第6話

二〇三八年五月十一日 火曜日


                 1

 山野紀子は朝の新日風潮編集室で自分の席に座り、イヴフォンで永山と通話していた。各自の机で仕事に取り組んでいる記者たちの前に永山哲也の像が不自然に浮かんで見える。

 山野紀子は脳内の永山のイメージに話しかけていた。

「――そうなのよ。で、結局、中には入れてもらえなかったらしいわ。記者会見も、ぶら下がりも無し。全くのノーコメントだって。それで、しんちゃんもシゲさんも、カンカンよ」

 浮遊して見えている永山哲也の像が言った。

『じゃあ、司時空庁は工事中の事故で通すつもりなんですかね』

「でしょうね。天下の司時空庁の施設が襲撃されたなんて知れたら、司時空庁の権威も、それを警備していた軍の面子も丸潰れだからね」

 南米に出張中の永山哲也は、先週の金曜日に起こったタイムマシン発射施設の襲撃事件について神作や山野たちが昨日取材した顛末を、地球の裏側で、今知ったのである。彼は夜更けのホテルの一室でベッドに腰掛け、腕時計を見ながら首を傾げていたが、山野の脳内に再現された永山の再生イメージは、ただ怪訝そうな顔をして話すだけだった。

『襲撃されたってのは、確かなんですよね』

「分からない。でも、テレビ局には匿名のメールが届いたそうよ。おそらく、内部の関係者からのリークね」

『誰が送ったんでしょう』

「さあね。でも、司時空庁か軍の内部に現状を良しとしない者が居ることは確かね」

『警察は動かないのですか』

「いつものアレでしょ。官僚同士のもたれ合い。ここで司時空庁に恩を売っておけば、警察庁長官の子越こごしも退官後の天下り先がスムーズに決まるのかも」

 山野紀子はハイバックの椅子にもたれかかって、そう言った。

 永山の像が興味深そうに目を開いて山野に尋ねる。

『で、ノンさんたちはどうするんです。キャップたちの方は表立っては動けないんですよね。僕との連絡も谷里部長に監視されているみたいですから』

「やりにくいわよねえ。――ま、そっちは真明教で進めなさいな。首が繋がってないと、取材も出来ないでしょ。こっちは今、期待のオールド・ルーキーが田爪瑠香を追っているところだから」

 空中の永山は首を傾げた。

『田爪瑠香を? まだ探しているんですか。高橋博士の家族じゃなくて』

「そっちは、親族を追ってる。今、うちの別府君が住所確認で走り回っているわよ」

 山野紀子は身を起こすと、口角を上げて尋ねた。

「――で、そっちは、何か見つかった?」

『ええ。こっちの日本人会に所属している日系五世たちの話では、どうも、ゲリラ軍を支援している科学者がいて、それが日本人らしいんですよ。例の都市伝説、あれ、本当っぽいですよ』

「ホントに」

 目を輝かせる山野に永山の像が答える。

『ええ。それで、その場所に行ってみたいんですけど……』

 山野紀子は首を横に振った。

「駄目よ。どうせ、戦地に近いところなんでしょ。危ないじゃない。哲ちゃんも父親なんだから、祥子さんや由紀ちゃんのことも考えなさい」

 山野紀子は、タイムトラベル学会のウェブサイトへの書き込みについて、その発信元が絞れたという事実を永山には伝えていなかった。その場所は第一級戦闘区域に近い所だ。山野紀子は永山の無鉄砲な一面も知っていた。だから、今の永山の発言にも釘を刺したのである。

 空中に浮かんでいる永山の像は頷きながら笑顔で答えた。

『分かってますよ。行こうにも、協働部隊の規制が厳しくて動けないんです。何か、北の方では協働部隊側がかなり劣勢になっているみたいで、前線も随分と後退したと聞いています』

 山野紀子は目を丸くした。

「最新鋭武器で戦っている連合国軍が、ゲリラに押されているの? 環太平洋諸国連合の合同軍隊でしょ。地形の問題もあって、ゲリラ軍の掃討に十年もかかっているのは分かるけど、兵力は協働部隊の方が格段に上じゃない。それなのに、寄せ集めのゲリラ軍に押されているって言うの?」

 永山の像は頷いた。

『ええ。ゲリラ軍側が使っているという正体不明の光線銃。アレが随分と増えてきたみたいですね。何処でどうやって作っているのか、協働部隊側もまったく掴めていないみたいです』

「その謎の日本人だったりして」

『しー。盗聴に引っ掛かりますよ。たぶん、こっちでは、記者の通信はすべて文言集積照合されているはずですから』

「スーパー・エシュロンかあ。――はあ、もう……」

 山野紀子は再び椅子の背もたれに身を投げた。少し肩を落として息を吐く。そして、天井を見上げて永山に言った。

「どうする? 一度、帰ってくる?」

 天井に浮いている永山の像は首を横に振った。

『いや、そうすると、たぶん二度と海外に出させてもらえなくなるような気がして』

「でしょうね。今、哲ちゃんが南米のプレスセンターに居て、現地情報を国際部にも送ってくれているから、真ちゃんも哲ちゃんも首の皮一枚で繋がっているって感じだものね。戻ってきたら、二人揃って東京に左遷かもよ」

『まあ、東京ならまだいいですけど、離島の出張所とかに回されちゃ、叶いませんから。由紀も来年は受験ですし』

「そうよね。うちだって同じ。はあ、頭痛い」

 山野紀子はストレートの黒髪の頭を両手でくしゃくしゃに掻いた。

 真顔に戻った永山の像が山野に言う。

『とにかく、近場のスラムの中で徹底的に聞き込みしてみようと思います。何者かが居ることは、確かなようなので』

「気をつけてよ。難民キャンプから発展したスラムとは言っても、現状では寺師町の中裏なかうら地区あたりと変わらないって聞いてるから」

『ハルハルは一人で行ったんですよね。新首都圏一危険な場所、寺師町中裏地区に』

 山野紀子は、誰も座っていない春木の席を見ながら答えた。

「まあ、ほら、あの子は、ああいう子だから」

『また遠方に出張しているんじゃないでしょうね。今度は生きた鹿や猪を連れて帰ってくるかもしれませんよ』

「それは無いわね。あの子、東京に行ったから」

 今度は永山の像が目を丸くした。

『東京? 一人でですか。彼女、新首都生まれですよね。行ったことがあるんですか、東京に』

「分からないけど、心配だからライトを付けといたわ」

『ライト?――ああ、勇一松さんか』

「そ、汚い方」

『大丈夫ですかね。誘惑の多い街ですよ、あそこ』

 山野紀子は笑いながら答えた。

「大丈夫よ。ハルハルは仕事熱心だから、真面目に調査して真っ直ぐ帰ってくるわよ。その心配はして無いわ」

 綺麗に片付けられた春木陽香の机の上には、向かいの机との仕切りの代わりに何冊もの書籍が立てられていた。書籍とは言っても、どれもホログラフィー書籍のデータを保存したMBCを薄い箱の中に挿んでいるだけのものだ。それらの各種の年鑑や人名録の背表紙に挟まれて、一際カラフルな背表紙が立っていた。そこにはこう記されていた。

 東京ガイド二〇三八 春の観光特集その1 美味い店百選



                 2

 撥水タイルが貼られた真新しい床が延々と遠くまで続いている。天井から放たれた最新式の自然光LEDからの強い光が床を照らしていた。その明るい空間にベルが鳴り響いた。そこは建設されて間もない駅だった。ホームには、アクリル製の転落防止壁が線路との間に立てられている。その壁の向こうには、遠くまで連なっているリニア列車が停車していた。

 到着アナウンスと共に一斉にアクリル製の壁のドアと車両のドアが同時に開き、リニア列車から乗客が降りてきた。旧首都である東京への来訪者は依然として多い。ホームの上はあっという間に降車した人で溢れかえった。人の波は何かに急きたてられるように、幅の広い下りのエスカレーターの方へと流れていった。緩い傾斜の長いエスカレーターは、一段に大勢の人を乗せて、人々を次々に階下へと運んでいく。

 やがて、ほとんどの乗客が階下に進み、ホームに静けさが戻った。まだ停車しているリニア列車の乗降口の一つからホームの上に、スニーカーを履いた小さな足が揃えられたままピョンと着地する。その小柄な女性は着地と同時に両手を広げ、ポーズをとった。

「はい、東京上陸う。やって来ました、東京にイ」

 その後から降りてきた勇一松頼斗が、呆れたように春木を見ながら言った。

「あんたね、なに浮かれてるのよ。たかが東京じゃない」

 春木陽香は頬を膨らませる。

「ええー。初めて来たんですよ。ちょっとくらい感動してもいいじゃないですか」

 勇一松頼斗は溜め息を吐いた。

「はあ。――しかも、その、いかにも『御上おのぼりさん』的な恰好。いや、違った、『御下おくだりさん』ね。もう首都はあっちだったわ」

 背後を親指で指している勇一松を置いて、春木陽香はホームの先端に駆け出した。高い位置に高架式で設置されているリニア線のホームからは、街の景色が一望できる。春木陽香は額の上に手をかざして、背伸びをしながら景色を望んだ。

「わあ、でも、すっごいなあ。遷都したって言っても、凄い活気ですねえ。こっちがまだ日本の首都みたい」

「浜松町駅で驚いてちゃ駄目よ。東京駅なんか、もっとすごいんだから」

「へえー。びっくらこいた」

 勇一松頼斗は両手を肩まで上げて言った。

「遷都してから、もう十六年になるのよ。昔はもっと凄かったんだから。今の新首都で言えば、もう、そこら中が有多ありた町の大交差点か、寺師てらし町のメイン通りかって感じよ。はあ、懐かしいわあ。向うに東京タワーが見えて、こっちにはスカイツリー……あら、無くなってる。取り壊したのかしら……。ん? 何よ」

 戻ってきた春木陽香は、話している最中の勇一松に自分のウェアフォンを渡した。そして、もう一度ホームの端まで走っていき、外の景色を指差しながら興奮気味に言った。

「あれ、モノレールですよね。ライトさん、画像を撮ってもらってもいいですか」

 春木陽香は羽田から走って来るモノレールを背後にしてポーズをとった。

 勇一松頼斗は呆れ顔でウェアフォンを構えながら、春木に言った。

「もう。仕方ないわねえ。ほら、もっと右に寄って。いくわよ、はい、チーズかまぼこ」

 撮り終えた勇一松頼斗は、春木のウェアフォンをズボンのポケットに仕舞うと、今度は首に提げていた自分の一眼レフ・カメラを顔の前で構えた。

「ほら、天才カメラマンが、ちゃんとしたプロ仕様のカメラで撮ってあげるから。もっと肩あげて。そう。モノレールがいい位置に来たら……今よ、はい、チーズ饅頭っと」

 ピースサインをする春木陽香をフラッシュの光が強く照らした。



                 3

 東京府内某所。春木陽香は回りをキョロキョロと見回しながら、狭い歩道の上を歩いていた。

「へえー。なんか、色々とコンパクトですね。マンションみたいなビルばっかり。歩道もこんなに狭いし。道路も細っ」

 春木と並んで歩いていた勇一松頼斗は、彼女に言った。

「新首都がデカ過ぎるのよ。あんな広い幹線道路、横断するのに一苦労どころじゃないでしょ。地下リニアまでも入り口の階段から、めちゃくちゃ遠いし。あっちが異常なのよ」

「でも、さっきの東京ドーム。いやあ、近くで見ると、やっぱり感動しました。あ、たしか、ここからだと、こっちの方に見えるはずじゃ……あの丸いのがそうかな。うーん……ギリギリかあ……」

 背伸びしてビルとビルの間から東京ドームを探している春木を、勇一松頼斗は呆れ顔で一瞥すると、冷静に周囲の景色を見回す。

「別にドーム施設くらい、もっと大きいのが新首都には幾つも在るじゃない。あっれえ、おかしいなあ。ここの角に交番があったはずなんだけど、無くなってるわ。交番は日本が世界に誇る治安システムでしょうが。なんで簡単に無くしちゃうのよ。まったく」

 十字路の横断歩道を渡り終えた二人は、そのまま北に歩き始めた。

 春木陽香は満足気な顔で言った。

「でも、なんか感動するじゃないですか。テレビで見てる東京ドーム。高校球児の憧れの場所。カキーン」

 春木陽香はフルスイングして見せた。勇一松頼斗は顔の前で手を小さくスイングする。

「ああ。昔は甲子園だったんだけどね。大規模な熱中症事件が起きたから、こっちになったのよ。でも、なんか応援する気にならないわよね。近頃は色白球児ばっかりで」

 春木陽香は周囲の看板を見回しながら言った。

「地方の球場も大抵は簡易ドームですもんね。仕方ないですよ。あ、本屋さんだ。医学書だって、さっすがあ」

「そりゃ本屋くらいあるわよ。大学の近くなんだから」

 春木陽香は立ち止まり、またウエアフォンで写真を撮り始めた。その様子をまた呆れ顔で見ていた勇一松頼斗は、春木の肩を指先でつついてから言った。

「すぐ近くが上野公園だけど、後で行ってみる?」

 春木陽香は目を輝かせた。

「え。あの、『うえにょ動物園』の上野公園ですか」

「上動物園。不忍池もあるし。まあ、新首都の昭憲田池しょうけんたいけの大きさに比べたらコップの水みたいなものだから、あまり驚かないかもしれないけど、風情はあるわよ」

 春木陽香はガッツポーズをした。

「いやったー。たしか、動いてるモノレールも在るんですよね」

「うーん、どうだったかしら。でも、モノレールは全国どこにでもあるじゃないよ」

 頬を膨らませた春木陽香は言う。

「東京のモノレールがいいんです」

 勇一松頼斗は両手を肩の高さに上げて、首を横に振る。

「アイ、ドント、アンダスターンド。分かんないわ、その美学」

 二人はまた狭い歩道の上を歩き出した。

 周囲を見回しながら春木陽香は勇一松に言った。

「でも、どうして遷都したんでしょうね。まだこんなに人口が密集しているのに。もったいないなあ」

「まあ、遷都したことで、『東京』を客観的に見ることが出来るようにはなったわよね。それと、地方のことを真剣に考えるようにもなった」

 春木陽香は勇一松の顔を見た。

「それまでは違ったんですか」

「うん……」

 少し下を向いて、何かを思い出すように頷いた勇一松頼斗は、すぐに春木の方に顔を向けて尋ねた。

「遷都宣言の時、あんた幾つだったのよ」

 春木陽香は空を見ながら歳を数えた。

「ええと、二〇二二年は、たしか小五の時だったから、十一歳ですね」

 勇一松頼斗は大きく息を吐いた。

「はー。ジェネレーション・ギャップを感じるわ」

「ライトさんは幾つだったんですか。ていうか、今、お幾つなんですか」

「オカマと政治家に歳は訊いちゃいけないのよ。取材研修で教わったでしょ」

「はーい」

 下唇を出して首をすぼめた春木に、勇一松頼斗は遷都の理由を説明して聞かせた。

「でも、十一じゃ、よく分からなかったわよね。まあ、理由は単純。人口の増加よ。国内人口は減っていたのに、東京の人口は増え続けてパンク寸前だったの。そうすると東京の物価が上がる。東京での生活物資は地方から来るじゃない。結局、東京と地方都市の経済ギャップの皺寄せが、全て地方の方に行ってしまったのよ。そうなると、また人は地方から逃げ出して東京に出てくるようになる。で、悪循環が始まったわけ」

「それで、遷都して、人口を分散したんですか」

「うーん、それだけじゃないけど、新型ウイルス騒動とか、いろいろね。あ、そうそう、新憲法の制定も関係あるかもね。新しい国家を作るわけだから、新しい首都で世界にアピールする必要はあるじゃない。歴史的にも一般的にそうでしょ」

「ふーん……」

 春木陽香は口を尖らせて考えていた。

 勇一松頼斗は続けた。

「それと、温泉」

「温泉?」

 春木陽香がキョトンとした顔で聞き返すと、勇一松頼斗は口をへの字にして頷いた。

「地下開発が無計画に進んだから、地盤が持たなかったのよ。向こうの方は歓楽街の大きいのがあったんだけどね、巨大地下駐車場を作ろうとしたら、温泉が出たの。それで、今は池になっちゃってる。温水の中に犬の銅像が頭を出してるわ」

