第5話

二〇三八年五月七日 金曜日

      

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「ハックション」

 春木陽香は自宅のベッドで布団に包まっていた。

 ダイニング・キッチンを兼ねた名目だけの狭いリビングに夕日が差し込んでいる。その隣の寝室に置かれた安物のベッドの上で、春木陽香は布団の中に頭の先までを入れて丸まっていた。

 もうすぐ夏が始まろうとしているのに、昨夜は寒かった。帰宅してから、ずっと。気温が低かった訳ではない。それなのに、あまりに寒いので、彼女は厚手の生地のパジャマを取り出して、着ているパジャマの上から重ね着して寝た。それでもまだ寒かったので、さらに押入れから冬用の綿入り布団を取り出し、保温シート入りの二重毛布の上に重ね、床についた。

 汗をかいた。

 夜中に目が覚めて、着替えようと布団から出た。目の前の景色がグルグルと回転していた。頭がボーっとする。喉も痛い。依然として寒気も続いている。

 熱を測ってみた。高い。とりあえず着ている物を全て着替え、水分を摂って布団に戻った。そして、朦朧とする意識の中で彼女は考えた。

――明日は休もう。無理だ。一人暮らしは、こういう時が辛い。いや、待て。今は休んでいる時ではない。原因は分かっている。とにかく、一晩寝れば何とかなる。自然治癒、これに賭けてみるか……。

 布団の中で、ほぼ気絶状態のまま一夜を明かした。

 朝、春木陽香は汗を吸った寝巻きを着替えて、顔を洗い、歯を磨き、髪を整えた。フラフラしながら、少しだけパンを食べた。

 三分後、吐いた。

 やがて、咳も出始めた。

――こりゃ、いかん……

 会社に病欠の連絡を入れた。――と、春木陽香は記憶している。それが夢だったのか、幻覚だったのか、今の彼女には分からない。

 その後、彼女は只ひたすら布団に包まり、悪寒と咳と闘った。ウイルスとの真剣勝負である。頑張れ、ハルハル。

 結果は、完敗だった。

 昼、春木陽香は何とかベッドから起き上がり、その前のカーペットに膝を付いた。そのまま、這うようにしてリビングに移動し、冷蔵庫の前まで来ると、取っ手にしがみ付いて扉を開けた。中から紙パックを取り出し、シンクの上のコップに注いで、そのバナナ牛乳を飲んだ。体中から水分がとんでいる。水分を摂らねばならない。しかし、飲む度に喉が痛い。鼻を抜けるはずのバナナの甘い香りも詰まった鼻水のせいで感じられない。これでは只の牛乳である。彼女がバナナ牛乳の箱を仕舞おうとした時、冷蔵庫の中のヨーグルトが目に入った。これなら喉を通りそうである。食べてみた。きっとビフィズス菌が風邪のウイルスを撃退して……。

 三分後、吐いた。

 トイレからリビングに戻り、熱を測ってみた。高過ぎる。体重計の体脂肪率も、さすがにこの数字は表示しない。ここが朝鮮半島なら再び戦争になっているし、どちらかというと、体重そのものに近い数値である。彼女は覚悟し、心中で叫んだ。

――我が生涯に一片の悔い無し!

 夕方、春木陽香は布団の中で生まれたての小鹿のように震えていた。関節が痛い。寒い。喉もイガイガする。鼻水は滝のようだ。頭の上まで布団を引き寄せながら、彼女はうめくように呟いた。

「うう。寒っ。ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ。ここで死んでなるか。本当は悔いだらけの人生で……ゴホッ、ゴホッ」

 その時、インターホンのチャイムが鳴り、誰かが玄関のドアをノックした。春木陽香は布団からゴソゴソと這い出し、ベッドから転がり落ちた。何とか立ち上がると、フラフラと歩きながら、リビングの壁に取り付けられているインターホン・パネルの所まで向かった。実家に近い所に借りた1LDKの女性専用マンションは、セキュリティーは万全だった。各戸の玄関ドアは最新式の生体データ認証式のオートロックになっているし、防犯カメラも付いている。普段なら、カメラが捉えた来客の立体画像を表示させて確認してから応答するのだが、今日の彼女にはそんな余裕は無かった。春木陽香はインターホンマイクに向かって擦れた覇気のない声で面倒くさそうに答えた。

「はーい、どちら様……ゴホッ、ゴホッ」

 高熱で朦朧としていた彼女は、応答ボタンを押したつもりでロック解除のボタンを押していた。玄関のドアのロックが解除され、廊下の向こうの玄関ドアが開いた。

「あら? 開いた。――ハルハルう。居るの。大丈夫?」

 山野紀子の声だった。

 壁に手を掛けて体を預けながら、春木陽香は精一杯に声を出した。

「ああ……編集……ゴホッ、ゴホッ……今、開けます。ゴホッ、ゴホッ……」

 彼女はリビングのドアを開けて玄関に向かおうとしたが、ドアノブを動かす手に力が入らなかった。玄関の方から山野の声が届く。

「ハルハル? 生きてるの? 開いてるけど、上がるわよ。お邪魔しまーす」

 足音がしてリビングのドアが開いた。食材の詰まった大きなレジ袋を左右に提げて入ってきた山野紀子は、床にうつ伏せて咳込んでいる春木の姿を見て、慌ててレジ袋を床に置くと、春木を抱きかかえた。

「あらあら、ちょっと……」

「編集長……ゴホッ、ゴホッ、何かありましたか、ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ」

「なに言ってるのよ。どうしたの。あーあ、顔も土色して」

「ただの風邪です。たぶん、少し寝てれば、ゴホッ、ゴホ、大丈夫だと思い……ゴホッ、ゴホッ……」

「全然、大丈夫じゃないわね。どれ」

 山野紀子は春木の額に手を当てた。

「あらあ、凄い熱ね。いいから、ほら、寝てなさい」

「すみません……」

 山野に肩を借りて寝室のベッドまで移動した春木陽香は、再び布団の中に戻った。

 山野紀子は彼女に布団を掛けながら言った。

「別府君からハルハルがダウンしたって聞いたんだけど、只の風邪だって言うから、最初は安心してたのよ。でも、あんた一人暮らしでしょ。ちょっと気になってね」

「すみません。昨日、汗かいたまま、クーラーの効いた部屋に寝かされてましたから、ゴホッ、ゴホッ……体が冷えちゃったみたいで……ゴホッ、ゴホッ」

 リビングに移動した山野紀子は、提げて来たレジ袋を小さなテーブルの上に置くと、中から野菜や果物を取り出し始めた。

「光絵会長の家? ――ホントに、もう。世話がやける子ねえ」

「すみません。でも、今日は発売日じゃ……ゴホッ、ゴホッ……」

「大丈夫よ。今週のは連休明けの特別号だから、連休前にはほとんど仕上がってたでしょ。販売の方でも昨日のうちに書店には卸し終わったみたいだし、問題なーし」

 そう言って両手を広げた山野紀子は、壁際のキッチンのシンクに目を遣った。シンクの上もきちんと片付けられたままである。流しの中にコップが一つ置かれているだけで、皿も茶碗も箸も置かれていない。山野紀子は振り向いて、ベッドの中の春木に尋ねた。

「それより、朝とお昼、ちゃんと食べたの?」

「いえ……あまり食欲が無くて……」

「駄目でしょ。ちゃんと食べて体力つけなきゃ。そんなことだろうと思って、夕食を作りに来たのよ」

「編集長……」

 布団に包まって顔だけを出していた春木陽香は、少し意外だと言わんばかりの表情をしていた。

 山野紀子はレジ袋から取り出した小箱を春木に見せながら言った。

「まあ、こんなことだろうと思ってね、一応、市販の風邪薬も買ってきたから。あと、風邪にはアレだと思って、買いに行かせたんだけど……」

 山野紀子は玄関の方に顔を向けた。すると、再びインターホンのチャイムが鳴った。布団から出ようと身を起こした春木を制止しながら、山野紀子はインターホン・パネルの所まで移動した。

「ああ、大丈夫。うちの觔斗雲きんとうんだから」

「きんとうん? ……ゴホッ、ゴホッ……」

 山野紀子はインターホン・パネルの操作ボタンを一つ一つ確認して、その中の玄関ドア開錠ボタンを押してから答えた。

「そ。お使い用の觔斗雲」

 玄関のドアが開く音がした。バタバタと大きな足音がして、リビングのドアが開いた。三つ編みのお下げ髪を左右に垂らした小柄な少女が、紙袋を高く掲げて入ってきた。

「ママあ、あったよ。ショウガ、ショウガ。大きいやつ。しかも、天然モノだって」

 山野紀子は娘を一喝した。

「遅い、朝美! それに、他人ひと様の家に上がる時は、『お邪魔します』でしょ」

 少女は舌を出して首をすくめた。紀子の娘、山野朝美は黄色いブレザーを着ていた。彼女は新志楼しんしろう中学の三年生である。今日はその制服姿だった。山野朝美は中三らしく丁寧に答えた。

「はい。ごめんなさい。オバちゃん、お邪魔しますしてます。――痛っ」

 朝美に拳骨をした山野紀子は言った。

「オバちゃんじゃない。お姉ちゃんでしょ」

「あの……ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ……」

 咳が邪魔をして上手く発言できない春木を見て、朝美は言った。

「ありゃあ。こりゃ、完全に風邪ですな。お姉ちゃんもヤワですなあ。でも、ママの特性ショウガ汁を飲めば、一発で治るから。大丈夫、大丈夫。はい、ママ、ショウガ」

 山野紀子は紙袋を受け取りながら朝美に言った。

「あんたね、近くの八百屋でいいって言ったじゃない。どこまで買いに行ったのよ」

「向こうの『スーパー江戸』って店。『てやんでえ、べらんめえ、安売りでえ! 買っていきやがれ、こんちくしょうめいっ』……で、買ってきた」

 山野紀子は紙袋の中を覗きながら朝美に言った。

「また、あっちこっち余所見よそみばかりしてた……これ、自然薯じねんじょでしょ。ママが買って来いって言ったのは、生姜。しょ、う、が」

 山野紀子は紙袋から取り出した長い根菜を振りながら、朝美にそう言った。

 山野朝美は、必死に言い訳する。

「あ、いや、これは……別名、ショウガとも……痛っ」

 山野紀子は、その自然薯で朝美の頭を叩いた。

「言いません。ネバネバしたジンジャーエールを飲んだことある?」

「うーん、――ない」

 頭に載った粉を掃いながらそう答えた朝美に、山野紀子は教えた。

「自然薯の別名は山長芋。栽培されたものじゃなくて、自然に生えている長芋のことよ。これは、芋。覚えときなさい」

「でも、形がなんとなく似て……痛っ」

 また朝美を叩いた自然薯を彼女の顔の前に傾けながら、山野紀子は言った。

「似てません。大きさも全然違う。ま、これはこれで、精が付くからいいけど」

 ベッドの上から二人を見ていた春木陽香が声を発した。

「あの……ゴホッ、ゴホッ」

 山野紀子は、ハッとした様に春木に答えた。

「ああ、今日はこの子も学校が早く終わったみたいだから、連れてきたのよ。気にしないでいいから。あんたは寝てなさい」

 春木に向かって大きく手を振って見せた母親の横で、山野朝美も同じように春木に手を振りながら言った。

「気にしないでいいから。寝てな……痛っ。ちょっと、ママ。さっきから、痛いって。ポカポカ、ポカポカと……」

 山野紀子は台所に向かいながら、背後の娘に指示を出した。

「いいから、早く手伝いなさい。洗濯くらい出来るでしょ。お姉ちゃんは汗かいて、ほら、洗濯物の山だから、洗濯機を回して、干すくらいしなさい」

「ほーい」

 山野朝美はリビングのドアを開けると、洗濯機が置かれている脱衣所へと向かった。それを見て、春木陽香は布団を剥ぐって起きようとした。

「すみません……娘さんまで……ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ」

 シンクの上に自然薯を置いた山野紀子は、レジ袋の中から取り出したペットボトルと小瓶を持って、ベッドまで駆け寄ってきた。

「ああ、もう、起きなくていいから。ほら、スポーツ・ドリンクと栄養剤を買ってきたから、好きな方を飲んで、少し寝てなさい。その間に何か作っとくから」

「――でも、娘さんに私の風邪がうつると……ゴホッ、ゴホッ、……」

「だーいじょうぶ。ウチの子には絶対にうつらないわ」

 自信満々の顔で答えた山野紀子の後から、ガラガラ声が響いてきた。脱衣所の洗濯機の前の朝美だった。

「ママあ。『せんたくこな』と『ほこさめざい』って、一緒に入れるんだっけ」

 山野紀子は春木にウインクして言った。

「ね。ウルトラ級の馬鹿だから、どんな風邪ウイルスも寄せ付けない。『馬鹿は風邪ひかない』って言うでしょ。母親の私が言うんだから、間違いないわよ」

 山野紀子は半開きのままのリビングのドアを開けて、脱衣所に向かった。脱衣所から紀子の声が聞こえてくる。

「あのね。これは『洗濯糊せんたくのり』って読むの。のーり。こっちは『柔軟剤じゅうなんざい』! 洗濯機にほこさめを入れて回したら、洗濯物がボロボロになるじゃないの。これはフワフワにするやつ。だいたい、この二つを同時に入れてどうするのよ。固めて、柔らかくして、差し引きゼロか。この普通の洗剤の方でいいの。痛みそうなモノだけ、ネット袋に入れて、一緒に中に入れたら、このボタンを押す。分かった?」

「はーい」

 呆れ顔でリビングまで戻ってきた山野紀子が、台所に向かいながら呟いた。

「まったく……連れてきたのは間違いだったかしら……」

 すると再び脱衣所からガラガラ声が響いてきた。

「ママあ。この虹色パンツは、ネットに入れた方がいいのかなあ」

「だああー! ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ」

 春木陽香は慌ててベッドから這い出した。山野紀子は春木を制止すると、再び速足で脱衣所に向かった。朝美の元気のいい声が聞こえてくる。

「こういうのって、やっぱり、大事なパンツ……うぐっ――痛いってば、もう!」

「下着はとにかく、ネットに入れて洗いなさい。いちいち詮索しない。コラッ」

 右手を振りながら、山野紀子がリビングに戻ってきた。

「――さってと……あら、どうした、ハルハル。トイレ?」

 春木陽香はベッドの横のカーペットの上でひっくり返っていた。

「いえ……ゴホッ、ゴホッ……洗濯は自分で……」

「いいから、いいから。寝てなさいって」

 春木陽香は山野に肩を支えられて、半ば強引にベッドに戻された。

 春木に再び布団を掛けた山野紀子は、台所に戻りながら言った。

「でも、今日が金曜日で良かったわよ。発売日は午前中に流通のチェックと読者モニターからのレスポンスを待つだけだし、土日は一応、休みってことになってるしね。二、三日分を作っといてあげるから、明日と明後日で、しっかり回復しなさいよ」

「すみません……本当に……ゴホッ、ゴホッ」

「咳がひどいわねえ。今日はしっかり食べて、今夜様子を見たら、明日は病院に行きなさいよ。水枡みずます病院はすぐそこじゃない。何なら、迎えに来てあげようか」

「いえ、大丈夫です。自分で行きます。ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ」

「そう……」

 山野紀子は、リビングからベッドの上の春木の様子を心配そうに見つめていた。ベッドの足下に置かれた小さな机には、タイムマシン関係の書籍や、何枚かのMBCが重ねられていた。取材ノートらしきものも横に置かれている。山野紀子は春木が帰宅後も仕事に取り組んでいることを知り、溜め息を吐く。シンクの方に体を向けた彼女は、その上に食材を並べ、樹脂製のまな板を洗い始めた。

「まあ、とにかく作るから、横になって待ってなさい」

 彼女がそう言って調理に取り掛かると、脱衣所から再び朝美の声が届いた。

「ママあ。勝負用のブラらしきものは、別にしといてあげた方がいいよねえ」

「ぬおおお……」

 春木陽香は渾身の力で身を起こし、ベッドから這い出した。

「ゴホッ、ゴホッ、やっぱり洗濯だけは自分で……」

 包丁を置いた山野紀子は、春木にベッドに戻るよう手を振りながら脱衣所に向かう。

 リビングのドアの向こうから朝美の声が聞こえた。彼女はまだ何か言っている。

「ママ、大人がみんなティーバックを穿いてるんじゃないんだね。ブカブカパンツを穿いてるのはママだけかと……あ痛っ、舌咬んだ。かあ……今のは効いた」

「これと、これを入れたら、ここを押すだけでしょうが。この、バカタレが。ほら、来なさい」

 洗濯機の洗濯開始を告げるメロディーが聞こえてきた。足音が聞こえ、リビングのドアが開くと、山野が姿を現し、その後から片方のお下げを山野に引っ張られて、朝美が姿を現した。

 山野紀子は朝美をキッチンまで連れていくと、シンクを指差しながら言った。

「はい。ここで手を洗って、その後で、この自然薯を洗う。終わったら、半分に切って、このピーラーで皮を剥く。後は……」

「ゴホッ、ゴホッ、二番目の引き出しです……ゴホッ、ゴホッ……」

 布団の中からの春木の指示通り山野が引き出しを引くと、綺麗に整理されて調理道具が仕舞われていた。どれも真新しく使いこなされてはいない。山野紀子はその中からすり下ろし器を探した。

「ああ、あった」

 プラスチック製のすり下ろし器を朝美に手渡しながら山野は言った。

「はい、このすり下ろし器でその自然薯をすり下ろす。分かったわね」

「イエッサー。了解です」

 敬礼をした山野朝美は、シンクの水道で手を洗うと、そのまま自然薯を洗い始めた。その後、皮剥き器を使って何とか芋の皮を剥き終えた朝美は、粘ついた自分の手を見ながら言った。

「うわあ、ヌルヌルする。ええと……あとは、これで、ゴシゴシ、ゴシゴシと……」

 山野の横に立ったまま、お下げの少女はボールの上に乗せたすり下ろし器の上で自然薯を前後させた。

 暫らく芋をすっていた朝美は、やがて飽きてきて、ベッドの上の春木に言った。

「いやあ、しかし、お姉ちゃんも大変だねえ。彼氏がいないと、こういう時に誰も……ウプッ……入った……い、息が……」

「いいから、黙ってすりなさい」

 山野から鳩尾みぞおちに膝蹴りを食らった朝美は、暫らく悶絶していたが、やがて呼吸を整えると、再び自然薯をすり続けた。彼女がそれをすり終わった頃、脱衣所の洗濯機が洗濯の終了を人工音声で告げた。

