鹿、それじゃハルハルが……」

 鈍い金属音が一度だけ短く響いた。神作の目の前に白煙が漂う。煙の中を斜めに一筋の光が走っていた。光はダクトの内壁側面の下側に開いた小さな丸い穴から注がれている。その光線を辿ると、光は、反対側の壁の高い位置に開いた同じ大きさの丸い小穴を通って外に出ていた。漂う白煙の前で山野の像が手をバタつかせて慌てている。

『ちょっと、今の音、何よ。銃声じゃなかった?』

 神作真哉はそっと手をワイシャツの襟元に運び、イヴフォンを外して通話を切ろうとした。次の瞬間、神作の前方のダクトと足下の先の後方のダクトの内壁に無数の火花と光線が交互に現われ、ダクトの中で連続する金属音を反射させた。神作真哉はイヴフォンを放り投げ、両耳を押さえて身を縮める。

 新日ネット新聞社ビルの階段の踊り場で神作と通話していた山野紀子は、脳内に連続して響いてくる銃声に、思わず叫んだ。

「真ちゃん! 真ちゃん、大丈夫? 真ちゃん!」

 前後にそれぞれ縦一列に銃弾を浴びた換気ダクトの管は、その間の部分が千切れて落下した。大きな機械が何台も置かれている広いフロアに低い衝突音が響く。床に転がっている歪んだダクト管を白い戦闘服姿の兵士たちがしっかりと機関銃で狙ったまま取り囲む。ダクト管がガタガタと動いた。その中から真っ黒に汚れた神作真哉が頭を押さえながら這い出してくる。

「いってえ……マジかよ……」

 彼が頭を振ってから周囲を見回すと、銃口を向けたSTSの隊員たちが周りに立っていた。その中の一人がヘルメットに手を添えて仲間と通信している。

「こちらユニットシックス。神作真哉を捕獲した。整備ドッグの中だ」

 神作真哉は観念したようにゆっくりと躰を起こす。その隣の歪んだダクト管の中には、神作のイヴフォンが通話状態のまま残されていた。マイクが拾った周囲の音を山野の脳内に伝えている。

 階段の踊り場で立ち尽くしたまま、山野紀子は必死に呼びかけていた。

「もしもし、真ちゃん。撃たれたの? ちょっと、返事してよ、真ちゃん! もしもし」

 返事は無かった。彼女はイヴフォンの通話を切り、階段を駆け下りていった。

 その頃、神作真哉は床に胡座をかいたまま、ハンカチで顔の汚れを拭き取っていた。彼の横にいる兵士が天井を見上げて、ダクト管の切り口を観察しながら言った。

「見事な腕前だな。誰が撃った。お前か?」

 彼の隣の兵士が答える。

「いや、俺は撃ってないぞ。お前じゃないのか」

「俺も撃ってない」

「俺もだ」

「じゃあ、誰だ」

「……」

 神作を取り囲んでいた兵士たちの顔色が変わった。

「くそっ、他に誰かいるぞ! 銃を持っている! 警戒しろ!」

 一斉に振り向いて神作に背を向けたSTSの兵士たちは、腰を落として機関銃を構え、周囲にいるはずの発砲者を探した。震える手で銃を支えながら、兵士の一人が声を放つ。

「どこにいる! 撃ったのは誰だ! 出て来い!」

 そこから少し離れた場所に置かれた機械の陰で、紺碧の鎧を装着した大男が左右の手にそれぞれ握った最新型アサルト・カービンの銃口を真上に向けたまま、小声で呟く。

「俺だっての」

 その時、彼のイヤホンマイクに無線通信が入った。

『そこまででいい。撤収しろ』

「ですが……」

『そのまま攻撃を続ければ味方討ちになるぞ。撤収しろ。命令だ』

 その大男は、ふて腐れたような顔で言った。

「りょーかいです」

 紺碧の大きな影は、音もなく闇間へと姿を消した。


                  18

 発射施設の搭乗者待機施設の中は、白い鎧や深緑の鎧で武装した兵士たちが、あちらこちらで走って移動している。兵士たちは時折、銃口を廊下の奥に向けたり、部屋の中を確認したりして敵の探索を実施していた。