 立ち止まった勇一松頼斗は道路の反対側を指差して、そう言った。

 春木陽香は勇一松が指差した方角を見て、少し残念そうな顔で言った。

「へえー。関東富士大地震の時は対応できたのに、何も出来なかったんですか」

 勇一松頼斗は顔の前で大きく手を一振りして言う。

「政治家にやる気がなかったのよ。あの時は東北震災の教訓やらノウハウやらで、関東地域を死守することが出来たけど、都内のあちこちから温泉が吹き出た時は、もう諦めていたんでしょ。だいたい、そこでやる気を出すなら、もっと前に出すべき所があったはずなの。住人の高齢化が進んでいたのに、街は下と上と横に広がっていく。駅も官公署も建て替える度にへんぴな所に移転したり、迷路みたいに複雑になったり、山頂のほこらに行くような長い階段を上り下りしないといけなくなったり、やたらと広くなったりして、とにかく不便。都市インフラは老朽化。あっちこっちヒビだらけ。地震対策も不十分。商業施設はバンバン造っても、保育園や老険施設は造らない。そこに東京オリンピックが来たってわけ。東京の大改造を巡って保守派と移転派が国民の知らないところで攻防を繰り返してばかりで何の根本的対処もしない。そしたら、関東富士大震災で大被害でしょ。その後に温泉が吹き出て、とどめのパンチよ。ま、観光地としてはいいんでしょうけど、こんな変な東京になっちゃった。遷都して正解だったわよね。そっちの方がコストは掛からないと。あら、聞いてる?」

 先に歩いていった春木陽香は、指を折りながら呟いている。

「よーし、後は鳩サブレを食べれば、完璧だ」

 追いかけてきた勇一松頼斗が不機嫌そうに言った。

「何が完璧なのよ。人の話を聞きなさいよ。観光旅行に来たんじゃないのよ。また編集長に叱られるわよ」

「ですね。仕事、仕事と。お、ここかな?」

 春木陽香は立ち止まった。そこには、朱塗りの古めかしい大きな門が立っていた。

 若い新人記者は、少し緊張した面持ちで、その門をくぐっていった。



                4

 勇一松頼斗は、その大学の構内の大きな木の下でカメラを構えていた。レンズの向こうでは美人の女子大生が体を斜めに向けてポーズをとっている。勇一松頼斗はしゃがんだり立ち上がったりしながら、連続してシャッターを切っていった。

「はい、笑ってえ。――そう、いいわあ、最高よ。手を上げてみましょうか。――そう、いいわねえ」

 そこへ春木陽香がトボトボと戻って来た。表情は暗く、少しうつむき加減である。春木の様子に気づいた勇一松頼斗は、素早くカメラからMBCを抜き取ると、撮影していた女子大生に名刺と共に渡しながら言った。

「じゃ、これが画像データ。これ、私の名刺だから。メールでデータを送ってくれたら、もっと綺麗に画像処理してあげる。あんた、最高よ。ちょっと練習すれば、プロのモデルにもなれるわね。じゃ、連絡してね」

 女子大生は丁寧に頭を下げて、向こうで待っていた友人たちの輪に戻っていった。

 春木陽香はその女子大生を目で追いながら、勇一松に尋ねた。

「何やってるんですか」

 勇一松頼斗はカメラのレンズに蓋をしながら答えた。

「女子大生の撮影会。就職活動用のと、記念のを、プロの私の腕で撮ってあげてたの。それにしても、ここもアホな学生が増えたわよね」

 勇一松頼斗は軽い冗談を言ったつもりだったが、春木陽香は笑みを見せることも無く、肩を落としていた。

 勇一松頼斗は心配そうな顔で尋ねた。

「どうしたのよ、浮かない顔して」

 春木陽香は落胆して言った。

「はあ……。全然、駄目でした。事務局まで行ったんですけど、何も教えてくれませんでした」

「でしょうねえ。雑誌の記者に卒業生の個人情報を漏らす訳ないわよね。はい、これ」

 勇一松頼斗はシャツのポケットから取り出した名刺大の薄いカードを差し出した。それを受け取った春木陽香は、尋ねた。

「なんですか、これ」

 勇一松頼斗は春木の手に握られているカードを指差して言った。

「そのメモリー・ボール・カードに、理学部の卒業生の就職先のリストと、関連する個人データが入ってる」

「え、このMBCに? 理学部の卒業生のですか。大学院も?」

「そ。大学院の博士課程まで、ぜーんぶ。卒業生の就職先と、趣味、交遊関係、所属していたサークルとか、いろいろだって」

 春木陽香は目をパチクリとさせながら、更に尋ねた。

「だってって、どうやって手に入れたんですか」

「写真を撮ってあげるって言ったら、乗ってきたからね。その引き換えに」

「学生が、こんなモノを持ってるんですか」

 春木陽香が驚くのも当然である。それらの情報は個人のプライバシーに関わるものであるし、何より、この大学の理学部の卒業生全員のものが書き込まれているとすれば、そこには官僚や財界人、科学者など国家や社会の重要人物に関する情報が含まれているはずだからだ。

 春木陽香は、重要な個人情報が詰め込まれたそのMBCをまじまじと見つめた。

 勇一松頼斗は春木に淡々と説明する。

「ここは、ほら、官僚になる登竜門でしょ。とは言っても、国家公務員試験と就職は別だから。徹底的に人脈を調べて、コネの効きそうな先輩と何とかコンタクトをとって、事前に仕入れたその人の情報で話題を膨らませて、落とす。今時の大学生の常識みたいよ」

 春木陽香は、その良し悪しは別にして、学生たちの準備の良さに感心して驚いていた。

「へえー。私、そんなこと、考えたことも無かったですけど……」

「あんたがボーっとしてるのよ。社会人入学が基本となった新学生制度でも受験はある訳じゃない。結局、昔の受験対策入試と同じなのよ。ここいらの大学に来る学生はその癖が抜けてないわけ。就職活動の時も徹底的に情報を集めて、分析して、攻略法を編み出す。そんなことに長けた子たちが、あの門を通過して国家の中枢に行くの。ああ、恐ろしい」

 朱塗りの門を指差した勇一松の横で、春木陽香は首を傾げながら呟くように言った。

「まあ、みんながみんな、そうだとは限りませんけど……」

 勇一松頼斗は首に掛けていたカメラを肩に掛け直しながら、春木に言った。

「そうね。でも、そんな対策のために蓄積された卒業生情報が全国の学生の間で出回っているのは確かよ。ここの大学だけじゃないわ」

「ふーん……」

 口を尖らせたまま手に持ったMBCを見つめている春木に、勇一松頼斗が言った。

「何よ、せっかく手に入れてあげたのに、嬉しくないわけ」

「いえ、嬉しいです。すっごく。喫茶店かどこかに入りませんか。これ、中を見てみたいので」

「そうね。じゃあ、御徒町駅の傍にね、安くて美味しい海鮮丼の専門店があるのよ。そこでお昼にしましょうか。アメ横のすぐ近くだから、まだやってると思うけど」

「あめよこ……アメヤ横丁ですか! 行く行く、行きまーす!」

 ピンと挙手をして答えた春木に、勇一松頼斗が胸を張って言った。

「よーし。じゃあ、ちょっと遠いけど、歩くわよ。途中に湯島天神もあるから。さあ、姉ちゃん、付いてきな」

 普段と違う男らしい太い声を出して見得を切った勇一松頼斗の隣で、春木陽香も掌で鼻を拭う仕草をしながら言った。

「あいよ、旦那。がってんだ。――湯島天神、湯島天神……」

 目をキラキラと輝かせた春木陽香は、勇一松と一緒に朱塗りの門をくぐっていった。




二〇三八年五月十二日 水曜日


                 1

 小雨が打ち付ける窓を背に、山野紀子は人形焼をかじりながら、自分の机の上に浮かんだ分子構造図のようなホログラフィーを覗いていた。線で結ばれた幾つもの球体には、それぞれに人名が表示されている。山野紀子が手を伸ばしてその球体の一つに触れると、その横に人物の個人情報を表記したシートが表示された。残りの人形焼の欠片を口に放り込んだ山野紀子は、そのシートの表示に目を凝らした。そこには、その人物の出身地や卒業した高校、所属していたサークル名から交際している異性の名前まで記載されていた。山野紀子は目を細めて、シートの上の小さな文字を読んだ。

 普段なら、超高層ビル群の間をすり抜けた西日が隣のビルに反射して射し込んでくる時間だったが、今日の空は澱んでいて、新日風潮編集室の中も少し暗く感じる。

 山野紀子はしかめた顔でホログラフィーの文字を読みながら、机の向こうに立っている春木陽香と勇一松頼斗に言った。

「ふーん。じゃあ大学院時代、この堀之内美代ほりのうちみよさんって人と田爪瑠香たづめるかは親友だったんだ」

 春木陽香は山野の机の上に浮かんだ人物関係図のホログラフィーを下や上から覗き込みながら答えた。

「はい。当時は結婚前ですから、光絵瑠香みつえるかですけど、ええと……あ、ここです」

 春木陽香は球体の中の一つを指差した。そこには「光絵瑠香」と表記されていた。

 山野紀子は言った。

「なるほどねえ。しかし、今時の学生は、こんな裏情報ツールで人脈を探って就職活動してるんだ。侮れないわね」

 勇一松頼斗が眉を上げて言う。

「真正面からぶつかって来たのは、ハルハルくらいよ」

 山野紀子は箱に並んで詰められた人形焼に手を伸ばしながら言った。

「そうね。撃沈したけどね。あ、ごめん、ごめん」

 春木陽香は下唇を出して、首を前に出した。

 山野紀子は人形焼を頬張りながら言った。

「でも、まあ、こんな裏技を見抜けない採用側に問題があるのよね。若者の教育は年長者の責任だからねえ」

 春木陽香は説明を続けた。

「この堀之内美代さんは、田爪健三博士と瑠香さんの結婚式にも出席しています。あ、ここに」

 慌てて人形焼を飲み込んだ山野紀子は、春木が触れて表示させた情報シートのホログラフィーに顔を近づけた。

「ええー。そんなことまで載ってるの。個人情報もへったくれも無いわね。――ん、この人形焼、美味しいわ。止まらない」

 再び人形焼に手を伸ばした山野に勇一松頼斗が言った。

「編集長、そのくらいにしときなさいよ。また太るわよ」

 山野紀子は箱に手を伸ばしたまま停止する。

 春木陽香は説明を続けた。

「瑠香さんとは専門が違ったようなのですが、仲は良かったみたいですね」

「田爪健三のことは知っているのかしら」

 山野紀子は自分の湯飲みを口元に運んだ。その湯飲みは何故か表面に棘状の突起が沢山付いていて、素焼きの上にうわぐすりを塗っただけの、分厚く歪なものだった。どう見ても素人が作った安物であったが、山野紀子はその湯飲みを愛用している。山野がそのトゲトゲが付いた歪な湯飲みでお茶を飲み終えてから、春木陽香は答えた。

「さあ。瑠香さんと田爪博士は年齢が八つ違いですから、堀之内さんもたぶん、学生時代に直接の面識は無いんじゃないかと思います。でも、瑠香さんとは親友だったようですから、もしかしたら、今の瑠香さんの所在をご存知かもしれません」

 トゲトゲの湯飲みを机の上に丁寧に置いた山野紀子は、春木に言った。

「当たってみる価値はあるわね。連絡先は分かってるの? この堀之内さんって、新理学総合研究機構と大学の研究室をどっちも辞めているみたいだけど」

 春木陽香は人物関係図のホログラフィーを指差しながら言った。

「新理研に問合せて見ましたが、やっぱり連絡先は教えてもらえませんでした。そこに、ご実家の住所が載っていますが、電話番号が分からないので、直接そっちに行ってみようと思います」

 山野紀子は椅子に身を倒して、春木を指差しながら言った。

「よーし。上出来。よくやってる、ハルハル」

 春木陽香は隣の勇一松を指しながら言った。

「いえ、ライトさんのお蔭です。本当に助かりました」

 勇一松頼斗は両手を左右に広げてポーズをとる。

「ノープロブレムよ」

 肘掛けに両手を乗せた山野紀子は、春木に尋ねた。

「で、いつ出張するの?」

「ええと、先に、神作キャップから頂いた高橋博士の親族のリストを当たろうと思いますから、堀之内さんの実家には、今週末か来週の頭にでも行こうかと」

 山野紀子は細かく頷いてから言った。

「そ。田爪博士の親族関係は別府君が張り切って調べているからね。それに合わせた方がいいわね。でも、今度は観光旅行は駄目よ。記念写真を撮りに行くんじゃないからね」

 山野紀子はテーブルの上の立体パソコンに手を伸ばし、浮かんでいた人物関係図のホログラフィーを閉じると、続いて、平面画像のホログラフィーを机の上でスライド表示させ始めた。そこには、東京の路上で可愛らしい笑顔をしてポーズをとる春木陽香が写っていた。

「あ……」

 固まった春木陽香に、山野紀子は言った。

「いやあ、衛星回線使用の多次元インターネットって便利よねえ。リアルタイム送信機能で、ライトが撮った写真がリアルタイムで、全部、私のパソコンに送られてくる。ええと、これが、西郷隆盛像の前で同じポーズを取るハルハル。で、次がパンダの檻の前で、笑顔でピースサインしてるハルハル。こっちは、雷門の前でジャンプしてるハルハルかあ」

 次々とスライド再生される画像に合わせて解説する山野の前で、春木陽香は恥ずかしそうに下を向いていた。

 勇一松頼斗が山野に言った。

「もう、いいじゃないよ。ちょっとくらい写真撮ったって。ハルハルは東京が初めてだったんだから。私が撮ろうって言ったのよ」

 春木陽香は頭を下げて、小声で謝った。

「すみません。以後、気をつけます……」

 山野紀子は険しい顔で春木に言った。

「修学旅行じゃないんだからね。分かってんの」

 春木陽香は下を向いたまま、黙って頷いた。隣にいた勇一松頼斗が山野に言った。

「そうじゃないのよ、編集長。これよ、これ」

 山野の机の上に手を伸ばした勇一松頼斗は、ホログラフィー画像のスライド再生を止めると、その画像を拡大した。そして、画像の隅を指差しながら言った。

「ここ見て、ほら」

 その画像は、東京ドームを背景にバッティングポーズをとる春木の写真だった。それを見ながら、山野紀子は真剣な顔で言う。

「フォームがイマイチね。腰が入ってない」

「すみません……。今度は、ちゃんとフォームを整えて……」

 また謝った春木の横で、勇一松頼斗が大袈裟に画像の一部を指差して言った。

「違うわよ。ここよ、この男」

 一本足打法で口を尖らせてバッティングポーズを取る春木のずっと後ろに、スーツ姿の男が小さく写っていた。山野紀子は目を凝らして、その小さく写っている男の顔を覗き見ながら尋ねた。

「この男が、どうかしたの」

 勇一松頼斗は素早く他の画像のサムネイル一覧に切り替えて表示させ、その中から何かを探しながら言った。

「ちょっと待ってなさいよ。ええと……ほら、これ、昨日の朝、東京の浜松町駅に着いた時に、リニアのホームでハルハルを撮った写真。ここに反射して映ってるでしょ」

 モノレールをバックにポーズを決める春木の横には、アクリル製の転落防止壁が立っていた。そこには、カメラのフラッシュの光で反射して映った男の姿が浮かんでいる。

 身を乗り出して男の顔を覗きこんだ山野紀子は、勇一松に尋ねた。

「――これ、さっきの男なの?」

 勇一松頼斗は、再度、サムネイルの中から別の画像を選び出して表示した。

「じゃあ、さっきの雷門の写真。ほらね、この隅の方に写ってる」

 山野紀子は画像に顔を近づける。

「全部、同じ人?」

 そう尋ねた山野に、勇一松頼斗は更に別の画像を表示しながら答えた。

「そうよ。顔も分かるわよ。このパンダの檻のガラスの、ここ。――ね、しっかり反射してるでしょ」

 檻の中で気だるそうに昼寝しているパンダをバックにピースサインをする春木陽香。その背後に、檻の鉄柵の前のガラス板に反射した男の顔が反転して写っていた。それは、顔の特徴が分かる程はっきりと写っていて、意図的に勇一松が反射を利用して撮影したことは明らかだった。