「お、脱水も半乾燥も終了じゃな。こっちのゴシゴシも終わったぞ。ママ、ここに置いとくね。私、洗濯物を干しに……」

 脱衣所に駆け出そうする朝美のお下げを掴んで、山野は言った。

「ちょい待ち。その手を洗ってからにしなさい。ネバネバしてるでしょ」

「あ、そっか」

 手を洗った山野朝美は、何か嬉しそうに駆け出すと、リビングのドアを開けて脱衣所に向かった。再び戻ってきて、ドアの隙間から顔を覗かせ、春木に言う。

「じゃ、干しとくね。お姉ちゃん、浴室乾燥でいいんだよね」

「ゴホッ、ゴホッ。――うん、ごめんね……ゴホッ、ゴホッ」

「ああ、寝てなって。大丈夫、大丈夫。気にしなくても、私も今日初めて、他人の洗濯物を干すんだから。ビキニ・ルックってやつよ。任せて。くくく」

 奇妙な笑いと共に親指を立てて見せた後、朝美は浴室に駆けていった。

「――ビキニ……?」

 布団の中で首を傾げている春木に、キッチンの方から山野紀子が言った。

「たぶん、『ビギナーズ・ラック』って言いたかったのよ」

「ああ……いや、そういう問題じゃ……ゴホッ、ゴホッ……」

 春木陽香は必死に布団から這い出そうとしたが、体が思うように動かない。脱衣所からは朝美の掛け声が聞こえてくる。

「とりゃあ! せやっ! とう!」

 キッチンで調理をしながら、山野紀子は脱衣所の朝美に聞こえるよう、大きな声で言った。

「コルァ、朝美! 洗濯物を干すのに掛け声はいらん! 黙って干しなさい!」

 すると、また朝美の声が聞こえてきた。

「ゲッ、うわっ、やべっ……」

 不自然に静かになったので、山野紀子は調理の手を止めて、脱衣所の朝美に叫んだ。

「どうしたあ」

「――大丈夫、何でもなーい。セーフ、セーフ」

「何がセーフなのよ、あの子は……。洗濯物を干すのに、セーフもアウトもあるか」

 手をタオルで拭きながら、山野紀子は脱衣所に向かった。また、山野が朝美を叱る声が聞こえてきた。

「どうして、これを、こっちに干すのよ。伸びちゃうでしょ。これも逆さま……ああ、もう。これと、これは、こっち。このピンクのと、この黒のは……あら、随分エグイの着けてるのね。――ま、とにかく、これとこれは、こうやって、ここに干すの。いいわね」

「はーい」

 足音がして山野紀子が戻ってきた。

 寝室から這い出してきた春木陽香は、ドアノブに手を伸ばしたまま、うつ伏せて固まっている。

 山野紀子は少し呆れたような顔で春木に言った。

「気にしなくていいから。ゆっくり寝てなさいって」

「はあ……ゴホッ、ゴホッ……そうしたいです……」

 そこへ、満足気な顔をして手を叩きながら、山野朝美が戻ってきた。

「終わった、終わった。――いやあ、それにしても、お姉ちゃんは真面目だねえ。ママと違って、インチキ下着は一枚も無いもんね。ママのブラは……ムゴゴッ」

 慌てて朝美の口を押さえた山野紀子は、作り笑顔をしながら春木に言った。

「大丈夫よ、ハルハル、何でもないから。ほら、早くベッドに戻って寝てなさい。はははは……」

 リビングの床にうつ伏せたままの春木陽香は、脱力して呟いた。

「ね、寝ときたいんですけど……ゴホッ、ゴホッ。――ていうか、寝かせて下さい……」

 山野親子は顔を見合わせて、首を傾げていた。



                 2

 黄色いラグマットの上に置かれた低いテーブルの上には、沢山の料理が並んでいた。

 パジャマの上からジャージの上着を羽織った春木陽香は、お粥がよそわれた茶碗と箸を手に持ったまま、向かいに座っている山野に礼を言った。

「ありがとうございます。こんなに色々と」

「ううん。胃に優しい物と思って、こんな物ばかりになっちゃったけどね。味、どう?」

「美味しいです。すごく」

「ママの手料理は最高だからね。ていうか、なんで私たちまで食べてるんだろ。モグ、モグ、モグ」

 茶碗を片手に遠慮なく料理に箸を伸ばす朝美に、山野紀子は呆れ顔で言った。

「あんたが食べたそうな顔してたからでしょ。――ごめんね、ハルハル」

「いいえ。みんなで食べた方が美味しいですから。私も箸が進みますし」

 朝美は春木の顔を覗きこんで言った。

「なんか、お姉ちゃん、少し元気になったね。咳も止まったみたいだし」

 山野紀子は春木のマグカップに白湯を注しながら言った。

「薬が効いてるのよ」

 春木陽香は、少しだけ口に入れたお粥を飲み込むと、小声で呟く。

「――といいますか、元気にならざるを得なかったといいますか……」

 朝美は得意気な顔で咀嚼しながら言った。

「変態療法ってやつだね。モグ、モグ、モグ」

 白湯の入ったマグカップを春木に渡しながら、紀子が言った。

「変調療法でしょ」

 マグカップを受け取りながら、春木が尋ねた。

「変調療法? 何ですか、それ」

「人体に刺激になるものを外から注射して、体の自己回復力を高めて病気を治すことよ。どうせ、理科の時間か何かで、聞きかじったんでしょ」

 朝美が箸を持った手で前髪をかき上げながら言った。

「ま、私の若さと魅力が刺激になって、お姉ちゃんの治癒力が上がったのは確かね。ああ、若いって、罪だわ……」

「馬鹿言ってないで、食べ終わったら、さっさと乾いた洗濯物を取り入れなさい。たたむのだけは得意でしょ」

「はーい。ご馳走さまー。じゃ、たたんでくるね」

 立ち上がって茶碗をシンクへと運んでいった朝美は、そのまま脱衣所へと走っていく。それを目で追いながら、春木陽香は申し訳無さそうに朝美に言った。

「ごめんね」

 山野紀子が春木に手を振りながら言う。

「いいの、いいの。洗濯物をたたむ事だけは、唯一、あの子がちゃんと出来る事だから」

 春木陽香は小声で山野に言った。

「いい御子さんですね」

「どこが。毎日大変よ。ありゃ、きっとしんちゃんに似たのね。必要以上に頑張るもんね」

 思わず本音を言ってしまった山野紀子は、慌てて話題を変えた。

「あ、そうだ、鳥の肝を煮付けといた。冷蔵庫に入れてあるから、明日、温めて食べなさい。あと、かぼちゃのスープも作ってあるから、冷えたままでもいいけど、こういう時は温めてから食べるのよ。サラダは明日の分まで作っといたから、それ、全部食べていいからね。ああ、そうだ。リンゴもすっておいたから、後で食べて。リンゴは医者要らずって言うでしょ」

 春木陽香は軽く頭を下げる。

「何から何まで、ホントに、すみません」

「あんた、ちょっと飛ばし過ぎてたからね。みんな心配してたのよ」

「――はあ。――でも、頑張らないと……」

 山野紀子は春木の顔を覗きこんで尋ねた。

「南米に行ってる哲ちゃんが体張ってるから?」

 春木陽香は手をパタパタと振って答える。

「あ、いえ、そういう訳じゃ……」

 山野紀子は目を細くして言った。

「あんた、ほんとに知らなかったの? 哲ちゃんが結婚していること」

 春木陽香は黙って頷いた。

 山野紀子は笑いながら言った。

「馬鹿ねえ。あ、それで、熱出ちゃったんだ」

「違いますよ」

「分かってる、分かってる。冗談よ」

 山野紀子は、お茶を一口啜ると、真顔に戻って春木に言った。

「でも、どうも、この件は一筋縄ではいかないわよ。今日、製作局長に言われたけど、ウチの社長の方にも圧力がかかっているみたい。司時空庁から。うえにょと真ちゃんにも、会社の方から取材中止の命令が出たそうよ」

 春木陽香も箸を置いて、深刻な顔で応えた。

「ということは、この件、やっぱり何か大きな裏があるってことですよね」

「そうね。間違いないわね。ここまで圧力をかけてくるってことは、司時空庁は本気だってことだもんね。ま、何か隠してますってことを自分たちで証明したようなものだわね」

「それで、どうするんですか。神作キャップたちは、取材を中止するんですか」

 山野紀子は一度、首を傾げてから言った。

「うえにょと真ちゃんは、とりあえず表向きは真明教の取材をすることになったみたい。空いている時間でこの件にかかると言っていたけど、まず無理ね。あれはあれで、きっと政界絡みの大きな事件だから」

「ウチは、どうするんですか」

「ウチは続けるわよ。当然でしょ」

 目を開いてそう答えた山野に、春木陽香は更に尋ねた。

「製作局長や、販売本部は何と……」

 山野紀子は手を振りながら春木の問いに答えた。

「むしろ、ノリノリよ。行け行けって感じ。幹雄ちゃんも馬鹿ね」

「ミキオちゃん?」

「津田よ。司時空庁長官の津田幹雄。ウチみたいな週刊誌の出版社に圧力かけるなんて、火に油を注ぐようなものじゃない。新聞の方のお堅い経営陣は、その手の圧力には弱いだろうけど、ウチの会社の幹部連中には通用しないわよ」

「そうなんですか」

 春木陽香は合点のいかない顔でそう答えた。

 山野紀子は言う。

「そうよ。だって、あの人たちは、本社の出世競争のラインから外れた人たちじゃない。あっちの方で色々と頑張り過ぎたりして」

「あっちの方って、労使闘争のことですか」

「そ。あの人たち、権力とか権威とか大嫌いな人たちだから。――労働者の権利のために団結して経営側と闘うことは大切だけど、あの人たちは、きっとそれ以外の目的でやってるのよ。自分たちの目的っていうのかな。まあ、目的とは言えないかもしれないけど」

 そう言うと、山野紀子はサラダの上に飾ってあったプチトマトを一つ摘まんで、口の中に放った。

 春木陽香は怪訝な顔で山野に尋ねた。

「違う理由で闘っているってことですか」

 山野紀子は指先のドレッシングを吸うと、その指をティッシュで拭きながら答えた。

「ていうか、闘ってないのよね、実際は。パフォーマンスだけ。考えてみなさい、ウチの会社は新聞の方とは違って、労働組合の加入率は九割以上でしょ。この前もメーデーの集会に参加させられたじゃない。なのにさ、私たちの労働環境は全然よくならないじゃないよ。それが証拠なのよ。交渉が下手というより、まともに交渉してないってことなの」

 視線を泳がせて少し考えた春木陽香は、首を傾げてから尋ねた。

「でも、組合のウェブサイトでは、随分とハードな交渉の様子が動画でアップされていましたけど……」

「あれはポーズよ、ポーズ。ハルハルも今後、よく見ておきなさい。あの動画で、こちら側で経営陣に文句言っていた人が、何年か後には、経営陣側の席に座っているから。結局ね、会社の構造に問題があるのよ。従業員が出世すれば、最終的には役員になって、会社法上の取締役を兼ねることになる訳じゃない。業務執行取締役とか言って。つまり、将来的には経営陣の側になるわけ。それでどうして、まともな交渉ができるのよ。みんな、出世するために働いてるのよ」

「別に私は、そこまでは……」

 春木陽香は口を尖らせた。

 山野紀子は軽く口角を上げてから、言った。

「ハルハルはそうでも、仕組みがそうなっているでしょ。昇給は成果主義だし、昇進も実力主義。社会も年齢が上がるにつれてお金が必要になるようにできてるじゃない。労働者は自然と出世を争うようになっちゃってるのよ。望まなくても。で、その終着点が使用者サイドの椅子ってわけ。その使用者たちに人事権を握られているのが、私たち労働者。だから、労働者サイドに居るうちから本気で使用者たる経営陣に噛み付く訳ないでしょ」

「はあ……」

 春木陽香は納得いかない顔で箸を持ち上げた。

 山野紀子はラグマットの上に両手を着いて、後ろに体重を傾けながら春木に言う。

「私ね、個人的には、労使交渉って、株主総会で株主とするべきことだと思うのよね。なんで、いつまでも現場経営者とやってるのかしら。会社は株主のものなのに」

 春木陽香は白湯を啜りながら、呟くように言った。

「経営事項は役員の職務範囲ですから、経費としての賃金を決めるとなると、やはり役員が決める訳で、だから仕方ないのでは……」

 マグカップを置いた彼女は、一度首を傾げてから、山野に訊いてみた。

「でも、じゃあ、どうして組合の書記長さんたちは、あんなに激しく叫んでるんですか」

 山野紀子は事知り顔で頷いてから答えた。

「そういう事が好きなのよ。ただ、叫びたいだけ。本当に私たちのことを考えて経営側と交渉しようと思ったら、旗振ったり、鉢巻まいて拡声器で叫んだりしなくても、静かに水面下で時間掛けて、内容はクリアな交渉ってのが出来るはずじゃない。誰だって、社外では取引先と普段からやっているんだから。メジャーリーグの選手の契約交渉に代理人たちが交渉会場の外でシュプレヒコールをあげる? 普通にホテルの一室で打ち合わせるし、何ヶ月も下準備して、時には政治的な駆け引きもしながら、契約を成立させるじゃない。あれだって、ある意味で労使交渉でしょ」

「まあ……ですね……」

 山野紀子は体を戻して言った。

「ま、とにかく、ウチの経営陣には、そういう『鉢巻大好き人間』が多いってことよ。それで、津田からの圧力はウチの経営者たちの『なんちゃって反骨精神』のスイッチを入れちゃったみたいなの。だから製作局長たちは、行け、やれ、負けるな、スクープを取って来いって感じなわけ。ま、私たちにとっては、好都合よね」

「好都合……なんですかね……」

 春木陽香は首を傾げながら、自然薯のすり下ろしをお粥にかけた。

 山野紀子は両眉を上げて言った。

「好都合じゃない。社長は、予算を別枠で組むって言ってくれているのよ。局長は、来週からは編集室で専属チームを組んで取り掛かれって。それで、ハルハルと別府君、それから、ライト。この三人で取り掛かろうと思うの。取材計画を一から立て直してね」

 春木陽香はそれを聞いて、自然薯とお粥を一気に口の中にかき入れた。

 山野紀子は口角を上げると、春木に言った。

「だから、ハルハル、早く元気にならないと駄目よ。ほら、そのお肉も食べなさい。今はダイエットなんか忘れて、とにかく食べないと、元気出ないわよ」

「はい」

 少し元気が出た気がした。やはり自然薯は、すごい。春木陽香は甘酢のかけられた豚肉に箸を伸ばして、それを頬張った。

 リビングのドアが開き、朝美が駆け込んできた。

「ママあ、このキリン柄のパンツ、ゴムが伸びちゃってるけど……」

「むぐー! ゴホッ、ゴホッ」

 高く掲げていたキリン柄のパンツを下ろした朝美は、本気で心配そうな顔をして春木に尋ねた。

「大丈夫、お姉ちゃん。私、明日も来ようか」

「ゴホッ、ゴホッ。いい、大丈夫。絶対に元気になるから」

 春木陽香は、野菜炒めを掴めるだけ箸で掴むと、半ば無理矢理に口の中に押し込んだ。

 両頬を膨らませて必死に咀嚼する春木を見ながら、山野紀子は微笑んでいた。



                 3

 両開きの巨大な木製の扉の向こうには豪華な造りの空間が広がっていた。その大広間は三階の天井まで吹き抜けている。天井は左右の壁に沿って等間隔で並んでいる何本もの太い石柱で支えられていて、大広間の奥の壇上部分の上まで続いており、クリスタルをふんだんに飾り付けた大きなシャンデリアを二列に、やはりきれいな等間隔で並べて、いくつも吊るしていた。それらが発する煌々たる光がよく磨かれた大理石の床を輝かせている。床の中央には、入り口の木製の扉の下から突き当たりの階段まで一直線に深紅の絨毯が延びていた。その深紅の絨毯の道は部屋の幅と同じ横幅の階段の中央を真っ直ぐに上り、二階の高さの舞台のような壇上まで続く。二階部分の奥には、突き当たりの壁一面に西洋風の絵画が描かれていた。天使がラッパを吹きながら荒れ狂う空を飛んでいる絵である。壁画の左右の壁は天井から下ろされた真っ赤なカーテンで覆われていて、その二階部分を少し暗くしていた。

 赤いカーテンの横のドアが開き、腰の曲がった老人がメイドに支えられながら杖をついて歩いてきた。彼は、一階の大広間から続く深紅の絨毯の道の先に据えられている黄金の椅子に向かっている。歩幅は狭く、動きも遅い。痩せていて、一見すると余命幾ばくも無いかのように見えたが、その眼光は鋭かった。身なりも整っていて、艶のある生地の背広に身を包み、首元にはブランド物の長いスカーフをマフラーのように二重に巻いて、その端を背中に垂らしている。

 椅子の横にやってきた老人は、金箔が貼られた肘掛に手を掛けると、椅子が載せられている段の上に片足を載せて慎重にそこに上った。椅子のフレームには見事な黄金細工が施されていて、その中に色取り取りの眩い宝石が散りばめられている。

 きらびやかな玉座に座った老人は、杖をメイドに渡すと、溜め息を吐いて呟いた。

「やはりな。あの御方の言われたとおりじゃ……」

 メイドは思わず尋ねた。

「あの御方とは」

 老人は背筋を伸ばしながら、厳しい顔で言った。

「誰でも良い。西郷を通せ」

 メイドは深く一礼して、去って行った。

 暫らくして、一階の正面の大きな木製ドアが左右に開き、光沢のある派手なスーツを着た中年の男が入ってきた。整った顔のその男は姿勢よく深紅の絨毯の上を歩いてくる。階段の手前で立ち止まり、上の玉座に座る老人に向かって一礼した彼は、姿勢を正して言った。

「ご報告に上がりました」

 階段の上の暗い空間から老人の声が届く。

「申してみよ」

 男は言った。

「記者連中は『ドクターT』の正体を探り始めました。真相に辿り着くのは時間の問題かと思われます」

 老人は言う。

「しておけ。――それで、田爪瑠香は、どこに幽閉されているか分かったのか」

「はい。司時空庁のタイムマシン発射施設、あの中の搭乗者待機施設に居ることまでは、把握しております」

「あの豪勢なホテルか。して、部屋は」

「いえ、そこまでは……」

 老人の嗄れた高い声が広い部屋に響いた。

「馬鹿者が! 何階のどの部屋に居るのかを把握せんで、どうするのじゃ」

 男は頭を垂れて言う。

「申し訳ございません」

「もう、よい。後はこちらでやる。さがれ」

 男は眉を寄せて一礼すると、踵を返して深紅の絨毯の上を戻っていった。

 老人は豪勢な椅子の上から一階を見下ろして、男の背中をにらみながら呟いた。

「ぬうう。この馬鹿が。――ワシは間違ってはおらん。間違ってはおらんのじゃ……」

 男が両開きの木製ドアを開けて出て行くと、老人は再び大きな声を発した。

「誰か。誰か居らんのか」

「はい。ここに」

 一階の円柱の陰から白いスーツを着た男が姿を現した。男は刀傷がある顔に笑みを浮かべている。

 老人はその男を指差して言った。

「おお。おお、お前か。丁度よいぞ」

 刀傷の男は深紅の絨毯まで歩いてきて立ち止まり、二階の暗がりの方を向いた。黄金の玉座のあたりから老人の細い皺だらけの手が招いている。刀傷の男は深紅の絨毯の上を進み、階段の前で立ち止まった。

 老人の声が届く。

「おまえ、司時空庁ビルに入ったことがあったな」

 刀傷の男は片笑んで答えた。

「ええ。まあ」

「奴らは傭兵部隊を備えているそうじゃな」

「ああ、STSのことですか。奴らは傭兵ではありませんね。国防軍からの出向組ですよ。貸し出しの警備兵です」

 老人は声を荒げた。

「そんなことは、どうでもよい。奴らはタイムマシンの発射施設にも居るのか」

 刀傷の男の隻眼が二階の暗闇を鋭く捉えた。

「――田爪瑠香ですか」

 嗄れた声が返ってくる。

「そうじゃ。お前が行け。兵隊と武器は、好きなだけ貸してやる」

「一人の方が、やり易いのですがね」

 刀傷の男が顔を逸らしてそう言うと、老人は言った。

「うぬぼれるな。失敗は許されんのじゃ。それに時間が無い。ここは経験者であるお前に任せるのがよかろう。行け」

 刀傷の男は小さく溜め息を吐くと、頷いた。

「分かりました。人員の選抜は任せてもらっていいですね」

「もちろんじゃ。何としても田爪瑠香を奪還するのじゃ。よいな」

 刀傷の男はニヤリと笑みを浮かべて答えた。

「承知しました」

 二階部分に向かって一礼した刀傷の男は、階段に沿って横に歩いて行き、柱の横のドアから出て行った。

 煌びやかな玉座の上で、老人は厳しい顔をしたまま、遠くをにらんでいた。


 

