第7話

二〇三八年五月二十四日 月曜日

     

                 1

 司時空庁ビルの長官室。津田幹雄は不機嫌そうな顔で「週刊新日風潮」を自分の広い机の上に放り投げた。

 横に立っている佐藤雪子が雑誌の表紙のタイトルを見て言う。

LustGirlsラストガールズに興味はございませんの? ついに脱ぐのか、ですってよ」

 津田幹雄は机に片腕を乗せて横を向いた。

「田爪瑠香の自宅が侵入窃盗の被害に遭ったと書いてある。本人も行方不明だと。面倒な事になったぞ。読んでみたまえ」

 津田にそう言われて、佐藤雪子は雑誌を手に取り頁を捲った。

 津田幹雄は机の上に置いた拳を強く握りながら言った。

「田爪瑠香の自宅マンションの写真まで……。家捜ししたのなら、なぜ鍵を元通りに閉めて出ないんだ。馬鹿共が!」

 彼は強く机を叩いた。佐藤雪子が記事に目を通しながら言った。

「記者が襲撃されたようですわね。しかも、一番若い女の子が」

 津田幹雄は舌打ちした。

「一体誰だ。白昼堂々と。素人か」

「顔に刀傷のある男だったと書いてありますけど……」

「うちの職員の中に該当する男がいないか、すぐに調べろ。放火した奴もだ。そして、誰の指示で動いたのか、はっきりさせるんだ」

 雑誌を机の上に戻した佐藤雪子が言った。

「警察も随分と御冠のようですわね」

「当然だ。警察が現場検証に入る直前に間隙を縫って現場に火をつけたんだ。警察権力に真っ向から挑戦しているようなものじゃないか。ただでさえ放火は凶悪犯なんだぞ。しかも、現場は窃盗と誘拐と殺人未遂の現場じゃないか。いったい何を考えてるんだ、この男は!」

 津田幹雄は憎しみを込めて机の上の雑誌を指差した。佐藤雪子も眉を寄せて言う。

「その上、こんな記事まで出たら、警察の面子は丸潰れですわね」

「追跡した警官も一人殺されている。子越長官は私からの連絡にも応じない。完全に警察を敵に回してしまったよ。その男のお蔭で!」

「それで、どのように対処なさるおつもりで」

「うーん……」

 椅子の背もたれに身を倒して暫らく思案した津田幹雄は、佐藤の顔を見て言った。

「まずは、松田君に監視局から有能な人員を選抜させよう。記者たちの監視を強化せねばならん。STS(Space Time Security)からも二、三人必要だな」

「実力部隊からですか?」

「そうだ。場合によっては、事を急がねばならん。田爪瑠香の発射は何としても実行せねばならない。今、余計な邪魔をされては困る。こうなったら実力行使も已むを得ん」

 佐藤雪子が再び眉間に皺を寄せて言った。

「ですが、マスコミの記者を襲えば、事が大きくなるのでは……」

「だからSTSを使うんだよ。奴らはプロだ。この男のように下手なやり方はしないはずだ。事故か何かに見せかけるくらいの工作はするだろう」

 指先で眼鏡を上げた津田幹雄は片笑んだ。

「それにSTSは国防軍から出向してきている兵隊だ。最終的な指揮監督の責任は軍にある。いざという時には、そういう点でも都合がいい」

 背もたれから身を起こした津田幹雄は、再び雑誌を手に取り、表紙を何度も叩きながら言った。

「しかし、こんな事をしなければならなくなったのも全てこの男のせいだ。誰がこんな男を使ったんだ。どうせ使うのなら、どうして外部の人間を使わんのだ。金で動くチンピラ連中は幾らでもいるだろうに」

 その雑誌をゴミ箱に放り込んだ彼は、冷静な口調に戻した。

「とにかく、この男の正体を掴む必要がある。例の上申書と論文を内部からリークしたのも、この男かもしれん。もし、ウチの人間ではなく、動かしたのが奥野大臣なら、将来的にこちらの切り札になるかもしれんしな。佐藤君、そういうことだから、何としても、この男の身元を割り出してくれ。頼んだよ」

「かしこまりました」

 一礼した佐藤雪子は「週刊新日風潮」が逆様になって入っているゴミ箱を手に取ると、秘書室へ続くドアへと歩いていった。



                 2

 広いダイニングには白いテーブルクロスが掛けられた長い机が置かれている。老人は机の端に置かれた車椅子に座り、一人で食事をしていた。テーブルの上には沢山の豪勢な料理や、高級ワイン、フルーツが盛られた銀の皿が並んでいる。

 金縁の丸皿の上でナイフとフォークを使ってステーキの肉を切っている老人に、横に立つ刀傷の男が頭を下げた。

「すみません。余計な邪魔が入りまして。まさか警官が軍人を連れてくるとは……」

 老人は肉を頬張りながら言う。

「気にすることはない。今回は目的を遂げた。それでよい。ま、前回の待機施設の件には目を瞑ろう。お前の責任ではないし、今回、お前はその失敗をカバーする働きをした」

「畏れ入ります」

 ワインを口にした老人は、ナイフの先で刀傷の男を指しながら言った。

「とにかく、これで司時空庁と警察の間に亀裂が入ったということだ。こちらにとっては都合がいい。あとは、軍だな。――西郷、西郷は居るか」

 光沢のあるパーティースーツを着た中年男がテーブルの反対側の端の方に立っていた。彼は頭を垂れて言った。

「はい。ここに」

 老人はナプキンで口を拭くと、西郷に言った。

「取り込めたか」

「は。しっかりと」

「よろしい」

 頷いた老人はナプキンをテーブルの上に放り投げ、車椅子の車輪に手を掛けた。刀傷の男が車椅子を押そうと後ろに回ると、老人は右手を上げてそれを拒否し、自分で車輪を回して椅子の向きを変えた。そのまま窓辺に移動すると、窓から下を覗く。中庭の向こうの建物の、一つ下の階の部屋で、着飾った婦人と若い娘、若い男が車椅子の老人と共に談笑しながら夕食をとっていた。

 老人はその様子を眺めながら、右手を上げた。

「ん、ん」

 西郷を手招きして呼び寄せた老人は、彼に言った。

「ここからが問題じゃ。事を正確に進める必要がある。一点のミスも無くじゃ」

 刀傷の男が眉間に皺を寄せる。

 車椅子の後ろに立った西郷京斗さいごうけいとが言った。

「閣下、一つ問題が」

「なんじゃ」

「監視対象の活動が活発になって来ております。いかが致しましょう」

 老人の顔が険しくなる。

「おのれ……」

 車椅子を回して窓に背を向けた老人は言った。

「とにかく、記録しろ。全てを記録するのじゃ。よいな」

「は。かしこまりました」

 西郷京斗は頭を下げて返事をした。

 老人は歯軋りしながら呟く。

「ここからじゃ。ここからが肝心なのじゃ……」

 窓から強い月光が射し込んでいた。





                 3

 日が沈んだばかりの街に明かりが灯り始めた。やがて、家々の窓から漏れる光が無数に広がり、街を埋める。

 永山哲也の自宅は新首都の中心市街地からは少し離れた住宅街にある。長期払いの住宅ローンを組んで購入した小振りな一軒家。形ばかりの小さな庭に何本か植えた苗木は、家主も気づかないうちに成長して大きくなり、剪定には梯子が必要になっていた。永山が少し拘った木目調の玄関ドアの横には広いサッシがある。その向こうがリビングだ。

 閉められたカーテンの隙間から明かりが漏れていた。リビングにL字形に並べられたソファーの向こうのダイニングルームでは、テーブルを囲んで夕食が始まろうとしている。

 並んで座った永山由紀ながやまゆき山野朝美やまのあさみは、胸の前で手を合わせると、声を揃えて言った。

「いっただっきまあーす」

 山野朝美はスプーンを高く持ち上げると、目の前の皿を覗き込んで、はしゃいだ。

「わあ、チキンカレーだ。イヤッホオーイ!」

 キッチンで自分の分のカレーをよそっている永山祥子ながやましょうこが言った。

「お替りもあるから、二人とも好きなだけ食べなさい」

「はーい。ハグッ。モグッ」

 競うようにスプーンを口に運ぶ二人の中学生の前には、祥子と哲也の席が並ぶ。永山哲也の席は空席だが、テーブルの上には薄く四角い機械が置かれていた。そのラップトップの立体パソコンからはインターネット回線を使った立体通信によるホログラフィーが投影されている。地球の裏側に居る永山哲也の上半身だけが等身大のホログラフィーで宙に浮いていた。テーブルの中央には、数人分のホログラフィーを永山に送信して同時通話できるように、特別な小型カメラが置かれていた。ホログラフィーの永山哲也は、向かいの席の二人の皿を覗き込んで言った。

『お、チキンカレーか。美味そうだなあ』

 実際には、南米にいる永山にはテーブルの上までは見えていない。だが、彼は上手く演技してみせた。

 山野朝美は、ホログラフィーの永山と小型カメラを交互に見た後、口の中に詰め込んだチキンカレーを咀嚼しながら言った。

「でも、何か変だね。モグ、モグ、こうして、立体映像の由紀ちゃんのお父さんと食事するの。ハグッ、モグ、モグ……」

 永山由紀も、カレーを食べながら答える。

「うん。モグ、モグ、でも、もう慣れちゃった。カプッ、モグ、モグ……」

 ホログラフィーの永山哲也は、ハムサンドを齧りながら言った。

『こっちと日本は、ちょうど約十二時間の時差だからね。だから、おじちゃんは今、朝食だよ』

 ハムサンドを持ち上げて見せた永山のホログラフィーを見て、朝美はニヤニヤしながら言った。

「あ、小父おじさん、その腕時計、付けてるんだ、ヒヒヒ」

 永山哲也はハムサンドを持った自分の左手に目を遣った。手首には、日本を発つ際に春木から贈られた腕時計が巻かれている。

『あ? ああ、これ……』

 困った顔をしている永山のホログラフィーを見て、娘の由紀が朝美に言った。

「ちょっと朝美、他人のうちの夫婦問題に口を挿まないでよね。大人の夫婦は、色々と微妙なんだからね」

『微妙って、お前……』

 クスクスと笑いながら自分のカレーを持って台所から戻ってきた祥子は、困惑している永山に言った。

「付けといてあげなさいよ。せっかく買ってくれたんだから。それに、前の腕時計、壊れていたじゃない」

『ああ。帰ったら、修理に出すよ』

 席に座った祥子は、隣に浮かんでいる永山のホログラフィーを見て、少し心配そうな顔で言った。

「だけど、あなた、今日も朝食はハムサンドだけ? しっかり食べてよ」

『ああ。一応、下のプレスセンターのレストランには日本食もあるからね。たまに、丼物とか、定食とかを食べてるよ。カツ丼とか、焼き肉定食とかな』

 由紀はチキンカレーが入っていた皿の表面でスプーンを走らせながら言った。

「お父さんは、もともと夕食でガッツリ行く人だもんね。お蔭でこっちは朝から脂っこい物を食べている父親の立体映像と一緒に朝食だけど……お母さん、お替りい!」

「私もお替りい!」

 二人は、また競うように皿を前に出した。

 祥子は満足気な笑みを浮かべながら、由紀の皿を受け取って言う。

「はいはい。順番ね」

 永山哲也は大袈裟に目をパチクリとさせて言った。

『さすが中学生だなあ、よく食うなあ……』

 スプーンを舐めていた朝美は、地球の反対側の永山に言った。

「由紀ちゃんのお母さんのチキンカレーが美味し過ぎるんです。へへへ」

 隣で由紀が自慢気に言う。

「お母さんのカレーは世界一だもんね」

 永山が祥子を煽てた。

『お、祥子、よかったな。世界一だと』

 よそった御飯の上にチキンカレーを掛けながら、永山祥子は朝美に言った。

「なに言ってるの。朝美ちゃんのママのカレーも美味しいでしょ」

 朝美は母親のチキンカレーを思い出しながら答えた。

「ですねえ、宇宙一は大袈裟かもしれないけど、太陽系で一番おいしいチキンカレーですね」

 由紀の前にカレーを置いた祥子は、朝美の皿を受け取りながら顔をしかめた。

「あらあ、大気圏から出ちゃったかあ。負けたわあ」

 朝美は慌てて、とりなした。

「あ、嘘です。小母おばちゃんのも、すっごく美味しいです。ええと……マゼラン星雲で一番だと……」

 御飯をよそいながら笑う祥子。

 由紀が小声で、どうして銀河系一じゃないのかと朝美に尋ねる。マゼラン星雲は銀河系じゃないのと問い返す朝美。由紀がチキンカレーの上でスプーンを動かしてマゼラン星雲について説明する。朝美は、それじゃ混ぜ混ぜ星雲だねと指摘する。二人は顔を見合わせると、大声でガハハハッと馬鹿笑いした。

 向かいの席で様子を見ていた永山哲也は、首を傾げながら呟いた。

「中三の女子って、こんな感じか? 何か、ちょっと違うような……」

 その時、テーブルの隅に置かれていた祥子のウェアフォンが振動を始めた。それを見た由紀が言った。

「お母さん、鳴ってるよ」

「はいはいはい。出ます、出ます」

 朝美に御替りのカレーを手渡した祥子は、振動を続けるウェアフォンを手にとって耳の下に当てると、電話に出た。

「ハイ、永山です」

『あ、祥子さん。私、山野です』

「あら、山野さん」

 祥子はホログラフィーの永山と目を合わせた。

 電話の向こうの山野紀子は言った。

『ホント、ごめんなさいね。夕飯までご馳走になっちゃって。ご迷惑じゃなかった?』

「いいえ。主人からも、山野さんたちは、今、すごく忙しいって聞いていますから。気にしないで下さい。ウチも大勢で食べた方が、賑やかで楽しいですし」

『ウチの子、行儀よくしているかしら』

 祥子は朝美に視線を向けた。朝美は皿を顔の前で傾けて機械のように素早くスプーンを動かしている。

 祥子は答えた。

「ええ。とっても」

『あの、ちょっと替わってもらえます?』

「じゃあ、ちょっと待って下さいね。今、立体通話に……」

 ウェアフォンを持ち替えた祥子は、その上で何度も指を動かした。

「あら、変ねえ。これ、どうしてホログラフィーが出ないのかしら……」

「どうしたの?」

 由紀は、ウェアフォンの操作に戸惑っている母に尋ねた。

 祥子が言う。

「朝美ちゃんのママからの着信なんだけど、ホログラフィーが出ないのよ」

 カレーを飲み込んだ朝美が言った。

「――あ、うちのママ、イヴフォンに替えたからじゃないかな。あれって、立体カメラが付いてないから」

 由紀はスプーンを置いて、その手を母の前に伸ばした。

「お母さん、貸してみそ」

 祥子からウェアフォンを受け取った由紀は、そのウェアフォンを指先で素早く操作し始めた。横から朝美が興味深そうに覗き込んでいる。由紀は操作しながら言う。

「たしか、イヴフォンとは、こうすれば音声だけでハンズフリー会話が……よし」

 ウェアフォンから怒声が飛び出してきた。

『コルァ、朝美! また、だらしない恰好してえ! 寝癖くらい、取りなさい!』

 テーブルの上に置かれたウェアフォンに向かって、朝美は呆れたように言った。

「それ、ママの記憶の中のイメージ映像でしょ。ママが使ってるの、イヴフォンじゃん」

『あ、そうか。これ、イヴフォンだった。忘れてた、御免、御免』

 朝美は少し納得のいかない顔でウェアフォンに向かって喋った。

「ていうか、私、ママの脳の中にどういうイメージで保存されてるのよ」

 山野の声が返ってくる。

『あんた、ちゃんとお行儀よくするのよ。ご迷惑かけたら駄目だからね』

「はーい。分かってまーす」

『由紀ちゃんも、ごめんね。邪魔な時は、いつでも、どついていいから』

「了解です」

 由紀は敬礼をして見せた。もちろん、山野には見えていないが、それを見た永山哲也はホログラフィーを通じて娘を叱った。

『こら、了解ですじゃないだろ、由紀』

 永山の声を聞いた山野の困惑する声が、机の上のウェアフォンから響く。

『あれ? 哲ちゃん? 哲ちゃんもいるの? ホログラフィー?』

『そうです。夕食はこうやって家族で食べてるんです。こっちは朝食ですけど』

『なるほど、さすが哲ちゃん。ホロ通信を使いこなしてるわね。あ、祥子さん、迎えに行くのが遅くなるかもしれないけど、いいかしら。ホントに、ごめんなさい』

 朝美はスプーンを咥えながら、ホログラフィーとウェアフォンが会話する奇妙な景色を見て眉を寄せた。朝美のその表情に目を遣った永山祥子は、山野に言った。

「あら。じゃあ、朝美ちゃん、泊まっていったらいいのに。明日は、ここから学校に行けば? ウチからの方が近いし。ねえ、朝美ちゃん」

 朝美はスプーンを咥えたまま、コクコクと素早く首を縦に振った。するとまた、祥子のウェアフォンから母親の声が飛び出してきた。

『コルァ、朝美い。コクコク首振ってるんじゃないでしょうねえ』

「ゲッ、バレた」

 朝美は首をすくめた。それを見て、ホログラフィーの永山哲也は言った。

『ノンさん、いいじゃないですか。たまには。その方がノンさんも、仕事に集中できるでしょ。うちは構いませんから。な、祥子』

 祥子は、朝美と同じようにコクコクと頷いている由紀を見て答えた。

「ええ。由紀も大喜びみたいよ」

 山野の遠慮した声が返ってきた。

『でも、着替えとか……』

 それを聞いた朝美は、音を立てないように祥子にオーケーサインを送った。祥子は笑いながら山野に答えた。

「あら、ちゃっかりその手の準備はしてきているみたいだわ」

『コルァ、朝美、あんたねえ……』

『まあ、いいじゃないですか。朝美ちゃん、今日はウチに泊まりってことで』

 永山哲也がそう言うと、少ししてから、ウェアフォンから山野の静かな声が返ってきた。

『――うん……なんか、悪いわねえ。じゃあ、祥子さん、いろいろ迷惑かけますけど、よろしくお願いします』

「イェス!」

 朝美と由紀は揃ってガッツポーズをした。そして、二人とも猛烈な勢いで残りのカレーを食べ始めた。ホログラフィーの永山哲也は再び目をパチクリとさせて二人を見ている。

 祥子はウェアフォンを手に取り、ハンズフリーモードから通常の通話モードに変えて山野との通話を続けた。

「あ、朝美ちゃんが言っていましたけど、ママのカレーは太陽系で一番美味しいらしいですわよ」

『はあ? まったく。カレーを食べてる火星人でも見たことあるのか、ウチの子に訊いといて下さい。じゃあ、すみませんけど、本当によろしくお願いします』

「お母さん、ご馳走さまあ」

「小母ちゃん、ご馳走さまあ」

 二人は食べ終えた皿を持ってキッチンに行くと、順番に皿を水で軽く濯ぎ、そのままシンクの中に皿を重ねて置いた。そして、いそいそとリビングを通って廊下へと出て行き、玄関の前の階段をドタドタと駆け上がっていく。