 山野紀子は感心した顔をする。

「さすがプロね。やるわ、あんた」

 机の前から一緒に画像を覗き込んでいた春木陽香は、驚いた顔で勇一松に言った。

「ええー。だから、写真撮ろうって言ったんですか。その人の顔を撮影するために」

 勇一松頼斗は得意気な顔で答えた。

「そうよ。なんで女に興味のない私が、ハルハルの写真を撮りたがるのよ。私、芸術にしか興味ないのよ」

 春木陽香は、眉を寄せて頬を膨らませた。

 春木を少しからかった勇一松頼斗は、笑いを堪えながら再び画像を切り替えた。西郷隆盛像の前で銅像と同じポーズをとって遠くを見つめる春木陽香の画像が表示される。勇一松頼斗がその画像の上で指を横に動かすと、画像の景色が横にずれた。

「ああ、西郷隆盛像の時はパノラマ・レンズを使ったから、もっとはっきりと……ほら、居た。ここよ」

 撮影した勇一松の位置を中心に周囲三六〇度の景色を写したその画像は、彼の背後の景色も明確に写し撮っていた。そこには、さっきのスーツ姿の男が鋭い眼光でこちらを見て立っている姿が、はっきりと写っていた。

 画像の男を覗き込んで、春木陽香は呟いた。

「ストーカーかな……」

「そんな訳ないでしょ。鏡を見なさい」

 山野にそう言われた春木陽香は、下を向いて、しゅんとした。

 勇一松頼斗は山野に向けて噛み付くような顔をして見せると、今度は別の二枚の画像を左右に並べて表示させた。彼はまず左に浮かんだ画像を指差した。

「最後が、そこの新首都総合駅。昨日、帰ってきた時に撮った写真。ね、居るでしょ」

 リニア列車のホームでガッツポーズのような格好をしている春木の後ろに、同じリニア列車から降りている男の姿が写っていた。さっきの男と同じ男だった。視線は春木の方に向けられている。

 勇一松頼斗は、上下が逆様に写っている右の画像を指差しながら、山野に言った。

「――で、これはオマケ。このビルの下のエントランスで、肩にぶら提げたカメラで撮ったもの。そのままシャッターボタンだけ勘で押してね。ええと、逆さまだけど……ほら、ビンゴ。写ってる。私、やっぱり天才だわ」

 勇一松頼斗は右の画像を回転させ、上下を合わせた。新日ネット新聞ビルの一階玄関の外から、何気なく立ったまま、こちらを横目で観察している男の姿が捉えられている。

 山野紀子は慌てて電話機に手を伸ばすと、受話器を持ち上げ内線ボタンを押した。

「ああ、警備室ですか。風潮の編集室です。下にウチの記者を尾行している不信な男が居るかもしれないの。ビルの敷地の中に居たら、取り押さえてもらえる。写真があるから、そっちに送ります」

 肩と顎で受話器を挟んだまま、山野紀子は立体パソコンを操作して、勇一松が表示した最後の画像データを警備室に送信した。

 受話器を置いた山野に勇一松頼斗は言った。

「無駄よ。昨日の写真じゃない。今日は、きっと別な奴よ」

 山野紀子は真顔で尋ねた。

「何者なの」

 勇一松頼斗は、一度、顔の前で手を大きく振ってから答えた。

「決まってるでしょうが。司時空庁よ。たぶん、みんな尾行されているんだと思うわよ」

「みんなって……」

 山野紀子は愕然とした。

 勇一松頼斗は左右の眉を上げて言う。

「いろいろ調べられているんじゃないの。私の女装癖とかも」

「それは、見れば分かるかと……」

 隣でボソリとそう言った春木に、勇一松頼斗は目を開いて食って掛かった。

「どうしてよ。私、服装は普通じゃない。オカマと女装家は違うのよ。女装は隠れてやってるの。あれは趣味。仕事と趣味の区別は、ちゃんとつけてるのよ、わたし」

 今日の勇一松頼斗はフラメンコ・ダンサーのような服装をしていた。いや、どう見てもフラメンコ・ダンサーだった。

 春木陽香は彼の恰好を下から上に観察して、一言だけ「はあ……」と発した。

 山野紀子は黙って「トゲトゲ湯飲み」を見つめていた。ハッとしたように椅子から立ち上がった彼女は、バッグを肩に掛けながら言った。

「御免。水曜日だから、私、いつもより早いけど、一旦帰るわね」

 駆け出していく山野に春木陽香が紙袋を差し出して言った。

「ああ、編集長。これ。昨日、お渡しするのを忘れてました。すみません」

 山野紀子は廊下の途中まで進んでいた。春木陽香は山野を追いかけて、紙袋を渡す。

「朝美ちゃんに。『東京ばな奈二〇三八バージョン』です。召し上がって下さい」

「ああ、ありがと。あんたも、今日は早めに帰りなさいよ。帰り道も気をつけるのよ」

 そう言い終らないうちに、山野紀子は狭い廊下の先の出口ドアへと駆けて行った。

 自分の机の所まで戻ってきた春木陽香は、山野の机に目を遣った。飲みかけのお茶を残したままの「トゲトゲ湯飲み」が机の上に残されている。春木陽香はそれを片付けようと机の前に行き、湯飲みに手を伸ばした。棘が邪魔で持ちにくい。彼女は山野が何故そんな使い難い湯飲みを愛用しているのかが不思議で、首を傾げた。すると、それを見ていた勇一松頼斗がトゲトゲ湯飲みを指差しながら言った。

「その湯飲み、編集長のお気に入りでね。娘さんが図工の時間に作ってくれたものらしいわよ。編集長も、やっぱり母親よねえ」

 春木陽香は手に持ったトゲトゲ湯飲みを見つめながら言った。

「朝美ちゃんのことが心配なんですね」

 勇一松頼斗は春木の肩を軽く叩くと、自分の席に戻りながら言った。

「大丈夫よ。公務員が記者の家族に手を出すはずないじゃない。それに、昨日の男は素人感丸出し。しかも、自分が尾行しているくせに、逆に私に撮られているって気付いてないんだから、たいしたことないわよ。気にしない、気にしない」

 編集室に山野紀子が戻ってきた。彼女は息を切らしながら廊下の入り口の角に手を掛けて、紙袋を提げた手で春木を指差して言った。

「ハルハル、出かけている別府君にも連絡して、知らせといて。気をつけろって」

 そして再び駆け出して行った。

 山野の机の上に浮かんだままになっているホログラフィー画像の男を見ながら、春木陽香は小さく呟いた。

「尾行かあ……」

 色々と怖い映像が頭の中に浮かんだ。

 頭を左右に何度も振った春木陽香は、トゲトゲ湯飲みを両手で大事に持ちながら、給湯室へと歩いていった。



                 2

 国防省ビルの中に設けられた、窓が無い広い部屋には、正面に大型のモニターが設置され、その前に階段状に机と椅子が並べられている。大学の大講堂のようなその部屋には、制服姿の国防省職員や戦闘服姿の軍人が大勢詰めていた。各自の机の上には正面の大型モニターと同じ画像が平面ホログラフィーで宙に浮いている。その大型モニターの端に寄せて置かれた演台では、制服姿の若い女が、モニターに次々と表示される顔写真を見ながら説明していた。

上野秀則うえのひでのり、四十七歳、次長職。社会面の記事統括をしています。元は政治部のキャップをしていましたが、今春より社会部の次長となりました。配偶者と二人の子がおり、実母と共に同居。――以下は実働班。神作真哉こうさしんや、四十七歳、現場統括職、職長。チームのリーダーです。数年前に離婚。現在は一人暮らし。『キャップ』と呼ばれる場合があります。続いて、重成直人しげなりなおと、六十四歳、記者職長代理。『シゲさん』という愛称で呼ばれています。この男も元政治部の記者です。現在、独身。次が、永山哲也ながやまてつや、三十九歳、記者。配偶者、子一人あり。一部の者が『哲ちゃん』と呼ぶことがありますが、その場合は、この男のことです。それから、永峰千佳ながみねちか、三十三歳、記者。独身。一人暮らし。多くの場合、下の名前で呼ばれています。なお、この女はコンピューターに強いようです。以上が新日ネット新聞社の本件担当者であります。年齢は、今年の誕生日での年齢です」

 最前列の席で聞いていた背広姿の増田基和が言った。

「うむ。ご苦労。雑誌社の方は」

「はっ」

 演台の横で椅子から立ち上がった制服姿の若い男が、最初の女と入れ替わって演台に立ち、少し緊張気味にモニターに映る顔写真の人物の情報を報告し始めた。

「ええと……まず、山野紀子やまののりこ、四十六歳、編集室室長。元は東京の新日新聞社の政治記者でした。先程出た神作真哉の元配偶者です。子一人と同居。愛称は『編集長』、あるいは『ノンさん』です。次が、別府博べっぷひろし、三十五歳、記者。配偶者あり、子二人。愛称はありません。続いて、春木陽香はるきはるか、二十六歳。独身。ああ、すみません。来月で二十七歳になります。記者。今春から採用された新人です。愛称は『ハルハル』。第一就職では新日ネット新聞の社会部で神作チームに所属していたそうです。最後に、勇一松頼斗ゆういちまつらいと、この男……だと思うのですが、この男の年齢は不詳。新日風潮社と長年に渡り撮影委託契約を締結している契約社員です。職種はカメラマン兼記者。愛称は単に『ライト』。さん付けされる場合もあります。――以上が、本件に係る新日風潮社の取材担当者です」

 増田基和が言った。

「ご苦労。他の記者は関与していないのだな」

 演台の若い男が答えた。

「は。現時点では確認されておりません」

 増田基和は更に尋ねる。

「この中に、司時空庁の津田長官とコンタクトをとっている者は」

 若い男と最初の女が順に答えた。

「現時点ではゼロです」

「こちらでも確認されておりません」

 増田基和は険しい顔で言った。

「では、全員をリストに加えろ」

「は」

 演台の二人が同時に答えた。

 二人が演台から去ると、増田基和は言った。

「軍規監視局から連絡は」

 増田が座っている列の端で背広姿の男が立ち上がり答える。

「いえ。何も」

「そうか」

 頷いた増田基和は、更に言った。

「小隊長たちの撤収は」

 増田の二つ隣の席から、制服姿の男が答えた。

「ヒトマル丁度に完了しました。現在、多久実たくみ第一基地に移動中であります」

「よろしい。基地到着後、特務分隊は解散。暫く休暇をとらせたら、通常任務に戻せ」

「了解」

 増田基和は前を向いたまま大きな声で言った。

「索敵班、現状は」

 後列の中程の段の席で戦闘服姿の中年男性が立ち上がり、大きな声で報告する。

「は。現状変わらず。鋭意探索中であります」

「この機を逃すな。必ず特定するんだ。いいな」

「了解しました」

 増田基和は再び大きな声で言った。

「連絡官」

「は」

 隅の入り口の近くに座っていた制服姿の若い女が立った。

 増田基和が尋ねる。

「十七師団は」

 女は手許の小型端末を確認しながら答えた。

「現在、ミクロネシア沿岸を移動中。十五日には沖縄沿岸の人工島基地に着く模様です」

「貴団の今のバージョンは」

「バージョン5.2。人工島基地寄港中にバージョンレベルを6に更新する予定です」

 増田基和は頷いてから少し横を向いた。

「企画。演習地域の候補設定は済んだか」

 階段状の席の下から二段目の列に座っている背広の中年男性が答える。

「はい。現在、ブロックY、L、V、Aを最適候補として上位に設定しています」

「ブロックWとPも加えろ。絞るには早すぎる。渉外。外務省とのシンクロを報告」

 背広の中年男性の隣の席から、同じく背広姿の若い男が返答した。

「全体ではシンクロ・ファイブを維持。調整局とも同レベルでの連携です」

「特調の方は」

「依然シンクロ・ワン。変化ありません」

「そうか。……」

 増田基和は表情を曇らせる。顔を上げた彼は、その若い男に言った。

「特調からの情報は確度チェックを怠るな。レベルスリー以下は切り捨てだ」

 背広姿の若い男はメモを取りながら頷いた。

「調達局の準備は」

 増田基和がそう言うと、隣の制服姿の男が背筋を正して報告した。

「は。装備品の交換及び充填の準備は整っているとのことであります」

「使用装備について、法務との調整は」

「終了しています。問題ありません」

 増田基和は厳しい顔のまま頷く。

「よろしい。阿部大佐には追って指示する旨を伝えろ」

「了解」

 増田基和は反対に顔を向けると、言った。

「偵察衛星のクリーニングは」

 その列の端から近い席に座っていたスーツ姿の女性が報告する。

「現時点では何とも。精度を信頼するしかありません」

 眉間に縦皺を刻んで増田基和は呟いた。

「――勘頼りか……」

 増田基和は立ち上がると振り向き、階段状の席に向かって大きな声で言った。

「よし。その他は通常態勢を維持。ただし、ゾーン・エイトでの分散態勢を基準とする。暗号コードの変換確認を怠るな」

 全員が声を揃えて返事をした。

 横に顔を向けた増田基和は、端の席の男を見て言った。

「軍規監視局には、引き続き支援態勢を維持しろ」

 そして、すぐに階段状の席の方に顔を戻して、再び大きな声で司令を発した。

「各ターゲットにはレベル・ツーでの捕捉を継続。分析班は各ターゲットの行動パターンを整理し、中心人物を特定せよ。その人物を我々の攻撃の第一目標とする。敵を特定したら速やかに排除だ。作戦を妨害する者は全て敵と看做せ。わかったな」

 全員が更に大きな声で、揃えて返事をした。

 増田基和は厳しい顔のまま言う。

「以上だ。解散」

 人々は一斉に席から立ち上がると、それぞれの方角へと速足で歩いていった。

 増田基和は、隣の席で立ち上がった制服姿の男に言った。

「第四空間防衛司令部に連絡を入れろ。中将と話がしたいと。それと、サイバー部隊の技術兵を一人同席させるんだ。大至急セッティングしてくれ」

「了解しました」

 その制服姿の男は敬礼をしてから速足で出口へと向かった。増田基和はそこに立ったまま大型モニターに厳しい視線を送る。

 モニター上には、記者たちの顔写真の画像が横一列に並べられていた。




二〇三八年五月十四日 金曜日

 

                 1

 今日は「週刊新日風潮」の発刊日だ。編集室の記者たちは自分が書いた記事の「反響」が気になって仕方ない。つまり、取材対象者の反応、読者の反応、そして他社の反応である。各記者たちは出社早々から、それぞれの反応を確認するために出掛けていく。もちろん気にかかるのは記事の反響だけではない。週刊誌にとって最も重要なこと――売上部数である。この時代にしては珍しく紙媒体での販売にこだわっている「週刊新日風潮」にとって毎週号の売上部数は今後の発刊継続を占う重要な経営指標であるばかりでなく、マスメディアとしての矜持を保つための重要な要素でもあった。それは記者たち各々にとっても同じであるが、殊更、編集室長にとっては重くのしかかるプレッシャー要素の一つでもある――はずなのだが、「週刊新日風潮」の編集室長・山野紀子はそんなものどこ吹く風と言わんばかりの様子だった。今の彼女にはもっと気にかかることがあった。それを態度には出さないまま、山野紀子はブラインドが閉じられた大窓を背にしてハイバックの椅子にもたれて、あっけらかんとした表情で二人の記者たちと話していた。実際に編集室に一人だけ残っている別府博と、実際にはそこにいない永山哲也である。山野の立体パソコンから投影されている永山のホログラフィーは派手なワイシャツ姿だった。その立体パソコンが置かれている洗練されたデザインの広い机の前で腕組をしながら、別府博がの眉を八の字にして言った。

「それにしても、田爪健三って男は、随分な苦労人なんですねえ」

 机越しに山野紀子は尋ねた。

「苦労人? どうして」

 別府博は指を折りながら山野に言った。

「だって、幼い頃に父親が他界。母一人子一人で育って、その母親も田爪健三が大学在学中に他界。自力で大学を卒業したら、防災隊に徴員されて、二年間防災救助業務に従事。その間に、任務の合間を縫って大学院に通う。で、除隊後に赤崎教授の研究所員となってコツコツと下積みして、ようやく博士号を取得」