                 4

「お疲れ様でしたあ」

 ショルダーバッグを肩に掛けて、永峰千佳は自分の机を後にした。

 向かいの席で古い革製表紙の手帳に何かをメモしていた重成直人が、老眼鏡と額の間から永峰の後姿を覗きながら、小声で言った。

「お疲れ。――ご苦労様でした、後輩さん」

 新日ネット新聞社の社会部フロアは夕飯時になると人の出入りが激しくなる。夕刊の記事をサーバーにアップロードし終えた日勤組の記者たちが帰宅の途につき、夜勤組の記者たちが出勤してくる。そこに、社員食堂で夕食を終えた当直の記者たちが戻ってきたり、仮眠室に出て行ったりするので、エレベーターホールと社会部フロアを仕切る動体感知センサー付きの狭いゲートの前は、結構な混雑を呈していた。だからと言って、フロアの中が賑やかという訳ではない。ほとんどの夜勤組の記者たちは朝刊の記事に必要な取材にそのまま直ぐに出かけて行き、フロアに残るのは日勤組の各チームの中でシフトが組まれた当直記者だけである。

 今夜の神作真哉のチームの当直勤務は重成直人の番だった。先輩記者に配慮して、普段は重成の分の当直ノルマを神作と永山、永峰、そして時々に上野が交代で請負っていたのだが、永山が南米に取材に出向いたために、退職前の重成も幾分かの当直勤務をこなさなければならなかった。老眼鏡を掛けて、使い古した革製の手帳に今日の雑記を丁寧に書き込んでいる重成に、神作真哉が申し訳ない様子で言った。

「シゲさん、いいんですか。やっぱり、俺が残りましょうか」

 重成は手帳に書き込みをしながら答えた。

「なに言ってるんだ。本来は俺のノルマだろ。それに、神作ちゃんは当直ばかりで、ろくに帰宅してないじゃないか。たまには帰れよ」

 神作真哉は自分の席に座ったまま、頭を掻いて言った。

「いや……なんか、先輩に当直を割り振るのは、どうも気が引けて。やっぱり、今日は俺が残りますよ」

 重成直人は書き終えた手帳を閉じて、老眼鏡を外しながら神作に言った。

「そう年寄り扱いするなよ。それより、神作ちゃんこそ大丈夫かい。もう何日も帰宅してないだろ。そろそろ文字通り『男寡おとこやもめうじが湧く』なんてことになってるんじゃないか」

「かもしれんですね。家に帰ったときのことを考えると、ぞっとします」

 神作真哉は両手を上げた。

 重成直人は上着を掛けた椅子の背もたれに倒れながら、神作に言った。

「あっちの家には帰ってるのかい」

「あっちの家?」

「マンションだよ。朝美ちゃんも、会いたがっているんじゃないか」

 神作真哉は顔をしかめながら答えた。

「どうですかね。一応、たまに顔は出してるんですけどね。まあ、二人で仲良くやってるみたいですし」

「そうかねえ。それでいいのかねえ」

 心配そうな顔をしている重成に、神作真哉は投げやりな口調で言った。

「職場も家庭も、似たようなものですよ。モチベーションが下がりまくりです。来週も記事の真明しんめい教をやらんといかんのですからね」

 神作真哉は自分の机から永山の机の向かいの机の上に崩れて広がった紙の資料の山に手を伸ばし、その中の一塊を面倒くさそうに自分の机の上に置いた。

 背もたれから身を離した重成直人が片頬を人差し指で掻きながら言う。

「神作ちゃん、ナメて掛かるとスコンとやられちまうかもしれないよ。こっちはこっちで随分と手強いネタだぞ、こりゃ」

 重成直人は机の引き出しを開けると、何かを探し始めた。

 神作真哉は首を伸ばして遠くの重成の席を覗いた。

「へえ。何か出てきたんですか、シゲさん」

「ああ。まずな、宗教法人真明教団の教祖だよ」

 重成直人は引き出しから取り出した紙片を指で弾いて神作の方に飛ばした。

 神作真哉は長い腕を伸ばして、回転して飛んでくるその紙片を掴んだ。それは写真だった。見ると、金糸の混じった黒い法衣姿で大きな扇子と数珠を握った初老の男が写っている。その見覚えのある顔を確認して、神作真哉は重成に言った。

「予言者・南正覚みなみしょうかくですか。こいつ、テレビや雑誌で有名人ですもんね。で、こいつに何か不信な点でも?」

「それが出てこないから、不信なんだよ」

「というと」

 神作真哉は、怪訝な顔で重成に視線を戻した。

 重成直人は古い手帳を再び開いて、調べた内容を記した頁を探しながら言った。

「下の名前の『正覚しょうかく』ってのは、法名だ。たぶん、戸籍上の名前も、家裁の許可をとって変えているはずだ」

「ああ、宗教家はよくやりますからね。ということは、前の本名は不明。だから、履歴も不明。そういうことですか」

「そう。東京オリンピックの前だったかな。二〇二〇年頃から突如、メディアに姿を出すようになって、例のあれで、一気に信者数を伸ばした」

「二〇二五年の核爆発テロの予言ですよね。まぐれですよ、あんなの」

「だが、あの爆発では幾つもの偶然が重なって、奇跡的に死傷者はゼロだった。そこまで的確に予言していたんだぞ。数年前から公然と。その後の社会情勢なんかも、いろいろ言い当てているじゃないか。あながちニセ予言者とは言えんかもしれんぞ」

 作った真顔でそう言った重成の方を覗いて鼻で小さく笑った神作真哉は、少しからかうような口調で言った。

「そのうちシゲさんも、真明教の信者たちとお揃いの『黄色いジャージ』を着て出勤してくるんじゃないでしょうね」

「馬鹿言え。この腹じゃ似合わんよ」

 重成直人は自分の太鼓腹を叩いてみせた。

 神作真哉は苦笑いをして答えた。

「まあ、何であれ、今や世界中の真明教信者数は、推定で一億人を超えていますからね。馬鹿に出来ない相手であることは確かですね。それに、顧問弁護士法人が、あの美空野みそらの法律事務所ときてる」

「日本一の規模の法律事務所だからな。そういえば、ストンスロプ社グループの顧問も美空野じゃなかったかね」

「そうです。だから、突っ込んだ記事を書くなら、かなりネタを固めてから慎重に検討して書かないと。ウチの会社ごと潰されかねませんもんね。こりゃ、司時空庁をほじくっていた方が楽でしたかね」

 神作真哉は南の写真を机の上に放り投げた。

 重成直人は腕組みをすると、再度椅子に身を倒した。横に積まれた資料の山越しに、神作に険しい顔を向ける。

 重成直人は後輩の目をじっと見ながら忠告した。

「結局、上の指示はそういう事なんだよ。神作ちゃんも気をつけな。油断していると、俺みたいになるぞ」

 一瞬間を開けた神作真哉は、大きく首を横に振ってから、はっきりと先輩に答えた。

「馬鹿言わないで下さいよ。俺はシゲさんに憧れて、記者を続けてきたんですからね。定年まで『現場の記者』ってやつを通して下さいよ」

「嬉しいねえ」

 重成直人は口ではそう答えたが、首は横に振っていた。

 神作真哉は眉間に皺を寄せて重成に尋ねた。

「――で、やっぱり、その真明教の教義ってのは、予言者・みなみの発言に従って未来を変えることなんですか」

「まあ、そうだな。正確には、南正覚の予言を信じて、その起こるはずの未来の害悪を避けるために、今、何をするべきなのかを知って、行いを正すことが、奴らの宗教上の理念らしい。『信じて、やれば、できる』だと」

「何か、どっかの資格予備校のキャッチコピーみたいですね」

 それを聞いた重成直人は、一度後ろを向いて部長室のドアが閉まっていることを確認してから、神作に耳打ちするように小声で言った。

「永山ちゃんが言ってたとおり、高橋諒一博士のパラレルワールド肯定説と通じるところがあると、改めて思わんか」

 神作真哉は腕組みしながら天井を見上げて、独り言を発するように呟いた。

「過去に戻れば、そこから未来が変わって別の時間軸上に分岐する。――なるほど、タイムトラベルした人間は未来の出来事を知っている訳ですから、行動次第では、起こるはずの害悪を起こらないようにすることが出来る。確かに、似ていますね」

「神作ちゃん」

 重成直人が小さく背後を指差した。重成の後ろのドアが開き、谷里が部長室から出てきた。彼女は一度だけ神作に厳しい視線を向けると、そのまま黙って重成の横を通り、壁際の本棚に沿って出入り口のゲート方まで歩いていった。

 神作真哉は谷里を視線で追いながら、口を尖らせて言う。

「帰るんなら、くらい言えねえのかよ」

 今度は重成直人が苦笑いしながら、鼻の上に皺を寄せて言った。

「ま、あくまで真明教の関連施設への補助金や助成金の流れを追うのが、会社の取材方針だからな。本論に戻そうや、神作キャップ」

 歩きながらこちらに注意を寄せている谷里に聞こえるように、重成はそう言った。

 神作真哉は谷里を気にすることもせず、重成に尋ねた。

「真明教が運営しているのは、病院と学校でしたっけ」

「ああ。それは、永山ちゃんが念入りに調べていたよ。一応、俺の方でも確認した」

 重成直人は再び手もとの手帳を捲りながら言った。

「ええと、まず、医療法人真明会。病院名は真明病院だ。それから、学校法人真明学園。中高一貫校と大学をそれぞれ経営している。それと、財団法人真明教団育英資金。株式会社ニューライツっていう人材派遣会社もあるな。事実上、真明教が全額出資して設立されている。登記簿に役員として名前は出てこないが、今の大株主は南正覚だ。その他にも、臓器移植をする人への手術費を支援するための財団法人も設立準備中……だと」

「そんなに手広くやっていて、しかも全部赤字なのに、何でわざわざ、南米戦争の戦地にシェルターを作ったり、スラム街の住人に食料や医療物資を配ったりするんでしょうね」

 手帳を閉じた重成直人が言った。

「そこだよな。医療法人や学校法人に入った公的資金が、全てそっちに流れている可能性もある。南米に何か旨い話があるのかもしれんな」

「永山が言っていたんですがね、現地では地下マフィアの連中が混乱地域を裏で牛耳っているそうで、陰でいろいろと儲けているらしいんですよ。そこら辺と関係あるのかもしれませんね」

「援助物資の横流しか。アフリカ戦争の時も、ユーラシア中央紛争の時も、支援団体のフリをして随分とやっていた奴らがいたからな。こりゃ、現地の永山ちゃんに少し頑張ってもらう必要があるかもな」

 神作真哉は口を縛って返事を留保した。彼は重成の目を見て言う。

「とにかく、まずはこっちの方で調べましょう。そもそも、なぜ赤字続きの真明教関連団体に公的資金が投入され続けているのか。そこからでしょう」

 重成直人は再び腕を組んで言った。

「そうだな。そうなると、たぶん、裏で官僚たちを動かしている政治家がいるな」

 神作真哉は机の上に身を乗り出した。

「お、元政治部のエース記者の勘ですな」

「そう言われたのは大昔の話だよ。年寄りを煽てても、何も見返りはもらえんぞ」

「いや、南の予言よりは、ずっと当てになります。先輩」

「なあにを」

 重成直人は立ち上がりながら、神作に向けて大きく手を振った。そして、椅子に掛けていたジャケットを羽織ると、手帳をその内ポケットに仕舞った。

「じゃあ、ちょっとばかり、古巣のダチでも当たってみますかね」

「あれ、これから出かけるんですか」

「ああ、金曜の夜だ。各社の政治部の連中は政治家を追っかけて『夜駆け』に出るはずだ。寺師てらし町の西地区にある料亭街あたりをウロウロしてりゃ、知った顔に会えるはずだよ」

 重成直人は少し考えていたが、人差し指と親指を出した手を神作に向けると、それを動かしながら小声で言った。

「どうだい、神作ちゃん。ついでに一杯」

「いいですねえ。――って、シゲさん、勤務中じゃないですか。マズイでしょ、それ」

 困惑する神作に重成直人は悪びれた様子も見せずに堂々と答えた。

「なに言ってんだ。素面の元同僚に政治部の連中がネタ話する訳ないだろう。取材のためだよ。取材は仕事じゃないか。それに、当直時に何処で夕飯を食おうが自由だろ。どうせ十一時までは仮眠の時間だ。居ても居なくても同じさ。まして取材なら、出かけていいに決まっている」

「そうきましたか。――じゃあ、俺は大先輩からの実務指導も兼ねてってことで、お供させてもらいます」

「そうこなくっちゃ」

 重成直人は揚揚と壁際の本棚の前を歩いていった。

 立ち上がった神作真哉も重成を追って速足で同じように歩いていく。途中、本棚の前で何かを探している谷里に出くわした。二人は谷里に軽く一礼してからその後ろを通り過ぎると、無言のまま出入り口ゲートを通過してエレベーターホールへと向かった。

 本棚を見回すことをピタリとやめた谷里素美は、歩いていく二人の様子をじっと見ていた。彼らがエレベーターに乗ると、手に持っていたウェアフォンを耳の下に当てる。

「――はい。今、出て行きました。まったく、当直勤務の途中だというのに。――はい、そうですか。分かりました。では、またご報告します」

 ウェアフォンをバッグに仕舞った谷里素美は、暫らく目を細めて神作チームの席を見つめていた。


 

                 5

 絨毯が敷かれた廊下は、左右の壁に等間隔で設置された高級ブラケット・ライトで薄っすらと照らされていた。両壁に間隔を空けて並んでいるドアには重厚な木彫りの装飾が施されていて、扉の枠を金細工が囲んでいる。その豪勢なドアが並ぶ廊下は広いエレベーターホールへと続いていた。ホールには金色のエレベーターの扉が三つ並んでいる。その三機のエレベーターの向かい側には、高層ビルの中央の吹き抜けを斜めに複雑に交差するコンクリート製の柱の中に、夜空を透かした天窓から遥か下まで垂れた巨大なシャンデリアの中腹が見えていた。無数の高級クリスタルで美しく飾られた縦長のシャンデリアは、内部で反射させ増幅させた眩い光で各階のエレベーターホールを照らしている。

 最上階から数階下のエレベーターホールには、廊下の入り口の左右に二人の男が立っていた。男たちは白い戦闘服の上に白色の甲冑を装着していて、白いヘルメットを被り、顔は口元以外を黒い偏光バイザーで覆っている。左側の壁を背にして立っている兵士は最新式の自動小銃を腰の前で抱えたまま、シャンデリアの強い光を見つめていた。右側の兵士が振り向いて、角から廊下の奥を確認しながら、左側の若い兵士に言った。

「油断するな。まだ任務中だ」

 シャンデリアを眺めていた若い兵士は、視線を足下の毛並みの良い絨毯に落とすと、溜め息混じりに言った。

「了解です、中尉」

 中尉はヘルメットに内蔵された無線で仲間と通信していた。

山本やまもと軍曹、異常は無いか」

 白いヘルメットのイヤホンから太く低い男性の声で返事が聞こえた。

『異常ありません。今のところ』

 中尉は再び確認した。

あや軍曹、そっちは」

 若い女性の声が返ってきた。

『いえ。敵影なし。今のところ、異常ありません』

「そうか。警戒を怠るな」

『了解』

『了解』

 その無線通信を聞いていた左側の若い兵士が口を開いた。

「しかし、中尉殿も大変ですねえ。こんな変な戦闘服着せられて。どうして司時空庁のSTSなんかに回されたんです? しかも、本庁ビルとか極秘施設の警備ならともかく、こんな高級ホテルみたいな所に配置だなんて」

「交代まであと少しだ。警備に集中しろ、伍長」

 伍長は小型の自動小銃を抱えたまま両肩を上げると、三つ並んだエレベーターの金色の扉を顎先で指しながら中尉に言った。

「集中できませんよ、こんな所じゃ。場違い過ぎて。タイムマシンの発射施設って、中は多少豪勢なんだろうとは思っていましたが、まさか、ここまで豪華だとは思っていませんでしたからね。これなら、こんなコスプレみたいな戦闘服じゃなくて、タキシードでも支給してもらった方が……」

「場違いだから配属されたのさ」

 そう言って中尉は相手にしなかったが、伍長は再び話しかけてきた。

「だいたい、俺たちは分かりますが、なんで中尉殿たちまで国防軍からSTSに配属換えなんですか。おかしいですよ。中尉殿の部隊は皆さん軍曹レベル以上で、国防軍の実戦エリート部隊なのに、こっちは只の警備員じゃないですか」

 中尉は黙って吹き抜けの方に移動すると、腰高の壁から身を乗り出して下を覗きこみ、小さく見える一階ロビーを確認しながら答えた。

「それだけ重要な任務だってことだ」

 中尉は一階のロビーの様子を顔の前の偏光バイザーの内側パネルに拡大した。玄関ホールに向けて銃を構える仲間のSTSの三人の兵士が映し出される。彼らの視線と銃口の先には、カートに段ボール箱を積んだ作業着姿の男とアタッシュケースを提げた施設関係者らしきスーツ姿の男たちの姿が見えた。男たちのうちの一人が兵士の一人に何か書面を見せている。その兵士は内容を確認し、通行を許可したようだった。他の兵士たちが銃口を下げる。

 ホールに異常が無いと判断した中尉は、手すりから乗り出した身を戻して、背後を確認した。伍長は口を開け、疲れた様子で首を回している。

 中尉が元の位置に戻ってくると、伍長は無線マイク越しに再び話し掛けてきた。

「そんなに重要な任務ですかねえ。仲間は南米の戦線で戦っているって言うのに、こっちは施設警備。しかも、警備するのは、タイムマシンの搭乗者用の宿泊待機施設ですよ。待機施設って言っても、これ、迎賓館じゃないですか。まるでセレブ用の高級ホテル。俺たちが払っている税金で国がこんな物を建てて金持ちを接待しているのかと思うと、警備にも気合が入りませんよ」

 中尉は頭だけを伍長の方に向けて、彼に言った。

「もし敵が攻撃してきたら、敵はそんな泣き言を聞いてはくれんぞ。この空間で敵と遭遇したら至近距離での戦闘だ。少しの反応の遅れが命取りになる。無駄口を叩いてないで、いつでも瞬時に対応できるように集中力を切らすな。呼吸も整えろ」

「交代の時間が変更になったんで、リズムが狂っちまったんですよ。そもそも……」

「伍長」

 中尉は偏光バイザー越しに伍長をにらみ付けた。伍長は恐怖して、すぐに背筋を正す。

「し、失礼しました。了解です。集中します」

 その時、手前のエレベーターの上のパネルが光り、そこにデジタル表示された数字が変化を始めた。中尉は、そのエレベーターの正面へと移動しながら、ヘルメットに左手を添えて通信する。