 二階の由紀の部屋へと向かう二人の会話が聞こえた。

「ねえ、あのゲーム、何面までいった?」

「二十七。由紀は?」

「スッゲー、私は、まだ二十。攻略方法を教えて」

「いいぞよ。一気にVPが百万を超える裏ワザがあるのじゃ。くくく。着いて参れ」

 二階のドアが閉まる音が響く。

 電話を切った後も一人でクスクスと笑っている祥子に、ホログラフィーの永山哲也が尋ねた。

『ノンさん、何だって?』

「甘やかさずに、悪さしたら逆さ吊りでも跳び蹴りでも、何でもしてくれって」

『逆さ吊りって……どういう教育方針なんだよ、あの人は』

 カレーをすくった祥子は、少し持ち上げたスプーンを下ろして、皿の上に視線を落としながら言った。

「でも、気が付けば中三よねえ。デジタル機器も、スイスイ使いこなしちゃう」

 永山哲也は祥子を指差しながら言った。

『あ、お前、さっき、わざと由紀にやらせたな。本当は、やり方を分かってたんだろう』

 祥子はカレーを口に運びながら答える。

「ああやって、確認するの。子供の成長を確かめる、母親のテクニックよ」

 ホログラフィーの永山哲也は腕組みをして上を向いた。

『なるほどなあ。俺もやってみるかあ』

 スプーンを止めた祥子は、不思議そうな顔で永山を見た。

「誰によ」

『そりゃ、まだ分かんないけど、こっちの取材でさ。何か使う時が有ればな』

「ふーん……」

 祥子は再びチキンカレーを食べ始めた。

 南米のホテルの一室から通信していた永山哲也は、机の上に置いた立体パソコンを前にしてベッドに腰掛けていた。彼は、自分のイヴフォンを持ち上げて、まじまじと見つめている。その横では、宙に浮いた上半身だけの祥子がチキンカレーを食べていた。

 永山哲也はイヴフォンを胸のポケットに仕舞うと、食べかけのハムサンドを口に運び、ホログラフィーの妻と会話しながら朝食を楽しんだ。

 窓からは、昇ったばかりの太陽が放つ明るい光が射し込んでいた。



                 4

 今夜の新日風潮の編集室には、山野と春木だけが残っていた。他の記者たちは既に帰宅している。

 春木陽香は自分の席で、机の上の立体パソコンから投影されている平面画像を覗き込んでいた。山野に言われて念のためにまだ巻いている頭の包帯が、緩んでずれ落ちた。彼女はそれを少し持ち上げて締め直すと、そのついでのように山野に目を遣った。山野紀子は春木の横で背を向けて立っている。彼女はイヴフォンで永山哲也の妻の祥子と通話していた。

「じゃあ、朝美のこと、お願いします。悪さしたら、煮るなり焼くなり、逆さ吊りにするなり、跳び蹴りするなり、ロメロスペシャルでも、ウエスタンラリアットでも、何なりと好きにして下さい。――ええ。それじゃ」

 通話を終えた山野紀子は、ジャケットの胸ポケットに挿したイヴフォンを触りながら振り返り、春木に尋ねた。

「どうだった、ハルハル。やっぱり、まだ繋がる?」

 春木陽香は防災省の内部データベースを覗いていた。彼女は怪訝な顔で山野に答えた。

「はい。やっぱり何度接続しても、全てのセキュリティーが解除されて内部情報がこちらに対してだけオープンになります。このパスワード、別府先輩の言っていたとおり本物ですね」

 腕時計を見ながら山野紀子は首を傾げた。

「でも、変ねえ。別府君が最初に電話してきた時から、三十六時間以上も経過しているのよ。それなのに、防災省は何も気付いてないっていうの? 遅過ぎない?」

 春木陽香は宙に浮かんだ画面を見ながら頷いた。

「ですよね。昨日も何度もアクセスしたのに。別府先輩も、今朝と、さっき帰る前と、少なくとも今日の日中に二回もアクセスしてみせた訳ですもんね。それなのに、あの防災省が、外部から内部の電子情報にノーセキュリティーでアクセスされたことに気付かないなんて、なんか変ですね」

「ウチのビルのネットワーク・システムは、全てSAI五KTシステムを経由しているのよね。当然、インターネットの閲覧も。防災省もSAI五KTシステムに繋がれている。あのシステムにオンラインしているユーザーは、絶対にハッキングは不可能なんでしょ。データや防御システムが狂うことも無い。それに、防災隊は有事の際に国防軍の後方支援部隊として稼動することも予定されているから、管理している情報はそれなりに厳重に防御されているのよ。防衛軍事レベルで。外部からの不正アクセスは情報セキュリティー部隊が二十四時間体制で監視しているし、仮にハッキングされても、侵入者のIPアドレスと端末識別コードが瞬時にブラックリストに載るようになっていて、以後の接続が遮断される。なのに、最初の接続から丸一日以上が経過した今でもハルハルの市販のパソコンから簡単に何回もアクセスできるって、どういうことなのかしら。これって、接続したことがバレてないってことよね……」

 防災隊への入隊経験がある山野紀子は、そう説明しながら何度も首を傾げた。彼女が司令センターに配属されていた頃に学んだプロセスの通りなら、昨日の時点で再度のアクセスはできなくなっているはずだった。一方、防災隊に入隊の経験が無い春木陽香は、そのような事情は知らなかったが、国家機関の内部サーバーにまで簡単に接続できることに不安を覚え、ビルの上層階の新日ネット新聞社会部フロアに足を運んで、コンピューターに詳しい永峰に事情を説明し相談していた。永峰千佳は丁寧に説明してくれて、遅くとも午前中のうちには暗号コードが変換されて、全ての接続が一時遮断される筈だと言った。しかし、現実には、この時間になってもそうはなっていない。永峰が間違えている訳ではないであろう。何かがおかしかった。春木陽香は更に不安を募らせながら、山野に言った。

「永峰先輩の話では、このパスワードだけじゃ、すぐに外部からアクセスしたことが防災省側に知られてしまう筈らしいんですけど。もしかして、これって、何かの罠だとか……あれ? 編集長、これ……」

「ん、どうした」

 山野紀子は春木の後ろから、彼女が指差した箇所を覗き込んだ。

 春木陽香は、画面を見ながら言う。

「今、司時空庁から防災省に入ったオーダーです。ええと、六月五日に地域展開第三態勢……部隊は通常編成にて待機。このマークは何だろ。下の方に数字があります。ゼロ、ハチ、ゼロ、ゼロ、ハイフン、ゼロ、キュウ、イチ、ゴ。この数字、何ですかね」

「ああ、これ、午前八時から九時十五分まで出動待機ってことよ」

「ふーん。でも、妙な時間区切りですね。なんで十五分だけ伸ばしてるんだろ……」

「さあ。でも変ね。これ、このマーク。これね、その時間は出動の可能性がかなり高いから、部隊に即応準備させておけってことなのよ。ていうか、この指令レベルなら間違いなく出動ってことになるわね。何かしら。タイムマシンの発射は毎月二十三日なのに」

 春木陽香は手前に浮かんだキーボードのホログラフィーに手を伸ばして言った。

「司時空庁のウェブサイトにアクセスしてみましょうか」

「うん、お願い」

 春木陽香は司時空庁のウェブサイトを検索し、それを手前に表示させた。

「変ですねえ。何も載ってないですよ。六月五日。再検索しても……」

 検索ワードを入力してサイト内を検索する。結果を見た春木陽香は言った。

「――何も載ってないです。何があるんでしょう。六月五日」

「もしかして……」

 速足で自分の机に戻った山野紀子は、使い慣れた自分の立体パソコンからホログラフィーでキーボードを投影させ、その上で素早く指を動かした。彼女の前にホログラフィーの画面が立ち上がった。そこにはスーパー・ジャンボ・ジェット機の画像と、数字が入力された一覧表が掲載されていた。そこの小さな数字に目を凝らしながら、山野紀子は言った。

「総合空港の発着案内サイトにアクセスしてみたわ。やっぱり、六月五日のその時間帯は全便がクローズになってる。ちょっと待ってよ……ああ、タイムマシンの発射予定日の六月二十三日も、発射予定時刻の前後三十分の発着便が全てクローズ、七月二十三日も……同じね」

 椅子を回して山野の方を向いた春木陽香は尋ねた。

「六月五日に臨時便のタイムマシンを飛ばすってことでしょうか」

「かもしれない。でも、なんでこの日で、しかも時間も、いつもと違うのかしら」

「六月五日……」

 春木が考え込んでいると、神作真哉が狭い廊下から駆けてきた。

「おお、まだ居たか。よかった」

 彼は珍しく慌てた様子で山野の席の前に駆け寄ってきた。

「どうしたのよ、真ちゃん。慌てて」

「たった今、岩崎から報告があったんだ。例の……」

「巨乳女ね。あの女!」

 ムッとした顔で立ち上がった山野紀子に、神作真哉が手を広げて言う。

「違う、論文だ。例の上申書の、『ドクターT』の論文。いいか、驚くなよ……」

 山野紀子は机を回り春木の横に立って神作の話に耳を傾けた。

 神作真哉は岩崎から聞いた話を一気に並べた。

「まず、論文としては、かなり緻密に論じられていて、筋道も成立しているそうなんだ。つまり、ちゃんとした論文で、いい加減に書かれたものではないってことだ。だが、内容については、簡易的な実験でしか実施されていないので、結論については仮定の域を出ないと。どの実験も本来なら巨大な装置や施設で実施するべき内容のものらしい。ということは、それを実施すれば、論文の結論が正しいかどうかはすぐに判明するってことだ」

「そんなのは、私たちの予想の範疇じゃない。別に驚くことじゃ……」

 腕組みをして不満気な顔でそう言った山野に、神作真哉は少し興奮気味に言った。

「問題は、その結論だよ。仮定だとしても、その結論」

 そして、今度はゆっくりと、一言ずつ念を押すように言った。

「司時空庁のタイムマシンは、実際には、タイムトラベルらしい」

 山野紀子は眉間に皺を寄せて言った。

「はあ? やっぱりそうなの。でも、どういうことよ、それ」

 神作真哉は頭を掻きながら答える。

「ヒルベルト空間がどうとか、こうとか言っていたが、細かいことはよく解からん。とにかく、従来どおりのAT理論や、それを基にしたタイムマシンの設計では、タイムトラベルは出来ないと言うのが、あの論文の結論なんだそうだ。そして、岩崎の所見では、あの論文にはかなり説得力があると言っていた。ライトが判読したとおりだったよ」

 顔の前に落ちてきた頭の包帯を持ち上げた春木陽香は、椅子に座ったまま、二人の顔を交互に見上げて、言った。

「本当にタイムトラベルしていないんですか。じゃあ、どこに消えてるんです?」

 神作真哉は春木に向けて人差し指を何度も振りながら言った。

「そこだよ、ハルハル。おまえはタイムマシンが実際に消える瞬間を見たことがあるか」

「あ……」

 包帯を持ち上げたまま少し考えた春木陽香は、答えた。

「いいえ。ありません。見たくても、発射当日は軍や警察が周辺を封鎖しますし、上空からも高台などを監視していますから」

 神作真哉は大きく頷いて見せた。

「そうだ。軍のオムナクト・ヘリが上空から市民を監視して、タイムマシンの発射施設を高台から覗こうとする人間を発見し、その場から退去させる。高層ビルや高層マンションの周辺でも、煙幕を張ったり、レーザー光の閃光幕で視界を遮って、建物の中の人間が望遠鏡なんかで発射施設の中を見ることが出来ないようにしている。発射の瞬間の数十秒だけの話だから、この十年、新首都の都民からは目立った苦情も出なかった。つまり、誰も発射の瞬間を見ていない。ということは、目撃者レベルでは、タイムマシンがタイムトラベルしているという証拠は、無い」

 包帯を結び直した春木陽香は、再び神作と山野の顔を交互に見ながら尋ねた。

「でも、じゃあ、発射施設に在るあの大きな砲台みたいな発射管と、海まで伸びたレールは何なんですか。あそこから過去に飛んで行ってるんじゃないんですか?」

 神作真哉は腕組みをして眉間に皺を寄せると、山野の顔を見て尋ねる。

「タイムトラベル自体は一瞬だから、あの発射管からマシンが出る直前で、マシンは消えちまうんだろ」

「ええ。『ペエ』も、そう言ってたわよ。海まで伸びたレールは、万一の事態に備えて、タイムトラベルし損なったマシンを海に着水させるための物だって」

「ペエ?」

 キョトンとした顔で尋ねた春木に山野紀子は説明した。

「ああ、藤崎のことよ。私の大学時代の同期生・藤崎莉央花ふじさきりおか。知ってるでしょ、夜十一時のニュース」

「あの『マックス、マックス、ニューウウス、マアックス!』のメインキャスターの藤崎莉央花さんですか。編集長の友達なんですか」

「そうよ。大学時代のあだ名が『ペエ』。だから、今でもそう呼んでる」

「へえ……同級生なんですか。それにしては、向こうは随分と若いような……痛い! うう、そこ、まだタンコブが……」

 山野紀子は、春木の頭を弾いた人差し指で神作を軽く指してから、言った。

「その『ペエ』がね。テレビの取材でタイムマシンの発射の瞬間に立ち会ったことがあるらしいのよ。もちろん、発射管の近くの建物の中からだったそうだけど。でも結局、大きな大砲を撃った時みたいに、筒の先端が強く光っただけで、マシンが消える瞬間とか、飛び出す瞬間は何も撮れなかったって、ブーブー言っていたわ」

 神作真哉は深刻な顔で二人に言った。

「つまり、すべてがあの発射管の中で完結している。中で何が起こっているのかは分からん訳だ。もし、あの論文が正しいなら、タイムマシンはタイムトラベルをしていない。もしかしたら、あの発射管の中で崩壊しているだけなのかもしれん」

「みんな、あの中で死んでいるって言うの?」

「仮定の話だ。最悪の」

 春木陽香は怪訝な顔で、もう一度尋ねた。

「でも、もしそうだとしても、司時空庁がそんなことを続ける必要があるんでしょうか。十年間も」

「有るさ。大有りだ。渡航費だよ。高額の渡航費を支払って金持ち連中がタイムマシンに乗ってくれれば、国としては手っ取り早く収入を得ることができる。増税のための国会審議も、政党協議も、国民への説明も必要ない。安定的に、巨額の資金が国に入ってくる。しかも、もし搭乗者が死んでいるのだとすれば、後々本人から巨額の渡航費の返還を求められることは無い。さらに言えば、別の時間軸に飛んだだけだってことなら、警察も捜査はしない。死亡事件じゃないからな。当然、残された家族からも何の訴えも起こらない。つまり、あらゆる面で安全で確実な収益事業ってことだ。金を取る側にとって」