 数人の兵士たちが走り去った絨毯張りの廊下に、小柄なモコモコとした人影が角から現れた。長靴を履いていて、井桁模様の黒いモンペを穿き、その上は刺子織の半纏はんてんの上から無理に白いエプロンをしている。その女は顔にマスクをして、頭には防空頭巾を被っていた。

 手に持った雑巾があまり汚れていないことを気にしながら、彼女はコソコソと廊下の隅を歩いた。途中、金箔が貼られた柱の前で立ち止まると、そこに映る自分の姿を見て首を傾げる。マスクをずらして顎に掛け春木陽香は、自分の恰好を見ながら呟いた。

「やっぱり、なんっか、清掃員とは違うよね、これ。どうもモコモコし過ぎだよなあ」

 彼女は体を右に向けたり左に向けたりして自分の姿を再確認し続ける。

「このエプロンが余計なのかな。ハリーカイ・ヒルズの雲雀口ひばりぐちさんは、エプロンはしてなかったような……」

 暫く金箔の柱を見つめていた春木陽香は、防空頭巾の中で首を縦に振った。

「よし。これは外そう。リアルさがない」

 エプロンを外し、小さくたたんだ彼女は、再度、金箔に映る自分の姿を確認して眉を寄せた。

「うーん。こりゃ失敗だな。どう思い出してみても、雲雀口さんは、こんな恰好はしてなかったもんなあ。これじゃ、部外者だってバレちゃうよね。どうしよう……」

 人の気配がした。春木陽香は慌てて近くのドアの前にしゃがみ、金色のドアノブに息を吐きかけながら、手に持ったエプロンでそれを磨く。向うから走ってきた白い鎧の二人の兵士が彼女の背後で立ち止まった。その内の一人が白いヘルメットの側部に手を当てて無線通信を聞いている。春木陽香は畳んだエプロンで必死に金色のドアノブを磨くふりをしながら、背後の二人の声に耳を傾けた。後ろに立つ一人の兵士の声が聞こえてくる。

「了解した。では、侵入している敵が更に他にも居るんだな。武装もしていると」

 もう一人の兵士が言っている。

「とにかく、搭乗者の移動経路を固めろ。長官の指示では、搭乗の実施が最優先だ。敵の探索は後からでもいい。我々は、搭乗者と長官の警護に三十八階に向かう。お前らは各階のエレベーターホールを固めるんだ。誰もホールには近づけるな。いいな」

 春木陽香はドアノブを拭きながら小声で呟いた。

「三十八階かあ……」

 背後の兵士が走っていった。もう一人の兵士も走り出したが、すぐに立ち止まって振り返った。そのまま春木の背中をじっと見ている。顔を隠してドアノブを磨く春木陽香。

 その兵士が言った。

「おい、お前」

「はい! な、何でございましょう」

 背中を向けたままビクリと肩を上げて答えた春木に、兵士は言う。

「そんな所の掃除はいい。早く避難しろ。武装した敵が侵入しているかもしれん。戦闘に巻き込まれるぞ」

「はあ……あ、ご親切にどうも」

 顎の下から口元にマスクをはめ直した春木陽香は、防空頭巾を被った頭を深々と下げて御辞儀をすると、彼らとは反対方向に速足で去っていった。


                  19

 上野たちが居る部屋のドアが外から開けられた。後ろ手に縛られた神作が押されて入ってくる。ワイシャツは真っ黒に汚れ、首も煤だらけである。顔の汚れは拭き落とされていたが、所々がまだ汚れていた。ドアが閉められ、外から鍵がされる。