「こちらディフェンス・ワン。右端のエレベーターで誰か上がってくる。ディフェンス・ツー、確認は」

 返事が無かった。中尉は速やかに中央のエレベーターの前に移動し、その位置から右端のエレベーターの金色の扉に向けて自動小銃を構えると、伍長に指示した。

「左に五度移動しろ。そこは狙われやすい」

 気だるそうに自動小銃を構えた伍長は、少しだけ移動し、廊下の中央を塞いで立った。それを見て、中尉が言った。

「しっかり構えろ。敵の襲撃かもしれん」

 伍長は肩の高さに小銃を構え直しながら答えた。

「大丈夫ですよ。きっと、ディナーを運んできたんでしょ」

「様子が変だ。予定の時刻よりも遅れている。気を抜くな」

 中尉は腰を落として小銃を構え、銃身の先のガンサイトを両開きの黄金の扉の中央に合わせた。変化するデジタル表示の数字を視界の隅に捉えながら、それを数えていく。数字は徐々にそのフロアの階数に近づいていた。

「軍曹」

 中尉の呼びかけに、ヘルメットのイヤホンから男性の太い声が返ってきた。

『分かってます。こっちは任せて下さい』

「綾」

『見えています。大丈夫です』

 女の声は落ち着いていた。

 エレベーターの到着を知らせるチャイムが静かに鳴り、右端のエレベーターの上のパネルが白く点滅した。続いて、その下の金色の扉が左右にゆっくりと開く。中尉と伍長は肘を張って小銃を構えた。

 エレベーターの中から、食器の音を小さく鳴らしながら、白い布を四方に垂らしたワゴンが出てきた。ワゴンの上には銀色の丸い蓋が被せられた皿や、ワインボトル、グラスが乗せられている。そのワゴンを押しながら、黒のスラックスに赤いジャケットを着て頭に四角い小帽子を乗せた男が姿を現した。男は自分に銃口を向けている二人の武装兵士を見て驚き、足を止めた。

 伍長は一度深く息を吐くと、小銃を降ろして中尉に言った。

「ね、言ったでしょ。ディナーだ」

 中尉は銃口をエレベーターの中に向けたまま、ゆっくりとその正面に移動して、中を確認した。中には他に誰も乗っていなかった。

 銃口を下げた中尉は、その男に尋ねた。

「遅れた理由は」

 男は両手を顔の前に上げて、怯えながら答えた。

「調理の方が少し遅れたようでして……」

 汗に濡れた男の掌を見て、中尉は頭を傾けて男に行くように促した。

 エレベーターの扉が閉まり、男はワゴンを押しながら廊下の方へと進んでいった。伍長が道を開けてワゴンを通そうとする。

「待て!」

 男はワゴンに手を掛けたまま立ち止まり、恐る恐る少しだけ振り向いた。中尉が中央のエレベーターの前から男に向けて自動小銃を構えていた。男は唾を飲み込む。

 中尉が男に尋ねた。

「おまえ、どうして手袋をしていない」

 男は正面に立つ伍長の顔を見て答えた。

「いえ、忘れてしまったもので。以後、気をつけます」

 中尉は小銃を構えたまま、伍長に言った。

「こいつ、戦闘ブーツを履いているぞ。通すな」

 それを聞いた伍長は慌てて小銃を構え直し、銃口をその男に向けた。そのままワゴンの前に出て進行を塞ぎ、そこから一歩だけ後退する。

 男は二人の兵士に直線上で前後から挟まれていた。彼は怯えた顔で両肩を上げたまま、揉み上げから汗を垂らす。滴が顎を伝い、顎先から垂れて男の黒いブーツの上に落ちた。

 男は顔を引きつらせながら笑顔を作り、少し後ろを向いて答えた。

「あの、これは……会社から支給されたもので、皆、この靴を履いています。本当です」

 男は半泣き顔で無理に笑った。

 伍長は銃を構えたまま、少し顔を上げて、ワゴンの向こうの男の靴を見ようとした。

 赤いジャケットの男はガタガタと震えながら、伍長に言った。

「う、撃たないで。ただ、お客様に食事を届けるだけですから。とにかく、撃たないで。わた、私は只の給仕です。う、う、嘘だと思ったら、下の兵隊さんに確認して下さい」

 中尉は男に視線と銃口を向けたまま、吹き抜けのホールの手すりの前までゆっくりと移動した。素早く下を覗き込んで、一階フロアを確認する。三名の警備兵が大の字で床に倒れていた。背後で一発の銃声が響く。中尉が振り返ると、バイザーの上から額を撃たれた伍長が直立したまま廊下の方にゆっくりと倒れていた。

 反射的に引き金を引いた中尉に男はピストルを連射してきた。中尉は素早く右に飛んで小銃を撃った。それと同時に、彼の背後の手すりに火花が散る。中尉は柔らかい絨毯の上に転がったまま小銃を撃ち続けた。赤いジャケットの男は体を揺らしながら後退してワゴンにぶつかると、その向こう側にひっくり返った。素早く体勢を立て直した中尉は、男が落とした最新式のピストルを目視で確認し、自動小銃を構えたまま、慎重にワゴンに近づく。すると、ワゴンの白い布が高く捲り上げられ、ワゴンの上に乗せられていた料理やグラスが宙に舞った。中尉が一瞬だけ後退した隙に、口から血を流したさっきの男がワゴンのテーブルの下から小型の機関銃を取り出し、それを構えた。中尉は腰を落として正確に男を射撃する。至近距離から撃たれた男は、手に握った小型の機関銃で天井を撃ちながら後方に吹き飛ばされ、そのままエレベーターの金色の扉に激しく衝突した。床に崩れ落ちた彼は、体の下から赤い血を染み出したまま動かなかった。

 中尉は煙を浮かせた自動小銃の先端をその男に向けたまま、無線のマイクと肉声で、廊下に倒れている伍長に呼びかけた。

「伍長。伍長! ――くそっ!」

 伍長からの返事は無かった。

 据銃したまま前進した中尉は、ひっくり返ったワゴンの横を通り、男の前に着くと、男の手に握られていた薄型の小型機関銃を蹴り払った。横たわっている男の喉下に左手を添えて脈拍が無いことを確認した彼は、今度はその左手を白いヘルメットの耳の所に当ててボタンを押した。無線で本部に報告する。

「敵襲あり。第一波を排除。伍長がやられた。一階のロビーでも三人やられて……」

 無線通信をしながら、中尉はワゴンに目を遣った。床に散乱した皿や料理、割れた瓶から零れたワインやシャンパンを染み込ませた白い布の他に、深緑色の小箱を発見した。小箱の隙間から赤い点滅が見え、その横に何本かの電気コードがはみ出している。

「くそっ!」

 中尉は全速力で吹き抜けの方に走り、手すりを越えて、そこから吹き抜けの中に飛び降りた。それとほぼ同時に小箱から閃光が放たれ、熱と音を放出して爆発した。凄まじい振動がフロアを揺らし、辺りに埃を散らす。

 黒煙が立ち込める中、籠った音のチャイムが鳴り、中央と左端のエレベーターの扉が開いた。それぞれの中から、迷彩服姿の武装した大柄な男たちが、大型の機関銃を構えて順序良く飛び出してくる。目にサングラスのような暗視ゴーグルを装着した男たちは、ホールに出るとすぐに隊列を組み、その横に一人はみ出した髭の男の合図で速やかに前進を開始した。彼らは機関銃を構えたまま、列を保って、明かりの消えた廊下の奥へと足音を立てずに進んでいく。

 先頭の男が拳を握った左手を上げて停止した。他の男たちも合わせて停止する。先頭の男は煙の立ち込めた薄暗い廊下の突き当たりに大きな白い人影を見つけていた。STSの白い戦闘服と防具に身を包んでいるその大男は、腰の横でバルカン砲を抱えていた。

「いらっしゃいませえ」

 そう言った大男は、抱えていたバルカン砲の発射ボタンを押した。六本の銃筒が高速で回転しながら、その先端から火を噴く。猛烈な音と共に無数の太い閃光が廊下を走った。前進しようとしていた男たちは、先頭の男から順に薙ぎ倒されていく。隊列の後方の兵士たちは発砲しながらエレベーターホールまで後退し、廊下の入り口で左右に別れて壁に身を隠した。彼らは口々に言った。

「チクショウ! 何だアレは。あんな強力な武器を装備しているとは聞いてないぞ」

「一級レベルの重火器じゃねえか。一人で持っているぞ。あいつ、バケモノかよ」

「どうする」

 壁に身を隠しながら、男たちは反撃の作戦を練った。髭の男が後方から指示を出した。

擲弾筒てきだんとうはあるか。手榴弾を撃ち込め」

「了解!」

 吹き抜けのホール側の壁に隠れていた男が、腰から筒状の発射装置を取り出すと、蓋を外し、着ていたベストから手榴弾を外してピンを抜いた。その瞬間、鈍い音と共に、その男は後頭部から壁に血を散らして、床に倒れた。彼が握っていた手榴弾が床に転がる。続いて、空を切る音の後に、隣の男も壁に体を打ち付けて床に倒れた。反対側の壁に隠れていた男たちは一斉に床に伏せる。髭の男が素早く機関銃で手榴弾の近くの床を撃ち、その手榴弾を吹き抜けの方に弾き飛ばした。空中で手榴弾が爆発し、巨大なシャンデリアを激しく揺らす。キシキシと音がした。エレベーターホールを照らしていた側のシャンデリアのクリスタルが高音を鳴らして上から下に一斉に崩れ落ちる。一階フロアで高く凄まじい炸裂音が響いた。

 髭の男は、片面だけになって点滅しながらも強い光を放ち続けているシャンデリアの方に目を凝らしながら、叫んだ。

「くそう! 狙撃手がいるぞ。どこだ!」

 丸刈りの男が半身を起こし、吹き抜けの方を指差しながら叫んだ。

「シャンデリアの向うです。明かりが強くて見えません!」

 その丸刈りの男は、次の瞬間に銃撃を受け、仰け反るようにして床に倒れた。隣にいた長髪の男はシャンデリアの光の方に機関銃を乱射した。シャンデリアのクリスタルが割れて飛び散り、残っていた装飾が次々と音を立てて落下する。その男は興奮したように声を上げながら射撃を続けた。その横にいた短髪の男も前に出て、当てずっぽうにシャンデリアの方角に機関銃を連射する。すると、廊下の奥から轟音と共に再び猛烈な閃光が幾筋も流れ、前に出た短髪の男を直撃して横に薙ぎ倒した。

 髭の男が遅れて指示を出した。

「前に出るな。バルカン砲にやられるぞ。壁から前に出るな!」

「くそお!」

 シャンデリアに向けて射撃を続けていた長髪の男が、壁に身を隠したまま銃の角度を変え、火を噴く銃口を廊下の奥に向けた。反対側の血の付いた壁の上に、横に並んで穴が開けられていく。次の瞬間、シャンデリアのクリスタルの間を抜けて飛んできた弾丸が彼の側頭部に命中した。長髪の男は膝を折って後ろに倒れると、天井に向けて機関銃を構えたままの姿勢で髭の男に靠れ掛かった。髭の男は仲間の死体を避け払い、しゃがんだまま周囲を見回した。顔に汗を浮かべている。

 生き残ったのは自分一人だけだと確認した彼は、左端のエレベーターの扉が開いているのに気付くと、身を低くしたまま駆け出した。その髭の男は大声で叫びながらシャンデリアの後ろに向けて機関銃を撃ち続けた。そのままエレベーターに向かって壁際を走っていく。彼の後を追うように、吹き抜けの向うから飛んできた銃弾が右端のエレベーターと中央のエレベーターの金色の扉を叩き、順に間隔を空けて穴を開けていった。廊下の奥から轟音と共に凄まじい銃撃が光の筋を作って髭の男を追う。彼はバルカン砲の激しい銃撃を避けて、左端のエレベーター中に飛び込んだ。床に転がった髭の男が顔を上げると、中には白いスーツ姿の男が一人、背を向けて立っていた。彼は左端の隅に身を隠しながら、エレベーター扉の開放ボタンを押している。

 その白いスーツ姿の男は、床の上の髭の男に尋ねた。

「全滅か」

 髭の男は汗を拭きながら立ち上がり、狙撃手から死角になるよう、スーツの男の後ろの壁際に背中を押し付けて、蒼白の顔で答えた。

「ああ。手強すぎる。早く扉を閉めろ。撤退だ」

 開いた扉の向こうでは、バルカン砲から絶え間なく発射される弾丸が、横縞を作って流れていた。

 スーツ姿の男は振り向くと、髭の男の襟首を両手で掴み、刀傷が付いた隻眼の顔を近づけてから、言った。

「では、隊長が責任をとらんといかんな」

 刀傷の男は髭の男を外に放り投げた。何本もの光の筋を描いている弾道の中に投げ込まれた髭の男は、身を散らして横に押し倒される。刀傷の男はスーツのポケットから小型のケースを取り出すと、そのスイッチを入れてエレベーターホールに投じた。血の付いた絨毯の上に転がったそのケースから白煙が一気に噴出され、瞬時にホール内を白霧で埋め尽くし、周囲の視界を遮断した。

 吹き抜けの向うの斜めに交差するコンクリートの柱の間で、長い黒髪の女が射撃用の高性能ライフルのスコープから顔を離して舌打ちする。

「チッ。赤外線遮断型の煙幕。やられた、準備がいい……」

 廊下の奥の大男は、弾を撃ち終えたバルカン砲を投げ捨て、太腿の横から小型の自動小銃を素早く外すと、それを肩の高さで構え直した。そのままエレベーターホールの白煙に向かって撃ちながら突進する。彼のヘルメットのイヤホンに通信が入った。

『敵は煙幕で体温熱を遮断しているわ。熱感知バイザーでも見えないわよ。気をつけて』

 大男が白煙の中に飛び込んだ瞬間、彼の視界に、床の上に置かれた円盤状の小型機械が飛び込んできた。急停止した彼は思わず叫んだ。

「おいおい、熱溶解爆弾かよ。やべえ!」

 巨体を素早く翻すと、元来た廊下を全速力で駆け戻る。

 床に置かれた円盤状の小型機械は赤く発色していて、次第にオレンジ色に変色し、やがて白くなっていった。それに伴い、床に倒れている男たちの死体が体中から徐々に煙を立たせ始めた。大男は廊下の途中のドアに体当たりしてそれを壊し、部屋の中に飛び込んだ。その瞬間、エレベーターホールの周囲が白い光に包まれ、漂っていた白煙が一気に吹き飛ばされた。

 光が消えると、そこに残っていたのは、熱気と悪臭と黒煙だけだった。絨毯は焼き払われ、床のコンクリートがむき出しになって焦げている。天井と壁も黒く炭化し、どのエレベーターの扉も反って変形して、表面の金箔が溶けていた。襲撃してきた男たちの死体は跡形も無く焼き消されていて、人型の黒い跡だけが床に残されている。

 左端のエレベーターの扉が内側からこじ開けられ、中から刀傷の男がハンカチで口を覆いながら顔を出した。扉の陰から周囲を注意深く見回すと、焼け残った警備カメラに気付き、一度エレベーターの中に体を戻す。白いスーツの内側からリボルバー式の拳銃を取り出した彼は、それを扉の隙間から突き出し、器用にカメラのレンズを撃ち抜いた。

 左手に握ったハンカチで口と鼻を覆ったまま、半開きのエレベーターの扉の隙間から体を横にして出てきた刀傷の男は、拳銃を持った右手で顔の前の黒煙と悪臭を払いながら、ゆっくりと周囲を見回した。吹き抜けの向うの狙撃手が居ないことと廊下の奥の大男が居ないことを確認した彼は、悠然と廊下の方に向かって歩き出す。その時、彼の背後に吹き抜けの方から白い人影が飛び込んできた。壁から蜘蛛の糸のように伸びた粘着性の特殊合成ゴムでできたワイヤーを使ってエレベーターホールに飛び込んできた中尉は、着床するとすぐに、握っていたピストル型の機械のスイッチを押した。その機械の先端から吹き抜けの向こうの壁まで伸びていたピンク色の「粘性ワイヤー」が一瞬で凝固し、そのままひび割れると、粉状になって霧散する。その時には既に、中尉は腰から抜いたグロッグを刀傷の男の背中に向けていた。

 隙を突かれた刀傷の男は、ピタリと動きを止めた。

 中尉は、両手で構えたグロッグの銃口を刀傷の男の背中に向けたまま、言った。

「貴様、仲間の兵隊を囮に使ったな」

 刀傷の男は前を向いたまま、拳銃を握った右手とハンカチを握った左手をゆっくりと上げて、答えた。

「相手のレベルが高いと、多少の犠牲は仕方ないさ」

「貴様……」

「おっと、降参だ。勝ち目は無い」

 刀傷の男は両手を広げてハンカチと銃を床に落とした。中尉が前に出た瞬間、刀傷の男が左から素早く振り返った。それと同時に青白い光線が左上から弧を描いて中尉の目の前を斜めに横切る。反射的に体を逸らした中尉は、それをかわして素早く後退した。

 彼が構えていたグロッグの先端は斜めに切断されていた。断面が赤く輝いて熱を発している。中尉のヘルメットも額から顔の前のバイザーにかけて切りつけられていて、そこから煙を発していた。中尉はすぐにヘルメットを外し、壊れたグロッグと共に投棄した。端整な顔を晒した中尉は、厳しい表情で刀傷の男をにらむ。

 こちらを向いて構えている刀傷の男の左手には両刃のナイフが握られていた。そのナイフの刃の部分は青白く輝いている。

 中尉は素早く腿の横のケースから戦闘用ナイフを抜くと、それを構えて言った。

「使用禁止武器の『レーザーナイフ』か。とことんゲスな野郎だ」

「いやあ、仕事の道具には拘る主義でね」

 不気味な笑みを浮かべてそう言った刀傷の男は、ニヤつきながら中尉に切りかかってきた。中尉は青白い高熱レーザーで覆われた刃を避けると、男の脇腹を蹴る。刀傷の男は苦しそうな顔で体を曲げたが、中尉が近づくと、すぐに青い光を放つナイフを振り回してきた。中尉は自分の戦闘用ナイフでその刃を受ける。レーザーナイフの刃は中尉のナイフの刀身を一瞬で二つに切り落とした。辛うじて刀傷の男の胸を蹴り押して後退させ、間合いを取った中尉は、刃を切断されたナイフを捨て、今度は素手のまま構えをとった。刀傷の男は、また口元に薄っすらと笑みを浮かべると、青く光るナイフで切りつけてきた。中尉がそれを紙一重で避け、刀傷の男が再びそれを高く振り上げた瞬間、彼が左手に握っていたナイフが火花を上げて弾き飛ばされた。

 左手を庇いながら刀傷の男が吹き抜けの向こうを探すと、さっきとは違う位置で、黒髪の女が高性能ライフルのスコープを覗きながら据銃していた。

「なんだ。あいつ、まだ居たのか」

 そう言って顔をしかめた刀傷の男の後ろで、廊下の中ほどのドアの扉が蹴り飛ばされ、反対側の壁に当たった。部屋の中からさっきの大男が、咳き込みながら体を出してくる。

 刀傷の男は舌打ちをすると、吹き抜けの方に向かって一気に駆け出した。白いジャケットの袖から鉤爪状のフックを引き出して、それを手すりに掛けると、吹き抜けの中に飛び降りる。鉤爪からは細い強化繊維の糸が伸び、彼はその糸を使って二つ下の階のエレベーターホールを目掛けて降下した。高速で降下する彼を追う様に、吹き抜けに面した壁を狙撃弾が叩いていく。

 刀傷の男はホールに飛び込むと、素早く体勢を立て直し、フットボール選手のように右に左に体を動かしながら非常階段の方に向かって走った。彼の足跡をつけた床の絨毯が狙撃弾に毛を散らす。刀傷の男は階段の入り口の金属製の耐火扉を開けると、その中に素早く体を入れた。閉めたドアに更に一発の銃弾が撃ち込まれた。