 山野紀子は片方の眉を上げて言った。

「研究者って、そんなものじゃない。早いうちでしょ、その経歴だと」

「いや、彼って本当の天才じゃないですか。だから、なんか、もっと華やかな感じで、トントントンと上がって来たのかと思っていました」

「まあ、天才であることは確かだけど、誰でもみんな、それなりに苦労しているものよ」

 山野紀子がそう言い終わると、ホログラフィーの永山哲也が、彼には見えていない別府に尋ねた。

『田爪博士の親戚とは、コンタクトが取れたんですか』

 別府博は、パソコンの上に浮かんで明後日の方を向いて話しかける半透明の永山の像を見ながら答えた。

「はい。でも、全然だめです。田舎特有の閉鎖的感覚っていいますかね。電話しても、全く取り合ってもらえなくて。しかも、田爪健三やその母親のことを悪く言う人までいますよ。こっちが名乗ってもいないのに」

 山野紀子は怪訝な顔で言った。

「何かあったの?」

 別府博は鼻に皺を寄せて、首を横に振った。

「何も無かったからでしょうね。田爪健三の母親は気取っていたとか、地域の飲み会に参加しなかったとか、懇親会で若衆の裸踊りが始まったら一人だけ席を立って帰ったとか、家の玄関にいつも鍵を掛けていたとか、そんな話ばっかりです。ああ、田爪健三の死んだ父親の遺産処理で弁護士に依頼したとんでもない女だとかとも、言っていましたね」

 山野紀子は椅子の背もたれに身を倒したまま、目を大きく見開いて言った。

「何よ、それ。全部、当然のことじゃない。地域の飲み会って、あれでしょ。茣蓙ござ敷いて、その上でベロンベロンのおっさんたちと酒盛り。未亡人が参加する訳ないじゃないよ。私だってシングルよ。娘の学校行事でも、宴席の参加はなるべく控えるわよ。変な噂を立てられたくないもの。セクハラしてくるオジサンもいるし。ここの人たちと、たまーに慰労会するくらいならいいけど、お酒はねえ。真ちゃんがいる時は別だけど……」

 南米からインターネットを使ったホログラフィー通信で話を聞いていた永山哲也が、地球の反対側から口を挿んだ。

『鍵を掛けていたり、正規の遺産処理をしただけで、文句を言われるのかい?』

 別府博は苦々しい表情をしながら、永山に説明した。

「それが田舎なんですよ。永山親子が親戚縁者と縁を切っていたのも分かる気がします。あの手の田舎人たちは自分たちの常識が社会の常識だと思ってる。ほら、山村地域とかで、庭に回ってきて、縁側の扉を開けて、こんにちは、いる? ってのが多いでしょ。扉の鍵は、日中はしていないのが当然だと思ってる人も多いんですよ、今だに。そんな土地だから、弁護士なんか立てたら、まるで極悪人扱いなんでしょ。何か、とてつもなく欲深い人間だと思われる。ああ、嫌だ、嫌だ」

 別府博は首を何度も横に振った。

 永山哲也のホログラフィーは、腕組みをしながら溜め息を漏らす。彼は言った。

『じゃあ、なんていうか、意識的に結構に遅れた町なんだね。そんな所で少年期を過ごしていた訳か。前々から優秀だったんだろうから、苦痛だったろうなあ。確かに、そういう意味では、苦労人かなあ……』

 山野紀子は両手を肩の高さに上げて、目を閉じた。

「どうだかね。田舎の人間が皆そうだとは限らないでしょ。たまたま周りに質の良くない人間が多過ぎたってだけかもよ。実際、私の故郷はそうじゃないし」

 高い背もたれから背中を離した山野紀子は、ホログラフィーの永山を指差した。

「それで、哲ちゃんの方はどうだったの?」

 ホログラフィーの永山哲也は手帳を開きながら答えた。

『例の科学者については、依然として不明ですね。ただ、調べるにつれて噂はかなり精度の高いものになってきていて、北に上がるほど人々の話が一致しています。つまり、ただの作り話ではないようです』

 山野紀子は更に尋ねた。

「真明教の方は?」

『ああ、こっちの地下マフィアとは関係ないようですね。彼らに真明教とコンタクトをとる道筋をつけるよう依頼してみましたが、接点がないので出来ないと断られました。カルト宗教とは関わり合わないと』

「別にカルトじゃないでしょ。ていうか、哲ちゃん、地下マフィアの連中なんかと接触してんの? 危ないでしょ」

 椅子から更に身を乗り出して心配する山野を相手にはせずに、ホログラフィーの永山哲也は、見えないはずの別府の方を見るふりをして、彼に言った。

『別府さん。防災省で調べて欲しいことがあるんだ』

 別府博はホログラフィーに顔を向けずに、パソコンのマイクに口元を近づけて言った。

「何ですか」

 ホログラフィーの永山哲也は、明後日の方を向いたまま別府に話しかけた。

『田爪博士や高橋博士が防災隊に入隊した頃は、強制的に入隊させられるって奴が実施されていた頃だと思うんだけど、その頃の資料とか無いかな。過去の所属隊員の個人情報までは、さすがに入手できないと思うから、一般的な解説資料でいい。何か手に入らないだろうか』

 腰を曲げたままの別府博は、顎を掻きながら言う。

ってアレですよね、旧自衛隊から救助部門を切り分けて、それに消防を統合して『防災隊』が正式発足した頃に、十八歳以上の国民から半ば無理やりに隊員を徴収して、世間から大批判をくらった。防災隊を所管する防災省にとっても黒歴史でしょうから、あんまり話が出てこないと思うんですよねえ。まあ一応、防災資料館か、直接、防災省の広報に訊いては見ますけど。でも永山さん、何が知りたいんです?」

 ホログラフィーの永山哲也は一度手を振ると、その手で後頭部をポンポンと叩きながら説明した。

『――ああ、いやね、死んだ親父からさ、昔の防災隊のことを聞いたことがあったんだ。たしか、あの当時の隊員は旧式の生体チップを強制的に埋め込まれていたはずなんだよ。危険救助活動で二次災害に遭った時の身元確認のために。あの二人も強制徴員された世代だから、体のどこかにチップを埋め込まれているはずだ。手術で除去しているかもしれないけど、そういう人はあまり聞いたことが無い。たいていの元防災隊員がチップを体内に残している。その生体チップの個人コードを認識するアプリがネット上の闇サイトにあるはずだから、それはこっちで探す。別府さんは、過去の隊員の認識コードを入手する方法を探して欲しいんだ。とりあえず方法を探るだけでいい。これ、大変だと思うけど、やってもらえるかな』

 山野紀子が口を挿んだ。

「要するに、二人の個人識別コードが欲しいわけね。でも、そんなもの手に入れて、どうするのよ」

 永山のホログラフィーは、今度は山野の方を向いて話した。

『いや、もしも、こっちで田爪や高橋を名乗る人物に出会ったら、その真偽が一発で判るじゃないですか。本物の田爪博士や高橋博士なら、生体チップのコードが一致するはずですから』

 パソコンの立体カメラの撮影ゾーンに入っている山野紀子は、腕組みして考えながら永山に言った。

「うーん、そうねえ。二人とも、写真も古いのしかないからねえ。十年以上も前の写真だもんね。人相が変わっていたら、会っても分からないかあ……」

『それに、田爪博士が死んでいる可能性が大きいとしても、もしかしたら遺体が見つかるかもしれません。あるいは、高橋博士の遺体か何かが見つかるかもしれない。その時のためにも、この際、二人の認識コードは入手しておいた方がいいんじゃないかと思って』

「それもそうね。別府君、手に入れられる?」

 別府博は一度首を傾げると、険しい表情をしながら考え込んだ。そして、返事を待っている山野に、自信なさそうに下を向きながら小声で返事をした。

「――まあ、やってみます……」

 山野紀子は再び椅子に身を投げて言った。

「あら、うちの秘密兵器が随分と頼りない返事だわねえ。やっぱり、ここの次期編集長は他の人かなあ」

 別府博は慌てて顔を上げると、はっきりとした口調で山野に反論した。

「なに言ってるんですか。認識コードくらい、チョチョイのチョイですよ。大船に乗った気でいて下さい。パパッと探してきますから。パパッと。じゃ、行ってきます」

 山野に敬礼して見せた別府博は、回れ右をして後ろを向くと、肘を直角に曲げて拳を腰の高さに上げたまま、スタスタと廊下の方に走っていった。別府の後姿を怪訝な表情で見つめながら、やがて首を傾げた山野を見て、ホログラフィーの永山哲也が尋ねた。

『秘密兵器? 次の編集長の候補なんですか、彼』

 山野紀子は顔の前で大きく手を振りながら答えた。

「そんな訳ないじゃない。無理、無理。ていうか、恥ずかしくて外に出せないって意味では確かに秘密兵器だけど。それにしても、随分と簡単に走り出す大船ねえ。あれじゃ、手漕ぎ舟じゃないよ」

 廊下の方の覗き込んでいる山野に永山哲也が言う。

『ノンさん……』

「ん?」

『――酷過ぎます』

「あら、そう? 頼んだのは、哲ちゃんじゃない」

『まあ、そうですけど、とりあえず入手方法が分かればいいんですから。あまり無理させなくても……ああ、そう言えば、ハルハルのことも、こんな風に虐めてないでしょうね』

「あれ、気になる? じゃあ、ハルハルに、哲ちゃんが心配してたって教えとこう。きっと、いつもの十倍は張り切って仕事するわよ、あの子」

『あのねえ、ノンさん。僕は妻帯者ですよ。からかわないで下さい』

「冗談よ、じょーだん。祥子さんと由紀ちゃんには、ちゃんと連絡してるの?」

『ええ。毎晩、ちゃんと。ああ、毎朝か』

 山野紀子はニヤニヤしながら永山に言った。

「うちの朝美が言ってたわよ。由紀ちゃんが南米のファッションにハマッてるって」

『南米の?』

「なんかね、ドレッドヘアー? あれに似せたカツラを作ってるんですって」

 永山哲也の像は自分の顔を手で覆いながら、下を向いた。

『あちゃあ、またコスプレかあ。それにそれ、ジャマイカでしょ。今度は誰に成りたいんだよ、ボブ・マーリーか。まったく、勘弁してくれよ……』

 山野紀子はクスクスと笑いながら、永山に言った。

「せっかくお父さんに見せようと思って一生懸命に作ってるんだから、ちゃんと帰ってきてあげないと。だから、無茶したら駄目よ」

 永山哲也は面倒くさそうに答えた。

『はーい。分かってます。キャップと同じこと言ってますよ』

 山野紀子はパソコンに手を伸ばしながら、言った。

「ま、とにかく、百に一つ、いや、万が一、別府君が運よく田爪健三と高橋諒一の個人識別コードを防災省から手に入れる――なんてことが出来たら、すぐにそっちに送るわ。まあ、無理だろうけど」

『だから、酷過ぎますって。方法の検討だけでいいですから。だいたい、そんな簡単に識別コードが手に入るわけ……』

 永山が話している途中から、山野紀子は話し始めた。

「とにかく、また連絡してちょうだい。ああ、それにしても、やっぱり立体通話の方が便利ね。周りから見られちゃうっていう難点はあるけど、イヴフォンと違って相手のリアルタイムの表情が分かるから。――と、いうことで、そいじゃあねえ。チャウ」

 山野紀子はポルトガル語で「じゃあね」と告げると、通信を切断するホログラフィー・ボタンに指を伸ばした。永山哲也は、慌てて早口で言う。

『あ、ちょ……ハルハルは今、何を調べ……』

 永山のホログラフィーが消えた。一方的に通信を切断した山野紀子は、少し長めに溜め息を吐くと、椅子から立ち上がり、後ろの窓に近付いた。閉じられたブラインドに人差し指を差し込んで隙間を開けた彼女は、そこから外を覗きながら独り言を呟く。

「まさか、私たちが何者かに監視されているとは、言えないわよねえ。哲ちゃん、意外と心配性だからなあ」

 山野紀子は誰も居ない編集室からビルの下を覗きながら、不安を漏らした。

「あの子たち、大丈夫かしら……」

 街はいつになく静かである。梅雨の重苦しい湿気がビルの下の往来を覆っていた。



                 2

 とある地方都市。人通りの少ないアーケード街を、虹模様のトートバッグを肩に掛け、薄手のジャケットを着た春木陽香と、プロ仕様のカメラを首に提げ、蛇皮柄のジャケットを着た勇一松頼斗が歩いている。

 突然、春木陽香はピタリと立ち止まり、振り返った。後方の景色を見渡した彼女は、再び前を向いて歩き出す。数歩進んでから再び立ち止まった。体全体で大きく振り返ると、額の上に手を立てて、また様子を確認する。

「んー……」

 前を向き、また歩き出す春木陽香。

 暫らく歩いて、今度は立ち止まると同時に振り返った。

「んん!」

 商店街の疎らな人通りに目を凝らし、他の歩行者を確認する。彼女は首を傾げた。

「気のせいかあ……」

 前を向き直して歩き始めた春木陽香は、一度大きく息を吸ってから言った。

「だーるまさーんがあ……転んだ!」

 飛び上がり、素早く全身を半回転させた春木陽香は、肩を上げて足を開き、顔を前に突き出して、後方の様子をにらみ付けるように確認した。

 横で立ち止まった勇一松頼斗が呆れ顔で春木に言う。

「ちょっと、さっきから何やってるのよ。みんな見てるじゃない。恥ずかしいわねえ」

 背伸びしたり、膝を曲げて腰を落としたりして、様々な角度から景色を確認しながら、春木陽香は言った。

「――いや、だって、何だか、さっきから後を付けられている気がして……」

「気にし過ぎよ。私も気をつけているけど、誰も付いて来ちゃいないわよ」

「でも、この前は尾行さていたんですよね」

「あの時は、あの時よ。今日は、ストーカーさんもお休みなんでしょ。ほらほら、高橋博士の従兄弟いとこさんがやってる薬局、すぐそこじゃない。行くわよ、ほら」

「あ、はい……痛たたた」

 勇一松頼斗は、いつまでも探索を続けている春木の腕を掴むと、男の腕力で彼女を無理矢理に引っ張っていった。



                 3

 商店街の入り口の前の車道に、一台の白いバンが停車している。車内ではスーツ姿の男が黒いスモークガラス越しに双眼鏡で外の様子を覗いていた。彼は運転席のスーツ姿の男に告げた。

「対象者DとFが例の薬局に入った。店主から聞き取り中。視界よし。南に回れ」

 その白いバンは電気エンジンを始動させ、ゆっくりと走り出した。

 アーケードで覆われたその商店街はシャッターを下ろしている店が多かった。営業している店舗もあるが、客で賑っている様子は無い。

 春木と勇一松が訪れた薬屋も同じだった。築浅の綺麗なビルの一階で営業しているその薬局は店構えこそ立派であったが、決して繁盛しているようには見えなかった。そこそこに広い店内には薬箱を疎らに置いた陳列棚が並べられていているだけで、客の姿はない。店の奥からL字に走るショーケースを兼ねたカウンターの上も綺麗に片付けられていて、何も置かれておらず、その前に、カクテルバーにあるような座高の高いスツールだけが並んでいた。光沢のある白い壁には薬品の宣伝ポスターや安売り商品の広告掲示は貼られておらず、その代わりにモダンアートを気取った大きな抽象画が飾られている。シャンデリア風の小奇麗な照明と乳白色に艶めく大理石風のフロアパネルのおかげで店内は明るく見えたが、そのような、まるでデパートの入り口ロビーか宝飾店のように構えた雰囲気が却って客足を遠のかせているようだった。

 店の奥のバックヤードらしき所から白衣姿の中年男が出てきた。彼は大きな段ボール箱を胸の前で抱えて、棚と棚の間の通路を歩いてきた。茶髪のその男は強い香水の匂いがする。そのあまり重そうでもない箱を店先の路上に置いた男は、箱の横にしゃがんだ。彼は箱からガムテープを剥がしながら言った。

「ええ? りょうちゃんのこと? もう何回も答えたでしょ。今更、なに」

 横に立っていた春木陽香は、その男に確認した。

「何回もって、高橋諒一博士のことで、他に誰か尋ねてきたのですか?」

 男は段ボール箱の中からティッシュペーパーの箱を取り出して、しゃがんだまま隣の陳列棚に並べ始めた。彼は忙しそうにティッシュの箱を棚に並べながら答えた。

「ええ。司時空庁の人たちがね。十年以上前だったかなあ。ああ、当時は何とか管理局とか言っていたな」

 春木陽香は電子メモ帳にプラスチック製のペンでメモを取りながら、男に言った。

「国家時間空間転送実験管理局ですね。通称、実験管理局」

 男はその名前に反応して何度も頷く。

「ああ、そうそう。なんか、諒ちゃんが難しい実験で行方不明になったから、探していると言ってたな。ま、その実験が、あのタイムマシンの実験だったんだけどね。で、高校を出てからは、お互い忙しくて会っていないと答えたよ。しかし、あんな大事になるとはなあ」