「それじゃ、国が巨額詐欺をやってるって言うの? 十年間も。しかも殺人じゃない」

「仮定の話だよ。だが、あり得ない話じゃないだろ。それに、理由はもう一つある」

「何よ」

 山野紀子が口を尖らせる。神作真哉は険しい顔で答えた。

「有働だ。前総理の有働武雄」

「タイムトラベル事業と、どう関係があるのよ。司時空庁の津田長官は、有働とも反目しているんでしょ。有働も、津田の登用には反対したみたいだし」

 春木陽香が口を挿んだ。

「でも、別府先輩は、何か関係があるかもしれないと言ってましたよね」

 山野紀子は眉間に皺を寄せる。

「辛島総理降ろしの話? うーん。あの論文を送ったのが有働なら、そう言えるかもかれないけど、田爪瑠香の線が濃厚なのよ。あんたも彼女のラボで計算書類や実験の場所を見たんでしょ。あの論文を書いた『ドクターT』は田爪瑠香でほぼ決まりじゃない。そうなると、辛島降ろしの話は有働が田爪瑠香を動かしていたということが前提になるわよね。ところが、田爪瑠香はあのNNC社から研究支援を受けていたんでしょ。辛島内閣を倒して総理の椅子にカムバックすることを考えている有働が評判の悪い外国企業のNNC社と絡むかしら。彼はそんな馬鹿な政治家じゃないわ。やっぱり、有働は関係ないんじゃないの」

「そっかあ……うわっ」

 頷いた勢いで、また、春木の頭に巻かれた包帯が目の上に落ちてきた。包帯を持ち上げて結び直している春木を指差しながら、神作真哉が言った。

「タイムマシンの発射動力は、知ってるな。ハルハル」

 春木陽香は包帯を結び直しながら答えた。

「はあ……たしか、量子エネルギー・エンジンじゃあ……」

「そうだ。夢の動力システムだ。そして、その量子エネルギー・エンジンの燃料であるを生成するために必要な鉱物資源は、どこから入るか知っているか」

 春木陽香は包帯をいじる手を止めた。

「いいえ、知りません」

 神作真哉は言う。

「南米だ。この十年間、戦争を続けている南米だよ。しかも、都市部。この鉱物資源はあの大陸の都市部の地下に多く眠っている。だから十年前までは採掘が進んでいなかった。ところが、戦争で町から人が移動し、その地下で好きに鉱物を採掘できるようになった。その鉱物資源を日本に輸入している会社を仕切っている人物がいる。紀子、元政治部記者のおまえなら、分かるよな」

 山野紀子は目を細め、ゆっくりと言った。

「有働武雄。海運関係は、彼のテリトリーよ」

「そうだ。鉱物資源の輸入関係業者が儲かれば、有働の力は拡大し、維持される。それから、有働は真明教に補助金が回るように手配している疑いもある。そして、その金は南米の難民スラムや難民キャンプに流れている。これは、もしかしたら、難民たちをそこに留めておくためなのかもしれん。鉱物資源を採掘している町に人々が戻ったら、地下からの採掘が出来なくなる可能性もあるからな」

 山野紀子は目を丸くして言った。

「じゃあ、なに? 国が収益を上げたいという思惑と、有働武雄の権力欲が、このタイムトラベル事業の原動力だっていうの?」

「それと輸入関係業者の欲だ。これらが相互に支え合って事を為しているのかもしれん」

「そんな……全部、真ちゃんの憶測でしょ」

 神作真哉は一度頷いた後、山野の目を見て言った。

「だが、そう考えれば、なぜ国が不確かなタイムトラベル事業を『ドクターT』からの指摘を無視してまでも継続するのか、納得はいくだろう」

 山野紀子は一瞬言葉を失った。そしてすぐに、憤慨しながら言う。

「はあ? 納得いかないわよ。そんなことのために、人の命が犠牲になっているかもしれないのよ。信じられない」

「信じるも、信じないも、どれも事実じゃないか。真明教関係の法人に補助金が下りていることも、有働が鉱物資源の輸入業界を仕切っていることも。そういう事実をそのまま伝えるのが、俺やお前たちの仕事だろ」

「……」

 山野紀子は沈黙した。

 暫らく春木の横に立ったまま考えていた彼女は、自分の机の前に行くと、机の上の立体パソコンを回してホログラフィーを神作の方に向けた。表示を少し拡大させてから、神作に言う。

「こっちもね、たった今、面白いネタを掴んだの。ちょっと、これを見て」

 神作真哉は腰を曲げてホログラフィーの画面を覗き込みながら言った。

「六月五日? 飛行機は、この時間だけ全便がクローズか。――台風でも来るのか」

 彼の隣で山野紀子は首を横に振った。

「違う。防災隊にも、同時刻に出動のオーダーが掛かっているの。司時空庁から」

「司時空庁から?」

 体を起こして山野の方を向いた神作に、彼女は言った。

「そう。つまり、タイムマシンの発射よ。いつもの二十三日ではない日時に、臨時に発射するみたいなの」

「誰が何のために飛ぶんだ? もしかして、金持ちの我がままか何かかよ」

「あの……」

「ん、なに、ハルハル」

 後ろから声を掛けた春木の方に、山野紀子は顔を向けた。

 春木陽香は椅子に座ったまま山野の顔を見上げて言った。

「この前、田爪瑠香さんの研究室で見たカレンダーの六月四日の所に赤丸がしてあったんです。それで、気になって調べてみたら、私、気付いてしまったんです。その日は……」

 深刻な顔で間を空けた春木を見て、山野紀子は少し構えた。

「な、何だったのよ」

「田爪健三博士の誕生日でした」

 一度ガクリと倒れ掛けた山野紀子は、呆れた顔で春木に言った。

「それがどうしたのよ。あのねえ、夫の誕生日に印を付けていても、別に不思議じゃないでしょ。田爪瑠香としては、いまだに田爪博士の生存を信じているんでしょうから。だから、夫の研究を引き継いで、きっと世間からの白い目に耐えながら、たった一人で研究も続けてきたんじゃない。あんなオンボロのビルの中で。今はね、その次の日の六月五日の話をしてるの。前の日の話じゃ……」

 自分の言葉にハッとした山野紀子は、神作と視線を合わせた。

 春木陽香は遠慮するかのように戸惑いながら山野に確認した。

「タイムマシン……ですよね。過去に戻る」

 神作真哉が春木に尋ねた。

「六月五日に発射されるタイムマシンは、六月五日から六月四日に戻ると言いたいのか。それに田爪瑠香が関与していると」

 春木陽香は頷いた。

「はい。もし『ドクターT』さんの正体が田爪瑠香さんなら、瑠香さんは自説を証明するために、プログラムやシステムを修正したタイムマシンを実際に過去に送ってみせるのではないかと。あの論文の実験は、そのための準備的な実験だったのかもしれません。最終的にタイムマシンそのもので実験するための。そして、その際には、そんなに遠い過去には送らないと思うんです。たぶん、直近の日時に送るのではないかと」

「どうして?」

 そう尋ねた山野の方を見ながら、春木陽香は必死に自分の考えを説明した。

「もし、あの論文を書いたのが瑠香さんなら、岩崎さんが言っている、あの論文の内容が十分に実験されていなくて結論が仮定の域を出ないということは、瑠香さん自身も分かっているはずですよね。書いた本人ですから。論文の結果が確定していないのだとすると、その論文の不確定な結果を基に修正したタイムマシンも、タイムトラベルする場合と、しない場合の、二つの可能性が考えられるのではないでしょうか。そうだとすると、もし、タイムトラベルに失敗した場合は、その場に機体が残るか、爆発とか消滅とかするのかもしれませんが、とにかく、その場で事態がはっきりと分かる訳ですから、とりあえず実験としては、それでいいんだと思います。でも、もう一つの場合は……」

「タイムトラベルに成功したら?」

 再び尋ねた山野に、春木も再び頷いた。

「はい。その場合も、二つの場合が考えられます。まず、田爪博士の唱えていたパラレルワールド否定説が正しくて、過去にタイムトラベルしてもこの時間軸上に戻ってくるのであれば、タイムマシンの出現をもって自説の証明とできる時期でなければ、実験する意味がありません。つまり、最低でも『ドクターT』が司時空庁に論文を送り始めた時以降でなければ、司時空庁はタイムトラベル事業を見直さないはずです。ですが、どうせタイムトラベルを実現してみせるのであれば、論文が正しいか否かを実験で明らかにしようと司時空庁が動き出した時以降の方がいいんじゃないでしょうか。説得力という意味では」

「まあ、そうねえ、そのつもりで相手が待ち構えている所に現われた方が、説得力はあるわねえ」

「だとすれば、到着する時間は発射時刻に接近した時間の方がいいはずです。それに、高橋博士のパラレルワールド肯定説が正しかったとしても、飛び込んだ過去の時点から未来が変えられなければ、実験して証明した意味がありませんから、やっぱり、司時空庁がこの実験に取り掛かった時以降に戻らなければ、意味が無いと思うんです。そうすると、やはり、発射日から近い過去に戻らなければ説得力が無いですし、その後、引き続き理論の見直しや機体構造の改善が出来ませんよね」

 腕組みをして宙を見上げながら春木の話を聞いていた神作真哉は、左手で顎を触りながら呟いた。

「なるほどなあ……田爪の説が正しいとしても、それなら既に、未来である六月五日からやってきたタイムマシンがどこかに現れているはずだ。それが無いから、津田たちは瑠香に証明しろと言っている。もし到着するとしたら、これから後の時間だということか……うん、筋は通るな」

 春木陽香は神作の顔を見てコクコクと頷いた。

 山野紀子が春木に言う。

「あんた、頭ぶつけて、少し賢くなったわね」

「ムッ」

 両頬を膨らます春木陽香。

 神作真哉は春木に自分の理解を確認するように言った。

「つまり、実験の順序としては、まず自分たちの前に未来からのタイムマシンが現われるか、現われないかを確認して、その後、時間を空けずにマシンを飛ばすってことか」

「そうです。それに、瑠香さんとしては、夫の田爪健三の遺産とも言えるタイムトラベル理論を十年近くもかけて研究して修正した訳です。これは直感ですけど、田爪博士が設計したマシンを改良して瑠香さんが実験するのだとしたら、到達日に田爪博士の誕生日を指定するのも、なんだか分かる気がするんです」

 山野紀子は腕組をして言った。

「確かに、そうねえ……。それに、一日前に戻れば、証明としては十分だしね……」

 神作真哉が首を横に振る。

「いや、この時間帯に発射されるのだとすれば、八時間以上前に戻ればいい訳だ。それで十分に証明される。――通常の二十三日の発射は、家族乗りが七時発で、単身乗りが同日の十六時発だよな」

 春木陽香が包帯を押さえながら頷く。

 山野紀子は腕時計を見ながら言った。

「間が九時間かあ。職員の休憩時間を差し引けば、マシンの発射準備には八時間は必要ってことよね。六月四日にマシンが到達するかを、日付が替わるまで待って確認してから、発射の準備をするとしても、五日の八時から九時十五分までの間にマシンを発射させることは十分に可能ね」

 春木陽香は更に付け加えた。

「それに私、思うんですけど、もし、『ドクターT』さんの正体が田爪瑠香さんであるなら、きっと瑠香さんは自分でタイムマシンに乗って過去に戻ろうとするんじゃないでしょうか。――何だか、そんな気がして……」

「夫と同じように、我が身をもって実証しようって思っているというの?」

「はい。だから、瑠香さんは、あえてわざと、論文を司時空庁に送ったのかも。司時空庁が自分に実験の話を持ちかけてくるように」

「だとすると、司時空庁が声をかければ、彼女は直ぐに飛びつくはずだな」

 納得したように言った神作に、山野紀子が指摘する。

「でも、それで実験が成功したら、司時空庁がこの十年間やってきた事業が実はただの巨額詐欺と殺人だったってことが世に知れてしまうかもしれないじゃない。そんなことは、津田幹雄にも、有働武雄にも、かなり都合が悪いわよね。それなのに、自分たちの方から『ドクターT』に対して実験を持ちかけるかしら。『ドクターT』の方から申し入れたとしても、拒否するのが普通じゃないかな」

 神作真哉は首を横に振った。

「いや、司時空庁としては、実験と称して彼女をタイムマシンに乗せた方が都合がいいのかもしれんぞ。これまでの搭乗者と同じように消えてくれた方が、奴らにとっては都合がいいだろうからな」

「……」

 春木陽香と山野紀子は顔を見合わせた。

 神作真哉は春木に尋ねた。

「田爪瑠香は結局、今も行方不明なのか」

「はい。その後の警察の捜査でも、足取りは分かっていないと」

「ということは、警察は田爪瑠香の出入国の履歴まで調べているな。それでも何も出てこない」

「マンションも、研究室も、どちらも荒らされて、パソコン類を持ち去られた挙句、火まで点けられたってことは……」

 山野の発言の途中から神作真哉は言った。

「やったのは司時空庁かもな。しかも、田爪瑠香が帰らないことが前提だ。――紀子、タイムマシンの搭乗者の待機施設が襲撃されたのは、五月七日だったな」

「ええ。情報では、そうみたい」

 日付を聞いてハッとした春木陽香は、神作に伝えた。

「マンションの管理人さんの話では、瑠香さんはゴールデンウイーク中に、たくさんの旅行鞄を持って出かけたそうです」

「待機施設が襲撃されたのは、その直後ってことね」

「もしかしたら、田爪瑠香はそこに居るんじゃないか。司時空庁の連中に監視されながら。あるいは、監禁されているかもしれんぞ」

「そうだとして、襲ったのは誰よ」

「たぶん、有働の手下だ。田爪瑠香は自分にとってもボトルネックとなる人物だが、一方で、津田に引導を渡して辛島勇蔵を総理の椅子から引きずり下ろすための重要な生き証人でもある。田爪瑠香というカードを握った者の勝ちだ。そう考えて彼女を司時空庁側から拉致しようとしたのかもしれん」

 二人の話を聞いていた春木陽香は、首を傾げながら言った。

「でも、やっぱり何か変ですよね。そういう状況は、理論の間違いを見つけた瑠香さんなら、ずっと前に分かっていたはずですよね。どうして瑠香さんは逃げなかったんでしょうか。そんな状況なら、私だったら、もっと早くどこかに身を隠していますけど……」

「そうよね。たとえ実験が成功したとしても、その後は尚更、命を狙われる可能性が高くなるわけだからね」

 少し考えていた神作真哉は、思いついたことを述べた。

「待てよ。田爪瑠香は、津田から騙されているのかもしれんぞ。タイムマシンの改良実験だとか何とか。津田は田爪瑠香に、彼女が自分でマシンに乗ってタイムトラベルを成功させたら、今後のマシンの改良を約束するとか言っているのかもな。だから、田爪瑠香は自分から司時空庁の施設に行ったんじゃないか」

「今後の搭乗者の安全のために、実験機に乗ろうとしているということ?」

 尋ねた山野の方を向いて、神作真哉は頷いた。

「かもしれん。そういう契約書か何かを交わして」

「騙されてる……」

 春木陽香はそう呟きながら、視線を落として考えていた。

 横に立っている山野紀子が困惑したような顔を神作に向ける。

「でも、そんなことをしても、実際には彼女は……」

「そうだ。どの道、処刑される」

「ええー!」

 神作の返事を聞いた春木陽香が顔を上げて、大きな声を出した。

 神作真哉は淡々と説明した。

「タイムマシンの発射で田爪瑠香が確実に死んでくれた方が、津田にとっては都合がいいに決まっている。実験で消滅すれば、単なる事故だ。警察から殺人の容疑をかけられることも無い。仮に瑠香と何らかの契約を結んでいたとしても、そんなもの、相手方当事者が居なくなれば、奴は守らないだろう。少なくとも津田幹雄はそういう奴だ。育ちのいい田爪瑠香と違ってな」

 少し考えていた山野紀子が深刻な面持ちで言った。

「きっと、実験機に何らかの細工をされるわね」

 神作真哉は再び頷いて答える。

「あるいは、何も細工されないか。田爪瑠香が指示した修正点を改良したかのように見せかけて、今までどおりの機体で、これまでの搭乗者たちのように消滅させる方法だってある。どちらかと言うと、そっちの方が確実だろう。実績もあるしな」

 春木陽香は目を大きく見開いて、椅子から立ち上がった。

「そんな……早く何か手を打たないと。しょ、処刑!」

 慌てている春木を横目に、山野紀子は神作に何かを耳打ちした後、春木に顔を向けた。

「ハルハル、あんた、本気で田爪瑠香を助ける気がある?」

「当たり前じゃないですか。処刑ですよ、処刑。瑠香さん、消されちゃうかもしれないんですよね、みんなのために実験機に乗ろうとしているのに! 消されちゃうんですよ!」

 山野紀子は目を細めて言った。

「なら、あんたが消えなさい」

「ですね、私が代わりに消されれば、瑠香さんも助か……はい? 私?」

 自分の顔を指差している春木に、山野紀子は冷たく答えた。

「そうよ、あんたよ」

 春木陽香は我が耳を疑った。目も。山野紀子はまっすぐにこちらを指差している。また包帯がずれ落ちて視界を塞いだ。目の前が真っ暗になった。

(こ、この展開は、いかん……)