 廊下から部屋の中に姿を現した神作真哉は、ベッドの上に腰掛けている後ろ手姿の永峰と重成、上野の姿を見て、安堵の息を吐いた。

 疲れた様子の神作の姿を見て、重成直人が言った。

「よう、お疲れちゃん」

「お疲れっす」

 神作真哉は重成に軽く頭を下げた。

 永峰千佳が細めた目で神作を見ながら尋ねた。

「口の中に、何か入れてないでしょうね」

「何を。――?」

 神作真哉は不可解そうな顔をした。

 永峰千佳は機嫌が悪そうである。

 神作真哉は上野を見て尋ねた。

「どうだ。バレてないのか」

 上野秀則は赤いパーカー姿の永峰を見ながら答えた。

「今のところはな。奴ら、これで全員を捕まえたと思っているはずだ」

 上野秀則は、今度は天井の隅に顔を向けて言った。

「ただ、気をつけろ、そのカメラで動きは監視されてる」

 天井の隅のカメラを見ながら神作が尋ねる。

「動きだけか」

「ああ。音は拾ってないみたいだ」

 上野がそう答えた後、すぐに重成直人が神作に尋ねた。

「それで、外の様子はどうなってる」

 神作真哉は首を傾げながら重成と上野の間に腰を下ろして答えた。

「それが、妙なんです。ここのSTS部隊の他に、正体不明の武装兵がいるみたいなんですよ。どうも俺はそいつに襲われたみたいで。だからSTSの連中は、今、そいつらを必死に探しています」

 重成直人は驚いた顔で問い直した。

「ちょっと待て。じゃあ、俺たちの他にも、侵入者がいるのか。しかも、武装した」

 神作真哉が険しい顔で頷く。

「ええ。それで、警戒態勢が随分と厳しくなっています」

 上野秀則は上を向いて言った。

「くっそお。そうなると、ハルハルの状況が不味くなってきたな」

 神作真哉は深刻な表情の顔を上野に向けた。

「ああ。本当なら、この段階で警備が解除されると踏んでいたんだが、まさか他に武装兵が侵入してくるとは思わなかった。どうみても、警備レベルが上がっている。こりゃ、当初の計画とは逆だ」