「あんな大事って?」

 手を止めた男は、しゃがんだまま春木の顔を見上げて言った。

「実験だよ。第一実験と第二実験。田爪博士が悪いんだろ?」

 男は再び商品を並べながら、話を続けた。

「結局、諒ちゃんの説が正しかったんだからさ。田爪博士もさっさと負けを認めりゃ良かったんだよ。そしたら、諒ちゃんも第一実験でタイムマシンに乗るなんて危険なことをしなくて済んだし、ウチの親父だって倒れずに済んだんだ」

 春木陽香はメモの手を止めて、隣に立っている勇一松と視線を合わせた。

 男も再び手を止めると、しゃがんだまま陳列棚にぶら下がるように両手を掛け、春木と勇一松の顔を下から交互に見ながら言った。

「あの第一実験の後だってね、ウチにもマスコミの人たちが大勢押し寄せて、そりゃあ大変だったんだから。テレビカメラを抱えた連中が連日やって来るものだから、客が寄り付かなくなって、当時元気だったウチの親父が随分とマスコミに怒ってねえ。この辺で、いつもカメラに向かって怒鳴り散らしていたよ。嫌だねえ、マスコミって」

 春木陽香は、再び段ボールの中からティッシュの箱を取り出し始めた男に尋ねた。

「お父様は、お具合でも……」

 男は段ボールから残りの箱をまとめて取り出すと、そのまま荒っぽく棚の上に乗せて、立ち上がった。手際よくティッシュの箱を並べながら、質問に答える。

「いや、去年、亡くなりました。諒ちゃんが第一実験で失踪してから一年くらいは、大変でね。親父も心労で倒れたんですよ。ここ、やっちゃって」

 男は春木の顔を見ながら、自分の頭を指差した。

「脳溢血でね、その手術費やらリハビリの費用やら、介護費やらで、いろいろ大変でしたよ。

 皮肉っぽくそう言って春木に厳しい視線を向けた男は、屈んで空の段ボール箱を持ち上げると、それをひっくり返し、底のガムテープを剥がし始めた。

 春木陽香は少し下を向いたまま、黙っていた。すると、その隣から勇一松頼斗が男に言った。

「あんた、住まいもここ? 随分と立派なビルねえ。建て替えたの?」

 形が崩れた段ボールを投げ下ろした男は、語気を強めて勇一松に言った。

「何だ、何が言いたい。親父の遺産でここを建て替えたって言いたいのか。冗談じゃない。ここは、俺が銀行から金を借りて建て替えたんだ。今もローンを返している最中だよ。――確かにな、送ってもらった金は使ったよ。親父の治療費とリハビリ代にな。親切で送ってくれた金だ。使って何が悪いんだ。必要だから使ったんだよ」

「お金って……何のことです?」

 そう尋ねた春木に、男は食って掛かった。

「とぼけるなよ。どうせ、その金のことで取材に来たんだろ。誰が送った金かって。言っとくがね、本当に知らないんだよ。誰かが匿名で現金を送ってきたの。だから、ちゃーんと税金の申告だってしたんだからな。新車一台分の額の贈与税を払ったんだぞ。税務署に行って調べてみろよ。本当だから」

 男は話の途中から段ボールを足で強く踏んで平らに広げていく。

 春木陽香は必死にメモを取りながら、男に質問した。

「いつ頃、送ってきたのですか」

 男は足下の潰れた段ボールを拾うと、それを三つ折りにして畳みながら答えた。

「だから、親父が倒れた後だって言ったろ。親父が倒れたのが二〇二八年の正月だったから、金が届いたのは……二〇三〇年だったかな。ちょうど、今頃だったよ」

 男は段ボールを少し力を込めて折り曲げていく。

 春木陽香は首を傾げてから尋ねた。

「現金っておっしゃいましたけど、現金書留ですか。どんな形で……」

 春木が言い終わらないうちに、男は手に持っていた物を強く叩きながら言った。

「段ボールだよ、段ボール。それに帯のついた札束が綺麗に詰められてた」

「段ボール? 段ボール箱にお金ですか?」

「そうだよ。――本当だよ。そういう形で勝手に送られてきたんだ。で、中に手紙も入っていて、『御尊父様のためにお使い下さい』とだけ書いてあった。だから使ったんだよ」

「その手紙、残ってますか」

「もう捨てちまったよ。他に何も書いてなかったし」

「文言は確かですか」

「ああ、その一行しか書いてなかったからな。間違いない」

 春木と勇一松は顔を見合わせた。

 小さく折り畳んだ段ボールに剥がしたガムテープを紐の代わりにして巻きつけながら、男は言った。

「もう、いいだろ。仕事の邪魔だ。帰ってくれ」

 春木陽香は丁寧に御辞儀をして言った。

「お忙しい中、すみませんでした。ありがとうございました」

 勇一松頼斗が男の左手首を指差しながら言った。

「あんた、随分いい時計をしてるわね。それ、『イブ・スッサン』でしょ。高級ブランドじゃないの。仕事中は傷つけないように気をつけなさいよ。値段は新車一台分どころじゃないでしょうから」

 勇一松頼斗は春木の腕を掴んで引っ張りながら、その場を後にした。


 

                 4

 アーケード街を歩きながら、勇一松頼斗は春木陽香に言った。

「あの男、親父さんのことにだけお金を使ったんじゃないわね。かなり浪費してる。間違いないわ」

 春木陽香は歩きながら少し考えている。

 勇一松頼斗は不機嫌そうにブツブツと言った。

「だいたい、あんな男に大金送るなんて、どこの馬鹿よ」

 春木陽香は宙で計算しながら呟いた。

「新車一台分の額の贈与税を払ったってことは……」

「家一軒分のお金を貰ったってことよ。でも、本当はもっと送って来てるのかも。イブ・スッサンのピンク・パールの腕時計って言ったら、高級IAスポーツカーと同じくらいの値段よ。それに、店の奥に飾ってあった絵、見た?」

「ああ、カエルの絵ですか」

「違うわよ、猫よ、猫。見て分かんなかったの。センス無いわねえ」

「はあ……」

「あの絵、アキ・ムロトの絵よ。現代画壇の巨匠。しかも、亡くなる前に描いた数少ない抽象画のうちの一枚。まあ、レプリカかもしれないけど、それでも高いのよ」

「へえ、そうなんですか」

「あの男がつけてた香水だって高級品。なのに、あんなにつけちゃって。臭くて鼻が曲がるかと思っちゃったわよ。過ぎたるは及ばざるが如しって、このことね」

「たしかに強烈でしたね。店の奥から出てきた時から匂いましたもんね。――でも、高級腕時計をしてたり、高い香水をつけてたり、高価な絵を飾ってるだけですよね。それだけで浪費してるとまでは言い切れないんじゃ……」

「あのね、そういうのを『浪費』って言うんじゃない。それに、店構えも無駄に豪華だったし、あのビルだって、作りが豪勢だったでしょ」

「まあ、でしたね」

「本当に銀行から建築資金を借り入れて建てたにしても、借入金はかなりの高額だったはずよ。そうだとしたら、担保はどうしたのよ。敷地の土地だけで足りると思う? 見てみなさいよ、このアーケード街。シャッターだらけじゃないの。こんな商店街の薬局兼自宅ビルに、今時、どんな親切な銀行だって別の担保を提供しないと、お金は貸さないわよ」

「他に財産を持っているってことですか。不動産とか、株とか」

「たぶんね。それに、苦労して頑張っている人間の目じゃないもの、あれ。他の人は騙せても、このライト様の目は誤魔化せないわよ」

「なんてったって、天才カメラマンですからね。フォぉぉトグラふィックアーティストですし」

「お、分かってきたじゃない、ハルハル」

 勇一松頼斗は指を鳴らしてから春木を指した。

 春木陽香は真顔に戻って、顎に手を当てながら勇一松に言った。

「でも、『御尊父様』って言ってましたよね。そう、書いてあったって」

「そうね。それが、どうかしたの?」

「それ、他人の父親を指して言う言葉ですよね。手紙とかで。自分の近い親戚とかには、あまり使いませんよね、普通」

「そうねえ、まあ、親しき仲にも礼儀ありで、そう書く人もいるのかもしれないけど、大抵は、『叔父さん』とか、『叔父様』とかって書くわよね」

「ですよね……」

 顎に手を当てたまま、少し視線を下げて考え込んだ春木に、勇一松頼斗が尋ねた。

「まさか、高橋博士がお金を送ったと思ってたの?」

「最初はそう思ったんですけど、さっきの人のお父さんは、高橋博士が第一実験で過去の世界に飛んだ後に倒れたんですよね。ということは、自分の叔父さんが倒れたという事実を高橋博士は知らないはずですもんね。それに、今言ったとおり、高橋博士だとすると、手紙の書き方も変ですし……」

「まあ、田爪博士のパラレル・ワールド否定説が正しくて、高橋博士は同じ時間軸上の、この世界で身を潜めていたんなら、知っているはずだけど……。タイムトラベルした瞬間から時の流れが変わって、パラレル・ワールドになるわけでしょ。それは第一実験と第二実験で証明された。であれば、タイムトラベルして過去に行った人が生きる世界は、今のこの世界とは交わらない。じゃあ、高橋博士がこの世界で存在しているなんて在り得ないわよ。それに、あの文体はねえ……」

 春木陽香はどうも納得がいかない。彼女は再び勇一松に尋ねた。

「何かの事情で高橋博士が生きているとすれば、今は何歳でしたっけ。ええと……」

「二〇二七年の第一実験の時が三十八歳だから、今は四十九歳ね。さっきのオジサンと同い年」

 指を折って数えていた春木陽香は、上のアーケードを見上げながら言った。

「四十九歳かあ。その高橋博士が、自分の生存を悟られないように、あえて他人のふりをして書いたってことも考えられますけど、さっきの男の人の性格とか、従兄弟なら知っている訳ですよね。もし高橋博士が送り主なら、もっと別な方法を取るんじゃないでしょうか。介護施設に送るとか、電子振込みにするとか」

「そうよねえ、段ボールに現金って、八年前でも考えられないわよねえ」

「それに、そんな大金を動かせば、当時、必死に高橋博士の行方を追っていた『実験管理局』に知られてしまうんじゃないでしょうか」

 勇一松頼斗は指を鳴らすと、そのまま春木を指差して言った。

「あ、それ違う。お金が届いたのが二〇三〇年の今頃って言っていたから、当時は既に、今の『司時空庁』ね。タイムマシンの民間人転送事業が始まったのが、二〇二九年の一月からだから。つまり、国は二〇二九年には、二人の捜索を打ち切っているのよ。ま、実質的には、第二実験で田爪博士が消えた二〇二八年の三月の時点で捜索を終えているんだろうけど」

「どうしてですか。資料には、現在も司時空庁は二人の博士を捜索中であると書いてありましたけど」

「建前上はね。よく考えみなさいよ、高橋博士が第一実験の後に姿を現さなかったってことは、パラレル・ワールドが在るってことじゃない。それなのに、その後に田爪博士を飛ばす必要がある? きっと彼、パージされたのよ」

「パージ?」

「粛清よ。田爪健三は、実験管理局に粛清されたのよ」

 春木陽香は目を丸くした。

「追放されたってことですか。過去の世界に」

「そうよ。しかも、別の世界、パラレル・ワールドに。だから、司時空庁に看板変えしてからは、捜索活動なんてしてはいない。さっきの男も、この十年間で庁員が話を訊きに来たらしいことは言っていなかったじゃない。十年前に実験管理局の職員が話を聞きに来たとは言っていたけど。それ、お金が届く二年前よね」

 春木陽香は、また考えながら言った。

「田爪博士を第二実験で送ってみて、田爪博士が現われなかったから、高橋博士のパラレル・ワールド実在説が正しいって確定したんですよね。反対説を唱えていた田爪博士をタイムトラベルさせてみるのは、倫理的にはともかく、検証方法としては一理あるとは思いますけど……」

 勇一松頼斗は隣の春木の顔の前で手を振り下ろして、呆れ顔で言う。

「そんなのは表面的な理由よ。大人はみんな汚いの。あんたも、もう大人でしょ。いい加減、目を覚ましなさい」

「はあ……。でも、この十年間、司時空庁が二人の捜索をしていないのだとしたら、もしかしたら、二人共どこかで生きているってことも考えられますよね」

「まあ……可能性はゼロじゃないかもしれないわね。田爪博士の説が正しければ。でも、それなら、田爪博士はとっくに姿を現しているはずでしょ。自分の説が正しいと証明できる訳だから。彼が姿を現さないってことは、やっぱり、パラレル・ワールドは存在するのよ。で、二人とも、そっちに行っちゃってる。別々のパラレル・ワールドにね」

「田爪博士の説が正しくて、何らかの事情で田爪博士が姿を現せずにいるってことは考えられませんか」

「まあ、有り得ると言えば、有り得るわね」

 勇一松頼斗は仕方なし気にそう答えた。春木陽香は続けた。

「そうなると、高橋博士もこの世界で生きてるってことになりますよね。で、司時空庁は二人の捜索をしていない。高橋博士がお金を送ったって線も残ると思いませんか」

「でも、そうだとして、どうやって高橋博士が、そんな大金を準備できたのかよね。潜伏中に」

 春木陽香は腕組みをして、再び顎に手を当てると、眉間に皺を寄せた。

「そうなんですよねえ。高橋博士がこの世界に潜伏しているのだとしたら、田爪博士の説の方が正しかったってことですもんね。心情的には、出てきにくいですよねえ。身を潜めて生きているのだとしたら、そんな大金を作ったり、動かすのは難しいはずですもんねえ。そうなると、やっぱり……。うーん……」

 勇一松頼斗は立ち止まり、それに合わせて立ち止まった春木に言った。

「で、次はどうするのよ。ここから新首都行きのバスに乗って帰る? それとも、この先のリニア列車の駅かしら?」

 春木陽香は頷いて答えた。

「もちろん、駅です。田爪瑠香さんの親友の堀之内さんの実家までは、ここからならリニア列車で行った方が早いですから。でも、その前に……」

 春木陽香は肩に掛けていた虹模様のトートバッグを下ろした。

 勇一松頼斗は、彼女に尋ねる。

「なに? 編集長に電話でもしとく?」

 春木陽香は長く息を吐くと、大きく息を吸った。

 勇一松頼斗は怪訝な顔で春木を見つめる。

「だるまさんが転んだ!」

 そう言いながらジャンプしてクルリと振り向いた春木陽香は、後方の景色を指差して確認すると、勝ち誇ったように言った。

「はい、誰もいなーい。オッケーっと」

 そして、再び前を向き、トートバッグを前後に振りながら、駅の方に歩いて行った。

 呆れ顔で溜め息を吐いた勇一松頼斗は、彼女の後を追う。

 二人は日の照りつける南の方角に進んで行った。その姿を遠方の白いバンの中から背広姿の男たちが双眼鏡で捉えていた。



二〇三八年五月一七日 月曜日


                 1

 山野紀子は、また饅頭を食べている。

 春木陽香は、月曜日の朝の編集会議を終えて戻ってきた山野に、高橋諒一の従兄弟である男と、田爪瑠香の友人である堀之内美代への取材内容を報告しようとした。その前に勇一松が購入したお土産を渡すと、報告を始めた春木の前で山野紀子はお土産の「試食」を始めた。春木陽香は高橋の従兄弟の話を始めたが、目の前で喉を詰まらせながら「試食」を続ける山野を見かねて、報告の途中で給湯室に向かった。彼女がお茶を注いだ「トゲトゲ湯飲み」を持って戻ってくると、山野紀子は、まだ「試食」を続けている。既に三つ目である。