 ライフルから薬莢やっきょうを弾き出しながら、長い黒髪の女が苛立ったように言う。

「もう、このシャンデリア、邪魔!」

 彼女のイヤホンに中尉から通信が入った。

『綾、もういい。降りて来い。これ以上、被害を出す訳にはいかん』

 その女は、美しい黒髪をかき上げながら、喉に巻いた声帯マイクで返事をした。

「了解。撤収します。ですが、シャンデリアを壊したのは私じゃないですから」

『分かっている』

 中尉は片笑みながら答えた。

 廊下の方から大柄な兵士が歩いてきた。その大男は頭を掻きながら床にしゃがみ、足下に焼き付いている黒い人の形の影を覗き込んで言った。

「あーあ、真っ黒け。宇城うしろ中尉、こいつら、何者なんです?」

 中尉は床に落ちていたリボルバー式の拳銃を拾い上げて言った。

「さあな。だが、山本の攻撃に対する対処の仕方や、綾の狙撃に対する反応の早さからすると、ただの素人集団ではないようだ。最初の男も、かなり訓練されていたようだし、武器も最新式のものだった」

「へえー。傭兵ですかね。それにしては、手ごたえが無かったですけどね」

「何しに来たんでしょうね」

 粘性ワイヤーを使って振り子のように弧を描いて移動してきた黒髪の女が、軽やかに二人の前に着床して、そう言った。

 彼女は長い黒髪をかき上げながら、さらに中尉に尋ねた。

「さっきの奴、もしかして……」

 中尉は吹き抜けから一階のロビーを見ながら答えた。

「ああ、奴だ。だが、相手が何者であれ、俺たちは国防兵士としての任務を全うするだけだ。国家に刃を向ける奴は、素人でも玄人でも、全て敵だ。それを忘れるな」

「了解」

 床の兵士たちの跡形を見回しながら、大男はそう答えた。黒髪の女は壊れたシャンデリアを気にしている。中尉は手すりから下を見下ろしていた。

 一階のロビーでは、隊列を組んだ白い戦闘服のSTS兵士たちが小銃を構えたまま前進していた。そして、そのタイムマシンの搭乗者の豪勢な宿泊施設に、ようやく非常警報が鳴り始めた。

 繰り返すサイレン音の中を、三人の兵士たちは廊下の奥へと歩いていった。



二〇三八年五月十日 月曜日

                 1

「くしゅん。ああ……」

 新日風潮編集室の会議室に春木陽香のくしゃみが響いた。

 編集室の一画にほぼ無理矢理に設置された会議室の中には、楕円形の机が置かれている。窓を背にした上座にあたる位置の席を空けて、その左右に春木陽香と別府博が座っていた。

 鼻を啜った春木陽香を見ながら、別府博が呆れ顔で言う。

「まだ治ってないのかよ」

 ティッシュを顔に当てて大きく鼻をかんだ春木陽香は、それを隅に置かれた小さなゴミ箱に放りながら答えた。

「――もう大丈夫です。まだ少し、くしゃみが出るだけで」

 別府博は先輩らしく春木に忠告した。

「ま、高校出の新人なら五月病も解るけど、ハルハルは大学に行ってリターンしてきた訳だろ。五月病はマズイんじゃないの。自分の体調はちゃんと管理しないと、編集長にドヤされるぞ」

「はあ……」

 山野紀子は春木の自宅まで来てくれたことを別府には言っていないようだった。

 丁度その時、ドアが開き、山野紀子が入ってきた。

「ういーす。おはよ。そろってる?」

「おはようございます」

 椅子から腰を上げて頭を下げた春木の向かいで、別府博は椅子に座ったまま山野に言った。

「そろってるって、今日は三人じゃないですか。何で僕とハルハルだけなんですか?」

 怪訝な顔をしている別府の背後を通って会議テーブルの上座の指定席に向かいながら、山野紀子は言った。

「文句言わなーい。あ、ハルハル、どう? 治った?」

「ええ。お蔭様で。自然薯で精が付きました」

「でしょ。ていうか、間違えて買ってきたんだけど」

 二人の顔を交互に見ながら、別府博は言った。

「なん? 何ですか、ジネンジョって」

 上座の椅子に腰を降ろした山野紀子は、ニヤニヤしながら答えた。

「女同士の秘密よ。ねえ、ハルハル」

 春木陽香も頷いて答えた。

「はい。女三人だけの秘密です」

「三人? どゆこと?」

 首を傾げている別府博を無視して、山野紀子は一度大きく手を叩くと、言った。

「はい、じゃあ、朝の編集会議を始めるわよ」

「あの、編集長」

 挙手をして、別府博はもう一度尋ねた。

「どうして、僕とハルハルだけなんですか」

 目を瞑って腕組みをした山野紀子は、落ち着いた様子で答えた。

「いや、もう一人来る」

「もう一人? 誰で……」

 別府の質問をかき消すように、大きな歌声が響いてきた。

「エンダアアアアー!」

 両手の人差し指で両耳を塞ぎながら、山野紀子はまた落ち着いた様子で答えた。

「ほら、来た。その『もう一人』よ」

 歌声が更に徐々に大きくなってくる。ドアが開き、会議室に男が入っていた。

「アアー、ウィルオールウェイズ、ラブ、ユーウーウウー。おはよお、エビバディ! あなたのことを影で見守る愛の男、勇一松頼斗よ」

 今日の彼は黒いタキシード姿だった。黒い蝶ネクタイもしている。ただ、なぜかその蝶ネクタイを斜めにして少し緩めていた。タキシードの上着も中の白いワイシャツも少し汚れている。と言うよりも、わざと汚しているようだ。よく見ると、ワイシャツの胸のあたりに小さな穴が開いていた。その穴の周りをマジックで書いたであろうギザギザが囲んでいる。彼はその奇妙な格好でも相変わらず、愛用の大きなレンズのカメラを首にぶら提げていた。

 春木陽香は、そのカメラを指差しながら思わず言った。

「今日はパパラッチですか」

「違うわよ。失礼ね。あんなゲスな連中と一緒にしないでよ。私はアーティストなのよ、アーティスト。フォートグラフィック・アーティスト。お分かり?」

「フォぉぉト、グラふぃック・アぁぁティストですか」

「違うわよ。フォォートゥ、グルァフィッック・アーティスト。フィが駄目ね、フィが。下唇をしっかり噛んで、息を隙間からフィっと、こう強く……」

 山野紀子は呆れたような顔で勇一松に言った。

「いいから、はい、座って」

 勇一松頼斗が不承不承と春木の隣に座ると、山野紀子が口を開いた。

「いい。今日から、このメンバーで、独立の取材チームを構成します。ネタは……」

「まさか、例の『ドクターT』じゃないでしょうね」

「正解。冴えてるわねえ、ライト」

 勇一松を指差した山野に別府博が尋ねた。

「ってことは、取材対象は司時空庁ですか」

 それを聞いた勇一松頼斗が声を裏返して言った。

「冗談じゃないわよ。あそこ、ビルの中もタイムマシンの発射施設も、ほとんど撮影禁止じゃない。私の出る幕ないじゃないのよ。まさか、インタビュー対象者の雁首写真ばかり拾えって言うんじゃないでしょうね。私、嫌よ。そんな面白くない仕事。もっと、こう、スリリングな撮影じゃないと」

 記者業界では首から上を正面から撮影した顔写真のことを「雁首写真」とか単に「雁首」などと呼んでいる。それは、フォートグラフィック・アーティストの勇一松頼斗が最も嫌うアングルの写真だった。

 山野紀子はそのことを知った上で、彼に言った。

「出る幕、大有りよ。撮影禁止だから、あんたを呼んだの。意味、解る?」

 するとまた、別府博が挙手をして山野に尋ねた。

「でも、編集長。それ、ハルハルと編集長が既にやってるんですよね。上の新聞の方と協力して」

「うん。だけど、新聞はロック掛けられちゃったみたいだから」

「ロック? また外部からの圧力ですか」

 山野紀子は別府の質問にあっさりと答えた。

「そ。それで、動ける私たちがメインになったってわけ。大ネタを独り占めして花道を歩けるチャンスなのよ。やるしかないじゃない。しかも、取材はかなりシビア。どう、ライト、スリリングでしょ」

「うーん……面白そうだけど、危ないのは嫌よ。スリルとデンジャーは、ディッファレントだからね」

 勇一松に続いて別府博も言った。

「僕だって、家族が居ますからね。ヤバイ取材は御免ですよ。億乃目組とか、勘弁ですからね」

 山野紀子は首を横に振る。

「それは無い。大丈夫。――でも、新人のハルハルが一人で中裏地区に行ったのよ。先輩の別府君がそれじゃあねえ……」

 別府に冷ややかな視線を送る山野に勇一松頼斗が尋ねた。

「週刊号はどうするのよ」

 山野紀子は背もたれに身を投げて言った。

「それからは一時的に外れてもらう。ま、進行状況は私から毎週説明するから。本誌に復帰する際の心配は、しなくていい」

 春木陽香は目を輝かせて言った。

「じゃあ、完全に、この件に専属で取り掛かれるんですね」

 山野紀子は大きく頷いてから言った。

「そ。と言う訳で、早速、取材分担を割り振るわね。まず、ハルハルは、従来どおり田爪瑠香の行方を追ってちょうだい。別府君は、総理府」

 別府博は目を丸くして聞き返す。

「そ、総理府? 先週まで堤シノブのヌードとか、若奥様の秘密のアルバイトの記事を書いていた僕が、総理府?」

 山野紀子は面倒くさそうに別府を指差しながら言った。

「こういう時は、ノーマークな人材がベストなのよ」

「どういう意味ですか、それ……」

 口を尖らせてそう言った別府に、山野紀子はさらに指示を出した。

「それと、司時空庁から、過去にタイムマシンに乗った人のリストを手に入れてちょうだい」

「司時空庁から? 無理ですよ、そんな。最高機密の極秘情報じゃないですかあ。どうして僕だけ……」

「いいから、言われたら、やる! ぶつくさ言うな、バカタレ」

 山野紀子は別府に怒鳴りつけると、勇一松の方に顔を向けた。

「ライトは、別府君とハルハルのバックアップ」

「ちょっと、私がバックアップって何よ。私ね、伊達や酔狂で週刊誌のカメラマンをやってるんじゃないのよ。ちゃんと調査だって出来るんだからね。もっと、ちゃんと使いなさいよ」

「じゃあ、田爪博士と高橋博士の写真、それと、別府君がタイムマシンの搭乗者リストを手に入れたら、そのリストにある人物たちの写真を集めて。雁首でね」

 勇一松頼斗は下唇を出して返事をした。

「へえへえ。やっぱり雁首なのね。――それで」

 ふてくされ顔の勇一松に対して、山野紀子は更に指示を重ねた。

「あとは、その人たちから辿って、周辺人物の写真を集めて欲しいの。こっちは、雑誌に掲載出来そうなアングルでね。搭乗者たちの生活事情なんかが一発で読者に伝わるやつをお願い」

 勇一松頼斗は指を鳴らして答えた。

「イヤァ! それよ、それ。そういうのを待ってたのよ」

 その隣で春木陽香が言った。

「編集長は?」

「真ちゃんが例の論文の判読を依頼した科警研の技官にハッパ掛けてくるわ。今月の発射にも間に合わなかったら、大変でしょ。さっさと読めって」

 春木陽香は不思議そうな顔で尋ねた。

「私が行かなくていいんですか。神作キャップは私にって……」

 山野紀子は首を横に振った。

「いいわ。私が行く。どんな美人か知らないけど、この件には人の命が懸かってるってことを認識させてやるわ。論文データのホログラフィーじゃなくて、コンパクトの鏡なんかを覗いていたら、一発くらわしてやる。はあああ……」

 拳に息を吹きかけている山野を横目で見ながら、頭の後ろで手を組んだ別府博がボソリと言った。

「ですよね。給料日の度に憂鬱になるのも、嫌ですもんね」

 山野紀子は少し驚いたような顔で別府を指差した。

「お、別府君も、ようやく記者らしくなってきたわね。その調子で総理府も頼むわね」

 別府博はそのままの姿勢で山野に言った。

「いや、頼まれるのはいいんですけどね、総理府で何を掴めばいいんです? 例の投書が総理府に届いているのは、重成さんが調べたんですよね」

 山野紀子は答えた。

「それなのに、どうして官邸は動かないのか、不思議でしょ。その理由を知りたいのよ。どこかで情報が遮断されているのか、それとも、他に何か事情があるのか、あるとしたら、その事情はどんなものか」

 別府博は手を解いて言った。

「はあ? それ、僕だけハードルが高過ぎじゃないですか?」

 山野紀子は口の横に手を添えて、耳打ちする仕草で言った。

「これ取れたら、この前の旅行の費用、家族分も出してもらえるかもよ」

「え、あ、マジですか。よっしゃ、久々に本気出すか」

 別府博はしきりに肩を回しながらそう言った。

 山野紀子は両手で軽くテーブルを叩くと、話を仕切った。

「よし。じゃあ、そういうことで。短いけど、特別チームの編集会議は、これで終わりっと。別府君、通常の編集会議を開くから、みんなに集まるように言って」

 山野紀子は、そのまま反対に顔を向けた。

「それから、ハルハル。あんた、今日はどうするのよ」

「ええと、とりあえず、第二実験前に田爪夫妻が住んでいた家を訪ねてみます。そこから足取りを追うしか、今のところ方法が無いので。その後で、瑠香さんの母校の大学に行ってみようかと」

「都内だっけ」

「いえ、東京です」

「そう……じゃあ、ライト、あんたハルハルに付いていきなさい」

「え、東京まで?」

 椅子から腰を浮かせて固まっている勇一松を指差しながら、山野紀子は言った。

「そうよ。ホディーガードよ、ボディーガード」

 山野紀子はニヤリと笑う。

 勇一松頼斗は自分の恰好を見てしきりに瞬きをしていた。



                 2

 濃紺の絨毯が敷かれた部屋には、額に入れられた日の丸の旗が壁に飾られ、その前に重厚な書斎机と革張りの黒い椅子が置かれている。椅子には恰幅かっぷくが良い背広姿の初老の男が座っていた。国防大臣の奥野恵次郎おくのけいじろうである。隣には赤いネクタイをした背広姿の男が立っている。国防省情報局長の増田基和ますだもとかずだった。二人は鼎談ていだん用の立体電話機で司時空庁長官の津田幹雄とホログラフィー通話をしていた。

 奥野恵次郎は椅子に深く座ったまま、机の向こうに投影されて浮かんでいる津田幹雄のホログラフィー映像を指差し、低く太い声で言った。

「それで、襲撃してきた連中の正体は判ったのか」

 ホログラフィーの津田幹雄は言った。

『いいえ。現在、我々のラボで連中が所持していた武器の残骸を調べていますが、解析には時間が掛かりそうです。なにせ、ほとんど全て溶かされていますから』

 奥野恵次郎は横を向いて言う。

「敵兵の身元も判明しないのか」

 増田基和が答えた。

「はい。極微量の骨の一部しか残っていませんでしたので」

 奥野恵次郎は鼻から強く息を吐くと、眉間に皺を寄せた顔を前に向けた。

「津田君。物理科学の専門家に任せるより、軍事の専門家である我々の方で分析した方が早いのではないか」

 ホログラフィーの津田幹雄が頷いた。

『ごもっとも。ですが、襲撃されたのは司時空庁の施設ですので、まずは我々で進めさせていただきたい。現場から回収した残骸等は、こちらの分析が済み次第、その結果資料と共に、早々に国防省の方に回すように指示は出しております』

 奥野恵次郎は顔を曇らせた。

「ううん。――増田君、現時点での情報局の分析は」

「はい。敵は訓練された傭兵集団。人数は十二名。屋外の足跡を分析しましたところ、建物に侵入しなかった支援要員が他に十二名いたと推測されます。したがって、合計二十四人で構成された部隊だったかと」

 奥野恵次郎は肘掛を叩いた。

「つまり、一個小隊だけで攻撃してきた訳か。なめられたものだな。それで、武器は」

「警備カメラの動画の解析では、奴らが使用した銃火器・爆発物はいずれもプロトタイプの最新式であり、まだ、どの国の軍隊でも正式には実戦配備されていないモノばかりですので、詳細は不明です。ただ、熱溶解爆弾については、英国陸軍が来期に納入する予定のモノと同タイプだという情報を得ています」

「製造元は」

「クンタム社です」

「なるほどな」

 奥野恵次郎は厳しい顔のまま頷く。

 ホログラフィーの津田幹雄が言った。

『クンタム社は、保有していた特許のほとんどを奴らに握られているはずでは。だとすると……』

 奥野恵次郎は椅子の背もたれから背中を離し、机の上に両肘をつくと、組んだ指の上に顎を乗せて言った。

「ま、軽々に答えは出せん。それに、この件には警察庁の子越こごしも首を突っ込みたがっているようだ。今回の襲撃を刑事事件として立件するつもりだろう。そうなると、部外者が絡むことになり、いろいろと厄介だ。まずは目先のことから早めに手を打つ必要がある」

 増田基和は言う。

「ですが、こちら側の被害を考えますと、手続上、警察の関与は避けられないのでは」

「どの程度の被害なんだ」

「司時空庁STSの隊員四名が死亡。五名が負傷、内三名は重症です」

 ホログラフィーの津田幹雄は、増田の方を指差して声を荒げた。

『そんなことはどうでもいい。ウチの施設が滅茶苦茶に破壊されたんだぞ。あのシャンデリアがいくらすると思っているんだ!』

「津田君」

 奥野恵次郎は津田の発言を制止すると、すぐに増田の方に顔を向けた。

「増田君、君のところの部隊からは、何人の犠牲者が出た」

「いえ、一人も」

「そうか、良かったな」

 剣幕を変えて何度も増田を指差しながら、ホログラフィー映像の津田幹雄が口を挿む。

『良くはない。おたくから借りた兵士が、あの高級シャンデリアを半壊させたのかもしれないのだぞ。狙撃手を配置していたそうじゃないか。あんな所に。いったい何を考えているんだ!』

 増田基和は淡々とした口調で津田に言った。

「腕は確かな者ですので、あの程度の装飾品なら、避けて撃つくらいは確実にできるはずです」

 津田のホログラフィー映像は増田を指差すことをやめない。

『現に半壊したんだぞ。あんな高価なシャンデリアが。いくらの品か分かっているのか』

 増田基和はホログラフィーの津田の顔を見て答えた。

「兵士一人の命に比べれば、そう高くはないかと」

 津田幹雄は鼻で笑った。

『フン。国防軍の兵士はスーパー・ジャンボ・ジェット数機分の稼ぎがあるとでも言うのかね。ふざけるな。何のために、あんたが指揮する部隊からうちのSTSに兵士たちを出向させたと思っているんだ。最高の兵士を揃えていると聞いたからじゃないか。これだけの被害を出しておいて、どこが最高の兵士なんだ』

 奥野恵次郎が眉間をつまみながら、津田を宥めた。

「分かった、分かった。もういい。――では、増田君の部隊の兵士はSTSから軍に戻そう。その代わりに陸軍から中隊二個をSTSに送る。それで発射施設の警備を強化すればいい。どうだね」

 津田幹雄は割れた顎を触りながら言う。

『ほう。それは有難いですな』

 奥野恵次郎は津田のホログラフィー映像を指差して言った。

「どちらにしても改装工事中だったんだろ。この際だから、思い切りリフォームすればいいではないか。外部には工事中の爆発事故だと言えばいいし、その際に兵士が巻き込まれたという話であれば、国から遺族への補償金も十分に出るはずだ。問題なかろう。それでいいね、増田君」