 重成直人が神作に提案した。

「この辺が潮時なんじゃないか。ハルハルちゃんに怪我させる訳にはいかんだろ」

 神作真哉はあっさりと頷いた。

「ですね。全部話して、ハルハルにも投降させますか。あいつが田爪瑠香に会う前なら、助かる見込みもありますしね」

 神作の背後に座っていた永峰千佳が不機嫌そうに言う。

「あの……何か、私とハルハルの扱いが違い過ぎません? 私なら、ハルハルの身代わりで殺されても良かったと」

 振り向いた神作真哉は、困ったような顔で言った。

「いや、誰も、そんなことは思ってないよ。ちゃんと心配してたさ。大丈夫かなあって」

「全然、本気度を感じないんですけど」

 頬を膨らませた永峰千佳は、プイと反対に顔を向けた。

 上野秀則が話を戻した。

「それで、有ったのか」

「有ったって?」

 問い返した神作に、上野秀則は言った。

「タイムマシンだよ。見たのか」

「ああ。いや、見ていない。ダクトから出る前に、切り落とされちまったからな」

 上野秀則は眉間に皺を寄せる。

「はあ? 切り落とされた?」

「そ。ズバババババ、ゴトン、バタン、ゴツン、だ」

「分かるか、それで」

 重成直人が割って入った。

「途中で外に放り出されたか、引っ張り出されたってことだろ?」

 一度重成の方を見て頷いた神作真哉は、再び上野に顔を向けて言った。

「ほら、シゲさんは分かってるじゃねえか」

「そっちが奇跡的だろ」

 神作真哉は呆れたような顔で上野に言った。

「とにかく、予定より早く見つかっちまったということだよ。それくらい、分かってくれよ」

「初めから、そう言え。――じゃあ、写真は。ま、まさか、写真も撮ってないのかよ」

 神作真哉は後ろ手のまま体の向きを上野の方に向け直して、彼に言った。

「お前、よくそんなことが訊けるよな。カメラを持って行ったのは、お前だろ」

 上野秀則は上を見上げて、自分が掴まった時の状況を思い出してみる。

「まあ、そうか。確かにな、俺が……ええー! じゃあ、お前、本当に写真に収めてないのか。イヴフォンがあるだろ」

 神作真哉は大袈裟に首を横に振って見せてから、上野に諭すように言った。

「あのな、イヴフォンはレンズが付いてないんだよ。レンズが」

 上野秀則は小さな目をパチクリとさせて言う。

「は? そ、そうなのか?」

 溜め息を吐いた神作真哉は、上野に言った。

「おまえなあ、自分で使ってて、そんなことも知らないのか。それくらい常識だろうが」

「はあ? じゃあ、イヴフォンじゃ、写真は撮れないのかよ」

「当たり前だろ。おまえ、説明書を読んでないのかよ。いいか、昔から諺でも言われているだろ。電子機器を買ったら、まず説明書を読めって」

「おまえ、俺のこと馬鹿にしてるだろ」

「とにかく、撮影はできないの。イヴフォンじゃ」

「ってことは、画像も動画も無しか。一切何も証拠ネタは無しかよ!」

「そうなるわな」

「わな、じゃねえだろ! それじゃお前、コールドゲームどころか、不戦敗じゃねえか。何が逆転ホームランだ」

「仕方ないだろうが、カメラが無かったんだから」

「仕方ないで済むか! タイムマシンの写真と引き換えに、俺たちの解放を要求する、そういう手筈だろうが。どうすんだよ。これじゃ外に出られないじゃねえか!」

「あのな。だいたい、おまえが悪いんだろ。なんでカメラを渡さないんだよ。カメラを。ダクトの中に俺を入れたら、次はカメラだろうが。俺を押し上げてダクトに入れる。俺にカメラを渡す。蓋を閉める。普通はこの順番だろ。俺、ダクト、カメラ、蓋。――ほら、ぜんぶ繋がってるじゃねえかよ」

「どう繋がってるんだ! UFO研究家か、おまえ。それにな、そもそもおまえが俺に、絶対にカメラを手放すなって言ったんじゃないか」

 神作真哉は口を尖らせた顔を横に向ける。

「あの場では手放せよ。ていうか、最初から俺に渡しとけばよかったんだよ」

「よく言うよ。自分は手ぶらで、俺に双眼鏡やらカメラやらを持たせてたのは、おまえだろ。俺はおまえの荷物持ちじゃないんだぞ」

「じゃあ、渡せっての。だいたいな、カメラが有れば、奴らに見つかる前にダクト内から撮影できて、そんで、イヴフォンとカメラを同期させて、今頃ライトか紀子のパソコンに撮影した画像データを転送して、それであいつが津田と交渉を……ああ! しまった! イヴフォンをダクトの中に置いたままだ。買ったばかりなのに」

