第9話
21
待機施設の一階ロビー。円形の広い吹き抜けの下を、白い鎧姿の武装兵に囲まれて歩きながら、津田幹雄はイヴフォンで通話していた。
「そうですか。ご意向は分かりました。しかし、タイムマシンについての決定は、あくまで我々司時空庁の専権部門ですからな。いかに財務省といえど、実験実施について外部から指図をされる謂れはないと思いますがね。それとも長船財務大臣は、実験もしていない、安全性についての科学的な根拠も無いマシンに、今後も人々を乗せ続けろと。――それなら事業を停止するしかありませんな。――そうでしょう。ですから、実験を実施するのです。こんな有事の最中でもね。しかし、ご安心下さい。飛ばすのは無人のタイムマシンです。あと数十分もすれば、全て終わります。――はい。そうですか。ご理解いただき、感謝します。その、ウチの施設の中で迷子になっているとかいう記者たちについては、早急に探し出して保護しましょう。お聞きになっていらっしゃると思いますが、施設内に正体不明の敵が侵入しているようなのです。重武装した人間がね。遭遇したら危険ですからな。その記者たちは何としても探し出しましょう。人数は。――そうですか。こちらの警備兵たちにも伝えておきます。――ええ。もちろん。最優先で探索し、安全に保護しますよ。ご心配なく。では」
津田幹雄は険しい顔で、ネクタイの上に留めたイヴフォンのボタンを荒っぽく押した。
「長船め。誰の差し金だ……」
そう呟いた津田幹雄は、隣を歩いている兵士に尋ねた。
「侵入した記者は、四人とも全員捕まえたのだな」
「はい。スタンダードの部屋に閉じ込めてあります」
「実験が終了するまでは、絶対に外には出すな」
「了解しました」
「それで、武装した敵の方は見つかったのか」
「いえ。現在探索中であります」
津田幹雄は眉間に皺を寄せたまま、再びネクタイの上のイヴフォンに手を掛けた。それを操作しながらエレベーターに乗り込む。兵士たちも共に乗り込み、エレベーターの金箔のドアが閉まった。
津田幹雄がイヴフォンで通話を始めた。
「大臣。津田です」
津田の視界に国防大臣・奥野恵次郎のしかめた顔が浮かぶ。
『なんだ』
「今、どちらに」
奥野の声は雑音に紛れていた。
『――を移動中だ』
「は? すみません、聞こえづらくて」
視界に浮かぶ奥野恵次郎が不機嫌そうに声を荒げる。
『軍のオムナクトで空を移動中だ。国防省ビルに戻っている』
「大丈夫なのですか。現状での空の移動は危険では」
『操縦しているのは元空軍エースのベテラン・パイロットだ。心配は無い。それに、空港にテレビ局が押し寄せて来てな。国防省ビルの前も各局の放送車でごった返しているそうだ。とても陸上移動を速やかに出来る状態ではない』
「テレビ局が? どういう事ですか」
『どうやら、新日の記者が施設内に入り込んだらしい。そっちでは情報を掴んでいるか』
「ええ。今、長船大臣から聞きました」
『長船から? 何故あいつが』
「分かりません。先ほど、大臣から直接、記者たちの救助の要請がありました」
『そうか。新日新聞社が長船に泣きついたのかもしれんな。記者が君らや我々に監禁されているのではないかとマスコミ連中が騒いでいる。もし見つけたら、速やかに解放しろ。今は墜落事故の対応でそんな事どころではない。大御所からもクレームが来ているからな』
「大御所? 誰のことですか」
『ストンスロプ社だよ。警察庁の
津田幹雄は眉間に皺を寄せた。
「――はい。しかし、全員を無傷で引き渡せるとは約束できませんが。武装した外敵が進入中ですので」
『わかっとる。その時は仕方あるまい。もし、そうなれば、その外敵にマスコミの非難の矛先が向く。ストンスロプ社も文句は無いだろうし、我々にとっては好都合ではあるな』
「なるほど。確かに、そうですな。――とにかく、これから発射実験を実施します。兵士を移動させて施設周辺の警備を強化したいのですが……」