 奥野恵次郎が横を向くと、増田基和は姿勢を正して答えた。

「は。私の指揮下の人員につきましては、早急に撤収させます」

『ああ、そうしてくれたまえ』

 津田幹雄も不機嫌そうに言う。

 増田基和は奥野に言った。

「それから……」

「なんだね」

「調達局の津留つる局長から、熱溶解爆弾の残骸を引き渡すように要請が出ています。いかがいたしましょう」

 奥野恵次郎は再度鼻から強く息を吐いた。

「国防装備品の調達に、外国装備の分析は不可欠か……」

 口を引き垂れて暫く思案していた彼は、机の向こうのホログラフィーに指先を向けた。

「津田君、わかったな。そういうことだから、熱溶解爆弾の残骸は直ちにウチの調達局に回したまえ。どうせ、君らの所で分析できる品ではない」

『分かりました……』

 津田幹雄は不請不請と返事をした。

 奥野恵次郎は不満そうな顔をしている津田のホログラフィー映像に人差し指を振りながら言った。

「とにかく、国防省と司時空庁は表裏一体だ。そのことを忘れないでくれ。余計なトラブルは避けたい。いいな」

『承知しております。大臣』

「うむ。君も分かっているだろうが、今は大事な時だ。国内治安と人命救助は警察と防災隊に任せておけばいい。だが、彼らでは国の舵取りは出来んよ。我々の発言権を確固たるものにするためには、もう少し司時空庁に頑張ってもらわんとな。修繕を急いで、次の乗客をしっかりともてなしてくれたまえよ。大事なのは、おもてなしの心だからねえ」

 津田のホログラフィーは奥野の顔を見据えて言う。

『はい。しかし、問題が一つ』

「問題? なんだ」

『マスコミに一部、感づかれたかもしれません』

「マスコミに? どこの」

『新日ネット新聞社です』

 奥野恵次郎は大きく溜め息を吐いた。

「また厄介な所に。あの新聞は中道を謳ってはいるが、ただの捻くれ新聞だ。まあ、大規模なゴロツキ新聞だと言っても過言ではない。役所が発表する事実について、いちいち調べ直して、ああだこうだと言い出す。国の言うことを信用しない馬鹿共だ。けしからん。――で、どこから漏れたんだ」

『それが、現在我々の内部で情報をリークした者を探していますが、見つかりません。もしウチの内部に居ないとすると……』

 津田のホログラフィー映像は増田に目を向けた。それを見た奥野恵次郎が逆に津田のホログラフィーをにらみ付けて声を低めた。

「つまり、国防から情報が漏れたというのかね」

 津田のホログラフィーは慌てて首を横に振る。

『いいえ。――ただ、可能性は否定できないと申し上げているのです』

 すると、増田基和が横を向いて言った。

「大臣、確かに長官の仰るとおり、可能性は否定できないと思われます。金曜日の襲撃では、敵兵団は直接あの階層に攻撃してきました。敵がその前に施設内を探索した痕跡はありません。つまり、敵は事前に田爪瑠香の所在を部屋の位置まで特定して把握していたものと思われます。しかも、攻撃の時間帯も、通常は隊員の交代の時間です。シフト上、どうしても隙が生じる時間帯を狙われました。STS部隊の配備計画が漏れていた可能性も懸念されます」

 奥野恵次郎は眉間に深く皺を寄せた。

「誰かが裏切っているということか」

「作戦を把握していた人物は少数ですので、的は絞られてくるかと。ですが、外部から情報を探られたおそれも考えられます。その両方を視野に入れた調査が必要かと存じます」

『外部から……まさか、新日新聞社も奴らと繋がっているのか?』

 奥野恵次郎は椅子の背もたれに身を倒しながら呟いた。

「それは別口かもしれんが……」

 そして、津田のホログラフィーを見据えた。

「まあ、漏れるとすれば司時空庁からだと思うがね。軍属も軍人も口は硬い。それに、田爪夫人が居住している部屋の番号は、我々にも知らされていないではないか。どうやってウチから情報が漏れると言うんだ」

 津田幹雄は片笑みながら言った。

『それは奇異な。では何故、あの階に居た兵士たちは、通常の勤務シフトより三十分もずらして交代シフトを組み直していたのですかな。しかも、重火器や狙撃兵まで準備して。情報局としては、彼女の位置を把握されていたのでは』

 ホログラフィーの津田に指差された増田基和は、再び淡々とした口調で言う。

「我々は常に最悪を想定して計画を立てます。あの交代シフトなら、我々なら、あの時間帯を狙います。故に、相応の対処をしていたに過ぎません。逆に、我々に田爪瑠香のことを知らせてくれていれば、もっと効率よく警備し、前線で敵を食い止める手立てを講じられたはずです。犠牲者も出さずに済んだかもしれない。実に残念です」

 津田幹雄は鼻で笑った。

『ふん。相当な自信だな』

 津田と増田は歳が近い。津田幹雄は、この増田基和という男を警戒していた。

 増田基和は謎の多い人物だった。彼は奥野や津田のように文民ではない。軍部の現場を上り詰め、政府とのパイプ役として働くまでになった男である。現場指揮権までを有する彼は、本来ならば「制服組」と呼ばれる上級軍人であるはずだが、いつも背広姿で国防省官僚の中に混じって活動し、時には政策会議にも国防大臣の補佐役として参加していた。「増田学校」と呼ばれる独自の派閥組織を軍内に形成しているとの噂もある。官僚同士の出世競争を勝ち抜き、司時空庁長官として行政権力の中で大きな発言権を握った津田幹雄にとって、自分の大きな後ろ盾となっている奥野恵次郎の側近として働く増田基和は、注意すべき利き駒の一つだった。

 険悪な雰囲気の中で、奥野恵次郎が呟く。

「ストンスロプ社しかないな……」

『ストンスロプ社?』

 聞き返した津田に、奥野恵次郎が指を振りながら言った。

「そうだ。あそこに頼んで、大至急、接近戦用の小型防衛ロボットを揃えてもらおう。先月、海軍の掃海艇に配備したばかりだから、余っているのが数体はあるはずだ。自律式の二足歩行型なら『IMUTA』を使って統合管理できるし、不眠不休のロボットなら、人員シフトの問題を考える必要も無い。これを待機施設の警備に配置しては。どうだろうか、津田君」

『ええ。そうしていただけると助かります。ストンスロプ社とは国防省の方が、何かとパイプが太いでしょうから』

 増田基和が険しい顔つきで言った。

「しかし大臣、『IMUTA』を組み込んでいる『SAI五KTシステム』は信頼性が担保されておりません。しかも、システムを構成しているもう一機のコンピューター『AB〇一八』はNNC社製です。NNC社は外国企業。現在、『AB〇一八』の保守管理を行っているのは、その子会社の日本法人NNJ社ということになっていますが、それはあくまで形式上の話です。事実上、あれは外国の管理下にあるとお考えになられた方がよいでしょう。サイバー空間の仮想防衛ならともかく、実弾を発射する武器を備えた戦闘用ロボットをシステムとリンクさせるのは、いかがなものかと」

 奥野恵次郎は憮然とした顔で言った。

「だが、システムのもう片方のコンピューター『IMUTA』はGIESCOが開発したものではないか。GIESCOはストンスロプ社の研究機関だろ。軍用ロボットの設計と製造も、GIESCOやストンスロプ社系列の子会社が請負っている。純正のロボットを接続して、問題もへったくれも無いだろう」

「しかし……」

 増田の発言を遮って、奥野恵次郎は言った。

「とにかく、これでシフトの問題も解決だな。後は裏切り者のあぶり出しだ。増田君、軍内部の方は任せたよ」

「――了解しました」

 増田基和は少し間を空けてから、そう答えた。

 奥野恵次郎は増田を指差しながら言う。

「見つかり次第、軍規監視局に逮捕させたまえ。所属の監察官とは、君の部署の方でも情報の遣り取りをしているのだろ」

「はい。必要があれば」

「よかろう。司時空庁の漏洩者の方は、津田長官が抜かりなく調べ、抜かりなく対処するだろうからね。そうだな、津田長官」

 奥野恵次郎は鋭い眼を津田に向ける。

 津田のホログラフィーは頭を下げた。

『はい。お任せ下さい』

 国務大臣の奥野恵次郎は、官僚たちに諭すように言った。

「問題はね、未来なのだよ。これからどうするかだ。物事は大局的に捉え、将来の危険に備えて動かねばならん。そうでなければ、国の舵取りなど出来はせんよ。じゃあ、そういうことで頼んだよ、津田長官」

『分かりました。それでは、失礼します』

 津田幹雄のホログラフィーは頭を下げたまま停止し、消えた。

 奥野恵次郎は、再び鼻から大きく息を吐いて言う。

「今ので分かっただろう。津田幹雄と言う男は、あの程度の男だ。体はデカイが、中身は小物だ。いざという時には、おそらく使い物にはならん」

「……」

 奥野恵次郎は増田に顔を向けた。

「STSからの君の部下の撤収を一日遅らせろ。そして、新日の記者の情報源を探すんだ。小手先の対処では意味がない。元を片付けねば。君、掃除の方は頼むぞ」

 増田基和は眉間に皺を寄せて尋ねた。

「消せと」

「君の部下たちを使えば簡単だろう。中心人物を一人始末すればいい。残りは津田にやらせる」

 立ち上がった奥野恵次郎は、キャビネットの方に歩きながら言った。

「それから、軍内部の調査は適当でいい。今は南米に派兵している実戦の最中だ。軍内に余計なわだかまりを作るべき時期ではない」

「は。承知しました」

 奥野恵次郎はガラス戸の向こうに並べられた酒瓶を見回しながら尋ねた。

「ところで、増田君。総理への報告は」

「は。適宜、了しております」

「総理からの連絡は」

「いえ。特に何も。次回の閣議の際に直接、大臣にお話があるとは仰っておられました」

 キャビネットのガラス戸を開けながら、奥野恵次郎は頷いた。

「よろしい。国防軍の最高司令官は内閣総理大臣だが、辛島に何が分かる。今は戦時だ。総理大臣は黙って机の上で書類にサインをしていればいい」

 ガラス戸に手を添えたまま振り向いた奥野恵次郎は、机の傍に立っている増田に顔を向け、言った。

「今、国家の平安を担っているのは我々なのだよ。そして将来もな。増田君、しっかりとその点を踏まえて働いてくれたまえ。いいな」

「承知しました」

 増田基和は素早く一礼した。

 奥野恵次郎はキャビネットから高級ウイスキーの瓶を取り出すと、グラスを一つ握り、片笑みながらガラス戸を閉めた。



                 3

 昼休み。新日風潮社の編集室の記者たちは皆、昼食に出かけていた。先輩たちが居ない静かな部屋の中に、麺を吸い込む音が響く。春木陽香は自分の席で黙々と醤油ラーメンを啜っていた。その隣では、ワイシャツ姿の勇一松頼斗がネギ塩ラーメンを食べている。

 午前中、春木陽香と勇一松頼斗は、新日ネット新聞の契約情報から判明した田爪健三博士の家を訪れた。田爪の妻、瑠香に会うためである。しかし、田爪邸は既に人手に渡っていた。二人はそのまま法務局に向かい、その土地と建物の登記情報を確認したが、法的にも問題なく第三者に所有権が移転されていた。ただ、その移転日付は、高橋博士の自宅と同様に、田爪が失踪した第二実験の直後だった。春木陽香は直感的に何か危険なニオイを感じ取っていた。何としても田爪瑠香の居所を突き止める必要がある。二人は瑠香の母校である東京の大学を本日中に訪ねてみることにした。そこで、事情を報告するために一旦会社に戻ってみると、山野も別府も居なかった。二人が戻るのを待つ間、机に座って報告書を作っていると、他の先輩記者たちから昼休みの留守番役を言い渡された。今朝、山野編集室長から正式に特別チームの一員に抜擢されたばかりの春木陽香であったが、下っ端の新人記者であることに変わりはない。彼女は楽しみにしていた社員食堂のレタス鮪丼を諦め、先輩たちが戻ってくるまで空腹に耐えた。すると、せっかくの昼休みに留守番を任された新人記者を気の毒に思ったのか、勇一松頼斗がラーメンの出前を頼んでくれた。

 ラーメンが届くと、それを机の上に置いて並んで座った二人は、競うように熱々の麺を口に運んだ。昼休みはもうすぐ終了する時刻だったが、先輩たちは誰も帰ってこない。午後の東京行きのリニア列車の時刻を気にして壁の時計をチラチラと見ながら、春木陽香は急いで麺を啜った。タキシードの上着を脱いで蝶ネクタイを取った勇一松頼斗が、隣で、釦を外したワイシャツの襟をパタパタと動かしながら言った。

「ハフッ。熱い……。ここのラーメン、美味しいでしょ」

「ホント、美味しいですね。チャーシューも厚めだし」

「出前を頼んだのが、ウチだからよ。ここ、新日風潮社の御用達なの。ウチにだけ特別に出前してくれるみたいよ。上の新聞社の連中には絶対に内緒だからね」

「はい。職務上の秘密は絶対に漏らしません」

「よーし、いい心構えね。編集長が聞いたら、喜ぶわよ。きっと」

「編集長が、ですか? 喜んでくれるかな……。いっつも怒られてばかりだし」

「ハルハルに期待してるのよ。だから、いろいろと指導してくれるの。ドゥーユーアンダスターンド?」

「――ですかねえ。叩かれてばかりですけど。どうして、すぐに叩くんでしょうね」

「それが、あの人の愛情表現なのよ」

「愛情があったら、叩かないですよね、普通」

「素直なのよ。直結型ね、あれは」

「直結型?」

「感情が運動神経に直接伝わるタイプよ。すぐに表情が顔に出るでしょ、あの人」

「表情は顔にしか出ないと思いますけど……」

「そうじゃなくて、分かりやすい顔をするってことよ。怒った時は怒ってますって顔だもんね。ま、ありゃ、嘘がつけないから、政治記者を続けるのは大変だったんでしょうね」

「そう言えば編集長、どうして、こっちに異動になったんですか。新日風潮社の本社移転で、東京の新聞社から異動になったって言ってましたけど」

「よく知らないけど、あの人のことだから、どうせ、本社のお偉いさんにでも噛み付いたんでしょ。真っ直ぐだもんね、編集長」

「まあ、そこは、好きな所ですけど……」

「だけど、あんたよりは、ずっと大人だからね。気をつけなさいよ。ああ見えて、結構な駆け引き上手だったりするから。頭もキレるし。ああ、違う意味でも直ぐにキレるけど」

「優しい人だとは思いますよ。――でも、なんで叩くかな」

 春木陽香は指先で頭を掻いた。

 勇一松頼斗はニヤリとすると、再びラーメンを食べ始めた。するとそこへ、ヒールの音を激しく鳴らして、肩を怒らせた山野紀子が帰ってきた。二人は慌ててラーメンの器に顔を隠す。

 山野紀子は二人の後ろを速足で通り過ぎ、自分の机の横で立ち止まって腰に手を当てた。春木と勇一松は器の中で麺を咥えたまま、目線だけを山野の背中に向ける。彼女は右足のヒールの先で小刻みに床を鳴らしていた。

 激しく頭を掻いた山野紀子は、横の机を強く叩いた。

「ああ! 腹立つわ。何よ、あの女。ムカつく!」

 大きな打撃音にビクリとして両肩を上げた春木と勇一松は、麺を噛み切って器から顔を上げた。一度二人で顔を見合わせると、春木陽香から順に恐る恐る山野に尋ねた。

「ど、どうしたんですか。編集長」

「女って誰よ」

 山野紀子は振り返ると、両手を広げて二人に訴えた。

「技官よ、技官。岩崎いわさきカエラっていう、科警研の女研究者!」

 春木陽香が目をパチクリとさせながら言った。

「え? 科警研って、もう桜森ろうもり町まで行ってきたんですか。山多やまた区の端の方ですよね」

 山多区は新首都新市街の北西にあり、県境の下寿達かずたち山の麓に広がっている地区である。その中の楼森町は緑に覆われた森林地帯の中に国や企業の研究機関、大学などが集っている地域だ。新日ネット新聞ビルが建っている高層ビル街からは明らかに離れた位置にある郊外型の研究都市である。短時間で往復するには、少し無理があると思われた。

 当然の問いかけをした春木に、山野紀子も当然のように答えた。

「ええ。AI自動車を全速でぶっ飛ばしてきたわ。電圧メーターが降り切れるまでアクセル踏みこんで。腹たったから」

 椅子を横に向けた勇一松頼斗が眉間に皺を寄せて言った。

「危ないわねえ。どうしたのよ、一体」

 山野紀子は腕組みをして、紅潮した顔で答える。

「どうしたも、こうしたも、ないわよ。会っていきなり、怒りマックスよ」

「会っていきなり? そんなに態度が悪かったんですか、その技官さん」

 春木の問いに対し、山野紀子は首を横に振った。

「いや、悪くなかった。至って普通。むしろ、好感度抜群よ。性格も良さそうだし」

 春木と勇一松は再び顔を見合わせる。

 勇一松頼斗が冷静に山野に尋ねた。

「で、何が問題なのよ」

「若いのよ」

「わかい?」

 首を傾げてそう聞き返した春木に指先を向けて、山野紀子は言った。

「そ。どう見ても三十台前半。いや、服で誤魔化したら二十代後半もいけるわね。しんちゃんと同級生なら、私よりも一つ上のはずなのに、お肌もツヤツヤ! 腹立つう!」

 勇一松頼斗が呆れた顔で言った。

「それで、車を飛ばして帰ってきたわけ……」

 山野紀子は勇一松の前まで少し出て、指を振りながら必死に訴えた。

「しかも、しかもよ。その人、美人なの。超美人。それにスタイルも抜群。胸もこんなに大きくて……」

「あら、今度、グラビアのモデルを頼もうかしら」

 四十六歳の山野紀子は、爪を噛みながらブツブツと呟いた。

「あれは絶対に何かやってるわね。皮膚交換手術とか、人工脂肪の注入とか……」

 春木陽香は椅子に座ったまま、遠慮気味に山野に確認した。

「あの……それで、その技官さん、岩崎さんでしたっけ、その人に早く論文の真偽判定をするようには言ったんですか」

 山野紀子は春木を指差して言った。

「そうよ。そしたら、その技官、何て言ったと思う?」

 春木陽香は答えた。

「うーん……ぺチャパイさんのご要望には応じられませんわ、とか。あ痛っ」

 春木の頭上に一発落とした山野紀子は、真顔で春木に言った。

「違うわよ。失礼ね」

 そして、再び自分の机の前に歩いていきながら、身振り手振りを交え、悪意に満ちた再現口調で事情を説明した。

「この論文は既存の物理理論の大修正につながるかもしれない難しい内容だから、その吟味には時間が掛かります、ですって。プロにはプロとしての視点と精査のレベルがありますから、早々に適当な返事は出来ません、だってさ。挙句には、ちょっと本気で読み込むつもりだから、邪魔しないで帰ってもらえますか、と来たじゃない。――きいいい。ホント、腹立つわ!」

 春木陽香と勇一松頼斗は、三度顔を見合わせた。

 話し終えた山野紀子は、会議室側の壁際の机の前をスタスタと歩き始めた。そして、その端にある勇一松の机の前で身を屈めると、起き上がった。彼女の肩には勇一松の三脚が担がれていた。山野紀子は、そのまま編集室の出口の方に歩いていった。