 春木陽香はゆっくりと包帯を持ち上げた。山野と神作が冷たい視線を向けている。

 山野紀子がニヤリと笑った。神作真哉も不気味に片笑む。

「――え……ええー!」

 夜の編集室に、春木陽香の声が木魂した。




二〇三八年五月二十五日 火曜日


                 1

 新首都新市街の地下を廻る高速道路「地下高速」。中央にパネルが敷かれた二列の車線の上を、自動車運転専用の人工知能を搭載した「AI自動車」が等間隔で列を作り、一定の速度で秩序正しく走っている。車列の中には一台のAIスポーツセダンが自動走行で走っていた。その車内には、前後に対角で座っている二人の人影と、ハンドルの前で薄く光る「人影らしき物」が見える。

 運転席のシートを少し引いて座っている山野紀子は、ハンドルから手を放し、膝の上に置いた立体パソコンに顔を向けていた。パソコンの上にはホログラフィーで投影された小さな別府博の上半身が浮かんでいる。

 山野紀子は膝の上で薄く光っている別府に言った。

「いい、別府君。今度のLustGirlsラストガールズのグラビアは、ウチの雑誌の一大勝負だからね。何が何でも、警察から撮影のための道路占用許可を取り付けるのよ。いいわね」

 ホログラフィーの別府博は、面倒くさそうな顔をする。

『ええ。申請してみますけど、それ、スタジオじゃ駄目なんですか』

 助手席のシートに手をかけて後部席から前に身を乗り出した勇一松頼斗が言った。

「これだから、素人は。いい、グラビアには空気ってものがあるのよ。画像が伝えるその場の空気。何て言うかな、アスファルトの空虚な感じって言うか、無常感って言うか。解かる?」

「いいから、あんたは仕事、仕事」

 山野紀子は後ろの勇一松に手を振った。

「ああ、はいはい。そうでした」

 勇一松頼斗は後部席に身を戻すと、床に腰を下ろしてシートに隠れ、リアガラスの方に向けてデジタルカメラの長いレンズを向けた。

 山野紀子は立体通信をしている別府に言う。

「せっかく私がエグーイ衣装をデザインしたんだから、ショボいスタジオなんかじゃ意味無いんだからね。青天あおてんで撮らないと、意味が無いの」

 ホログラフィーの別府博は気だるそうな顔で言った。

『そんな……じゃあ、せめて、どっかの海岸とかにしましょうよ。何もこんな時に、あのタイムマシン発射施設の傍で撮らなくても。しかも、隣の総合空港で国防空軍が着陸演習する日に。たぶん、周辺道路は封鎖される予定になっていると思いますよ。道路占用許可なんて下りませんって。――ていうか、僕、ドクターT事件の専属記者じゃなかったんですかね』

 山野紀子は小さな別府のホログラフィーを見下ろして怒鳴った。

「つべこべ言うな、別府! 着陸してくる無人機とか、タイムマシンの発射台を背景に撮るから、私のデザインした衣装が映えるんじゃないよ」

 別府博はふて腐れた顔で言った。

『どんなデザインにしたんですか。どうせ、豹柄とか、水玉とかでしょ』

「紙で行く」

『カミ? ペーパーの紙ですか』

「そ。ペラッペラのやつ。キャー、斬新。私、デザイン業界に転職しようかしら」

『どんな水着なんですか、紙製って。幼稚園児が作る着ぐるみじゃないんだから』

「今、別府君のパソコンにデザイン画を送った。見てみ」

 ホログラフィーの別府は下を向いてブツブツ言いながら手を動かした。

『素材じゃなくて、問題は形なんだけ……ど……おおー!』

 山野紀子は得意気な顔で、インターネット回線の向こうの別府に言った。

「ど? いいでしょ。その鱗状のやつが、風で下からパタパタとなるわけ。もう、見えそうで見えない、究極のグラビア用水着よ。あ、これ、特許をとっておこう。うん」

 山野紀子は一人で満足気に頷く。ホログラフィーの別府博も頷きながら言った。

『なるほど、いいですね。さすが編集長。あったまいいー』

 山野紀子は振り向くと、後部座席で床に腰を落として隠れている勇一松に尋ねた。

「どお。撮れた?」

 勇一松頼斗は本格的な一眼レフ式の特殊デジタルカメラを膝に乗せ、その背面に浮かべたホログラフィーの操作パネルの上で指を動かしている。撮影した画像を確認した彼は、運転席からこちらを覗いている山野に指で輪を作って見せた。

「バッチ、グーよ。ちょっと待っててね、今、そのパソコンに送るから」

 山野紀子は自分の立体パソコンの上に視線を戻すと、別府との会話を続けた。

「でしょ。だから、何としても、道路占用許可を取りなさいよ。紙製の水着は、雨で濡れなきゃ、意味ないんだから。もちろん、雨は散水機で降らすけどね。くくく」

 山野紀子は独り笑いをした。

 浮かんでいる上半身だけの別府博が敬礼をしながら答える。

『わっかりました。男、別府博、頑張ってみます』

「よーし、頼んだわよ。ついでに、もう一つ頼みたいんだけど、いい?」

『なんすか?』

「今からそっちに送る画像に写っている白いバンのナンバー。そこから、その車の使用者か所有者を割り出して欲しいの」

『白いバン?――あ、届きました。どれどれ……なんだ、地下高速の中ですか。ん? こいつら、もしかして、今、編集長の車を尾行している車ですか』

「そ。すぐ後ろを走ってる。今、ライトに撮ってもらったの」

 ホログラフィーの別府博は、少し上を覗き込んでいる姿勢で言った。

『しっかし、顔までよく撮れてるなあ。フロントはスクリーンガラスでしょ、これ。地下高速の中なのに、フロントガラスの色を変色させてないんですか、この車』

「こっちはね。でも、この車は普通に変色させてる」

 ホログラフィーの別府博は首を傾げた。

『でも、中が丸見えですよね。どうやって撮影したんです?』

 後部座席から、一眼レフ式のレーザー・デジタルカメラを弄りながら、勇一松頼斗が答えた。

「変波長レーザー撮影よ。変色式のスクリーンガラスなんて、私には関係ない。ま、赤子の手を捻るようなものね。私はそこら辺のカメラマンとはレベルが違うのよ。これくらい常識」

 自慢しながら撮影した画像を確認していた勇一松頼斗は、カメラの背面パネルに顔を近づけた。すぐにその顔を持ち上げた彼は、再び後ろを向くと、再びリアガラス越しに後方の撮影を始めた。

 山野紀子が別府に言う。

「陸運局とかで照会しなくても、当ては付いているでしょ。そこから調べてみて」

 ホログラフィーの別府博は、得心したような顔でゆっくりと答えた。

『りょーかいでっす。司時空庁の車両購入履歴を、会計監査院の公開データから落としてみます。ナンバーと車体番号が載っているはずですから』

 山野紀子は指を鳴らした後、ホログラフィーの別府を指して言った。

「さっすがあ。よ、腕利き記者。判ったら、私のイヴフォンに電話ちょうだい。この写真をネットにアップするから」

 別府博は顔をくしゃくしゃにして頭を掻きながら言う。

『うわあ、相変わらず編集長は、やることがキツイなあ』

「編集長……」

 後部座席から呼びかけた勇一松に答えることなく、山野紀子は別府に言った。

「まあね。あ、そっちも尾行には気をつけてね。ハルハルも殺されかけたから」

『例の刀傷の男ですか。ははは。なーに、そんな奴、簡単にやっつけてやりますよ。こう見えても、健康のためにリモートで少しだけカポエイラを修得……』

「編集長ってば」

 勇一松頼斗が山野の肩を叩いた。

 山野紀子は別府に言ってから後ろを振り向く。

「ちょっと待って。うん、なに?」

 勇一松頼斗は後部座席のシートから頭を少しだけ出して後方を覗き、山野に言った。

「もう一台いるわよ。三台後ろの黒いRV車」

 上半身を捻って後ろを向いた山野紀子が尋ねる。

「撮れた?」

 勇一松頼斗はレーザー・デジタルカメラを差し出して、背面にホログラフィーで表示された撮影画像を見せながら言った。

「うん。撮るには撮れたけど、見て、ナンバープレートに特殊加工がしてある。これ、変色プレートよ。スイッチ一つでナンバーを隠せる奴。ほら、真っ黒くろすけ。フロントガラスも、特殊偏光ガラスか、撮影防止装置を付けてるわね。中が見えないし、レーザー撮影でも黒くなって写らない」

 その画像に写っている黒いRV車は、フロントガラスもナンバープレートも真っ黒だった。山野紀子は顔を上げて、リアガラスの先の景色を確かめた。間隔を空けて後ろを走っている白いバンの後続車に隠れて、画像に写っていた黒いRV車が走っている。フロントガラスは黒くスモークガラスのように変色していて中が見えない。地下高速内で自動走行中の車には珍しいことではなかったが、勇一松の特殊レーザー光線式の撮影でも内部が見えないというのは明らかに異常だった。

 山野紀子は助手席のシートに手をかけて体を上げ、後方を望みながら勇一松に言った。

「超一流カメラマンの腕で何とかならないの」

 すると、山野の膝の上から運転席の横に落ちた立体パソコンのスピーカーから、別府の声が響いた。彼のホログラフィーも横になって倒れている。

『どうかしましたかあ?』

 山野紀子は体を運転席のシートに戻すと、拾い上げた立体パソコンを顔の前に上げて、目の前の小さな別府に念を押すように言った。

「いい、別府君。その『刀傷の男』は拳銃を持っているらしいから、見たらすぐに逃げなさいよ。いいわね」

 別府博は少し身を引いて、手を振りながら言った。

『当たりまえですよ。チャカが相手じゃ、いくら僕でも勝てないですからね。それより、編集長はこれから何処に行くんです?』

「病院までハルハルを迎えに行くの。頭のタンコブがひかないらしいから、今、ちゃんと診てもらってる。あんたも怪我だけは気をつけてよ。じゃ、切るわね」

 山野紀子は別府との立体通信を切ると、すぐに後方を向いて勇一松に尋ねた。

「どうだった? やっぱり、駄目?」

 勇一松頼斗はレーザー・デジタルカメラのホログラフィー・パネルを険しい顔で見つめながら答えた。

「駄目ね。色々やってみたけど、撮れない。この高波長のレーザー光線で撮影できないとなると、かなりハイグレードな偏光ガラスか、もしかしたら、ジャミング・レーザーか何かをフロントガラスとナンバープレートに照射しているのかも」

「フロントガラスやナンバープレートの改造は違法でしょ? 通信妨害用のジャミング・レーザーも」

 勇一松頼斗はカメラを下ろして、後ろを見ながら山野に言った。

「だけど、いじっているのはフロントガラスやナンバープレートだけじゃないみたいよ。奴さん、地下高速なのに手動運転で走行してる。SAI五KTシステムにリンクしている地下高速では、走行する全車両の速度が一定になるように強制管理されているはずよね。なのに、あの車だけ、さっきから微妙に車間が詰まったり開いたりしてるわ。速度が一定じゃない」

 山野紀子は目を丸くしながら言った。

「ウソ。地下高速はAI自動車しか入れないし、中に入ったら、強制的に自動走行でしょ。運転の主導権をコンピューターに奪われる。なんで手動で運転できてるのよ」

 勇一松頼斗は眉をひそめて言った。

「たぶん、特殊な改造をしたんでしょ。そんなこと、素人に毛が生えたくらいじゃ出来ないわよ。こりゃあ、強敵出現ね。あいつら、きっとプロ中のプロよ。後ろの白いバンの連中とは随分と格が違うかも」

 すると、ダッシュボードのメイン操作パネルから合成音声が発せられた。

『登録サレタ出口ガ近ヅイテ来マシタ。間モナク手動運転ニ切リ替ワリマス。ハンドルヲ握ッテ下サイ」

 山野紀子は立体パソコンを助手席の上に置くと、シートを前に戻して背もたれの角からシートベルトを引き出した。ベルトをした彼女はハンドルを両手で握り、その手に少し力を入れながら嘆いた。

「もう……いかにもって感じのシチュエーションじゃない。勘弁してよお」

 オレンジの照明で照らされた地下高速の中で、コンピューターに統合制御された車両同士が微妙に速度を変えて、スムーズに車間を空ける。左車線に移動した山野のAI自動車は、そのままインターチェンジへの分岐道へと入っていき、坂道を上っていった。



                 2

 新首都北西部に広がる国内一の高級住宅地「薫区」。ここには、政財界の大物や生来の富豪の邸宅が十分な間隔を空けて建っている。趣と節度と品性を備えた長く高い塀がそれぞれの敷地を囲み、そこに構えられた重厚で威厳に満ちた大きな門には、どれも国民に知られた苗字が掘り込まれた表札が、その権力を誇るかのように掲げられていた。

 塀の前を走る整備された広い道路には、路肩に前もって駐車スペースが設置されていて、その上に何台もの黒塗りのAI自動車が縦列できちんと駐車されている。その多くは報道機関が所有する高級車であり、政治部や経済部の記者たちが取材のために使用する社用車だった。よく磨かれた車体の角に誇らしげに立てられた小さな社旗が風に揺れている。

 駐車スペースと塀の間には舗装された広い歩道があり、そこに皺の無いスーツを着た記者たちが並んで立ち、担当する権力者たちが自宅から出てくるのを待っていた。その横を、ヨレヨレのスーツを着た二人の男が歩いていく。胡麻塩頭の初老の男と、背の高い中年の男。初老の男は慣れた足取りである。ズボンのポケットに両手を入れたまま隣を歩いている背の高い男は、時折、背中を丸めて横の高級車の中を覗く。他社の記者に挨拶をしながら歩く重成直人に、横を歩いている神作真哉が言った。

「すみませんね、シゲさん。付き合わせちゃって」

「付き合う? 俺が居ないと、今回は駄目だろうが」

「ああ、そうでした。失礼しました、先輩」

 神作真哉は素直に頭を下げた。

 重成直人が足を止める。一緒に立ち止まった神作真哉は、重成がにらむように見つめている先に視線を向けた。そこには武家屋敷のような立派な門が建っていた。少し後ろに下がって改めて門を観察した神作真哉は、次に左右を向いて景色を観察しながら重成に言った。

「ここですか。さすが、広いですね。これ、向こうの角まで全部、有働武雄の家の敷地ですか。――かあ」

 思わず唸った神作に重成直人は言った。

「薫区では普通だよ。だいたいが、ワンブロックに一軒だ。奥にある菊永町の光絵会長の家なんか、もっとすごいぞ。あの小さな山の上」

「ストンスロプ社の会長の?」

「ああ。あの山全部が家の敷地だそうだ。――ってことは、菊永町の三分の一くらいは、光絵邸の敷地ってことだな」

 道路の先に小高く見える小山を眺めながら、神作真哉は呆れ顔で言った。

「ハルハルの奴、あんな所まで歩いて登って行ったんですよね。馬鹿だな、あいつ」

「若さ故の情熱って奴だよ。その情熱が記者を育てるんだ。いいじゃないか」

 笑みを見せてそう言った重成直人は、歩いてきた歩道の上を視線で指して言った。

「あそこに立っている政治部の記者たちを見てみろ。給料のためだけで、こんな朝っぱらから、あんな所に何時間も立っていられると思うか? あいつらも、あいつらなりに、情熱と信念を持ってやっているのさ」

 神作真哉は元政治部所属のベテラン記者に尋ねた。

「あいつら、どうして路肩に停めてある自分たちの車の中で待たないんです? ていうか、みんな何してるんですか、あんな所につっ立って」

「『朝駆け』ってやつだよ。屋敷の中の先生様が出てくるのを待っているのさ。だけどな、ただそれだけじゃないんだ。ああやって待っていると、その記者の中から何人かがご指名で屋敷の中に入れてもらえるんだ。で、いろいろとネタを貰えるわけだ。交換条件付きでな」

 重成直人は鼻に皺を寄せた。そして、鼻から息を強く吐いて、話を続けた。

「ま、とにかく、車の中に居たんじゃ、いつ先生方に呼ばれて、中で話をしてもらえるか分からんからな。それに、そんな横柄な記者が先生方に気に入られたなんて話は俺も聞いたことが無い」

 神作真哉は塀の横に並んでいる記者たちを見ながら言った。

「それじゃ、雨の日も風の日もですか。政治部の連中も大変なんですなあ」

 重成直人は昔を思い出すように言った。

「毎日立っても、お呼びが掛かることなんて、ほとんど無い。で、その後は先生の車を追いかけて国会議事堂か官庁街。夜は、そうだな、運が良ければ、繁華街の高級レストランか、料亭だ」