「この『ふろしき饅頭』って、シンプルだけど、美味しいわね。止まらない。うん」

 そう言った山野の机の上に、春木陽香は湯気を立てたトゲトゲ湯飲みをそっと置いた。

「はい、お茶です。痛っ」

「ごめんね、持ちにくいでしょ。このトゲトゲが邪魔なのよね。なんで要らん物を付けたかな、あの子」

 指先の爪の間を見ながら、春木陽香は言った。

「きっと、とんがるのが好きな年頃なんですよ」

「何よ、それ」

 熱いお茶を一口飲んで、口の中の饅頭を流し込んだ山野紀子は、春木に言った。

「それで、堀之内美代さんは、どうだったの?」

「はい。取材には色々と好意的に協力していただきました。ただ、田爪健三博士のことはあまり知らないようです」

「そう。新理研と大学の研究室にいても、田爪博士とは友人の旦那って以外、接点無しかあ……」

「はい……。でも、瑠香さんのことは、いろいろ聞けました」

「どんな?」

「なんか、すごく田爪博士のことを愛していたっていうか……一途だったというか……」

 山野紀子は両頬に手を添えて言った。

「きゃー、すてき……って、そんな惚気のろけ話を聞きに行ったわけ? 違うでしょうが。所在よ、所在。田爪瑠香の所在」

「ああ……」

 春木陽香は背後の自分の机の上から電子メモ帳を取ると、それを見ながら答えた。

「――ええと、瑠香さんは、田爪博士と結婚して実験管理局を退職してからは、ずっと専業主婦だったようです。堀之内さんも、母親の介護のために実家の居酒屋に帰るまでは、瑠香さんと交流があったそうで……」

「いつ帰ったのよ。その堀之内さんって人」

「ええと……お母様が脳梗塞で倒れたのが五年前ということですから、その頃かと……」

「確認してないの? 何しに行ったのよ」

「はあ……、すみません」

 下を向いた春木に、山野紀子はトゲトゲ湯飲みを口に運びながら、厳しい目で尋ねた。

「それで、五年前までは、田爪瑠香はどこに住んでいて、何をしていたの」

「田爪博士が第二実験で失踪してからは、旧市街に部屋を借りて、そこで何かの研究をしていたそうです。堀之内さんの話では、量子力学の基礎から機械工学まで、念入りに勉強していたと……」

 山野紀子はお茶を喉に引っ掛けてむせた。

「ゲホッ、ゴホッ……。 それよ、それ。それじゃない。その場所は具体的に聞き出せたの?」

「はい。住所を聞いてきました。梨花りか種田たねだ町の……」

 春木の報告を大きな歌声が遮った。勇一松頼斗の声である。

「ラブリフツ、アスアップ、ウェアウィー、ビッロオーオング。――おはよう、エヴィバディ。愛と青春に生きる旅人・ライト様のご出勤……あら? また食べてるの、編集長」

 真っ白な上下の詰襟スーツ。今日の勇一松頼斗は、まるで海軍士官の制服姿のような恰好であった。いや、制服姿そのものである。

 山野紀子は彼の服装には触れずに、怒鳴りつけた。

「遅い! 今、何時だと思ってるのよ。もうすぐお昼じゃない。月曜は編集会議やるって言ったでしょうが」

 勇一松頼斗は脇に挟んで抱えていた帽子を取り出し、そのツバをいじりながら、ボソリと言った。

「編集会議って言っても、どうせ四人じゃないよ」

 山野紀子は勇一松を指差しながら言った。

「本誌の方の会議よ。例の『Lustラスト Girlsカールズ』のグラビア記事があるでしょ」

 勇一松頼斗は顔を上げて反論した。

「だから、そのラストカールズの所属事務所と打ち合わせしてきたのよ。大変だったんだから、いろいろと修正の要望が多くて。目を大きくしろとか、ウエストにくびれを作れとか、バストはEカップに見えるように撮れとか。肌の色なんて、白さを七段階に分けて指定よ。石膏の撮影かと思ったわよ」

 山野紀子は肩透かしを食らって、少し語気を静めた。

「あ……そう。――じゃあ、先方はやる気なのね。食いつき具合はどうだった?」

 勇一松頼斗は立てた人差し指の先で帽子を回しながら答えた。

「もう、ノリノリのガブガブよ。人気だったアイドルグループも、歳を取って少し人気が落ちてきたところだから、事務所としてもこの辺で『大人の魅力』路線に転換を考えていたんですって。この前の『堤シノブ』と同じ。ひどいわねぇ。ま、だから、まさに……ええと、何だったかしら。――こんにゃく、ところてん……ああ、『干天かんてん慈雨じう』だとさ」

 山野紀子は早速パソコンに手を伸ばすと、スケジュール表を立体表示させた。

「そう。よかった。衣装のデザインは? こっちに任せるって?」

「そこは渋ったけど、納得させた。衣装はこっちが指定した物じゃないと撮らないわよって、脅してやったから」

 キョロキョロと二人の顔を見ていた春木陽香が口を挿んだ。

「ラストガールズって、あの人気アイドルグループの子たちですか」

 山野紀子はパソコンの上に浮かんでいるスケジュール表をにらみながら言った。

「そ。思春期男子の憧れの的――だった、『Lust Girls』。カメラの前では純情そうな笑顔を振り撒いているけど、正体は名前の通り、煩悩女子よ。うちでも世間に出せないディープなネタを幾つか掴んでる。あの子達は、いわゆる『枕営業アイドル』ね」

「そのグラビア撮影ですか」

 目をパチクリさせて尋ねた春木の横で、勇一松頼斗は誇らしげに答えた。

「そうよ。ウチでデザインした衣装を着せて、この私が撮るの。芸術的なグラビアにしてやるわ」

 ホログラフィーで投影されているスケジュール表の明かりで顔を緑色に照らされている山野紀子は、「ふろしき饅頭」が並んだ箱に手を伸ばす。饅頭を手先で探しながら、彼女は言った。

「ま、私が衣装をデザインするんだけどね。堤シノブのヌード写真は読者も飽きたでしょうから、今度は心機一転よ。若い子のギリギリショットで行く。男性読者が食らいつくエグイ衣装をデザインしてやるわ。くくく」

 山野紀子は緑色の顔で饅頭をかじりながら不気味に笑う。

 春木陽香がボソリと呟いた。

「どこに向かってるんですか、ウチの雑誌……」

 山野紀子は饅頭を咥えたまま固まった。勇一松頼斗も沈黙している。

 気まずい静寂の中で、春木陽香が口を開いた。

「あの、別府先輩は」

 山野紀子が春木の方に手を振りながら答えた。

「ああ、彼は、ほら、例のタイムマシンの搭乗者リストと、高橋諒一と田爪健三が防災隊に所属していたときの個人識別コードの入手という不可能に近い取材に奔走中」

 春木陽香は怪訝な顔で言った。

「それ、たぶん裁判所の命令とかが無いと、入手できませんよね。どちらも」

 山野紀子は片笑んで頷いた。

「たぶんね。ま、彼はそれを自力でやる気みたいだから、いいんじゃない。やらせときましょ。遊軍は必要だし」

 春木陽香は壁のカレンダーを見ながら尋ねた。

「今月のタイムマシンの発射は、どうするんですか。今度の日曜日ですよね」

 山野紀子はスケジュール表に顔を向けたまま、ホログラフィーのキーボードの上で指を動かしながら答えた。

「雑誌の発売は金曜日よ。本業の週刊誌が無くなったら、取材しても記事を載せることも出来なくなるでしょ。こっちが優先よ」

 春木陽香は不満気な顔で言った。

「でも、人の命が懸かってるんじゃ……」

「分かってる!」

 ホログラフィーに顔を向けたまま、山野紀子が大きな声で怒鳴った。編集室内が静まりかえる。室内にいた他の記者たちは一斉に山野の机の方に視線を向けた。

 春木陽香はじっと山野の顔を見ている。

 椅子にもたれた山野紀子はホログラフィーのスケジュール表に顔を向けたまま、トゲトゲ湯飲みのお茶を一口啜った。

 二人とも、黙っていた。

 勇一松頼斗が取り成すように二人の間に入った。

「まあ、まあ、ハルハル。後で、堀之内さんから聞いた田爪瑠香の住所に行ってみましょうよ。案外、彼女の話が聞けたら、色々と一気に解決するかもよ。ね」

 山野紀子は勇一松に顔を向けて尋ねた。

「ライト、その堀之内美代の雁首は?」

 勇一松頼斗は顔の前で手を交差させて答えた。

「ノー。撮影拒否ですって。まあ、寂れた小さな田舎町の居酒屋だから、話題に成りたくないんでしょ。それで何もすること無かったから、インタビューはハルハルに任せて、そのお饅頭を買いに行ってたんじゃない」

 机の上の「ふろしき饅頭」の箱を指差している勇一松の後ろを通って、春木陽香は自分の机に向かった。少し荒っぽく薄型の立体パソコンを虹模様のトートバックの中に放り込んだ彼女は、電子メモ帳や、念のための紙製のノートと筆箱を更に詰め込みながら、山野の方に顔を向けることなく、言った。

「とにかく、私、瑠香さんの家に行ってみます。急いで取材したいので」

 春木陽香は肩にトートバックを掛けると、速足で廊下の方に歩いていった。

「あ、ちょっと、ハルハル。待ちなさいよ」

 勇一松頼斗は慌てて自分の机に回ると、放り投げた帽子と入替えにカメラを持って、春木を追いかけていった。

 二人が歩いていった廊下の方を向いて、山野紀子が叫ぶ。

「ちゃんと、顔写真を撮ってくるのよ。それと、話の本筋は『ドクターT』だからねえ」

 返事は無かった。廊下の奥で激しくドアが閉まる音がした。

 山野紀子は廊下の方に視線を向けたまま、トゲトゲ湯飲みを口元に運んで呟いた。

「まったく……」

 お茶を一口飲んだ山野紀子は、これが最後と決めて手に取った「ふろしき饅頭」を口に放り込み、再びホログラフィーのスケジュール表に向かった。

 頬に饅頭を詰めて進行を検討する彼女の真剣な顔を、緑色の光が薄く照らしていた。


 

                 2

 住宅街の中の狭い道路の端を、春木陽香は頬を膨らませて歩いていた。肩を上げ、眉間に皺を寄せている。横を歩いている勇一松頼斗が軽く笑いながら、彼女を宥めた。

「まあ、そんなに怒りなさんなって。編集長だって大変なのよ。上の人たちからは雑誌の売り上げを伸ばせって言われて、親会社の方からは、この件から手を引けって言われてさ」

「ウチの会社の方は取材に乗り気だって言ってたじゃないですか。上層部の人たちの記者魂に火を点けたって。『なんちゃって反骨精神』にも。だいたい、もともと編集長が、人の命が懸かっているから気を引き締めろって言ってたのに」

 勇一松頼斗は春木に諭すように言った。

「分かってるのよ、編集長も。一番悔しがっているのは、編集長に決まってるじゃない」

「そうかなあ、何もこんな時に、売れないアイドルのグラビアを挿むことないのに……」

「それも作戦よ、作戦。――ほら、着いたわよ。ここよ、ここ」

 勇一松頼斗は、道路沿いに建つ綺麗なマンションのエントランスの中に入っていく。

 春木陽香は納得のいかない顔で彼の後についていった。



                 3

 階を上がり、田爪瑠香が借りている部屋の前に着いた二人は、焦げ茶色の重厚な玄関ドアに取り付けられた金色のプレートに記されている部屋番号を確認した。

「この部屋よねえ。ピンポーン、こんにちはー。すみませーん」

 玄関ドアの横の立体カメラ付きインターホンのボタンを押した勇一松頼斗は、その上のカメラを覗き込み、スピーカーに耳を澄ました。暫らく待っても何も聞こえない。

「携帯電話も番号が変わってましたよね。まだ、住んでるんでしょうか」

「今時珍しく個人で固定電話回線の使用許可をとっているくらいだから、住んでるんでしょ。せっかく許可を取ったのに、引っ越して固定回線の住所変更手続きをしてないってことはあり得ないわ。それに、さっき下の管理人さんは旅行中じゃないかって言ってたじゃない。引っ越したなら引っ越したって言うでしょ」

「そっか。――でも、出かけたのはゴールデン・ウイーク中なんですよね。そんなに長く旅行中なのかな……あれ」

 春木陽香が何気なくドアノブに触れると、その接触を認識したドアが向こう側から自動で少し開いた。二人は顔を見合わせる。

 春木陽香は少しだけドアを開けると、部屋の中に向かって小声でそっと呼びかけた。

「こんにちはー。田爪さーん。新日風潮の者ですう。いらっしゃいますかあ」

 後ろから勇一松頼斗が言う。

「入っちゃいなさいよ」

「駄目ですよ、他人の家なんだから……」

「いいから、ほら」

 勇一松に押し入れられる形で春木陽香は玄関の中に足を踏み入れた。後から入ってきてドアを閉めた勇一松に春木陽香が声を潜めて言った。

「不法侵入じゃないですか」

「こういうの『突撃取材』って言うのよ。さあ、さあ、行った、行った」

 勇一松に背中を押された春木陽香は慌てて靴を脱いだ。そのまま背中を押されて廊下を歩き、リビングに通じる入り口のドアの前まで来てしまった。

 春木陽香は申し訳ない顔をしながら、そっとドアを開けた。

「失礼しまーす。お邪魔してますう。田爪さーん? いらっしゃいませんかあ。瑠香さーん? んー……居ないみたいですね」

 広いリビングの床の上には家財道具が散乱していた。カーペットの上には書籍が放り投げられていて、テーブルの上にもソファーの上にも、箱やバッグ、脱ぎ捨てられたようなジャケット類が散乱している。

 部屋の様子を写真に収めながら、勇一松頼斗が呆れた顔で言った。

「それにしても、きったない部屋ねえ。片付けるってことを知らないのかしら。散らかり放題じゃない。これじゃ、管理人さんが悪口を言うはずだわ」

 春木陽香も部屋の中を見回しながら言った。

「管理人さん、瑠香さんは懲りずに田爪博士の説を信じ続けている意地っ張りだって言ってましたよね。なんか、堀之内さんから聞いていた印象とは違うなあ。光絵会長の邸宅で瑠香さんの写真を見たときの印象では、なんか、こう、清楚で理知的な人って感じでしたけど……」

「大財閥のご令嬢も、こんなことじゃ、育ちが知れてるわね」

 勇一松頼斗は落ちていたスカーフを摘み上げて、そう言った。

 周囲を見回していた春木陽香は視線を止める。立体テレビの横の縦長の棚からは、引き出しが全て抜かれていて、床に逆様になって散乱していた。振り返って、扉が開けられたままのサイドボードに目を遣ると、綺麗に並べられたグラスの下で引き出されたままの引き出しから栓抜きやランチョンマットが無造作に姿を覗かせている。

 春木陽香は言った。

「ライトさん、でもこれ、片付けてないって言うのとは何か違うような……誰かに荒らされたんじゃないですかね……」

 勇一松頼斗も再度、足下を見回しながら言った。

「そう言われてみれば……そうねえ……」

 春木陽香はトコトコと移動し、別の部屋に通じるドアを開けた。部屋の中を覗いたまま勇一松に手招きする。

「あ、ライトさん、こっち」

 そこは重厚な両袖の机が置かれた書斎らしき部屋だった。分厚い専門書が部屋中に散乱している。床に広げられたまま落ちている本は頁の紙が無造作に折れ曲がっていた。机の上にも書類や文房具が無秩序に散乱し、その上にひっくり返された引き出しが積み上げられている。

 春木に続いて部屋の中に入った勇一松頼斗は、その様子を写真に収めると、床の本を拾い上げてその背表紙を見ながら言った。

「何よ、難しそうな本ばっかりねえ」

「でも、この引き出しとか、完全に荒らされてますよね。ドロボウかな……」

「鍵もしないで出て行くからよ。ズボラな女ねえ」

 春木陽香は天井の隅を指差して言った。

「ライトさん、あれ、マルチ無線ルーターのアンテナ・ユニットですよね」

 勇一松頼斗は春木が指した天井の半球状の装置にカメラのレンズを向けて答えた。

「そうね。このマンションに後付けで内蔵されたモノね。しかも、かなり本格的」

 春木陽香は部屋の中をもう一度見回しながら言った。

「でも、パソコンが無いですよね。ラップトップもデスクトップも。立体タブレットも見当たらない」

「そうねえ……おかしいわねえ。もう一度、向うのリビングを探してみましょうか」

 リビングに戻った二人は改めて室内を見渡した。

 春木陽香がソファーの後ろやテーブルの下を確認しながら言った。

「やっぱり、無いですよね」

 春木陽香は床に散らばった物を踏まないように気をつけながら、そのまま隣のキッチンへと移動した。中を覗いてみると、シンクの上は綺麗に片付いている。しかし、壁際の食器棚の引き出しは全て開けられていて、中を乱雑にかき回されたような状態だった。