「ちょっと、上に行ってくる」

 三脚を肩に担いで狭い廊下を歩いていく山野に、春木陽香が言った。

「はあ……あの、編集長。田爪博士の家は売られていて、別の人が住んでいました。私たち、午後からリニアで東京に……ああ、行っちゃった」

 勇一松頼斗は怪訝な顔で廊下の方を見つめながら呟いた。

「いったい何に怒ってるのよ、あの人」

 春木陽香は再び箸に麺を引っ掛けて上げながら、勇一松に言った。

「その技官さんが言っていることは、その通りですよね。内容が内容ですから、じっくり読んで吟味してもらわないと。いい人だったんなら、何が問題なのかな……」

 一度首を傾げてから、再び麺を啜り始めた春木の隣で、勇一松頼斗はスープだけになった器を両手で持ち上げながら言った。

「ありゃ、嫉妬ね。放っておきましょ。お腹空いている時の中年女の嫉妬が一番厄介だからね。触らぬ神に祟り無しって、昔から……神、――神作こうさ……」

 勇一松頼斗は慌てて器を机の上に置いた。

 箸を止めた春木陽香は、一拍置いてから隣の勇一松頼斗と顔を見合わせる。一瞬の間の後、春木陽香は箸を器の上に放り投げて素早く立ち上がり、同時に立ち上がった勇一松頼斗に言った。

「と、止めないと!」

「私の三脚う!」

 二人は狭い廊下の先のドアまでバタバタと駆け出していった。



                 4

「お、ちょっ、ちょっ、ちょお! ちょっと待って」

 閉まりかけたドアの隙間からエレベーターの中に別府博が飛び込んできた。そこには薄型の立体パソコンを抱えた永峰千佳が一人で乗っていた。

「おお、永峰さん。お久しぶり」

「お久しぶりですね、別府さん」

 永峰千佳は、そっぽを向いて答えた。

 別府博は永峰が胸の前で抱えているパソコンを指差して、からかうように言った。

「なに? 仕事?」

「当たり前でしょ。職場のエレベーターですよね、これ」

「ふーん」

 別府博は腕組みをして、目を細めながら永峰を見つめた。その馬鹿にしたような態度に腹を立てた永峰千佳は、少し棘のある口調で別府に言った。

「そっちは何ですか。また、誰かのヌード写真の交渉ですか」

「ブー。残念でした。重要な記事の取材でーす」

「重要な記事の取材? 別府さんが」

「失礼だな。君こそ何だよ。また、街の『ご長寿お婆ちゃん』のインタビューかい?」

「それは、この前のクリーニング屋のお婆ちゃんだけです。今回は違いますう」

「なんだよ。教えろよ」

「教えません。取材の秘密は、たとえ系列会社の社員でも、教えられまっせん」

 再びそっぽを向いた永峰に別府博は言った。

「何か、ウチの編集長の真似してない?」

「何とでも、どうぞ。すっごいネタを掴んじゃったから。ふふん」

 余裕の笑みを浮かべた永峰に、別府博もそっぽを向いて言った。

「あ、そうですか。ま、いいけど。こっちは総理府だしね」

「総理府? 何しによ」

「それは言えませんねえ。取材の秘密は教えられませんから。へへへ」

「何か、腹立つわね。その日焼けした顔で言われると、余計に腹立つ」

 永峰千佳は別府を一睨みして、また、そっぽを向いた。別府博はニヤニヤしながら上を見上げている。二人はそのまま黙って、エレベーターが目的の階に着くのを待った。

 程無くしてドアが開いた。新日風潮社の編集室がある階である。別府博が降りようとすると、春木陽香と勇一松頼斗が駆け込んできた。別府博は永峰と共にエレベーターの奥に押し戻された。

 ドアが閉まったのを見て、別府博は春木たちに言った。

「ちょっと、ちょっと。何だよ、二人とも。血相を変えて」

 春木陽香は深刻な顔で別府に訴えた。

「じ、事件なんです。いや、事件になるかもしれないんです」

 永峰千佳が尋ねた。

「事件? どこで何が起こったの」

 勇一松頼斗はエレベーターの階数表示に目を遣りながら答えた。

「起こるかもしれないのよ。これから。――もう、このエレベーター、遅いわね。早くしなさいよ。あの三脚、私の私物なのよ」

「三脚?」

 春木と勇一松の背後で、別府博と永峰千佳は顔を見合わせている。春木と勇一松はエレベーターが新日ネット新聞社の社会部フロアに到着するのを落ち着かない様子で待っていた。

 ドアが開いた。社会部フロアである。春木陽香と勇一松頼斗はドアが開ききらないうちに外に駆け出して、社会部編集フロアへ入るゲートの方に走っていった。

 エレベーターの中に残された別府博は、隣の永峰に言った。

「何だろうね。二人とも」

「さあ。見ていく?」

「まあ、忙しいけど、少しくらい息抜きするか。どうせ昼休みだし」

「別府さんは勤務中、ほとんど息を抜いてばかりでしょ」

 二人はゆっくりとした足取りでエレベーターから出てきた。

 エレベーターホールから歩いてきた別府博と永峰千佳は、社会部フロアへ通じるゲートを通ってすぐに立ち止まった。手前の机の「島」の近くで、神作真哉が頭を押さえてうずくまっている。その横には、三脚を振り上げている山野紀子が立っていた。その後ろで勇一松頼斗がぶら下がるようにして三脚を掴んでいる。山野の腰には春木陽香が抱きつき、必死に山野を止めていた。近くの席の記者たちは身を引いて固まっている。

 頭を押さえながら神作真哉が立ち上がり、苦痛に満ちた顔で山野を見て、言った。

「いってえなあ。何だよ、おまえ、いきなり……」

 山野の後ろから勇一松頼斗が懸命に訴えている。

「お願い、放して。私の三脚を壊さないでえ」

 その下で春木陽香が山野にしがみ付きながら、叫んでいた。

「編集長! 殿中でござる、殿中でござるう!」

 三脚から手を離した山野紀子は、紅潮した顔で鼻を膨らませながら、神作に言った。

「巨乳だからでしょ。美人で巨乳だから、論文の精査を頼んだのね」

 神作真哉は頭を押さえながら言う。

「アホか。あいつは、小中高と同級生なんだよ。俺たちの結婚式にも来ただろうが」

「覚えてないわよ、そんなこと。お酒を飲み過ぎてひっくり返った新郎の介抱で大変でしたからね。だいたい、同級生ってのも怪しいわよね。どう見ても三十台前半じゃない」

 神作真哉は溜め息を吐くと、一言ずつ手を振りながら山野に説明した。

「だから、同級生なの。俺と同じ四十七歳。一九九一年生まれ。よく見りゃ分かるだろう。――ああ、タンコブ出来ちゃったじゃねえか。くそっ」

「童顔でもないのに若く見えることが、余計に腹立つのよ。何なのよ、アイツ」

「知るかよ。年取らない体質か、隠れて何かやってんじゃねえか。俺に言うなよ、俺に」

「じゃあ、もう一回行って訊いてくるわよ」

「編集長! お待ちくだされえ、編集ちょおお!」

 春木陽香が山野の腰にしがみついたまま必死に叫ぶ。

 春木を引きずりながら向かってくる山野を見て、別府博と永峰千佳はゲートの前から退いた。すると、神作真哉が手招きしながら言った。

「おい、おい、おい。紀子、ちょっと……」

「何よ」

 春木を引きずりながら戻ってきた山野に、神作真哉は口の横に手を立てて言った。

「いいから、ちょっと耳貸せよ」

「何よ」

「あのな、アイツはな……」

 耳打ちした神作から頭を離した山野紀子は、驚いた顔で神作に言った。

「はあ? だから、頼んだの? 意味分かんない」

「意味なんてねえよ。ただ、あいつの性格からすると、すっげー頑張って、細かくあの論文を読むと思うんだわ。批判的見地から。今のお前みたいに」

 自分を指差してそう言った神作に対し、山野紀子は口を尖らせて尋ねた。

「今の私……どういう意味よ」

 神作が説明しようとした時、見物人を押し退けて谷里部長が現れた。

「ちょっと、あんたたち、何やってんのよ」

 春木陽香は山野の腰にしがみ付いたまま咄嗟に答えた。

「ち、違います。あの……お昼のエクササイズです。こうやって負荷をかけて、お腹、引っ込めえーって。あ痛っ」

 山野から拳骨を食らった春木陽香は、頭を押さえてうずくまった。すぐ近くの机の上で電話の呼び出し音が鳴っている。神作真哉は春木を立たせながら、周囲の見物人に言った。

「ほら、電話が鳴ってるぞ。誰か出ろよ」

「どうも、信用できないわね……」

 山野紀子は腕組をしたまま、目を細めて神作を見ていた。

 勇一松頼斗は床に座って、三脚に歪みが無いかを確認している。

 呼び出し音が鳴り続ける。黒木局長からの叱りの電話であると、誰もが予想していた。電話に出た者が憤慨した黒木からこの事態の説明を求められることは必至だった。元夫婦の痴話喧嘩に誰も巻き込まれたくはない。電話の呼び出し音は鳴り続けたままだった。

 すると、谷里部長が苛立った声で言った。

「ちょっと、早く誰か出なさいよ」

 慌てて止めようとした永峰に気付かないまま、春木陽香が受話器を上げた。別府博は顔を右手で覆う。

 春木陽香は、その電話のリスクを何ら考えずに、普通に電話に出た。

「はい、新日風潮……違った、新日ネット新聞、編集局社会部です」

 春木のことを心配そうに見ながら、永峰千佳は隣の別府に小声で言った。

「すごい息抜きになりましたね」

「なるか。この後、編集長と同じ部屋で仕事するんだぞ。地獄の方が、まだマシなんじゃないかと思えてきたよ」

 そう答えた別府の方を山野紀子がにらみ付けた。目から光線が出そうである。

「別府う……地獄見せたろか」

「じょ、冗談です。冗談」

 別府博は額を汗で濡らしながら、必死に顔の前で手を振った。

 受話器を肩の上で握ったまま、春木陽香が大きな声で伝えた。

「神作キャップ、あの、キャップと替われって……」

 神作真哉は頭のコブを押さえながら言った。

「いててて……ったく、何で俺が叱られるんだよ。こっちは被害者だろうが」

 そうブツブツと言いながら近寄ってきた神作に受話器を差し出しながら春木陽香は言った。

「外からです。神作真哉に替われって」

「あ? 誰だよ」

「それが、変な名前の人で。外国人ですかね、ダーティー……」

「ああ、いい。替わる、替わる」

 慌てて受話器を受け取った神作の方に、ゆっくりと視線を向けた山野紀子が言った。

「があーいこおーくじいーんですってえ。やっぱり巨乳好きかあ!」

 春木陽香が透かさず山野の前に立ち塞がって、神作の方に突進しようとする山野の肩を押さえながら言った。

「違います、編集長、落ち着いて。男の人でした。男性です」

 山野紀子は鼻の穴を膨らませて叫んだ。

「離婚したら、そっちに走ったのかあ!」

「だから、違いますって」

 必死に山野を押さえている春木の横に、爪楊枝を咥えた上野秀則が現れた。

「おい、お疲れ。どうした、みんなそろって」

 山野紀子が上野に叫ぶ。

「うるさい! 偉そうに登場すんな。うえにょのくせに!」

「くせにって何だよ。名前だろうが。ていうか、俺は上野だし、お前の先輩だし!」

 谷里部長が口を挿んだ。

「ちょっと。いい加減にしてよ。下の週刊誌の人がここで何やってるの。ここは新聞の社会部のフロアよ。部外者は出て行ってちょうだい」

「こっちも取材の話で来てるのよ。この男が美人で巨乳の年齢詐称女に論文を……」

「紀子」

 山野の発言を制止した神作真哉は、谷里部長に言った。

「いやあ、趣味でね、巨乳と貧乳の相関関係についての論文を書いているのが、元女房にバレちゃったんですよ。はははは。下で話し合ってきます。すみませーん」

 上野に付いて来るよう目で合図を送った神作真哉は、首をヒョコヒョコと前に出しながら、エレベーターホールへと向かった。

 春木陽香は谷里部長に愛想笑いをしながら、山野を押してゲートへと向かう。

「はははは、すみませーん。失礼しましたあ」

 すると、重成直人が現れて谷里部長に言った。

「ああ、部長。真明教の記事、少し出来たんですけど、こんな感じでよかったですかね」

 重成直人は原稿を谷里に見せながら、腰の後ろで手を小さく振って、早く出て行くように永峰と別府に合図した。

 永峰千佳と別府博は、三脚を抱きかかえて出て行く勇一松頼斗の後から、ゲートを潜ってエレベーターホールへと向かった。原稿を持って谷里部長がその場を去ると、周りを取り囲んでいた見物人たちも呆れた顔をして自分の席へと帰っていく。

「まったく。頼むぜ、ほんとに。懸けてるんだからよ……」

 重成直人は胡麻塩頭をかきながらボソリと吐いて、ホールでエレベーターを待っている七人の記者たちを遠目に見ていた。



                 5

 エレベーターで階下に向かった神作たちの一行は、職員の福利厚生用に設置されたジムが在る階の休憩室まで移動した。後付けの簡易な壁で囲まれただけの狭い休憩室は、低いテーブルを挟んで左右の壁際に安物の長いソファーが置かれているだけだ。突き当たりの壁の半窓も前に置かれた自動販売機でほとんどを覆われているので、室内灯の光が無ければ日中でも少し暗い。ドアを閉めた上野秀則は、ドアノブの摘みを横にして鍵を掛けた。この部屋に旧式の鍵があるのは、ここが元々用具置き場だった名残である。振り返った上野秀則は、先にソファーに座っていた別府と勇一松に詰めるよう手を振ると、横に移動した別府の隣に腰を降ろした。向かいのソファーには山野と春木、永峰が座っている。

 自動販売機の前で冷えたジュースの缶を頭のコブに当てていた神作真哉は、勇一松の隣に気だるそうに腰を降ろすと、早速、山野に怒鳴った。

「お前、馬鹿か! 何のために週刊誌が別働隊で動いているのか少しは考えろ。あれじゃ上にバレバレじゃねえか!」

 山野紀子は下を向いて反省しながら、申し訳ないといった顔で神作に言った。

「そんな言い方しなくてもいいじゃない……」

 すると、隣の春木陽香が真っ直ぐに挙手した。

「はい。あのお、報告でーす」

 神作真哉は更に山野を叱り付けようと口を開きかけていたが、春木の挙手に怒鳴るタイミングを失い、諦めたようにソファーに背中を倒した。

 春木陽香は発言を続けた。

「ええと、午前中に、田爪博士の十年前の自宅にライトさんと一緒に行ってみましたけど、既に別人に売られていて、その後も転売されてて、現在は無関係な別人が住んでいました。登記簿も確認しました。売られたのは、第二実験のすぐ後です」

「そう。じゃあ、その後の田爪瑠香の足取りは不明なの?」

 山野の問いに春木陽香は姿勢を正して答える。

「はい。それで、午後から東京の瑠香さんの母校に行こうと思っているんですけど、賛成の人お、手を挙げてくださーい」

 それは、もともと予定していたことであったのだが、神作に責められる山野を彼女なりに守ろうと、話題を変えるために、春木陽香は敢えて皆に質問したのだった。

 山野紀子と別府博、勇一松頼斗と上野秀則がすぐに手を上げた。永峰千佳は皆の顔を見ながら、遅れて小さく手を上げる。神作真哉は缶ジュースで頭を冷やしながら呟いた。

「学級会かよ」

 身を起こして前屈みになった神作真哉は、ジュースの缶を膝の前で握りながら言った。

「ああ、そうだ。さっき、俺の情報屋から新しい情報を仕入れた。田爪健三の本籍地と親族関係が分かったそうだ。――だが、親戚とは、あまり近しい関係では無かったらしい。どうする? 一応、要るか」

 神作真哉は目線だけを春木に向けた。春木陽香はコクコクと首を縦に振る。神作真哉も頷いた。

「わかった。じゃあ、後で持っていくよ。高橋諒一と高橋千保のそれぞれの親戚も分かったそうだから」

 自分の山野への必要以上の罵倒を止めてくれた春木への礼のつもりだった。

 春木陽香は神作に尋ねた。

「情報屋って、さっきの変な名前の人ですか。たしか、ダーティ……」

 神作真哉は口の前に人差し指を立てると、大袈裟に深刻な顔を作って春木に言った。

「シー。忘れろ。消されるぞ」

 春木陽香は「はあ……」と言って山野の顔を見た。山野紀子は神作に合わせて、わざとらしい深刻な顔で頷いて見せた。

 神作真哉は再び後ろに身を倒して、缶を頭に当てながら言った。

「で。他に何か新しい情報は」

「はい、あります」

 別府博と永峰千佳が同時に、そう答えた。不機嫌そうに互いの顔を見た二人は、再び同時に発言した。

「真明教!」

 上野秀則が呆れたように言った。

「一人ずつ言えよ、一人ずつ。永峰から」

 永峰千佳は別府に対して少し得意気な顔を見せながら、テーブルの上に薄型の立体パソコンを置いた。それを操作しながら、彼女は報告を始める。

「ええと、例のタイムトラベル学会のウェブサイトへの書き込み、その通信の発信元の位置をかなり絞り込むことが出来たんです。やっぱり、南米大陸の北東部からでした。それが、ここです」

 パソコンの上にホログラフィーで立体地図が浮かべられた。南米大陸の全体像を立体的に表したものだ。そのホログラフィーの一部に永峰が指先で触ると、その部分が次第に倍率を上げていき、拡大表示されていく。立体画像は徐々に変化を繰り返し、やがて、山間部の谷間を流れる太い川と、その横の平坦な土地に小さく箱型の物が並べられているものに変わった。略式で地形や起伏と町の所在を表わしているその立体地図には、ある町の一部分にだけに四角い枠が表示されていた。

 一同は、その地図を覗き込んだ。

 勇一松頼斗が言った。

「やだ、戦闘域のド真ん中じゃない。しかも、ジャングルに囲まれた寂れたスラムでしょ。こんな所で兵士がインターネットで書き込み? 随分と呑気な兵士ねえ」

 永峰千佳は、その地図の上に浮かんでいた小さなファイルのホログラフィーを両手の人差し指と親指で摘まむと、そのまま左右に広げた。テーブルの上に浮かんだ立体地図の上に碁盤の目が広がる。その升目の中には小さな青い点が幾つか表示されていた。

 永峰千佳は、そのホログラフィーを、網を被せるように降ろしながら言った。

「ここに、両軍の協定で作られた非戦闘区域のポイントを重ねてみます」

 碁盤の目のような線が立体地図の上に重なった。地図の拡大率に合わせて、青い点も大きくなり、円形の表示に変わった。それを見て、山野紀子が声をあげた。

「ああ、ホントだ。重なってる」

 町の一角に表示された四角い枠が、一つの青い円盤の中央に浮かんでいた。それを指差しながら、勇一松頼斗が尋ねた。

「ここって、南米連邦政府とゲリラ側が協定を結んで、互いに攻撃対象から外している区域よね」

 神作真哉が言った。

「そうだ。その協定を仲介したのが、真明教だ」

 永峰千佳が解説する。

「正確には、真明教の教団施設がある地域で、そこが難民収容所も兼ねているんですが、今はどこの非戦闘区域でも、教団施設だけでは難民を収容しきれなくなっていて、その周囲にスラム街が形成されています。数十万人規模の。中には百万人規模のスラムもあるみたいです」