「運が悪ければ?」

「知らん方がマシだよ。知ったら、外国への移住か、山奥での隠遁暮らしを本気で考えたくなるぞ」

 神作真哉はポケットに両手を入れたまま、両方の眉と肩を同時に上げた。

 重成直人は神作の高い位置の肩を叩いて、彼に言った。

「ま、政治家もいろいろ、記者もいろいろだ。仕事の取り組み方もいろいろ。俺が退職した後も、しっかり後輩の指導を頼みますよ、神作キャップ」

 神作真哉は鼻の頭を掻きながら言った。

「はあ。――しかし、ここだけの話ですが、永山も千佳ちゃんも、俺の若い頃と比べると随分と優秀じゃないですか。正直、大きな顔はできませんよ。あいつら、分からないことは何でも自分たちで調べて、すぐに修得しちまいますからね。端で見ていてこっちが落ち込みます」

 重成直人は上目で神作を見上げた。

「神作ちゃんだって、そういう世代だろう。――それに、自分独りでは修得できないことも世の中にはある。そのくらいのことは、神作ちゃんだって自覚しているはずだろ?」

 神作真哉は両手をポケットに入れたまま、両肩を上げて下を向いた。

「まあ、そうなんでしょうけど、皆が皆、あいつらみたいな奴らじゃないですからね。勝手に潰れてくれって奴もいますし……」

 重成直人は大きく体を反らして神作に言った。

「それは、いかんね。後輩への指導は、その後輩のためだけじゃない。自分のためにもなるんだ。神作ちゃんがそんなことで、どうするよ。永山ちゃんも千佳ちゃんも、まだまだこれからだし、その下の若造にも、もっといろいろ教えんといかんじゃないか」

「上の連中が新人を入れてくれないんじゃ、何時まで経っても指導する後輩が出てきませんがね」

 神作真哉は膨れ面で下唇を出した。重成直人は自分の胡麻塩頭を軽く叩きながら笑った。

「はは。杉野副社長に言っとくよ。あいつとは同期だから」

 神作真哉は重成に愚痴をこぼし続けた。

「ウチのフロアを見回しても、新人は第一就職の高卒のガキばかりじゃないですか。大学進学目当てに腰掛で記者アシスタントしている連中には、指導のし甲斐も無いですよ」

「どこの会社も同じさ。金が掛からない新人労働者を使い回している。経営側はそういう方向に傾くからな。ウチの会社だって、もう何年も第二就職の大卒は採用してないだろ」

「高校生も馬鹿じゃないですからね。噂が広がってるんでしょ。ウチの会社は、大学に行かせてくれるのはいいが、卒業後の再雇用はしてくれないって。だから、第一就職の面接に来る高校生の奴らは、はなから腰掛けのつもりですもんね。一生、記者を続けるつもりなんか、更々無い」

 重成直人は口角を上げて言う。

「ま、中にはハルハルちゃんみたいな子もいるさ。それを見つけるんだよ。だが、ウチの会社に限った話じゃないが、企業側が今のようなことを続けていると、職業技術の伝承が断ち切られて、その会社はもちろん、業界全体が廃れちまう。あちらこちらでそんなことが起これば、最終的には日本の国力が低下する。結局、若者がどう育つかは、年長者の心構え次第ってことなんだよ。特に、経営者連中のな。将来的には、育てられないまま中年になった今の若者に、自分たちの面倒を見てもらわねばならない訳だからな」

「一九九〇年代とか二〇一〇年代の経済政策の失敗の話と変わらないですね。シゲさんたちの世代には多いでしょ。二十代から三十代にかけて、職業スキルを身につけさせてもらえなかった人たちが」

「ああ。――労働者を育てて、適材適所に満遍なく配置することが、一番の経済回復の特効薬だって、どうしてもっと早く学者も政治家も気が付かなかったのかねえ」

 重成直人は目の前の大きな門を見上げた。

 神作真哉も同じ方向に視線を送って言った。

「気付いていても、実現の方法が分からなかったのでしょ。昔のハローワークみたいに、提携先の専門学校に求職者を送って、資格だのマナーだのを身につけさせるくらいのことしか思いつかない」

「ま、あの時よりは、今は随分とマシだわな。少しずつではあるが、形だけでも、一部の業界では徒弟制度が復活しつつある。よう、お疲れさん」

 近くに停まった車から降りてこちらに歩いてきた男に重成が挨拶をした。神作の知らない男である。神作真哉は男が降りてきた車の角に立ててある社旗を確認した。男は他社の政治部の記者らしい。その男はわざとらしい口調で言った。

「あれ、新日の重成さんじゃないですか。お久しぶりです」

 重成直人は親し気に男に話しかける。

「朝駆けかい。ご苦労さん。幹事はいる?」

 その男が降りてきた車の後部座席から、別の年配の男が降りてきた。重成よりも少し若いくらいの年齢である。顎にだけ髭を生やしたその男は、重成の顔を見るとすぐに近寄ってきた。最初の男が後ろに下がる。その髭の男は重成と握手を交わしながら言った。

「よお、シゲさん。来ましたか。待ってたんですよ。先生の秘書に話を通してあります。十分くらいなら、いいそうです。向うの奥の通用口から入れって」

 髭の男は神作の後ろの方を指差した。神作真哉は振り返って、その遠くまで続く塀を確認する。途中に小さな木製の扉があった。神作が髭の男に視線を戻すと、重成がその男の肩を叩いて言っていた。

「悪いな、朝から無理言って」

「なあに、お互い様でしょ。昔は俺も、シゲさんに随分と世話になりましたから。政治記者同士でネタを争っていても、政治記者全体としては政治に対して監視の目を光らせる共同体なんだって、そう教えてくれたのはシゲさんじゃないですか」

 重成直人は胡麻塩頭を掻きながら言った。

「そうだったかな。俺も、随分と偉そうなことを言ったもんだ」

 髭の男は小声で耳打ちして、重成に促した。

「さ、早く行った方がいい。有働先生は気が短いから」

 苦笑いをして頷いた重成直人は、髭の男に背を向けて歩いていった。

 神作真哉は男に軽く一礼すると、重成を追いかける。

 重成に追いついた神作真哉は、歩きながらネクタイの角度を直し、隣の重成に言った。

「なるほど。こういうことですな」

「ああ。こういうことだよ」

 退職前の初老の記者と中堅の中年記者は、長い塀に沿って歩いていった。



                 3

 街の中を走る白いバンの中には二人のスーツ姿の男が乗っていた。ダッシュボードの下には幾つもの特殊な通信機のパネルが並ぶ。窓が塞がれた後部の荷台には、天井の高さまで無数の機械やモニターが並んでいた。その前には進行方向とは横向きに、スーツ姿の男が椅子に座っている。男が頭につけたヘッドホンから無線の声が聞こえてきた。

『こちらサーベイ・ワン。対象者F、病院から出てきます』

 男は運転席の方を覗いた。前方に山野のAI自動車が走っている。男はマイクを手に取ると、返事をした。

「サーベイ・ツー了解。対象者CとDを乗せた車両が、そちらに向かっている。対象者Fと合流すると思われる。Fが乗車したら、こちらも合流して、CDFを一括追尾する。どうぞ」

『了解。あ、車が来ました。路肩に停めます。これですか』

「ああ、そうだ。待ってろ、今、そっちに向かう」

 白いバンは、大通りの路肩に停車した山野の車を追い越して、少し先で減速し、路肩に停車した。荷台の男がスライド式のドアを引き開けると、中に若いスーツ姿の男が乗り込んできた。若い男は運転席の中年の男に言った。

「お疲れです。対象者Fは赤のパーカーにジーンズ。頭に包帯です」

 中年の男は後ろを向いて、荷台でモニターをを操作している男に尋ねた。

仲島なかしま、どうだ。捉えたか」

「捕捉完了。お、オカマちゃんが降りてきました」

 運転席の仲野なかのは後部ドアのスモークガラス越しに後方の景色を覗いた。山野の車から出てきた勇一松を見て彼は言う。

「対象者Dだな」

 荷台のモニターに、頭に分厚く巻いた包帯で頭部が二周りほど大きくなった春木と、彼女に寄り添いながら車に移動する勇一松の姿が映っている。

 二人が山野の車に乗り込むと、そのAIスポーツセダンはウインカーを点滅させながら走り出し、車の流れの中に戻った。

 モニターの前で無線機のマイクを口に近づけた仲島が通信する。

「本部、こちら仲野班。対象者FがCDと合流。対象者Cの車に乗りました。これより移動します」

『了解。そのまま追尾を続行しろ』

「了解しました」

 白いバンはウインカーを点滅させながら車線に入ると、山野の車を追って走り始めた。狭い荷台の中で仲島の隣に座った最年少の仲町なかまちが隣の仲島に言った。

「それにしても、あんな可愛い子に、ひどいことする奴もいるもんですね」

 仲島はニヤニヤしながら言った。

「どうせなら、Dを襲えばよかったのにな」

 運転しながら仲野が仲町に尋ねる。

「これから、どこに向かうんだ。会社のビルか」

 後部座席の仲町が首を傾げた。

「さあ。帰宅するんじゃないですかね。仕事着って感じじゃないですし」

 仲野は溜め息を吐いて言った。

「じゃあ、旧市街まで移動かよ。また地下高速に乗ってくれれば、楽なんだがな」

 白いバンは山野の車から数台後ろを走っていった。



                 4

 ハンドルを握っている山野紀子は、バックミラーに目配せしながら、後部座席の勇一松に尋ねた。

「どう? 付いてきてる?」

 上身を捻って後方を確認しながら、勇一松頼斗は答えた。

「ええ。ピッタリね。その後ろの黒いRV車も、上手に後をつけているわ」

 山野紀子は、マジックミラーになっているサイドミラーの中のカメラが映した反転画像を中央パネルのモニターで確認しながら、勇一松に言った。

「やっぱり、白いバンの仲間かしら」

 勇一松頼斗は前を向いて答えた。

「さあ。後方支援部隊って奴じゃないの」

 山野紀子はバックミラーに視線を移して、助手席の後ろの席に座っている春木に確認した。

「ハルハル、どう? 別府君から車両所有者を特定できたか、メールが来てる?」

 頭に大袈裟に包帯を巻かれている春木陽香は、膝の上に乗せた立体パソコンを操作しながら答えた。

「ええと……ああ、来てます。やっぱり、司時空庁の車だそうです」

 山野紀子が指示を出す。

「そう。じゃあ、それ、さっきの画像と一緒にネットにアップしといて。顔のところは拡大して」

「はい」

 真っ赤なパーカーを着ている春木陽香は、作業にとりかかった。隣から勇一松が、春木の頭に綿帽子のように巻かれた包帯を見て言う。

「でもさ、ハルハル。その包帯、ちょっと大袈裟じゃない? タンポポみたいになってるじゃない」

 春木陽香は真剣な顔で立体パソコンを操作しながら、隣の勇一松に返事をした。

「はあ……」

 山野紀子が前を見て運転しながら言う。

「こういう時は、大袈裟なくらいが丁度いいのよ。それより、一応、頭の透過撮影はしてもらったんでしょ」

 パソコンの上のホログラフィーに顔を向けたまま、春木陽香は答えた。

「はい。異常は無いそうです」

 ハンドルを操作しながら山野紀子が首を傾げる。

「そう、おかしいわね」

 少し間を置いてから顔を上げた春木陽香は、ムッとした顔で山野に言った。

「――どういう意味ですか」

 山野紀子は笑いながら後部座席に向けて手を振る。

「ま、でも、良かったわね。じゃあ、次ね」

 インターネットへのデータのアップロードを終えた春木陽香は、また間を空けてから山野に尋ねた。

「――次?」

「そ。病院に行ったら、次に行く所よ」

 春木陽香はトートバッグに立体パソコンを仕舞いながら答えた。

「病院の次……ファミレスですか」

 隣から勇一松頼斗が呆れ顔で言った。

「あんたね……。腹ごしらえよりも先に行く所があるでしょ。普通」

 上を向いて少し考えた春木陽香は、言った。

「――ああ、調剤薬局ですね。お薬をもらう」

 運転席からバックミラーでこちらを見ながら、山野が尋ねた。

「処方箋は貰ってきた?」

 春木陽香は虹模様のトートバッグから折り畳まれた書面を取り出すと、それを広げて、内容に目を通しながら答えた。

「はい。でも、替えの包帯とシップしか。――それと、ビタミン剤。別に必要ないかと思うんですけど……」

 勇一松頼斗が手を大きく振って言った。

「いいじゃない。一応、貰っときなさいよ」

「はあ……」

 春木陽香はターバンのように包帯を巻いた頭を傾けて、不思議がっていた。

 やがて、山野の車は大通りから横道に入り、少し進んだ所の路肩に停止した。

シフトレバーをパーキングに入替えながら山野紀子は言った。

「さあ、着いた。そこの薬局よ」

 春木陽香は山野が顎で指した方に目を向けた。雑居ビルの一階に入口らしき小さなドアがあり、その隣に、ドアと同じくらいの大きさのべニア板に黄色いペンキで荒っぽく「くすり」とだけ書かれた手作り感満載の看板が立て掛けられている。さらにその横の壁の所にある小さな窓は、中から金属板か何かで塞がれているようだ。店の前には、何ヶ所かに吐しゃ物が固まっていた。

 春木陽香は、その怪しげな店舗を指差して山野に言った。

「ええー。ここ、営業してるんですか。ていうか、本当に薬屋さんなんですか。別の薬局じゃ駄目ですか」

「ここの薬局がいいのよ。ほら、客も出てきた」

 その怪しげな「薬屋」の小さなドアが開き、中から痩せこけた男が出てきた。汚れたワイシャツをズボンから出してだらしなく羽織り、前の釦は留めていない。目は虚ろで、足取りもふら付いている。少しだけ涎も垂らしていた。

 山野紀子は運転席からその男を眺めながら、春木に言った。

「あらあ、完全に何かの中毒患者って感じね。ハルハル、あの手の客が中に居たら、目を合わせちゃ駄目よ。いいわね」

 春木陽香は後ろから何度も山野の肩をパタパタと叩いて言った。

「ていうか、やっぱり、別の薬局にしましょうよ。ここ、なんか怪し過ぎますから」

 山野紀子は少し後ろを向いて春木に言った。

「中の薬剤師に話を通してあるのよ。いいから、早く行って、薬を貰ってきなさい」

 春木陽香は不安な顔で山野に尋ねる。

「話って……。この服も、編集長が着て来いって言うから着てきましたけど、まさか赤い色見て興奮するお客さんとか、居ないですよね」

 隣から春木を外に押し出しながら、勇一松頼斗が言った。

「その時はマントを振って、サッと避ければいいのよ。私も一緒に行くから。ほら、さっさと降りて」

「はあ……」

 車から降りた春木陽香は、勇一松に背中を押されながら、その怪しげな「薬局」の方に歩いていった。



                  5

 「薬局」の小さなドアを開けて中に入っていく春木と勇一松の様子が白いバンの車内のモニターに映っている。それを見ていた中堅の仲島は無線のマイクを口元に近づけて言った。

「本部、こちらサーベイ・ツー仲野班。対象者FとDが車を降りた。寺師町の十六街区の薬局の前だ。二人とも中に入った。たぶん薬を買うだけだ。どうぞ」

『こちら本部、了解した。そのまま追尾を継続しろ。後で応援を送る』

「了解」

 通信を終えた仲島がマイクを机の上に置くと、隣に座っている若手の仲町が言った。

「しかし、薬をもらうのに、何もこんな薬局を選ばなくても……。ここ、裏で違法な薬品をさばいているって噂の薬局ですよね」

 ヘッドホンを外した仲島が、腕組みをしながら言う。

「あの春木って女、カマトトぶって、実はジャンキーなのかもな。おお、こわっ」

 ハンドルに靠れかかって運転席から前方の様子を伺っていた最年長の仲野が言った。

「知らんだけだろ。近場の調剤薬局に飛び込んだんだ。中は本物の麻薬中毒者だらけだからな。きっと驚いて出てくるぞ。見てろよ」

 小さなドアが激しく開き、包帯頭に赤いパーカーの女性が勇一松に手を引かれながら出てきた。それを見てハンドルから身を離した仲野は言った。

「お、ほら見ろ、もう出て来た。追い返されてやんの。こんな所にまともな処方箋を持って行っても、薬を出してもらえる訳ないだろうに」

 二人は全速力で山野の車まで戻ると、慌てて後部座席に乗り込む。その後を追うようにその「薬局」の入り口から、白黒の大きな斑模様のズボンを穿いた上半身が裸の男が、紅潮した顔で飛び出して来た。後部座席のドアが閉まった山野の車は急発進してその場を去る。仲野は慌ててギアを操作し、ハンドルを切りながら言った。