 バスルームへと移動していた勇一松の声がした。

「こっちにも無いわよ。寝室は?」

 春木陽香は廊下に戻り、壁際のドアを開けた。

「失礼しまーす……」

 バスルームから出てきた勇一松頼斗は、ドアを開けたまま立ち尽くしている春木の後ろに来て、言った。

「どう、あった? 風呂場も洗面所もすごく綺麗に片付けて……って、何よ、これ」

「これ、絶対に、そうですよね」

「うん。どんなに寝相の悪い女でも、ベッドをマットごとひっくり返す女は居ないわね」

 その部屋の中央には枠だけになったベッドの土台が残っていて、その横に、壁に斜めになって分厚いマットレスが寄りかかっていた。

 春木陽香はそこに近寄り、屈んでその下を覗く。そこには、羽毛の掛け布団の上に、くしゃくしゃになったシーツと枕が落ちていた。

 春木陽香は体を起こし、勇一松に言った。

「瑠香さんは光絵家で育ったんですよ。行儀が悪いなんてことは無いはずですけど……」

 呆れ顔で一度手を大きく振った勇一松頼斗は、真顔に戻って春木に言った。

「お風呂場も洗面所も綺麗だったわよ。引き出しの中もちゃんと整理されてた。やっぱり、これ、誰かに荒らされたのね。パソコンだけが無いってことは……」

 腕組みをした勇一松頼斗は、少し考えた。

 春木陽香はベッドの枠の足元に置かれた低い棚に目を遣った。その上には置時計や小振りのオブジェが置かれていたが、その間に不自然な空間が空いている。春木陽香は自分の足下に倒れているナイトテーブルの横に視線を移した。床に転がった洒落たスタンドの横に小さな機械が落ちていた。彼女はそれを拾うと、勇一松に言った。

「荒らした人間が持ち去ったってことですよね。これ、デスクトップ型パソコンのホログラフィー・キーボードの無線装置です。ということは、この部屋の中にデスクトップ型の大型パソコンが在ったってことですもんね。たぶん、あの棚の上に。あのスペースだと、四十インチサイズ以上のホログラフィーを投影できる大型でハイスペックタイプのデスクトップじゃないでしょうか。だとすると、瑠香さんが持って出かけたなんてことはないですよね」

「そうね。――あ、そうだ」

 勇一松頼斗は近くにある洋服ダンスの、開けられたままの引き出しの中を弄り始めた。

「あんたも探してちょうだい。他に大事な物が残っていないか。指輪とか、ネックレスとか、現金とか」

 春木陽香は引き出しの中を次々に物色していく勇一松を見て、困惑しながら言った。

「ちょ、ちょっと。何やってるんですか。便乗して泥棒しようってことですか」

 勇一松頼斗は鏡台の前に移動しながら答えた。

「違うわよ、馬鹿。ここを荒らした奴が金目当てなら、そういう物は無くなっているはずでしょ。これだけ徹底的に室内を探してるんだから。さっきの部屋も見てきてちょうだい」

「なるほど……そうですね」

 春木陽香は急いで書斎に移動した。

 勇一松頼斗は鏡台の引き出しやジュエリーボックスの中を丁寧に確認した。

 全ての引き出しの中を確認し終えた勇一松頼斗は、改めて首を傾げた。

「変ねえ……」

 すると春木が書類を手にして戻ってきた。

「ライトさん、これ」

「どうした?」

「賃貸借契約書です。ここのすぐ近くのビルの」

 春木から渡された書類に勇一松頼斗は目を通した。

「ふーん、どれどれ。ホントだ、すぐ近くね。でも、これ、古い契約書ね」

「十年前に借りて、そのまま更新し続けています。ここに、契約継続の印鑑が……」

 春木が指差した箇所に目を遣った勇一松頼斗は、その賃貸借契約書を閉じて、彼女に手渡しながら尋ねた。

「何処に在ったのよ、これ」

「書斎の金庫の中です。何かで焼き切られて、こじ開けられていました。でも、中身はほとんど無くなっていません。証券とか、株券とか、通帳も、そのままって感じです」

「こっちもよ。ジュエリーボックスの中も高そうなネックレスや指輪がそのまま」

「じゃあ、やっぱり、泥棒じゃないってことですよね」

「目的物だけを持ち出して、金目の物には一切目もくれない。こりゃ、プロの仕業ね。しかも、何人かの訓練された人間」

「何人か?」

 勇一松頼斗は頷いてから説明した。

「まず、この高そうな分厚いマットレス。いくら力持ちの大男でも、これを一人でひっくり返すって大変でしょ。それから、大型のデスクトップ・パソコン。ハイスペックな大容量タイプなら、結構な重量よ。一人で運び出すのは大変。それに、これだけ荒らすのに時間を掛けていたら、いつ本人に見つかったり、警察に捕まるか分からないじゃない。たぶん、何人かで短時間でやったはずよ」

 春木陽香は窓のサッシに目を遣った。ガラスは防犯用の強化ガラスだと思われた。鍵の部分は最新式のダブルロックタイプで、こじ開け防止用の振動センサーも付いている。

 春木陽香は廊下の方に顔を出して玄関の方を覗きながら言った。

「ここって、各戸の独立セキュリティー型のマンションですよね。あのドアロックを解除して、中に入ったんでしょうか」

 春木を押しながら廊下に出てきた勇一松頼斗は、最新式の高級玄関ドアを見て言った。

「だからプロだって言っているのよ。あんなセキュリティーロック、ベテランのコソ泥でも開けられないはずよ。あれは最新式の電子ロックでしょ」

「高電圧ピッキングにも対応って、テレビで宣伝してますもんね。それを開けられる機材を持っているってことは……」

 春木と勇一松は顔を見合わせた。そして二人同時に声を揃えて言った。

「司時空庁!」

 春木陽香は賃貸借契約書を勇一松に見せながら、慌てて言った。

「と、とにかく、この賃貸ビルに行ってみましょう。瑠香さんの身に何かあったのかも」

「ああ、あんた、先に行ってて。私、ここの写真を撮って、警察に通報してから行くわ」

「あ、じゃあ、私も居た方が……」

「居たら、二人して事情聴取されちゃうでしょ。そっちのビルの方はどうするのよ。着いて中の様子を確認したら、電話ちょうだい。すぐに行くから」

「分かりました」

 春木陽香は肩に掛けていた虹模様のトートバックに賃貸借契約書を放り込むと、急いで玄関に向かい、靴を突っ掛けたままドアを開けて出て行った。


  

                 4

 虹模様のトートバッグを提げた春木陽香は、賃貸借契約書の住所を入力したウェアフォンのホログラフィー地図を周囲の景色と見比べながら歩いている。近隣には板金工場や小さな部品工場が建ち並んでいた。犇くように立っている低層の古い建物の中に、そのビルはひっそりと建っていた。春木陽香は手元のウェアフォンの表面に薄く浮かんで広がっている地図と見比べて、もう一度確認する。

「このビルかな……」

 その三階建ての建物は、ビルと言うよりも工場に近い外観だった。波トタンの外壁に安普請のスレート葺の屋根。外の非常階段も錆び付いている。

 春木陽香はその建物の入り口に回った。

 一階の玄関部分に並んだポストの受け口は、どれもガムテープで塞がれている。その玄関から真っ直ぐに伸びた廊下は暗く、途中にあるガラス製のドアからはどれからも明かりが漏れてはいない。ポストの上に並ぶ電気のメーターも全て止まっていた。その中で唯一デジタル表示を点滅させているメーターを見つけた春木陽香は、ポストの中から使用されているものを探した。端の方に一つだけガムテープが貼られていないポストを見つけた彼女は、トートバッグから賃貸借契約書を取り出すと、そのポストの番号と契約書の部屋番号を照らし合わせた。

「ああ、ここだ。ここの二階かあ……」

 玄関の横の階段を上がって二階に着いた春木陽香は、暗い廊下を少し進み、その部屋番号のドアの前に来た。彼女は周囲の壁や建物の作りを観察する。廊下は建物の中央を真っ直ぐに奥まで走っている。左右の壁に窓は無い。その廊下には一つのドアとその向い側のドアがあるだけだ。つまり、この階には廊下を挟んで二部屋しかない。ビルの大きさからすると、部屋の中は相当に広いと予想された。

 春木陽香はドアノブに手を掛けた。鍵は掛かっていない。彼女はそっとドアを開けた。

 室内は暗かった。向こうに並んでいるはずの窓は黒いカーテンで全て閉ざされている。

 春木陽香はドアの横の壁を手で探り、照明のスイッチを探した。随分と古いタイプのスイッチが彼女の手に振れ、それを押すと、室内に明かりが点いた。中は予想したように広かった。子供の頃に通った学校の教室が縦に三つか四つ並べられたくらいの広さである。だが、彼女が驚いたのは、そのようなことではなかった。室内に何個も並べて置かれた広い実験用の机の上は滅茶苦茶に荒らされていた。壁際の本棚の本も床に散乱していて、足の踏み場も無い。部屋中の引き出しと言う引き出しは全て抜かれて、床に放り投げられている。視界に入る限りでは、パソコンらしきものは見当たらなかった。にもかかわらず、本棚の上にはパソコンでのインターネット通信に使用する中継機器が置かれている。

 春木陽香は溜め息混じりに呟いた。

「ここもかあ……」

 彼女は足下に散らばっている書籍や実験器具に注意しながら、その理科の実験室のような室内を奥へと進んだ。奥には休憩用か応接用と思われるソファーや、冷蔵庫が置かれていて、突き当りにはミニキッチンが見えた。その横には裏口のドアがある。おそらく、さっき外から見えた非常階段へと続いているはずだ。

 春木陽香は散らかった室内を慎重に進んだ。すると、彼女は何か違和感を覚え、立ち止まった。そこで暫らく周囲を見回していた彼女は、見覚えのある景色に目を留めた。

「あれ? ここって……」

 壁際にポツリと置かれた大きな机があった。春木陽香はその机の前まで移動すると、そこから少し離れたり、違う角度から見たりして、その見覚えのある景色を確認した。

「ここ、あの実験映像の場所じゃ……」

 その時、背後で物音がした。春木陽香は咄嗟に近くの机の隅に隠れた。しゃがんで隠れている彼女の足下にフォトフレームに入れられた写真が落ちていた。春木陽香はその写真を覗きこんだ。写真には金髪の外国人女性と背の高い若い東洋人女性、中年の身形の良い男性と並んで、黒髪の、色の白い美しい女性が写っていた。

 春木陽香はしゃがんだまま少し移動して、角度を変えて真っ直ぐな位置からその写真の女性の顔を確認した。

「たしか、この人……むぐっ!」

 突然、春木の口を背後から手が覆った。彼女はそのまま引き起こされ、後ろから羽交い絞めにされる。

 耳元で男の低い擦れた声が聞こえた。

「誰だ、貴様。誰に雇われた」

 春木陽香は男に塞がれた口を必死に動かした。

「むぐぐ……。もごひい(苦しい)……」

「目的は何だ。言え」

「むぐもむぐむむもご(口を押さえてたら)……」

「言わないつもりなら、仕方ないな。言わせてやろうじゃないか。多少痛いだろうが、悪く思うなよ。これも仕事なんだ」

 後ろから男の左手が前に持ち上がった。金色の高級腕時計が巻かれたその左手には、ナイフが握られている。春木陽香は焦った。

「むむむむ! むー! むー!」

「ようし、左耳から切り取ってやる」

 口から離れた男の右手は、そのまま素早く顎の下を通って、春木の左耳を掴んだ。

持ち慣れたように指先で軽く握られたナイフの刃が、徐々に近づいてくる。冗談じゃない。ピアスの穴も痛くて開けられなかったのに、切り取りに耐えられるはずがない。と言うよりも、耐えられたとしても、切り取られたら、いかん。

 春木陽香は意を決した。

「えい!」

「あイタっ……」

 春木陽香は手に提げていたトートバッグを一回転させて、中のパソコンの角で男の頭部を一撃した。男がナイフを落として怯んだ隙に、彼女は男の右手を振り払い、部屋の奥へと駆け出す。そして、書類が山のように積み上げられている机の陰に身を屈めると、体を小さく折り畳んで隠れた。

 息を整えた春木陽香は、机の角から少しだけ顔を出して男の様子を覗いてみた。男は頭を押さえて、横の机にもたれている。白いスーツ姿だ。胸のポケットには青い一厘の花を挿している。

 春木陽香は思った。

(結婚式の帰りか……)

 そんなはずは無かった。新郎がケーキカット用のナイフを持ち帰った話など、聞いたことが無い。春木陽香は観察を続けた。

 男は頭を左右に振ると、目頭を押さえながら机から離れた。そして、しっかりと立ってから首を回し、一度深呼吸をした。その男の顔には片方の目の上から頬にかけて走る大きな刀傷がある。髪は、やや長髪。軽くパーマがかかっているようだ。肌の色はあまり健康的ではない。

 春木陽香はまた思った。

(きっと、売れない作家だ。そうであって下さい!)

 売れない作家は高級腕時計をしていない。

(いや、床屋さんだ。日当たりの悪い店舗で働いているけど、もの凄く人気の床屋さんだから儲かっていて、しかも結婚式の帰りで酔ってるから、冗談を……)

 男は上着の中に手を入れると、中から銀色の何かを取り出した。春木陽香は強く瞬きをして、それを見直した。男の手にしっかりと握られていたのは、リボルバー式の拳銃だった。床屋は拳銃を使わない。

 春木陽香は、机の陰に身を引っ込めた。

(け、拳銃屋さんだ。きっと、ピストルを売って回ってるんだ。きっとそうだ)

 そんな職業は無い。

 男は口元に薄っすらと笑みを浮かべて周囲を見回すと、擦れた声で言った。

「やってくれたな。――どこに行った。逃げ場は無いぞ。俺は、やられたら二十倍にして返す主義なんだ。覚悟しておけ」

 春木陽香は涙目になった。

(そんな大事なことは最初に言って下さい!)