 上野秀則が呟いた。

「完全に都市化している訳かあ……」

 永峰千佳は頷いて答えた。

「ですね。通信インフラもそれなりに出来上がっているので、衛星多次元ネットへのリンク元を絞ってみました。この画像で拡大すると、この百メートル四方のどこかです」

 更に立体地図を拡大させた永峰千佳は、大きく表示された町のホログラフィーにはめられた四角い枠を指差して、そう説明した。四角い枠の中には、それと同じ広さの、塀で囲まれた敷地と、教会と寺院を合わせたような建物が何棟も表示されている。

 立って上からホログラフィーを覗き込んでいた神作真哉は、顎先を掻きながら言った。

「ほとんど、教団施設の敷地内か……」

「国防軍とか警察なら、数十センチ四方まで絞れるんでしょうけれど、私にはこれが限界で。――すみません」

 永峰千佳が申し訳ない様子でそう言うと、神作真哉がソファーに腰を戻しながら彼女に手を振って言った。

「いやいや、上出来だ。たった一人で、よくここまで絞り込めたな。たいしたものだ」

 勇一松頼斗が下からホログラフィーを覗きこみながら尋ねた。

「つまり、現地人の教団信者が発信した可能性が大ってことなの?」

 永峰千佳は頷いて見せると、左右に広げた手でホログラフィーの立体地図を掴み、その手を合わせた。ホログラフィーは永峰の手の動きに合わせて小さく縮まり、地球儀の形に変わった。永峰千佳は、宙に浮いたままの小さな地球儀を指先で摘まんで、隅に浮いている箱の中に入れると、今度は箱の中からバインダーのホログラフィーを掴んで取り出し、空中に浮かせて表示させた。そして、そのホログラフィーを少し拡大してから、指先でその立体画像の頁を捲りながら言った。

「一応、日本の教団本部が作っているウェブサイトも覗いてみたんです。そしたら……」

 頁を捲る手を止めた永峰千佳は、その中から何かを引き出すような手の動きをした。すると、バインダーから文書のホログラフィーが何枚も飛び出してきて、空中に並んだ。それは真明教団のウェブサイトに外部から投稿された「書き込み」のコピーだった。その中の一枚の文書ホログラフィーを指差して、永峰千佳が言った。

「ここです。ほら、同じ書き込み」

 腰を上げてその文書ホログラフィーを覗き込んでいた山野紀子が言った。

「ホントだ。じゃあ、教団が関与しているというより、書き込んだ人間が、単に教団の信者だったというだけなのかしら」

 神作真哉が缶ジュースの蓋を開けながら言った。

「その可能性の方が大きいな。教団が関与していたら、自分たちのウェブサイトに同じ内容を書き込んだりはしないだろうからな。こうやって足がついてしまう」

 上野秀則が額を掻きながら言った。

「しかし、これじゃ永山に教えられないな。あいつ、これを知ったら、ドンパチやってる戦闘地帯を突っ切って、さっきの町まで行きかねないぞ。たぶん、第一級戦闘区域に近い場所だろ。きっと、ジャングルの中はゲリラ兵だらけだ。見つかったら、殺されちまう」

 南米戦争は激化していた。特に、戦闘頻度の高い第一級戦闘区域に指定された領域では惨劇が繰り返されているというのが、記者たちが得ている生の情報だった。

 神作真哉は上野に同意した。

「だな。もう少し情報が確定するまで、あいつには伏せておこう。千佳ちゃん、現地で類似の書き込みをしている人間が他に居ないか、真明教やタイムトラベル学会のウェブサイトから探し出してくれないか。永山には、なるべく安全な場所に取材に行かせたい」

 パソコンの立体表示を閉じていた永峰千佳は、神作の目を見て、しっかりと頷いた。

 山野紀子が言った。

「別府君の方は?」

 別府博は腕組みをしながら報告を始めた。

「総理府の事務官に聞いてみたんですが、例の投書、あれ、全て司時空庁に回されているみたいですね。結局、官邸内部までは届いていない。総理府の事務局、しかも、郵便受付レベルの段階で、司時空庁所管だってことで、そっちに回されちゃってるみたいです」

 ソファーに腰を降ろした上野秀則が言った。

「だろうな。いつものことだ」

 山野紀子は口を尖らせている別府に尋ねた。

「で、官邸は、届いた事実を知っているの?」

 別府博は頭を掻きながら答えた。

「いや、知らないんじゃないですかね。その事務官も、そこまでは教えてくれませんでしたけど、何となく、上には伝えていないって感じでしたよ。親切で司時空庁に回したような口ぶりでしたし」

 別府の曖昧な取材内容に眉を寄せた上野秀則は、神作と目を合わせていたが、ハッとしたように山野の顔を見て言った。

「津田か。奴が手を回したんだな」

 予想どおりだと言わんばかりの顔で山野紀子は頷いた。別府博は更に付け加えた。

「それから、タイムマシンの搭乗者」

「え、搭乗者のリストが手に入ったの?」

 驚いた顔でそう言った山野に向けて、別府博は肩の高さに両手を上げて見せた。

「まさか。ただ、乗ったって噂の人物を聞いたので、そこを訪ねてみたんです」

 ジュースを飲みながら聞いていた神作真哉は、慌てて缶を口から離して、尋ねた。

「――誰だ、それ」

「新都急行の前社長です。大手運送会社の」

 上野秀則が言った。

「ああ、あそこの社長かあ。俺も聞いたことがある。あの会社、今は潰れかけなんだろ」

 別府博は横を向いて、隣の上野に答えた。

「ええ。二代目の社長の経営能力があまり高くないようで。締りがないというか。この話を聞いたのも、その二代目社長からですよ。まあ、口が軽い軽い……」

「それで」

 神作に促されて、別府博は話を続けた。

「先代の社長がタイムマシンでタイムトラベルしたのは、本当だそうです。ただ、その社長、真明教の信者だったんですよ」

 山野紀子と春木陽香は顔を見合わせた。それを見て、神作真哉が言った。

「まあ、そういうこともあるだろ」

 ところが、別府博は真剣な顔で、それに疑問を呈した。

「でも、変ですよね。真明教の信者なら、過去に戻らなくても、南正覚の予言を聞いて、それで未来に対処すればいいんじゃないですかね。過去に戻ってやり直すって、変じゃないですか」

 隣から上野秀則が意見を述べた。

「単に興味本位で乗ったのかもしれんぞ」

 別府博は腕組みをして首を傾げながら、少し自信無さそうに言った。

「まあ、そうですけど、一応、当たってみました。教団の首都圏施設本部に行って」

樹英田きえた町のか」

 ジュースを飲み終えた神作真哉が部屋の隅のゴミ箱に缶を投げ入れながら、そう言った。缶はゴミ箱の後ろの壁に当たり、跳ね返って床に落ちた。神作真哉は面倒くさそうに腰を上げ、空き缶を拾いに行く。

 別府博は神作の方を向いて説明を続けた。

「はい。そこの関和野かんわのっていう信者の話では、どうやら南正覚は、タイムマシンに乗ることを信者たちに奨励しているようなんです」

 神作真哉は腰を曲げて空き缶を拾いながら、別府に言った。

「まあ、まともな宗教学者たちからは教義内容に矛盾が有り過ぎるって、インチキ宗教扱いされている団体だからな。その話を聞いても驚きはしないが……」

 神作真哉は拾った空き缶を持ってゴミ箱から少し離れ、狙いを定めてから、もう一度その空き缶をゴミ箱に投げ入れた。その神作の背中に向かって別府博が言った。

「でも、あの教団、有働武雄ゆうどうたけおの総理就任の際に資金面で彼をバックアップしたんですよね」

 カランと音が響く。神作真哉は缶がゴミ箱に入ったことを確認して、軽くガッツポーズを取っていた。すると、別府の隣から上野秀則が言った。

「ああ、そうだ。有働が失言で政界を追われた後、彼に巨額の政治資金を提供して政界へのカムバックを実現させ、総理にまで押し上げたのも、奴らだ。だが結局、その事実が仇となって有働武雄は総理大臣を辞任することになった。宗教団体から政治資金の提供を受けていたというのは政教分離に抵触するんじゃないかと野党に突かれてな。その後にストンスロプ社の後押しで今の辛島勇蔵からしまゆうぞうが総理に就任したんだ」

 神作真哉は振り向いて、別府に尋ねた。

「それが、どうかしたのか」

 別府博は記憶を辿りながら必死に答えた。

「その有働武雄ですが、時吉総一郎の前任の初代司時空庁長官、ええと……」

熊迫くまさこか」

 助け舟のように答えを出した上野の方を向いて、別府博は続けた。

「そうそう。熊迫昌久くまさこまさひさ。彼を押したのが有働武雄、当時の現役総理大臣。まあ、法的にも任命権者ですから、当然ですが、その熊迫が短期間で退庁する原因となったのが、真明教からの政治献金じゃなかったでしたっけ」

 山野紀子が頷いて言った。

「そうよ。ガッツリ貰ってた。それを民事法廷で明らかにしたのが、当時弁護士だった時吉総一郎。パパ時吉よ。でも何故かその裁判は突如、和解が成立して終結。当の熊迫は突然、政界を引退すると言い出して、司時空庁長官を辞任した。で、その後釜として二代目の司時空庁長官に任命されたのが、パパ時吉。出来過ぎてるわよね。しかも、その後は賄賂を貰い放題」

 神作真哉が付け足した。

「時吉と有働が何らかの取引きをしたのは間違いない。だから俺たちは八年前の収賄金が何処に消えていたのかを探って記事にした。ま、結局は大半が女の所に流れていたがな」

 別府博は眉尻を指先で掻きながら言った。

「まあ、こっちの追跡取材で分かったのは、女性だけじゃなかったですけどね。無数の企業に金が流れています。僕の予想では、最終的には有働武雄前総理の所に行ったんでしょうね。あちらこちらを経由して、合法的に」

 上野秀則が少し厳しい口調で別府に言った。

「記者が最初から決め付けるな。それより、そのことが今回の件と、どう結びつくんだ」

 別府博は一度首を竦めてから言った。

「すみません。――ええと、賄賂の件はともかく、熊迫もパパ時吉も、有働の後ろ盾で司時空庁の長官に就任しています。二人とも、金銭スキャンダルで、言わば仕方なく長官職を辞していて、有働政権が退いた後に、有働とは接点が無い現役官僚の津田幹雄が長官に就任した。――調べたんですけど、パパ時吉辞任後の後任人事の決定でかなり揉めて、その時に、現長官の津田幹雄を強く推したのは、あのストンスロプ社なんですよね」

 上野秀則は頷きながら答えた。

「そうだ。だが、なぜストンスロプ社が津田を推したのかは、よく分かっていない。津田幹雄は随分と独りよがりな男だからな。平気で恩を仇で返す奴だと有名だ。なのに、ストンスロプ社は総理就任目前の辛島に津田を推薦した。あの頃、政治部に居た俺も驚いたよ。辛島を支援していたはずのストンスロプ社が、その辛島に対して、タチの悪い男を時期政権の幹部候補に推したんだからな。それで、よく覚えている」

 別府博は一人で納得したように何度も頷いた。

「うんうん。なるほど。で、その時に津田幹雄の就任に真っ向から反対したのが、総理辞任直前の有働武雄。辛島内閣が成立したのが二〇三一年、その前の有働内閣の頃にタイムマシンの民間人転送が始まったんですよね。たしか、二〇二九年から」

 山野紀子は少し苛々した声で言った。

「そうだけど、何が言いたいのよ」

 別府博は身振り手振りを交えながら、意見を述べた。

「真明教は、タイムマシンに乗ることを推奨している。その真明教から資金提供を受けていた総理大臣がタイムマシンでの民間人の転送を始めて、それを所管する司時空庁の長官には、やはり真明教から賄賂を受けていた熊迫や、有働と取り引きをしたと思われるパパ時吉を据えている。政権交代後も、その事業は現在まで続いていて、利益を上げているにもかかわらず、事業を始めた前総理大臣が辞任する間際に反対した津田が、巨大企業の後押しで長官になり、現在も司時空庁長官として君臨していて、やりたい放題。――タイムマシン事業を始めたことに何か理由があるのだとしたら、面白くない事態ですよね。有働と真明教としては色々な手を使って『津田降ろし』にかかるんじゃないでしょうか。例えば、タイムマシンの欠陥を指摘するとか」

 立ったまま天井を見て少し考えていた神作真哉は、頷きながら視線を別府に戻した。

「なるほどな。おまえ、冴えてるな。盲点だったよ。有働と真明教が津田を降ろすために、何者かを使って、『ドクターT』として論文を投稿させた。在り得る話だな」

 上野秀則が更に付け足した。

「いや、津田は本命じゃないかもしれんぞ。有働武雄は総理を辞めたとはいえ、いまだに強い権力を握っている。たとえば、警視庁の『特調』。あそこを今も陰で動かしているのは、有働前総理だって話だからな」

 春木陽香が山野に尋ねた。

「トクチョウって、何ですか」

 山野紀子は言った。

「警視庁公安部、特別調査課。略して『特調』。有働武雄が総理の時に設置された特殊セクションよ。彼の肝いりで出来たらしいわ」

 上野秀則が補足した。

「テロ犯罪の謀議を事前に察知するために公安内部に別枠で設立された独立セクションだが、実体は有働の政敵を排除するためのネタ集めの機関だと言われている。政治家や官僚の尾行、盗聴、不法侵入、なんでも有りの機関だそうだ。有働は今も、そこに強い影響力をもっているらしい」

 山野紀子が更に解説した。

「有働前総理が特調を手放さないのは、彼が総理の座に戻るのを欲している証拠ね。失った地位と権力を取り戻したくて仕方がないってことよ」

 永峰千佳が考えながら呟いた。

「津田幹雄が本命じゃないとすると……」

 神作真哉が言った。

「もちろん、辛島勇蔵だろう。津田が何かの問題で辞任するとなれば、任命責任を問われるのは総理大臣の辛島だ。もうじき任期満了を迎える辛島総理としては、ここでの問責事案は痛い。次の選挙でかなりのダメージになる。そこへ有働武雄が返り咲くという算段なのかもしれん」

 山野紀子はソファーにもたれながら言った。

「あの二人、昔から争っているのよね。二人共いい御爺ちゃんなのに、よくやるわねえ」

 神作真哉は山野に言った。

「だが、筋としては繋がるな。実はな、こっちも埋め草ネタで、真明教の助成金関係の話を追わされているんだ。赤字続きの真明教の関連団体に多額の補助金や助成金が下りているのは、どうも、有働前総理が裏で官僚たちにプレッシャーをかけているかららしいんだよ。シゲさんが調べてくれた」

 山野紀子が身を乗り出して言った。

「有働がそこまでするのは、真明教を生かす必要があるからってことよね。よし、別府君は、もう少し有働の線を詳しく当たってくれる。真ちゃんたちは真明教をもう少し調べてみて。ハルハルとライトは、『ドクターT』。いいわね」

 別府博は頷いた。春木と勇一松も一度視線を合わせてから頷く。神作真哉と上野秀則も顔を見合わせた。皆、さっきまで怒り狂っていた山野が何故か急に機嫌よく仕切り始めたことが少し不思議だったのだ。神作と上野は笑いを堪えながら、山野に何か言ってやろうと、言葉を探していた。

「編集長は、どうするんで……」

 春木陽香が山野に尋ねようとしたが、山野の左目が青く光っていたので口を閉じた。イヴフォンの着信だ。山野紀子はワイシャツの胸元に挟んでいるイヴフォンを操作しながら、即答した。

「私は巨乳女の監視に決まってるでしょ。――もしもし、山野でーす」

 春木陽香は神作に視線を移した。彼は疲れ顔で項垂れていた。春木陽香は、今度は勇一松に視線を向けた。彼は首を横に振りながら嘆いた。

「話しが難しくて全然分からなかったわ。ハルハル、後で説明してよ」

「はあ……」

 隣で左目を青く光らせている山野紀子が声をあげた。

「――ええ! 本当なの?」

 宙に焦点を合わせて話している山野を見つめながら、上野秀則が言った。

「イヴフォンで通話している奴を見ると、滑稽だよな。幻覚を見てるか、独り言を発しているようにしか見えないもんな」

 勇一松頼斗が立ち上がりながら言った。

「ウェアフォンの骨電動通話だって変わらないじゃないのよ。ホログラフィーの立体通話が一番よ。立体通話」

 上野秀則も立ち上がり、ドアの鍵を開けた。すると、山野紀子が大きな声で言った。

「大変よ。司時空庁のタイムマシン発射施設が、何者かに襲撃されたって」

 外に出て振り返った上野秀則が言った。

「はあ? いつだ」

 山野紀子は胸元のイヴフォンを操作しながら答えた。

「金曜日の夜じゃないかって。今、テレビ局の友人が教えてくれた」

 ソファーから立ち上がってドアの前に移動していた神作真哉が尋ねた。

藤崎ふじさきさんか」

「うん。あっちが掴んだ情報だと、搭乗者用の宿泊施設内で襲撃者と司時空庁のSTS部隊がかなり激しい戦闘をしたらしいわよ」

 上野秀則は呆気に取られた顔で言った。

「金曜の夜って……、おいおい、今はもう月曜日の昼じゃないか。なんで情報が回るのがこんなに遅れたんだよ」

 山野紀子はソファーから立ち上がりながら言った。

「例によって例の如くよ。司時空庁が隠蔽しようとしたんでしょ。幹雄めえ。マスコミをナメてんじゃないわよ」

 神作真哉は休憩室の外に出ながら言った。

「とにかく、現地に行ってみる。ああ、シゲさん」

 ジムフロアの向こうから、重成直人が手を振りながら駆けて来た。

「おお、居た居た。神作ちゃん、大変だ。司時空庁の発射場で……」

「聞きました」

 被せてそう答えた神作真哉は、振り向いて休憩室の中を覗いた。

「紀子、ライトを貸してくれ」

「備品室か、総務に行きなさいよ」

「そっちのライトじゃなくて、汚い方のライトだ。くそオカマの方の」

 勇一松頼斗は目を剥いて神作に怒鳴りつけた。

「なによ、失礼ね。誰が汚いオカマよ! ちょっと、待ちなさいよ、コラ」

 勇一松頼斗は駆け出して行った神作と上野を追って、ジムフロアを走っていった。

 山野紀子は立ち上がった春木に言った。

「ハルハル、今日の東京行きは無しね。一人じゃ危ないから」

「別に子供じゃないんで、一人でも行けますけど……」

 休憩室から出ようとしていた山野紀子は、不満そうに口を尖らせている春木の横に戻ってくると、小声で耳打ちした。

「そうよね。あんな下着を着けてるんだもんね。めっちゃ大人よねえ」

「いっ……」

 春木陽香は赤面して固まった。

 ジムフロアから戻ってきた別府博が春木に手招きして言った。

「ほら、ハルハル、行くぞ。ボーっとしてると、新聞に遅れをとるぞ。一瞬の遅れが、スクープを逃すんだからな。気を抜くな」

 彼はベタベタと足音を立てながら、運動器具の間を駆けていった。山野紀子がそれを見て言う。

「お、別府君が珍しくテキパキと行動してるわね。でも、困ったな。雨でも降ったら、取材が大変になっちゃうじゃない。どうしよ」

 薄型立体パソコンを小脇に抱えた永峰千佳が春木の背中を押しながら言った。

「ほら、ハルハルも早く行きなさい。先輩が調子こいてるうちに」

 春木陽香は急いで別府を追いかけた。すぐに追いついた。そして、勇んで走っていく別府の後を、何度も振り返りながら付いて行った。

 山野紀子と永峰千佳は不安そうな春木の様子を見ながらクスクスと笑っていた。

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