「何やってんだ、まったく。闘牛ショーかよ」

 走り始めた白いバンの後部の荷台で、仲島がヘッドホンを被り、無線のマイクを掴む。

「こちらサーベイ・ツー仲野班。対象者DとFが車に戻った。牛に追われた模様」

『こちら本部。――牛にだと? どういうことだ』

「また今度話してやるよ。とにかく、牛から逃げた車を追跡中。以上」

 マイクを置いた仲島は、モニターを見ながら、いつまでもニヤニヤと笑っていた。



                  6

 和風作りの庭は広く、隅々までよく手入れが行き届いている。金銀の装飾や大理石の彫刻などは置かれていない。木々の緑と石の鈍色。固定された無彩色で作られた美の中に四季に応じて植物が色の変化を伝えている。自然を人為によって定着させた景色には、中央に広い池が広がっていて、水面の波紋だけが時の流れ自覚させた。その池の辺に和装姿の老人が立ち、鯉に餌を与えている。

 掃き整えられた玉砂利を踏んで、神作真哉と重成直人が現れた。有働武雄は振り向きもせず、水辺の岩肌で黙って餌を撒いている。厚みのある岩の上に立っている彼は、元々長身であるせいもあり、神作の視線よりも上の位置に肩があった。その高い位置にある肩と目の前の背中は独特の強い威圧感を放っている。

 神作真哉は少し緊張した面持ちで姿勢を正すと、有働の背中に向けて一礼して、挨拶の口上を述べ始めた。

「おはようございます。新日ネット新聞社の神作と申します。この度は、ご多忙中にもかかわらず、こうしてご拝謁を……」

 神作が挨拶を終えないうちに、有働武雄は二人に背を向けたまま口を開いた。

「重成君。元気だったかね」

 重成直人は有働の背中をにらみながら答えた。

「ええ。お蔭様で。先生も御健勝のようで」

「どうかね。――見ての通りだよ」

 そう言って再び静かに餌を撒き始めた有働の背中は、どこか寂しげでもあった。静かなままの水面に餌を撒きながら、彼は背後の重成に尋ねた。

「それで、何の用だ。重成君」

 重成直人は答える。

「彼が、先生に二、三、ご教授願いたいことがあるそうですので、連れて参りました。ウチの社会部でトップ記事を担当する記者チームのキャップをしている男です」

 有働武雄は少し振り向くと、岩の上から流し目で神作を見下ろした。

 神作真哉は少し不機嫌そうに浅く頭を下げると、今度は挑戦的な態度で言った。

「どうも。神作です」

「うん」

 表情一つ変えずにそう一言だけ発した有働武雄は、再び背を向けると、また黙って餌を撒き始めた。

 神作真哉は重成に視線を送る。重成直人は黙って頷いた。

 有働武雄が言う。

「で、話は」

 神作真哉は単刀直入に質問した。

「司時空庁のタイムマシンのことです。このまま続けさせるべきか、そろそろやめさせるべきか」

「……」

 一瞬、有働武雄は餌を撒く手を止めたが、再び撒き始めると、神作に問い返した。

「君は、どう思う」

 神作真哉は即答した。

「やめるべきかと。一刻も早く」

 再び餌を撒く手を止めた有働武雄は、少しだけ横顔を見せて、さらに尋ねてきた。

「――うん。何故だ」

 神作真哉は率直に意見を述べた。

「犠牲が多過ぎます。もう十分でしょう」

 有働武雄はゆっくりとこちらを向いた。その顔は厳しかった。彼は岩の上から鋭い眼光で神作をにらんで、言った。

「十分? 犠牲と言うものに、許容できる分量があると言うのかね、君は」

「――いえ、それは……」

 その意外な問いかけに、神作真哉は答えに窮した。

 岩の上に立つ有働武雄は暫らく黙って神作をにらみ付けていたが、やがて業を煮やして彼に言った。

「神作君と言ったかな」

「はい」

「君は、国が為すべきまつりごととは、何だと思う」

 神作真哉は有働から視線を外した。少し考えて、彼は答えた。

「国民の幸福の実現……ですかね」

 確認するように神作真哉が視線を有働に戻すと、その老人は眉も瞼も瞳も鼻も動かさずに、岩の上から神作の顔をじっとにらんで言った。

「違うな。調整と対策、そして経済だ。内外の調整が治安と外交、対策が国防だ。では経済とは何か。経国済民。最終的には民を救うことだ。貧困と苦痛から国民を救うこと、それが経済だ。理財とは違う。そして、この経済とは、畢竟、広い意味での調整であり、対策でもある。だから、そのためには、なるべくなら犠牲を出さない方がいい。国民に犠牲を強いるようなら、本末転倒だ」

 彼は暫らく岩の上から神作に鋭い視線を向け続けた。そして、黙っている神作に呆れたように鼻から息を吐くと、後ろを向いて再び背を見せた。

 神作真哉は有働の背中に向けて言葉を投げた。

「先生も、あの事業はやめるべきだと」

 有働武雄は黙っている。再び一度だけ餌を撒いた彼は、少し間を空けてから答えた。

「一般論を述べているだけだ。だが、あの事業の実施は私が許可した。煮るも焼くも、私が決断すべきだとは思う。しかし、私は今、権力の外に居る人間でね。こうして池の鯉に餌をやるくらいしか出来ん」

 神作真哉は冷静に問い質した。

「ですが、いまだに先生の影響力は大きいのでは。事業を推進するために必要な部分を、しっかりと押さえていらっしゃる」

 一瞬だけ口角を上げた横顔を見せた有働武雄は、再び前を向いてから答えた。

「何のことだね。まさか、朝から私を、からかいに来た訳ではあるまい」

 神作真哉は核心に触れた。

「とぼけないで下さい。ご存知なのでしょう。あの発射管の中で何が起こっているか」

「神作」

 横に居た重成直人が神作を制止した。それは叱咤に近かった。

 有働武雄は二人に背中を向けたまま、二人に聞こえるように呟いた。

「今朝は撒き過ぎたな。鯉も腹を空かしていないようだ。まったく餌を食わん」

 有働武雄は横へゆっくりと歩き出し、踏み台代わりの小さな岩に慎重に足を掛けると、玉砂利の上に降りてきた。

 神作真哉は自分の前を通り過ぎようとする有働に、必死に食い下がった。

「津田長官は、田爪瑠香まで消し去ろうとしているかもしれないのですよ。あなたなら、止められるはずだ」

 重成直人は神作の腕を掴んで引き戻すと、彼に言った。

「やめろ神作。ここは編集フロアじゃない。政治の場だ。考えろ」

 神作真哉は重成の腕を振り払うと、有働を指差しながら言った。

「そうですよ。この人は政治家でしょう。だから言っているんですよ。だが、この人には事業を止める気は無い。何が国民に犠牲を強いるなら本末転倒だ」

 有働武雄は足を止めて、背中を向けたまま彼に言った。

「その政治家の力を削いでいるのは、常に君らマスコミではないのかね。にも関わらず、都合が悪くなると、今度はすがってくる。随分と虫がいい話だな」

 神作真哉は真剣な顔で述べた。

「何と思われようが構いません。人の命を助けたい、それだけです」

 そこへ、何処からともなく現れた背広姿の中年の男が、頭を垂れて有働に言った。

「先生。朝食の準備が整いました」

「ん。そうか。今行く」

「先生!」

 呼び止めた神作真哉の方に顔を向けた有働武雄は、淡々とした表情で神作に言った。

「すまんね。私は朝食を取るのか遅くてね。朝はやることが多くて、つい後回しになってしまう。いつも、この時間だ」

 再び背中を向けて歩いて行く有働に、神作真哉は必死に訴えた。

「このままでいいんですか。家族の転送まで始まったのですよ。このままでは、どんどんエスカレートしていきます。早く事業を停止して、あの施設は封鎖しなければ……」

 また立ち止まった有働武雄は、前を向いたまま少し大きな声で神作の発言を遮った。

「神作君。あの施設は、あの事業だけが目的の施設ではないのだよ。現に、各国首脳や要人の宿泊施設として利用されることもある。敷地の滑走路は、各国の政府専用機の専用滑走路だけでなく、緊急用や臨時便の一般飛行機の発着にも使用している。隣の総合空港の補助としてな。便利がいい。それに、多くの業者も出入りし、雇用も創出している。記者なら、こういった点も視野に入れておくんだな。そうすれば、無駄な動きをせんで済む」

 神作真哉は納得しない。彼は最後の切り札を切った。

「田爪瑠香が殺されたら、真実を証言できる人間はいなくなるのですよ。何としても彼女を救い出さないと」

 振り向いた有働武雄は刃のような冷たい視線を神作に向けながら、ゆっくりとした口調で言った。

「一つ忠告しておこう。あの施設に入ろうと思っても無駄だ。君らの実力では、どうにもならん。無理をして失敗すれば、その男のようになるぞ」

 有働武雄は重成を指差す。

 神作真哉はすぐに言い返した。

「本望ですね」

 有働武雄は一度小さく鼻で笑うと、説き伏せるように神作に言った。

「そうか。だが、未来ある若者はどうかな。君らとは違って、苦痛に耐えなければならない期間が長いだろう。酷過ぎるとは思わんかね」

 重成直人が険しい顔で口を挿んだ。

「部下は関係ありませんよ。それに、過去の因縁は、俺とアンタの間の問題だ。この件とは関係ない」

 笑みを浮かべて下を向いた有働武雄は、重成に言った。

「今更、気にはしとらんよ。ならば、こんな見当違いはせん」

「見当違い?」

 聞き返した神作を無視して、有働武雄は秘書からメモを受け取り、言った。

「重成君、君はそろそろ定年退職だったな。私はてっきり、昔咬みついて来た男が再就職先の紹介を頼みに来たのかと思ってね。私はこう見えて、実は情け深い人間だから、こうして準備してやったのだが……。いやあ、どうやら私も、随分と焼きが回ったようだ」

 有働武雄は重成にメモを手渡した。メモを広げて読んでいる重成に有働武雄は言う。

「そこは、都内の一流ホテルや料亭に料理人の派遣をしている会社だ。ウチにも料理人を何人か入れている。君は料理をするんだったかな」

「いいえ。不器用でして」

 有働武雄は鼻で笑ってから、言った。

「独り身なら簡単な炊事くらいするだろう。ちょうど調理補助の人手が足りないらしい。芋の皮剥きくらいならできるんじゃないか。一度、訪ねてみるといい。話はしてある」

 神作真哉は握った拳を腿の横で振るわせて言った。

「あんたって人は……」

「神作」

 彼に注意した重成直人は、有働の顔をにらみ付けながら、冷静に対応した。

「お気遣いいただき感謝します。ですが、私も歳が歳ですので、よく考えさせて下さい」

「シゲさん」

「いいんだ」

 神作に言い聞かせた重成直人は、受け取ったメモ用紙を黙って折りたたむと、上着のポケットに仕舞った。

 再び二人に背を向けた有働武雄は、去り際にこう言った。

「ま、自分の分を知るいい機会だ。よく考えて、挑戦してみる気になったら、やれるだけやってみたまえ。ただ、腰を痛めても私のせいにはせんでくれよ。そこまでは請負えん」

 彼は横顔で軽く笑って見せると、秘書と共に屋敷の方へと去っていった。

 神作真哉は有働の背中をにらみ付けながら、顔を紅潮させて歯軋りする。

「あの野郎、何が芋の皮剥きだ、馬鹿にしやがって……」

 重成直人は苦笑いしながら神作の背中を一度だけ軽く叩くと、玉砂利の音を鳴らしながら、通用口の扉の方へと歩いていった。

 神作真哉は申し訳無さそうに重成の背中を見つめていた。



                 7

 運転をしながら山野紀子は勇一松に尋ねた。

「どうだった。マタドール・ライト・勇一松さん」

 山野の後ろに座っている勇一松頼斗は、目を大きく見開いて言った。

「あの牛男、なによ。あんなのが本当にいるなら、知らせときなさいよ」

 山野紀子は前を向いたまま、ニヤニヤして言う。

「こういうのは、リアリティが大事でしょ」

 勇一松頼斗は額の汗を拭いながら言った。

「冗談じゃないわよ。本当にビックリしたわ」

 山野紀子が真顔に戻り、尋ねる。

「それより、後ろの車、まだついて来てるの?」

 振り返った勇一松頼斗は、確認してから山野に言った。

「ええ。白と黒で、ピッタリと仲良くね」

 山野紀子はハンドルを握る手に力を込めると、ニヤリとして言った。

「じゃあ、そろそろ、こっちも、『オウ、レイ』と行きますか。ちょっと飛ばすわよ、二人とも、しっかり掴まってなさい」

 山野紀子はシフトレバーを素早く操作した。アクセルを強く踏み込む。急加速した山野のAI自動車は、他の車を追い越して、白いバンを突き放した。

 バンの運転席の仲野が焦ってハンドルを切りながら言う。

「くそ、あの女。仲島、本部に報告だ。対象者が逃げる!」

 仲島は直ぐに報告した。

「本部、こちら仲野班。対象者Cがこっちに気付いた。逃走を図っている。追跡する」

『なんだ。今度はイノシシでも出てきたのか?』

「違う、今度はマジだ。今、猛スピードで逃げられてる」

『了解。応援車両を回す』

「応援が来るそうです」

 そう伝えた仲島に、運転席の仲野は怒鳴った。

「いらねえよ! 文屋の運転に撒かれる訳ないだろ!」

 他の車両の間を縫うように走りながら、白いバンは山野のスポーツセダンタイプのAI自動車を追いかけていく。山野の車は横道から再び大通りに出ると、クラクションを鳴らして車と車の間をすり抜け、そのまま他の車両同士の車間から車間へと飛び移るように車線を変更しながら、どんどん前に進んだ。

 シートベルトを握り締めたまま後部座席でシートに背中を押し当てている勇一松頼斗は、運転席の山野に言った。

「ちょっと、編集ちょお! スピード出し過ぎでしょ! 何考えてんのよ! ここ、街中よ、寺師町よ!」

 山野紀子はハンドルを操作しながら、小鼻を張らして言った。

「このくらいが、何よ」

 山野のAIスポーツセダンは、他の車で混みあう繁華街の大通りを蛇行しながら進んで行く。周囲の車は急ブレーキを掛けて、その暴走車との衝突を回避した。どの車もクラクションを強く鳴らす。四方で鳴り響くクラクションの中を、白いバンが猛スピードで走ってきた。何とか他の車を避けながら、山野の車を追う。

 必死の形相でハンドルを操作していた仲野は、歯を喰いしばりながら言った。

「くそ、なめやがって!」

 モニターを見ていた仲島が言った。

「ん、なんだ、この黒い車」

 それを聞いた仲野は、苛立った様子で叫んだ。

「本部からの応援か。もう来やがったか。要らねえって言ったのによ」

 黒のRV車は、白いバンを追い越していくと、他の車両の間を強引に縫うように進み、山野のスポーツセダンを追いかけていった。

 後方から追い上げてくる黒いRV車をサイドカメラの画像で確認した山野紀子は、咄嗟に叫んだ。

「左の路地に入るわよ。急カーブするからね。三、二、一、!」

 山野はハンドルを切った。ドア側に倒れ込む勇一松に赤いパーカーの小柄な体が載る。

「ちょっ、ちょっと。あぶない!」

「わあ、わあ」

 後部席の絶叫を気にすることもなく、山野は言う。

「次は右! 三、ニ、一、!」

「あイタっ! わあ!」

「だから、あぶな……、ちょ!」

 左側に運ばれた後部座席の二人は、必死にシートにしがみ付いた。赤いパーカーの肩に倒れ込んでいる勇一松頼斗が、山野に叫ぶ。

「あんたね、『イチ』でハンドル切りなさいよ! 三、ニ、一の『イチ』で! どうして一拍あけるのよ! フェイントなの?」

「後ろは!」

 尋ねた山野に勇一松が振り向いて答えた。

「黒はどっか行った。白しか……あらら、止まったわ。これでもう……わあ、だから何で急に!」

 山野の車は狭い路地を急右折して走っていった。

 その頃、路上に飛び出してきた老人の前で白いバンは急停止していた。ハンドルから額を離した仲野は、蒼白の顔に汗を浮かべながら、怒鳴った。

「くそ! あぶねえだろ!」

 老人は頭を下げると、ニコニコしたまま車の前に立っている。

 地図が表示されたモニターを見ながら、仲町が指示を出した。

「後ろの路地です。そっちから回れますよ」

「うるせえ、黙ってろ。分かってんだよ」

 白いバンは少しバックすると、右折して更に細い路地へと入っていった。

 車を徐行させながら、仲野がハンドルを叩いて言う。

「何処に行きやがった」

 山野の車両をモニターに捉えた仲島が、振り返って椅子から立ち上がり、前の席に体を出して助手席側を覗き込む。彼は外を指差して叫んだ。

「ああ、いた。向こうです。向こう!」

「このやろう、頭下げろ、見えねえだろうが。うわ!」

 激しい衝突音が響いた。仲島が前に倒れる。仲町は椅子ごとひっくり返った。

バックしようとした白いバンは、横道から出てきたゴミ収集車に追突していた。

「くそ……さっさと再起動しろ!」

 運転席の仲野は操作パネルの上で幾つものボタンに触れて、追突の衝撃で停止した電気エンジンを必死に復帰させようとしていた。すると、無線の音が車内に響いた。無線機からヘッドホンのコードが外れている。雑音の混じった音声がスピーカーから直接、車内に広がった。