 刀傷の男は続けた。

「やられてなくても、十倍返しだがな」

(い、意味が分かりません。神様……)

 春木陽香は机の陰で膝を抱えたまま天を仰いだ。正面の壁の高い位置に貼ってあるカレンダーが視界に入る。六月四日の箇所に丸印が付けてあった。春木陽香は眉間に皺を寄せた。すると、刀傷の男の声が近づいてきた。

「さっきのは許してやる。だから、安心して出て来い」

 春木陽香は机の陰に隠れたまま、震えながら更に小さく身を畳んだ。

 刀傷の男は話しながら近付いてくる。

「心配するな、俺はプロだ。苦しまないように、楽に死なせてやるから」

 春木陽香は膝を抱えたまま、首をプルプルと横に振った。その時、机の上に積まれていた書類が崩れ、彼女の上に落ちてきた。刀傷の男はその方向に銃を構えた。

「そこだな」

 春木陽香は書類と一緒にその場から一気に飛び出した。同時に銃声がなる。春木が隠れていた場所に男の拳銃から放たれた弾丸が突き刺さった。春木陽香は舞い散る書類の中でジャンプしてソファーの向こう側に飛び込む。大きな衝突音が部屋に響いた。

「あ痛たたた……」

 そこには冷蔵庫があった。ドアが凹んだ冷蔵庫の前で頭を押さえてうずくまっている春木の方に男の足音が近づいてくる。一瞬暗くなった視界が回復し始めた春木陽香は、自分の周りに無数の紙が散乱していることに気づいた。それらの紙には手書きで何行もの複雑な数式が書かれていたり、それが何度も書き直されていたり、何か図式のようなものが書かれていたりしている。彼女はその中の一枚を手に取った。すると、その下に若い頃の田爪健三と思われる男の写真が落ちていた。春木陽香がそれも拾おうと手を伸ばすと、その写真の上に白い革靴が載った。ゆっくりと視線を上げてみる。白いスラックス、白いジャケット、青い花、にやけた口元と刀傷がある顔、その前の銀色の銃口。

 撃鉄を下ろす音が聞こえた。春木陽香はしゃがんだまま、上げた両腕の間に挟んだ頭を必死に振って叫んだ。

「見てましぇーん。なーんにも、見てましぇーん!」

 冷たい銃口が彼女の側頭部に当てられた。

「ひいい……」

 その時、入り口のドアの方から大きな声がした。

「おい、お前、そこで何をしている!」

 強い光がこちらを照らした。光源の近くに白い軍服姿が見える。それを見て舌打ちした男は裏口へと走り、ドアを開けてそこから出ていった。

 懐中電灯を照らしたまま駆けつけた制服姿の警察官は、男を追って春木の前を走り抜けると、そのまま裏口から出ていく。その後から、海軍士官のコスプレをした勇一松頼斗が春木の所に駆けてきた。

「大丈夫、ハルハル!」

 春木陽香は勇一松に飛び掛るように抱きついた。

「ライトさあああん、大丈夫じゃないですう。し、死ぬかと思いましたあ。ピストルが、ピストルがここにい……。ふえええん」

 春木陽香は、勇一松に抱きついたまま大声で泣き出した。

「よしよし。もう、大丈夫。もう大丈夫だから」

 勇一松頼斗は嗚咽を繰り返す春木を抱き締めると、彼女の背中を優しく何度も叩いた。



二〇三八年五月二十三日 日曜日

                 1

 新首都圏の東側に並ぶ低い山脈の向こうから、力強く輝く太陽がようやく全身を天に浮かせた。新首都の中心にある昭憲田しょうけんた池の南に位置する丘陵「都南田となた高原」。東西に伸びてそびえ立ち、南の那珂世なかよ湾からの海風を受け止めているこの丘は、東の丘岬の部分が眼下の市街地よりも早く朝陽に照らされる。その丘の上に広がる「葉路原丘ようじばらおか公園」は都民の憩いの場として四六時中賑っている場所である。しかし、毎月二十三日の午前七時と午後四時の前後数十分間だけは、そこに人の姿は無い。司時空庁のタイムマシンが発射される時刻だからだ。街を一望できるこの高台からは、当然、那珂世湾岸にあるタイムマシン発射施設も望むことができるので、秘密保持のために一時的に立入りが規制されるのだ。

 今は正にその時刻が迫っていた。葉路原丘公園の東部ブロックの端に立ち、左手を太陽にかざして日光を遮りながら、山野紀子は下に見えるタイムマシン発射施設を凝視している。隣にいる春木陽香は日の光を避けていない。頭に包帯を巻いている彼女は、左側から強い陽射しを受けながら、目を細め、歯を喰いしばり、発射施設をにらみ付けていた。彼女の拳はスカートの横で強く握られている。

 発射施設の上空から数機のヘリが新市街の北部の高層マンション地域や西部の高層ビル街に向かって飛んでいくのが見えた。その中の一機がこちらに向かって飛んでくる。軍事用の全角度対応機「オムナクト・ヘリ」である。その機体は胴体から四方に伸びた支柱の先で多角対応型の小型回転翼「オムニローター」を回しながら、低い高度を保って近づいてきていた。それを見た山野紀子は溜め息を吐いた。

「ハルハル、行くわよ」

 朝陽に背を向けた山野紀子は、駐車場へと歩き出す。春木陽香は一度強く拳を握り直すと、振り返り、山野の後を追いかけた。

 春木が追い付いてくると、山野紀子は言った。

「で、あんたが田爪瑠香のラボで見たっていう写真に田爪瑠香と一緒に写っていた人間は誰なのか、判明したの?」

「はい。外国人の女性はニーナ・ラングトンという人で、NNC社の社長さんです。もう一人の女性がナオミ・タハラさんという人で、ラングトンさんの秘書。もう一人はNNJ社の社長の西郷京斗さいごうけいとさんでした」

「つまり、NNC社とNNJ社が彼女の研究を支援していたという訳ね」

「たぶん、そうだと思います。金庫に在った通帳にも、NNC社からの毎月の入金が記帳されていましたから」

「あんたを襲ったのは司時空庁の人間?」

「分かりません。あのビルには防犯カメラが付いていませんでしたから、手掛かりは『片方の目の上に刀傷がある男』ということしか……。今、警察の方でも捜査中だそうです」

「捜査中なのに、マンションもラボも火事になるわけ? おかげで証拠品は全て灰。どうなってるのよ!」

 山野紀子は怒りを抑えきれないようで、荒々しく言い捨てて歩いていく。春木陽香は山野のAI自動車の助手席側の横で立ち止まると、山野に言った。

「でも、『ドクターT』は瑠香さんかもしれません。私が見た紙片には、たくさんの計算式が書いてありました。黒板にも。実験動画の背景も、あのラボの中と似ていましたし」

 運転席側のドアの横に立った山野紀子は、車の屋根越しに春木に言った。

「だから司時空庁の連中がパソコンを回収して、部屋を荒らし、警察の捜査中にも関わらず、火を点けたってわけ?」

「断言は出来ませんけど……」

 回転翼が風を切る音に混じって、上空から拡声器の音が響いた。

『そこの区域は、あと三十分、立入り禁止です。直ちに退去しなさい』

 上を向いた山野紀子は上空に小さく見えるオムナクト・ヘリをにらみ付けると、吠えた。

「分かってるわよ! うるさいわね。どうしても見せないつもりね」

 二人は車に乗り込んだ。

 山野紀子が電気エンジンのスタートボタンを押して、運転パネルの表示を確認し、ギアを入れ替えようと左手をシフトレバーに掛けた時、車の周囲に土埃が舞い、車窓の外の景色をぼかした。急速降下してきたオムナクト・ヘリから大きな声が響く。

『そこの乗用車、直ちにそこから立ち去りなさい。従わない場合は……』

 舞い上がる土煙の中で、山野紀子は運転席の横の窓を開け、そこから右手を出すと、空に向かって中指を立てて見せた。

 真上から強い風が吹きつける中、二人を乗せたAIスポーツ・セダンは走り出した。オムナクト・ヘリがゆっくりと上昇し、高度を戻していく。

 山野の車は市街地へと下りる長い九十九折つづらおりの坂道を暫らく走った。運転している間、山野紀子はずっと黙っていた。助手席に座っている春木陽香は運転席の山野の顔を横目でチラチラと見ながら考えた。

 この人は怒っている。当初、この事件の重大さを指摘したのは編集長だった。彼女のその認識は今も変わってはいない。だから、日曜日の早朝であるにもかかわらず、こうして私を誘い、葉路原丘公園まで車を走らせ、発射施設を望みに来たのだろう。編集長は決して忘れてはいない。司時空庁がタイムマシンの発射を中止したことを確認するまで、編集長は何度でもここに足を運ぶだろう。そして、中止されていないと確認する度に、今日のように怒るのだろう。だから、取材と記事の掲載を続けるはずだ。週刊新日風潮の売上げ部数を増やそうとしているのも、単に成績向上を目指しているからではない。きっと、それにより、本題のこの事実を広く世間に知ってもらって世論によって政府を動かそうとしているのだ。この人は本気でタイムマシン事業を止めようとしている。

 春木陽香は、この一週間の自分の不機嫌な態度を反省した。

 雑木林の中で折れ曲がる細く長い坂道を、山野紀子のAIスポーツ・セダンは静かに下っていった。


                 2

 車が坂を下りきって平坦な道路に出た頃、山野が煩わしそうに瞬きして、ハンドルから左手を離した。彼女はブラウスの胸元にその手を運ぶと、そこに挟んでいたイヴフォンを外しながら言った。

「もう、運転中だっつうの。前が見えないじゃない」

 イヴフォンをスカートの上に転がして再びハンドルを握った山野紀子は、助手席の春木の方に顎を振った。

「別府君から。たぶん、そっちにもかかってくるんじゃないかな。――ほら」

 バッグの中の春木のウェアフォンが呼び出し音を鳴らした。妖怪アニメのテーマ曲である。山野紀子は眉間に皺を寄せて春木を一瞥した。

 恥ずかしそうな顔をしながらバッグからウェアフォンを取り出した春木陽香は、その表面に浮かんだホログラフィー通話のボタン画像に触れた。春木の手に握られた赤いウェアフォンの上に半透明の小さな別府博の上半身が投影される。スウェット姿の彼はすぐに話し出した。

『――ああ、ハルハル。編集長は居る?』

「はい。今、車で……」

「ここよ、隣。今、運転中」

 山野紀子は春木の発言の途中に大きな声で割り込んだ。

 春木陽香はウェアフォンの向きを変えて、その下の方に付いているホログラフィー通信用の「立体カメラ」のレンズを山野に向けた。

 別府博が改めて深刻な顔をして言う。

『たた、大変です。編集長。大変でーす!』

「どうしたのよ。朝からうるさいわね。ていうか、わざとらしいし」

『分かっちゃいました。田爪博士と高橋博士の生体チップの個人識別コード。分かっちゃいました』

 山野紀子は急ブレーキを踏んだ。高いブレーキ音が雑木林の中に響き渡る。春木陽香はダッシュボードに片手をついて前のめりになった。

 山野紀子は体を捻り、助手席の方を向く。春木の手の上の別府をにらむような視線で、彼に尋ねた。

「どういうことよ」

 ホログラフィーの別府博は濃い顔を前に突き出して訴えた。

『どういうことも、こういうこともないですよ。とにかく、分かったんです。――ああ、パパはお話中だからね、向うに行ってようね。はい』

 一瞬画像が乱れ、赤子の声と雑音が交互に届いた。再びホログラフィーが整い、小さな別府が姿を現した。

 山野紀子は前髪をかき上げながら苛立った顔で言う。

「さっさと言いなさいよ」

『だから、分かったんですよ。田爪博士と高橋博士の……』

「生体チップのコードでしょ。本当なの?」

『本当ですよ。ていうか、アクセス用のパスワード自体が。――ええと、まずですね、防災省の個人情報センターにアクセスしようと頑張ってたんです。そしたら、そこから……』

 山野紀子は右腕をハンドルに載せたまま、目を細めて疑うような表情を別府に向けた。

「アクセスしようって、隊員の個人情報を蓄積したデータベースに? そこは防災省職員の中でも上級クラスの人間しかアクセスできないはずじゃない。パスワードが必要でしょ。それが分かったの? どうやって手に入れたのよ」

 春木の手の上の小さな別府博は、広げた手を精一杯に大きく振って山野に説明した。

『だから、思い当たる限りを適当に打ち込んでいったんですよ。寝ても覚めても。朝は自宅で、日中はネットカフェとかで、コーヒーを何杯もお替りしながら。夜帰ってからも自宅で深夜まで。何晩、徹夜したことか……』

 この一週間、別府の姿を見なかったことに納得した春木陽香は、手の上の別府に横からボソリと言った。

「お、お疲れ様です……」

 山野紀子は春木の手に握られているウェアフォンに左手を載せてマイクとカメラを覆うと、小声で春木に言った。

「筋金入りの馬鹿ね。パスワードは天文学的数字の組み合わせがあるから、パスワードとして成立してるんじゃない。一生それを続けるつもりかしら」

 ウェアフォンの上から手を離した山野紀子は、その手をシフトレバーにかけた。前を向いてギアを入替えながら、山野紀子は別府に言った。

「あんたね、外で取材しているのかと思ったら、そんなことをやっていたわけ?」

 車が走り出す。

 ホログラフィーの別府博は、また口を尖らせた。今度は少し肩も落としている。

『そんな言い方しなくてもいいじゃないですか。せっかくデータベースにアクセスできるパスワードを見つけたんですから』

 前を見て運転しながら、山野紀子は言った。

「本当にい? どっかの偽サイトじゃないでしょうね」

 濃い顔を上げた別府博は、くっきりとした眉の下で目をぱっちりと見開いて、はっきりと言った。

『違いますよ。ちゃんと、防災省の田爪健三のデータベースと高橋諒一のデータベースにアクセスできるんですって。僕の自宅のパソコンから実際にアクセスしたんですから』

 高いブレーキ音を鳴らして再び車が急停止した。

 ハンドルを握ったまま、ホログラフィーに向かって山野紀子は言う。

「はあ?」

 山野紀子と春木陽香は一度視線を合わせた。

 山野紀子は再び体を横に向けて、ホログラフィーの別府に言った。

「うっそだあ。そんな馬鹿なあ」

『ああ、信じていませんね』

「今の私の発言に、他にどんな受け取り方があるのよ」

『じゃあ、そのパスワードを編集長のパソコンに送りますから、それで試してみてくださいよ。ちゃんと繋がりますから。偽サイトじゃないですよ。本物の、正真正銘の、防災省のデータベースですからね。いいですね』

 山野紀子は、少しムッとした様子の別府の立体画像に向けて手を振りながら、言った。

「分かった、分かった。信じるから。でも、どうしてパスワードが分かったのよ」

『だから、偶然ですって。昨夜、夜中までやりながら、机の上で寝ちゃったんですよ。そしたら、朝、目が覚めたら、繋がっていました。防災省のデータベースに』

 春木陽香が目を丸くして口を挿んだ。

「え。じゃあ、隊員個人の情報サイトじゃなくて、防災省のデータベースそのものにアクセス出来たってことですか。別府先輩の自宅から」

 ホログラフィーの別府博は、明後日の方を向いて春木に答える。

『そうなんだよ。不思議なことに、ちゃんと繋がるんだ。本当だよ』

 ホログラフィー通信による「立体通話」は一対一の通話しかできないので、別府にはウェアフォンのマイクが拾った春木の音声だけしか届いていない。車の中の位置関係から春木の位置を察したのか、別府のホログラフィー動画は正面にあるはずの自分のウェアフォンのカメラの位置を確認する仕草を挿みながら、後ろを向いた。彼は腕組みをして言う。

「まあ、何ていうのかな、潜在意識が覚醒したってやつ? 俺の眠れる才能が眠っているうちに勝手に働いちゃったのかもしれないね。まいったな、こりゃ』

 ホログラフィーの別府博は春木の手の上で照れくさそうに頭を掻いている。

 山野紀子は首を傾げながら言った。

「覚醒してないじゃない。寝ぼけて打ったら当たったってだけでしょ。まったく」

 春木陽香は少し早口で別府に言った。

「でも、それなら今のうちに、その二人のコードを書き出しといてもらえませんか。コピーして保存しておくか。私か編集長のパソコンに送ってもらってもいいです」

 前を向きなおした別府のホログラフィーは、山野の方を見たまま、キョトンとした顔で言う。

『どして。ハルハルは自宅で見ないの? 今日、日曜だし』

 山野紀子が説明した。

「急がないと、部外者が外部から無断でアクセスしたことがバレて、防災省側が全てのアクセス・パスワードの二次コードを変換しちゃうのよ。そしたら、せっかくのミラクル・ラッキー・ショットも、全てパーでしょ。いいから早くコピーして、さっさとこっちに送りなさい! いいわね!」

 苛立った山野紀子は、つい厳しい口調になっていた。

『あ、はい……分かりました。――はー……』

 溜め息を吐いた別府のホログラフィーは、肩を落として項垂れる。

 春木陽香が山野の顔を見て促した。

「編集長……」

「ん? ――あ、そうか」

 山野紀子は笑顔を作って言った。

「別府君。よくやったわ。ありがと。すごい、すごい」

 顔を上げた別府のホログラフィーは、胸を張って言った。

『あ、いやあ。気にしないで下さい。これくらいのことでしたら、いつでも……』

 山野紀子は春木の手の上のウェアフォンに触れて立体通信を切った。そして、再びシフトレバーを操作しながら呟く。

「まったく……本当に理系なのかしら、あれでも」

 車が再び走り出した。

 ウェアフォンをバッグに仕舞った春木陽香は、運転している山野の方を見て言った。

「とにかく、これで永山先輩にもデータを送れますね」

「そうね。ま、一つ難問をクリアってところね。まぐれだけど」

 春木陽香は、少し間を空けてから山野に言う。

「――それと、私、いくつか気になっていることが……」

 考えをまとめている春木を横目で見ていた山野紀子は、口角を上げると、活気に満ちた張りのある声で春木に言った。

「じゃあ、まずは会社に行きましょ。南米の哲ちゃんにもデータを送らないといけないしね。よーし、勝手に休日出勤して、時間外手当を会社からタップリせしめるわよ」

「はあ……」

 燦燦と射す朝日の中、二人を乗せた車は少し速度を上げて、南北幹線道路へと通じる広いスロープを上っていった。



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