 上野秀則が鼻で笑った。

「ざま見ろ。上司に対する日頃の態度がなってないからだよ」

「そう言うお前のイヴフォンは」

「上野デスクのイヴフォンは、さっき兵隊に踏み潰されました。ほら、あそこ」

 永峰が鼻先で指した方向に神作真哉が視線を向ける。床の上で潰れて壊れているイヴフォンを見た彼は、ニヤニヤしながら上野に言った。

「あらー。無惨だねえ。お前も買ったばかりだったよな。ほとんど使ってないだろ」

 上野秀則は余裕顔で反論する。

「残念だったな。買ったのは、俺の方がお前より三日早い」

 神作真哉は上野に向けて顔を突き出した。

「買ったのはな。使い始めたのは、俺の方が一日早いだろ。お前、買って暫くは、箱に入れて神棚に飾ってたじゃねえか。こういうのは実質的に考えないとな」

 上野秀則は後ろ手に縛られたまま、神作の方に胸を突きだした。

「実質的って言うなら、通話時間の長さで勝負だろ。それなら、俺の方が上だと思うぞ。友達も多いしな」

「何言ってんだ。俺は人間関係を深く構築する主義なんだよ。一人一人と長く話すから、どう考えても俺の方が通話しているだろ」

「いいや、俺だ」

「いやいや、俺だよ」

「はい、ストップ」

 そう言って介入した永峰千佳は、呆れた顔で二人に言った。

「――小学生ですか。キャップも、デスクも」

 神作の横で二人の会話を聞いていた重成直人は、がっくりと肩を落として言った。

「やれやれ。こりゃ、ウチの会社の未来は、山野ちゃんとハルハルちゃんに託すしかないな」

 広いベッドに腰掛けて、上野秀則と神作真哉は歯を剥いてにらみ合っていた。


                  20

 左目を青く光らせたまま新日風潮の編集室に戻ってきた山野紀子は、自分の席に座ってイヴフォンでの通話を続けた。

 勇一松頼斗と別府博はそれぞれの席でパソコンを操作していた。土曜の朝の編集室には、他の記者はまだ誰も出勤してきていない。

 山野紀子はハイバックの椅子に身を倒すと、通話を続けた。

「そういうことなの。だから、ペエたちの方から取材を掛けて欲しいのよ。現在、施設内に拘束されているのは事実だから、そっちに迷惑をかける危険は無いでしょ」

 勇一松と別府が心配そうな顔を山野に向ける。

「――じゃあ、頼むわね。今度、何か御馳走する。――はあ? そんな高いもの……」

 山野紀子は顔をしかめた。

 勇一松頼斗が立ち上がり、山野の机の前に歩いてきた。今朝撮影した写真データが記憶された金色のMBCを山野の机に置いた彼は、そのままそこに留まった。

 山野紀子はイヴフォンの通話を終了しながら不機嫌そうに呟く。

「まったく……。何が天然の鯨ステーキよ。手に入るかっての。ていうか、言っちゃダメでしょうが」

 別府博も心配そうな顔で机の前にやってきて、山野に尋ねた。

「どうでした。テレビの方は動いてくれるって?」

 山野紀子は勇一松が置いた金色のMBCをパソコンに挿入すると、横に置かれた他の記事原稿を手にとって目を通しながら別府に答えた。

「うん。今から国防軍に取材攻勢を掛けるって。発射施設の方には別のリポーターが既に向かってるから、そっちにも情報を回すと言ってたわ」

 別府博は目を丸くして更に尋ねた。

「全部話しちゃったんですか」

 山野紀子は首を横に振る。

「ううん。施設の中にハルハルたちが捕らわれているってことだけ。それでもリアルタイムのネタだから、大喜びしてた。すぐに生放送で流すって。解放される瞬間が撮れれば、テレビ放送には打ってつけだしね」

 話を聞いていた勇一松頼斗は、安堵したように息を吐いた。

「ふう。取りあえずこれで、ハルハルたちが秘密裏に抹殺される心配は無くなったわね」

 山野紀子は原稿を横に置いて、険しい表情のまま言った。

「まだ安心できない。もし、ハルハルが田爪瑠香を施設内で目撃していたら、津田は何らかの理由をつけて口封じを実行するかもしれない。タイムマシンを目にしたかもしれない真ちゃんも」

 彼女は髪を強く掻きながらボヤく。

「ああ、本当なら、この時点で真ちゃんからタイムマシンの画像が届いているはずだったんだけなあ……。ったく、うえにょの奴、何やっているのよ。これじゃ、こっちに交渉用のカードが無いじゃない」

 別府博が険しい顔で言う。

「無人機が全部墜ちたり、追加の部隊が投入されたり、まったく予想外の事態になってますからね。ただテレビ局に取材に行かせるくらいで、大丈夫ですか。今の司時空庁は、相当にピリピリしているんじゃないですかね」

「そうね。もう一つ、手を打っておかないと駄目ね」

 そう答えた山野に、勇一松頼斗が眉間に皺を寄せて尋ねる。

「どうするのよ。やっぱり、アレ?」

 山野紀子は机の引き出しを引いて、中に手を入れながら首を縦に振った。

「そうよ。アレしかない。ライト、連絡して」

 勇一松頼斗はズボンのポケットからウェアフォンを取り出した。

 別府博が尋ねる。

「アレって、何ですか」

 山野紀子は悪戯っぽく笑って、別府を見た。

「アレよ、アレ」

 勇一松頼斗がウェアフォンを耳の下に当てて言っている。

「あ、もしもし、シノブちゃん。おひさー。私、ライト。今、大丈夫?」

 別府博は驚いた顔で山野の顔を見た。

「堤シノブですか?」

 山野紀子は引き出しの奥から何かを取り出しながら言った。

「うん。彼女、財務大臣の長船とは、いい仲だから」

「財務大臣に頼むんですか」

「彼女に動かしてもらうのよ、長船大臣を。これで」

 山野紀子は手に持った赤いMBCを別府に見せた。別府博はそれを指差して言う。

「ああ、そのデータ、もしかして……」

 山野紀子はニヤリとして頷いた。

「そ。長船と堤シノブの密会デートの画像。しかも、世界財相会議が開催されていたシンガポールのホテルで。これが記事になれば、長船は一発アウトね」

 別府博は少し困惑した顔で言った。

「それ、この前のヌード撮影の時に、堤シノブの事務所に渡したんじゃ……」

 引き出しを閉めた山野紀子は、椅子の背もたれに身を倒して言った。

「大事な部分を渡すわけ無いじゃない。相手はただの芸能プロダクションよ。内閣総辞職のきっかけになるかもしれないネタでしょうが、これ」

 別府博は腕組みをしながら、首を傾げて言う。

「内閣総辞職? それ、ただの不倫デートの画像でしょ。大臣が宿泊してた同じホテルから堤シノブがっていう。たいしたインパクトも無い画なのに、そんな大袈裟なネタなんですか? それに、堤シノブの事務所サイドからグラビア撮影の連絡を入れてきたんですよね。彼女、ヌード写真を出すきっかけが欲しかっただけじゃないんですか」