『サーベイ・ツー、サーベイ・ツー、聞こえるか。こちら本部、サーベイ・ツー』

 腰を押さえながら、仲島は無線のマイクに手を伸ばした。

「いってえ……こちらサーベイ・ツー仲野班。対象者を見失った。これから探索する。どうぞ」

『いや、サーベイ・ツーは直ちに撤収しろ』

 運転席の仲野が苛立った様子で怒鳴った。

「ああ? なんで。このままナメなれて終わりかよ」

『ネットにお前らの姿が掲載されている。直ちにその場から撤収しろ。いいな』

 急いで備え付けのパソコンに手を伸ばし、インターネット上を検索した仲町は、それを見つけて叫んだ。

「ああ! 本当です。先輩たちの顔が大きく掲示されています。『司時空庁の変態ストーカーコンビ』って書いてあります!」

「くそっ!」

 仲野が強くハンドルを叩く。

 いつまでも再起動しない白いバンは、ゴミ収集車の横で白煙を上げていた。



                 8

 十車線以上の幅がある寺師町のメイン通りに出てきた山野の車は、車列の中に紛れると少し速度を落とした。ハンドルを握りながら、山野紀子は勇一松に確認する。

「どう。撒けた?」

「白はね。でも、今度は黒ちゃんがついて来てる」

「はあ? まったく、しつこいわね。いいわ、黒牛と闘うのが闘牛よ。やってやろうじゃない。二人とも、ベルトを締めときなさいよ!」

 勇一松頼斗が泣きそうな顔で言った。

「さっきからギューっと閉めてるわよ。――ああ、ヘルメット被ってくればよかった」

 山野の車はイチョウ並木の大通りを猛スピードで直進した。クラクションを鳴らし、他の車を退かせる。何台もの車両を追い越し、間を通り抜けて前に進んだが、その黒いRV車は正確な運転で後を追ってきた。

 山野紀子はサイドカメラの画像をモニターで見ながら唇を噛んだ。

「なかなか、しぶといわね」

 すると、黒いRV車の後ろから群青色に光るスポーツタイプのバイクが姿を現した。そのバイクのライダーは濃紺のライダースーツにラピスラズリ色のフルフェイス・ヘルメットを被っていて、スーツと同じ色の薄いパックを背中に背負っている。そのパックからは左右の肩の上を通ってヘルメットの顎の下まで管が一本ずつ伸びていた。群青色のバイクは黒いRV車を追い抜くと、他の車両の間を縫うようにすり抜け、あっという間に山野の車の右斜め後ろに着けた。

 後ろを振り向いていた勇一松頼斗が慌てて言う。

「ちょっと、バイクも出てきたわよ」

「面白い!」

 山野紀子は一気にハンドルを回した。車体は急転回し、道幅の大きなT字路を左へと曲がった。周囲の車は急ブレーキを踏み、タイヤの摩擦音とクラクションの音が四方に鳴り響く。山野の運転に反応して転回した黒いRV車は、T字路の突き当たりで停止した他の車に道を阻まれ、急停止した。その後ろに後続の車両が急停止する。その後ろや周囲にも次々と車両が停止し、黒いRV車は周囲を停止車両に囲まれた。そのまま、クラクションが鳴り響く大きなT字路の真ん中で立ち往生する。

 山野たちを乗せた車は左側の車線に移動しながら、そのまま西へと進んだ。

 反対車線で停止した車が長蛇の列を作っているのを見て、勇一松頼斗が言った。

「あらら、大渋滞になっちゃったじゃない。どうするのよ、編集長」

「後ろは? まだついて来てる?」

「いいえ。もう撒いたみたいよ。よく考えてみたら、何で逃げてんのか分かんないけど、とりあえず、これで……」

 勇一松頼斗は十本隣の車線に目を凝らした。大型トラックの陰から現われた群青色のバイクが南からの日に照らされて一際に青く美しく輝いていた。そのバイクはトラックの後方からこちら隣の車線に出てくると、他の車両と車両の隙間をテンポ良く鮮やかにすり抜けながら次々と車線を変更して、徐々に山野たちの車が走っている車線に接近してくる。

 近づいてくるバイクを目で追いながら、勇一松は山野の肩を叩いて言った。

「バイクがついて来てるわよ! もの凄い運転上手! ヤバイわよ、これ」

「ええい、仕方ない」

 下唇を嚙んだ山野紀子は再びハンドルを切った。車は高音と白煙を立てて更に左に車線を変更し、そのまま地下高速道路への入り口ゲートをくぐった。透明のジェル状の壁を突き抜けて通過し、少しだけ気圧が下げられたスロープを下っていると、車内のAIからアナウンスが聞こえた。

『都営地下高速道路ヘヨウコソ。コレヨリ、自動運転走行ニ切リ替ワリマス。真空道路ニヨル快適ナ移動ヲゴ堪能クダサイ』

 山野紀子はハンドルから両手を放し、シートに身を投げて息を吐いた。

「ふう。これでよしっと。真空状態の地下高速に、バイクは入って来れないからねえ」

 緩やかにカーブするスロープを下って、山野のAI自動車はもう一度、透明のジェル状の壁を突っ切った。その壁により区切られて、更に低い気圧になっている地下高速道路の本線へと入る。車に搭載された運転用人工知能がインターネット回線を通じて、SAI五KTシステムに車両位置を送り、全ての地下高速道路の車両の位置を把握し調整しているSAI五KTシステムが、瞬時に全車両の適切な車間を再計算して、それを調整する。本線を一定の速度で自動走行していた車両たちは速やかに車間を開け、その列の中に山野たちの車を招き入れるように加えると、そのまま、整った車間で一定速度の流れを続けた。

 頭の後ろで手を組んだ山野紀子は、シートに身を倒して言った。

「しかし、意外としぶとかったわね。もう少し早く振り切れると思ってたんだけど……」

 勇一松頼斗は憤慨した顔で山野に言った。

「もう、懲り懲りだからね。あんな運転するなら、カースタントにでも転職しなさいよ。冗談じゃないわ。死ぬかと思った」

 三人を乗せた車が再び透明のジェル状の壁を通過した。更に地下高速道路内の気圧は低くなっている。空気抵抗が下がった車両は一段と速度を上げた。車列は音も無く流れる。

 山野紀子は、車のガラスを変色させて中が見えないようしようと、ダッシュボードのメインパネルに表示されたブラインド機能ボタンに手を伸ばした。彼女は何気なく、その横のサイドカメラの映像を映したモニターに目を遣った。するとそこに、さっき通過した透明のジェル状の壁が縦に引き裂かれて、中から前輪を上げた群青色のバイクが飛び出しくる瞬間が映し出された。山野紀子は慌てて振り向く。後部座席の勇一松も振り向き、目を丸くして騒いだ。

「いやだ。ちょっと、何よ。あのバイク、まだついて来るわよ」

 運転席と助手席のシートの間から上身を出して後方を覗いた山野紀子は、半ば呆然としながら、呟くように言った。

「冗談でしょ。地下高速の中は、ほとんど真空状態なのよ。ここには気密設計されたAI自動車しか入れないはずでしょ」

 勇一松頼斗がバイクの運転者に目を凝らしながら叫んだ。

「気密スーツに密閉式ヘルメットよ! 背中に酸素パックも背負ってる!」

「だからって、流体ナノガラスをバイクで通過してきたわけ? かなりの速度よ。時速百キロは出てる。この速度で、バイクで体ごと、この次の流体ナノガラスも通過するつもりなのかしら。嘘でしょ。通過する時の衝撃で死んじゃうじゃない」

 勇一松頼斗もバイクを見ながら山野に言った。

「本気なんじゃないの。しかも、さっきの黒い車と同じで、自動運転じゃないみたいよ」

 群青色のバイクは、路肩の壁すれすれの位置を走り、他の車を追い越しながら、少しずつ速度を上げて、山野たちの車に近づいて来ていた。

 山野紀子は前を向き直した。前方には流体ナノ粒子を積み重ねた透明のジェル状の隔壁が大きく一面を塞いで立ち、揺らめいている。山野たちを乗せた車はその中に突入し、難なく壁を通過した。気圧が下がり、更に速度を上げる車の中で、山野紀子はすぐに振り向いて後方の流体ナノガラスの向うのバイクの様子を伺った。すると、揺らめく壁の、路面より少し高い位置からバイクの前輪が飛び出し、続いてバイクの底の超電導バッテリーパックと後輪が姿を現した。車体そのものを盾にしながら流体ナノガラスを切り裂いて高速で飛び出してきた群青色のバイクは、軽やかに着地すると、そのまま一気に加速して、山野たちの後を追ってきた。それに続いて、流体ナノガラスの壁の中から黒いRV車が飛び出してきた。勇一松頼斗が頭を押さえて言った。

「オーマイガッ。さっきの黒い方も来たわよ」

「うそでしょ」

 山野紀子は慌てて中央パネルのアイコンに触れると、メニュー画面から運転切替画面を開いて、自動運転を解除しようとした。車のスピーカーから人工音声が響く。

『地下高速道路ヲ進行中デス。手動運転ニハ切リ替エラレマセン』

「もう!」

 山野紀子はハンドルを強く叩いた。

 黒いRV車は他の進行中の車両と車両の間に割り込みながら、二つの車線を左右に蛇行して少しずつ山野たちの車に近づいてきた。そのRV車が車間に割り込む度に、天井の警告灯の光がトンネル内を赤く照らす。統一システムによって管理されて自動走行していた車両たちは、RV車の割り込みによって強制的な速度調整を余儀なくされた。各車両の車内に警告アナウンスとチャイムを鳴り、速度を小刻みに落としたり上げたりしながら不規則で不安定な走行を続ける。その不規則に速度変化を繰り返す車列の横を、壁に沿って走る群青色のバイクは安定した速度で山野の車にどんどん近づいてきた。

 不規則に速度を変える車の中で、前に後ろに体を揺らしながら運転席のシートにしがみ付いていた勇一松頼斗が叫んだ。

「ちょっと……もう……何なのよ。全然、快適じゃないじゃない。ロデオマシンに乗っているみたいじゃないのよ!」

 山野紀子もシートとハンドルに掴まりながら、後ろを覗いて言う。

「あの黒い車が手動運転で無理に車列に割り込むからよ。その度に、ここを制御しているSAI五KTシステムが、車間と速度を計算し直しているんだわ」

「シット! 黒い車がどんどん近づいてくるわよ。――わあ、びっくりした」

 リアガラスから後方を覗いていた勇一松の目の前に、さっきの群青色のバイクが姿を現した。そのバイクは、壁際から山野の車の真後ろに移動すると、そこで手を伸ばせば届く程の距離の車間を維持して、車の後方を走り続けた。その後方から、黒いRV車が右に左に車線変更を繰り返しながら、距離を詰めくる。その度の、目前の山野の車の速度変化に機敏に反応しながら、群青色のバイクは減速と加速を繰り返し、山野の車との車間を維持していた。

 前後に揺れる車内で、山野紀子は右手でハンドルに掴まりながら、ダッシュボードのメインパネルに手を伸ばし、時折、前を見ながら何かを頻りに操作していた。

 勇一松頼斗はカメラを構えて後方の群青色のバイクにレンズを向けたが、車の揺れに体が持っていかれ、後部シートに強く額を打ち付けた。

「いったーい。痛いじゃないの! せっかくのシャッターチャンスなのに、これじゃ撮影できないじゃないよ! ちょっと、編集長、何とかならないの?」

「私に言われても、どうしろって言うのよ! このシステムを作ったNNC社かストンスロプ社のGIESCOにでも言いなさいよ。とにかく、一番近い降り口で外に出るように設定し直しているから、文句言うな!」

 その時、群青色のバイクの後ろに黒いRV車が現われ、フロントライトを上げて山野たちの車の車内を照らし、激しくクラクションを鳴らした。その前で群青色のバイクに跨ったライダーが頻りに山野の車の中を覗き込んでいる。

 突如、黒いRV車が急減速した。真空状態を時速二〇〇キロ以上の速度で進行していた車体は、みるみる後方へと小さくなっていく。それに伴って周囲の車も再計算され、一斉に減速を始めた。群青色のバイクのライダーは瞬時にブレーキを握り閉め、バイクを減速させる。それを追うように山野の車が減速して後退して来た。山野の車の後部バンパーがバイクの前輪に接しようとした時、再び後方から強い光が照らした。群青色のバイクのライダーが一瞬振り向くと、後方からさっきの黒いRV車が急加速して突進してきていた。バイクのライダーはハンドルから放した片方の手を腰の後ろに回した。

「体当たりしてくる!」

 勇一松頼斗がそう叫んだ瞬間、迫ってきた黒いRV車のボンネットに火花が散った。RV車は再び急ブレーキを踏んで減速する。バイクのライダーは一度腰の後ろに片方の手を戻すと、その手を再びハンドルに戻して握り、グリップを回した。一気に加速したバイクは先に進んだ山野たちの車を追う。その後方から黒いRV車が再加速してきた。そこへ、緊急車両専用の地下道路の出入り口から赤色灯を点滅させた濃紺の4WD車が飛び出してきた。ボンネットとルーフの上に機関砲を装備したその「軽武装パトカー」は、大きくサイレンを鳴らして本線の中を進んでくると、さっきの黒いRV車のように蛇行しながら、乱れた車列の中をジグザグ走行で前に進んできた。黒いRV車は慌てたように急激に車線変更すると、左右の車列の間を他の車と車体を擦りながら前に進み、山野の車の後方に追いついた群青色のバイクの隣に来て、その速度を少し落とした。

 並走するバイクとRV車を後方から眩い光が照らした。軽武装パトカーの拡声器から警官の声が飛ぶ。

『そこの青のバイクと黒のRV車。次の緊急避難帯で停止しなさい。RV車、直ちに走行車線に戻って自動運転に切り替えるんだ。繰り返す、前のRV車、直ちに走行車線に戻って自動運転に切り替え……おい、待て、止まれ!』

 黒いRV車は山野の車とその隣を走っていた車両に体当たりして、二台の間に割り入った。そのまま更に急加速すると、山野の車のサイドカメラを破壊して、その隣の車を弾き飛ばしながら強引に前に出る。その前の車両とも軽く接触して左右に広がった前の車間を更に先に進み、それを繰り返して逃走を図った。群青色のバイクは少し車体を横にずらした山野の車を軽やかに避けると、体を右に左にと倒しながら車間を軽やかにすり抜けて前に進み、地下高速道路の奥へと消えて行く。RV車に押し退けられて車線からずれた車両たちは速やかに自動で車線上に復帰し、今度は車間も速度も一定に戻して再び整然と走り出した。赤色灯を回転させた軽武装パトカーが後方から近づくと、車両たちは順に車体を壁際に少しだけ動かして、パトカーが通過できるだけの最低限の幅を正確に開けた。パトカーを通し終えると、元の車線の位置に戻り、再び一定の速度で同じ間隔を保ちながら、何事も無かったかのように流れを再生させた。

 静寂を取り戻した車内で、山野紀子が言った。

「行ったわね。気付いたかしら」

 後部座席で、レーザー・デジタルカメラが故障していないかを確認していた勇一松頼斗は、山野を見ることなく言った。

「さあ。でも、気付かなかったから襲ってきたんでしょ」

「かもしれないわね。それにしても、何なのよ、今の。尾行や監視だけじゃなくて、明らかに殺す気満々だったわよね」

 後部座席で頭から包帯を外しながら、赤いパーカーを着た永峰千佳が言った。

「体当たりしようとしてきましたよね。あの黒いRV車」

「会社に着くまでは、包帯はしておきなさい。気を抜くのは早いわよ」

「あ……はい」

 山野に注意された永峰千佳は、渋々、包帯を頭に巻き始めた。

 三人を乗せた車は、自動走行のまま真空の地下トンネルの中を高速で走っていった。


     

                 9

 地上で立体交差している車道橋の上に群青色のバイクが走ってきて、その中程の路肩に停止した。バイクに跨ったまま下の道路脇の地下高速の出口を見ていたライダーは、顎に手を運び、ヘルメットから背中に伸びたチューブを外すと、ラピスラズリ色のヘルメットを脱いだ。中でまとめていた長い黒髪が解き放たれ、風に流れる。彼女は、風に舞うその美しい黒髪をかき上げながら、下の道路の脇にある地下高速の出口から出てきた山野のAIスポーツセダンを確認した。

 女は耳元のイヤホンマイクに片方の手を添えて、空を見上げる。

「綾です。一人消えました」

 彼女のイヤホンに返事が届いた。

『直ちに探索しろ。我々は上空から車を追う』

「了解」

 髪をまとめ上げ、再び鮮やかな青いヘルメットを被ったその女は、群青色のバイクで東の方へと走り去っていった。



                 10

 昼休みになったばかりの新日ネット新聞・社会部フロアは、記者たちが出払っていて、誰も居ない。社会部次長の上野秀則だけが一人で番をしている。彼は神作の席に座り、腕組みをして居眠りをしていた。物音がして目を開けると、赤いパーカーを着た包帯頭の女が奥の本棚の近くの席に荷物を置いていた。

 上野秀則は右手で軽く目を擦ると、あくびを噛み殺しながら言った。

「おお、永峰、どうだった。上手くいったか」

 永峰千佳は頭の包帯に手を掛けながら答えた。

「ええ、なんとか。山野さんの思惑どおり、こっちが無理して尾行を振り切ったお蔭で、相手は集中して、こっちに張り付いています」

 永峰千佳は耳の上の結び目を解こうとしたが、解けない。強く結び過ぎたことを後悔しながら、彼女は上野に向けて窓の方を指差した。

 上野秀則は椅子に座ったまま、キャスターを転がして窓際に移動した。ブライドに指を差し込み、上下に広げた隙間から外を覗き込んだ上野秀則は、視線を下と上に順に向けながら言った。

「ああ? なんじゃこりゃ。厳戒態勢並みだな。――ヘリまで出してきたか」

 ブラインドから顔を離した上野秀則は、膝を軽く叩いて言った。

「しかし、これでとりあえずは、陽動作戦は成功っと」

 彼は窓の下の戸棚の扉を蹴って、神作の席まで椅子に乗ったまま滑って移動した。神作の机の前では永峰千佳がハサミを探していた。神作のペン立てにもハサミは無い。そこへ椅子に乗った上野が背後から滑ってきた。永峰千佳は、さっと上野をよける。机に衝突した上野秀則が、ぶつけた肘を庇いながら呻いた。

「いつっ……。かあ、ビリビリきた」

 横に立っている永峰千佳は、それを無視して上野に言った。

「でも、本当に大丈夫なんですかね。ちょっと、やり過ぎじゃあ……」

 上野秀則は腕を振って痛みを散らせながら答えた。

「いや、当たれば特ダネ、大逆転だ。やるしかないよ」

 永峰千佳は、向こう側のドアを見ながら上野に尋ねた。

「谷里部長は?」

「上に呼ばれている。たぶん、司時空庁から社長か副社長に連絡が……あれ、黒木局長。どうされたのですか」

 上野の視界に、こちらに向かって歩いてくる黒木局長の姿が入った。綿帽子のように包帯を巻いたままの永峰が恥ずかしそうに顔を背けながら場所を空ける。

 黒木局長は上野の前に立つと、彼に尋ねた。

「神作君は、何処に行った」

「ああー……ええと……」

 永峰千佳は背中を丸めて包帯頭を上野に近づけると、小さな声で彼に言った。

「私、着替えてきますね」

 そして、顔を隠してコソコソと恥ずかしそうにゲートの方に向かった。

 黒木局長は上から厳しい視線を上野に向けたまま、棘のある口調で言った。

「政治部から苦情が出てるぞ。他人の畑を荒らすなって。上野君、君も元政治記者なら、政治家と記者とのデリケートな関係は分かっているだろ。神作君は社会部記者を続けている男だから、知らんのだよ。この世界には、この世界の仁義ってものがあることを、どうして君から教えてやらないんだ」

 上野秀則は椅子から立ち上がることも忘れて聞いていた。困惑したように彼は言う。

「はあ、すみません。しかし、随分と早い情報ですね。さっき出かけたばかりなのに」

「現場の記者からだよ。恥をかいたと言っていた。担当記者を出し抜いて、有働の私邸を訪ねたそうじゃないか。何しに行ったんだ、いったい」

「はあ……たぶん、真明教の件だと思うんですが……」

 黒木局長は上野を指差して言った。

「思うんですが、だと? 君、部下の行動を把握してないのかね」

 上野秀則は眉を八字にして言った。

「あ、いや、それは……」

「取材じゃありませんよ」

 黒木の背後から声がした。上着を肩に掛けた神作真哉と、きちんと背広を着ている重成直人が歩いてくる。神作真哉は永峰の隣の席の椅子に上着を掛けて、斜向かいの席の前にいる重成を軽く指差しながら言った。

「ちょっと私的な件で、先輩に付き合っただけです」

 重成直人は自分の席にゆっくりと腰を下ろしながら言った。

「いやね、ちょっと、私と有働の間のわだかまりを解きにね」

 黒木局長は怪訝な顔で尋ねた。

「蟠り? 何かあったのかね」

 重成直人は椅子に体を倒して腕組みをしながら言う。

「ああ、そうか、局長はまだ、使い走りの頃でしたからね。ご存じないか。――ま、随分と昔の話ですがね、いろいろ有ったんですよ。デリケートな事情がね」

 黒木の隣に立っている神作真哉が補足した。

「侘びを入れに行っただけですよ。シゲさんも、もうじき定年だ。退職して社を離れたら、一般人ですからね。そうなってまで有働から色々やられたんじゃ、シゲさんも大変じゃないですか。だから、俺が勧めて、頭下げに行って来たんです。俺はその付添い人。喧嘩にならないように」

 疑り深い目で神作の顔を見ながら、黒木局長は確認した。

「ならなかっただろうな。相手は前総理大臣だぞ」

 神作真哉はネクタイを弛めながら答えた。

「一発、ぶん殴ってきましたよ」

 黒木局長は大きく目を見開いて声を荒げた。

「な、なんだって? 何をしてるんだ。ウチの政治部の連中が出禁になるぞ」

 神作真哉は笑いながら顔の前で手を振る。

「冗談ですよ、冗談」

 そして真顔に戻して、黒木に言った。

「でも酷い奴ですよ。けんもほろろでした。そんな昔に何があったのか、俺も詳しくは知りませんけど、黒木局長も察しが付くでしょ。ウチのシゲさんが悪いはずがない。なのに、まあ、あの野郎。まったく……。行って損しましたよ。ねえ、シゲさん。ホント、すみませんでしたね、余計なことをさせてしまって」

 頭を小さく下げた神作に、重成直人は手を振って答えた。

 黒木局長は憮然とした顔で言う。

「往年の記者が退職前に謝罪に行ったのに、請合わなかったというのか」

 重成直人が離れた席から黒木に言った。

「まあ、一応は腹に収めてくれましたけどね。ま、これで終結でしょ。だから、これ以上あまり触らないように、局長から上に言っておいて貰えますか。杉野副社長は、あの当時の事情をよく知っているはずですから、理解してもらえると思いますがね」

 黒木局長は眼球を左右に動かして、少し戸惑いながら答えた。

「――そうなのか……。――分かった。伝えておこう」

 黒木局長は顔を上げると、神作に言った。

「杉野副社長と言えば、司時空庁から副社長に抗議の電話があったそうだ。今、谷里君が上に呼ばれている」

「何の抗議です?」

 神作の問いに黒木局長は眉間に皺を寄せて答えた。

「いや、聞けば、例の週刊新日風潮の記事の件らしい。俺も呼ばれたが、ウチには関係ないと言って、席を立ってきた。君たち、まだあの事件を追っているんじゃないだろうな」

 神作真哉は手を上げて答える。

「まさか。真明教で手一杯ですよ。ねえ、うえにょデスク」

「上野だ。――でも、空き時間なら、追ってもいいんですよね」

 そう尋ねた上野に、黒木局長は素早く顔を向けて言った。

な。空きがあるのか」

 神作真哉が顔の前で手を振りながら言う。

「いいや、とんでもない。今日も、午後は信者たちのインタビュー取りですから。真明病院にも行ってみないといけないし、あとは、真明学園でしょ、文科省と、厚生労働省、会計検査院、ああ、真明教のメインバンクも調べないとなあ……」

 自分の顔の前で折って数えている神作の指を掴んで降ろした黒木局長は、言った。

「もう、分かった。とにかく、真明教の記事はしっかり裏取りしてから書けよ。補助金の流用が事実なら、憲法違反の可能性もあるし、相手には大手法律事務所が付いている。裁判沙汰になったら厄介だからな。まして、政治献金絡みとなれば、政治部への引継ぎ記事ともなる。そうなれば、社を上げて取り組む大ネタだ。他者も追随してくるだろうから、抜いた抜かれたの戦争になるぞ。だから、心して取り掛かってくれよ。頼むぞ」

「了解です」

 そう返事をした神作の目を、黒木局長は一度強くにらんでから、去っていった。

 

 首を伸ばして、黒木がエレベーターに乗ったのを確認した上野秀則は、すぐに神作に尋ねた。

「で、どうだったんだ。有働は」

 スーツの上着を手にとって上野の横に戻ってきた神作真哉は、言った。

「その前に、そこを退けよ。俺の席だ」

「ああ、悪い悪い」

 上野が椅子から立ち上がると、そこに腰を荒々しく下ろした神作真哉は、自分の机の上に上着を放り投げ、ネクタイを外しながら言った。

「ま、シゲさんに酷い当たりだったのは、本当だ」

 重成直人が苦笑いしながら言う。

「退職後の再就職先に、芋の皮剥きの仕事を紹介されたよ」

 上野秀則は憤慨した。

「はあ? 芋の皮剥き? ふざけた奴だなあ」

 昼食を終えた他の記者たちがエレベーターからぞろぞろと降りてきたのを見て、神作真哉は口の前に人差し指を立てた。

「シー。声がでけえよ」

「すまん、すまん」

 謝りながら、永山の席の椅子に腰を下ろした上野秀則は、腕組みをして神作の話の続きを待った。神作真哉は静かな声で言う。

「だが、津田と違って、タイムトラベル事業の拡大には乗り気じゃないらしい」

「有働がそう言ったのか」

 怪訝な顔で尋ねた上野に神作真哉は言った。

「そんな訳ないだろ。お前らが聞き慣れた、政治家トークって奴だよ。俺も帰り道でシゲさんに教えてもらって、納得した」

 上野秀則は振り向いて重成を見た。

 重成直人は両眉を上げて見せる。

 再び前を向いた上野秀則は、腕組みをしたまま神作に言った。

「政治家の連中は絶対に本音を言わないからな。前総理の大物政治家なら当然だな。ていうか、担当記者でもないのに、会ってもらえただけでも奇跡的だよ」

「シゲさんの人徳さ」

 重成を指した神作につられるように、再び振り向いて重成を見る上野。

 重成直人は顔の前で手を振って謙遜する。上野秀則はニヤリと口角をあげた。

 体を捻って後ろを向いている上野に神作真哉が尋ねた。

「あっちの方は」

 上野秀則は、体を戻しながら答え始めた。

「ああ、今、永峰が戻って……」

 彼は発言を止めた。椅子に座っている神作の背後に谷里部長が立っていたからだ。彼女は不機嫌そうな顔で神作を上から睨んでいる。上野の視線に気づいた神作が振り向いた。谷里部長は神作の頭越しに上野に向かって甲高い声を上げた。

「ちょっと、上野次長。どういうことよ。司時空庁の記事は載せないって言ったわよね。社会部の部長は私なのよ。私の決裁が無いと、記事は載せられないのよ。分かってる?」

 上野秀則は、今度は椅子から立ち上がってから言った。

「分かってますよ。どうされたんですか」

 谷里部長は神作の後ろから上野の前に歩み寄ってくると、広げた右手で自分の胸を叩きながら言った。

「今、私が副社長に呼ばれたのよ。私が。司時空庁から、迷惑してるって抗議があったそうよ。どういうことなの、これ」

 谷里部長はしかめた顔を前に突き出してくる。

 上野秀則は谷里から顔を逸らして、目線だけを彼女に向けながら言った。

「記事を載せたのは、下の『風潮』でしょうが。どうして、ウチに……」

「新聞が指示を出してるんじゃないかって言うのよ! どうなの!」

 谷里部長はヒステリックに声を荒げた。

 上野秀則は小指を片方の耳に入れながら、迷惑そうな顔をして答えた。

「出してませんよ。それに、迷惑してるのはこっちじゃないですか。ほら外を見てください、あのオムナクト・ヘリ。こんなんじゃ、他の取材もできないし、ウチの記者たちも落ち着いて仕事が出来ませんよ」

 谷里部長は上野が指差した窓の方を見ることもせず、上野の低い鼻の前に人差し指を突き出して、彼に怒鳴りつけた。

「何かあったら責任を取らされるのはこっちなのよ。そんなの御免だからね。司時空庁からは手を引きなさいよ。いいわね」

 谷里部長は床を踏み鳴らして歩いて行き、自分の部屋に入ると、激しくドアを閉めた。大きな音がフロアに響く。

 上野秀則は呆れたようにそのドアを見ながら呟いた。

「何度も言うけど、責任を取るのが、あんたの仕事でしょうが。まったく……」

 神作真哉もドアの方に視線を向けながら言った。

「部長もいろいろ大変なのさ。プライベートでは、両親の介護に加えて旦那さんの方の親のこともあって大変みたいだからな。金も掛かるだろうし」

 振り向いた上野秀則が神作に尋ねた。

「なんだ、随分と同情的じゃないか。じゃ、この辺で止めとくか」

「馬鹿言ってんじゃねえよ。ここで手を引けるか。今日は二十五日だ。六月五日まで、あと中十日しか無いんだぞ。この十日で決着を付けることができなかったら、重要な証人が消されちまうかもしれないんだ。分かってんのかよ」

 上野秀則は神作の机の上に右手をつくと、顔を近づけて小声で言った。

「分かってるよ。でも、谷里部長があの調子じゃ、記事を書いても載せてもらえないだろうが。黒木局長も及び腰だし、その上の杉野副社長は、全く当てにならん。下の『風潮』が記事を書いても、発刊は早くても来週の金曜、つまり発射の前日だ。しかも、『風潮』は今時珍しい紙媒体の雑誌。読者数も知れているし、売れるのにも時間がかかる。前日に発売される号に記事を載せても、とても発射を止める効果が出るとは思えん。こりゃ、腹を括らんといかんかもな」

 神作真哉も少し小声で答えた。

「端からそのつもりだ。当日に計画を実行するしか無いだろ。奴らが動けなくなる証拠を手に入れて、一発逆転ホームランだ。それしかない」

 神作の耳元で上野秀則が言う。

「空振ったら、コールド負けだぞ。お前こそ分かってるのか」

「大丈夫だ。こっちには秘策がある」

「秘策?」

 思わず大きな声が出てしまった上野秀則は、再び小声で神作に尋ねた。

「なんだ、そりゃ。もう、計画は動き出してるんだぞ」

 神作真哉はまた小声で言った。

「作戦変更だよ。ま、とにかくハルハルを何とかしないとな」

 上野秀則は内緒話をするような声で神作に言った。

「せっかく一人、身を隠したんじゃないか。後は計画通りハルハルがLustGirlsラストガールズの撮影スタッフに紛れ込んで、隙を見て発射施設内に入り、中から俺とおまえの潜入を支援する。そういう手はずだろ。今更、変えるのかよ」

 神作真哉は腕組みをして、普通の声で言った。

「ああ。でも、この調子じゃ、たぶん撮影のための道路占用許可も下りないぞ。司時空庁が邪魔をするに違いない。――やっぱり、あいつには転職してもらおう。若いし、今のうちなら、まだやり直しも出来るからな」

「転職って……。おまえ、まさかハルハルを使い捨てるつもりじゃないだろうな。あんまりだろ」

「ま、なるべくなら犠牲は出ない方がいいが、やむを得ないようなら仕方ない。ねえ、シゲさん」

 上野秀則は振り向いて、もう一度重成を見た。重成直人は手帳を覗き込みながら頷く。

「そうだな。若い子の方がいいしな」

 前を向き直した上野秀則は、困惑した顔で神作に言った。

「おいおい、山野は知ってるのか。また暴れだすぞ」

「あいつには、さっき伝えたよ。紀子も同意見だ。せっかく連中の目がこっちに向いているうちだから、今のうちにハルハルには、次の就職先でも紹介して、この件からは身を引いてもらおう。怪我もしているし、それくらいのことはしておいてやらないと、いざという時に先輩記者としてこっちが責任を問われちまう。先に手は打っておかないとな」

「言ってる意味が分からんぞ。一番若いあの子はお荷物だってことか」

「そうは言ってねえよ。とにかく、今回の計画は超ヤバイ。最年少のハルハルを巻き込む訳にはいかんだろ。暫く宿直室にでも泊まらせて、頃合いを見て再就職。あいつのためには、それが一番だ。だから、おまえも協力しろよ。いいな」

 上野秀則は納得のいかない顔で首を傾げた。

 後ろのドアの向こうで谷里部長がドアに耳を押し付けて、外の会話を聞いていた。

窓の外ではオムナクト・ヘリが社会部フロアと風潮編集室のフロアの間の高さを上下しながら飛んでいる。新日ネット新聞ビルがある高層ビル街には、赤色灯を回したパトカーがいつもより多く走っていた。

 新首都新市街では人知れず緊張が渦巻いている。南の那珂世湾の向うから、強い風が吹き始めていた。

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