 山野紀子は首を横に振った。赤いMBCを別府に見せながら言う。

「こっちはね、二人が腕組んで部屋から写ってるの。顔もバッチリ。他にも色々とバッチリ。しかも、その時間は長船がギリシャの財相との会談を体調不良でドタキャンした時間帯。室内の時計まで写っているから、時刻も証明できる。国際交渉をしているはずの時間帯にこんなことをしていたことが世間に知られたら、国会での問責決議は間違いないわね」

「まあ、そうでしょうけど、でも、それって要は長船大臣のスキャンダルでしょ。それで内閣総辞職ですか。彼が罷免されてしまうだろうというのは分かりますけど……」

「実はね、たまたま撮影できたんだけど、堤シノブが部屋に入ってくる前の画像もあるのよ。問題はそれ。長船はその直前に、財政支援問題でヨーロッパ連合諸国と対立している某国の財相と室内で密談しているの。堤シノブはその人物と入れ替わりで部屋に入ってる。今、日本がその国と水面下で接触していることが報じられたら、必ず外交問題になるわ。日本政府とヨーロッパ連合とは微妙な関係が続いていて、関係改善に苦心している最中だからね。これがきっかけで関係が悪化すれば、財相と共に外相も更迭されかねない。最悪、総理の辞任か議会の解散」

 別府博は口をパクパクさせていたが、やがてようやく言葉を発した。

「――あ、そ、そんな重いネタだったんですか……」

 山野紀子は手に持った赤いMBCを見つめながら言った。

「うん。だからこれは、日本の政治や外交に与える影響が大き過ぎるし、この国の国際的な信用や経済にも悪影響を与える。しかも、若い女の子が体を晒して守ろうとしたネタでしょ。私も最初は、黙って破棄するつもりだった。だけど、ウチがこの司時空庁の一件に取り掛かったから、一応念のためにと思って取っておいたの。でも、このネタにはタイムトラベル事業を停止させるまでの力は無いわ。長官の津田は公務員だし、この件にも関与していないからね。しかも、目上の大臣たちにもにらみを利かせているでしょ。このネタで津田が窮地に追い込まれること無いし、もし使い方を間違えれば、奴にアドバンテージを与えてしまいかねない。それで、これは切り札として最後まで極力使わないつもりでいたんだけど、まあ、部下の命が掛かっているとなれば、仕方ないわね」

夫の命もでしょ」

 別府博が付け加えた。山野紀子は話を続ける。

「それに、田爪瑠香も救えるかもしれない。――とにかく、さっきこの中の画像データのコピーを長船大臣の事務所に送ったところなの。今頃、長船も、もしかしたら政権全体も必死になって対応を検討していると思うわ。その証拠に、新首都の隅で小規模な戦闘があったのに、緊急閣議も開かれないじゃない。みんな、こっちのことで頭がいっぱいなのよ。ま、財務大臣が司時空庁にどれくらい強く言えるかは分からないけど、さすがの津田も、政権全体を敵には回せないでしょ」

「さすがは元政治記者。やることがエグイ」

 山野を指差している別府の隣から、勇一松頼斗がウェアフォンを差し出した。

「編集長、シノブちゃんが話をしたいそうよ」

「ん、どれどれ」

 勇一松からウェアフォンを受け取った山野は、椅子から立ち上がるとウェアフォンを耳の下に当てて、窓の方を向いた。

「ゴホン。あー、堤シノブさんですか。お電話替わりました。新日風潮の編集長の山野です。先日はお疲れ様でした。実は、折り入ってお願いしたい事がありまして。――いえ、返事は結構ですの。答えは一つしか有り得ないでしょうから。あのですね、今、ウチの記者が司時空庁のタイムマシン発射施設内で迷子になっていましてね……」

 赤いMBCを握ったまま、山野紀子は穏やかに、そして強引に話を続けていった。


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