『すればいいだろう』
津田幹雄は顔をしかめると、少し間を置いてから、再び丁寧な口調で言った。
「指令体系が臨時編成されているようですので、私からはSTS部隊に指示を出せません。指揮命令系統を通常体制に戻していただきたい」
『コードレッドの発令中だぞ。有事の厳戒態勢だ。国防軍も防災隊も警察も、指揮系統が一元化されているんだ。無茶言うな』
「武装した敵が侵入しているのですよ。現場に対応させてもらわねば困ります」
『わかっとるよ。それは、わかっとる。うーん……よし、STSの隊員全員を稼動兵リストから除外しよう。それで、現在の臨時的な指揮命令系統からも外れる。ただし、一時間だけだ。一時間したら全員復帰させる。いいな』
「ありがとうございます」
今度は、津田の視界の奥野の像が不機嫌そうに顔をしかめた。
『チッ。テレビ局の連中め。ヘリまで出して追いかけて来やがった。こんな時に誰が飛行許可を出したんだ。コードレッドの最中だろうが』
続いて増田基和が操縦席のパイロットに指示を出す声が聞こえた。
『山口中尉、振り切れ』
太い潰れた声が返ってくる。
『了解。お任せ下さい』
イヴフォンで津田の脳内に再現されていた奥野の姿の前にノイズが走った。
津田幹雄はエレベーターの階数表示を視界の隅で確認しながら、奥野に言った。
「では、私はこれで」
津田幹雄は呆れ顔でイヴフォンの通話を切った。顔を上げた彼は、淡々として周囲の兵士たちに告げる。
「指揮権が回復した。STSの隊員をマシンのドッグと発射設備の警備に集中させろ」
「了解」
エレベーターのドアが開いた。
津田幹雄は絨毯張りのエレベーターホールへと速足で出ていった。
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その部屋のドアの前には、白い鎧兜で武装した兵士たちが左右の壁際に並んで立っていた。やがて、金縁の豪華なドアが開き、中から白いドレスを着た女性が出てきた。髪の長い美しいその女は、片方の手に白いユリの花束を抱え、反対の手にはブランド物の高級アタッシュケースを提げている。そこへ、兵士たちに囲まれた津田幹雄が速足で歩み寄ってきた。彼はその女に手を差し出して握手を求めながら言った。
「田爪さん。いやあ、いつ見ても、お美しい」
田爪瑠香は彼の握手に応じなかった。
津田幹雄は手を引っ込めて言った。
「そろそろ時間ですので、お迎えに上がりました。さあ、参りましょう」
田爪瑠香は冷ややかな視線を津田に送りながら、淡々とした口調で言う。
「随分と大袈裟な移動ですね」
津田幹雄は作り笑顔で答えた。
「いろいろと物騒な世の中ですからな。それに、ご夫人は、我が司時空庁にとってはVIP中のVIP。このくらいの警備をつけても当然ですよ。ま、我々の誠意の顕れだとご理解いただきたい」
田爪瑠香は周囲の兵士が握っている小銃に目を向けて言った。
「誠意にも色々な種類が有るものですね。それとも、物騒なのはこの施設だけかしら」
「ご冗談を。ここは世界一安全で快適な施設ですよ。――それより、その花は?」
話題を変えた津田幹雄は、瑠香が持っていた花束を指差してそう尋ねた。
彼女は答えた。
「実験用の植物標本です。前後での細胞配列の変化を確認するための」
「そうですか。他に持ち込む荷物は、その鞄だけですかな」
「はい」
「中を確認させてもらっても」
田爪瑠香は毅然として答えた。
「質量データは既に入力を済ませました。私物の確認は契約には無かったはずです」
「そうでしたな……」
渋々そう答えた津田幹雄は、再び人工的な笑顔を見せると、横に退いて道を開けた。廊下の先に手を広げて進むよう促しながら、彼は言った。
「分かりました。とにかく発射管まで移動しましょう。ご指定になられた発射時刻が迫っていますので」
その時、一瞬の強い閃光が瑠香を照らした。津田幹雄も目を瞑る。彼は緑色にぼやけた視界に耐えながら、廊下の先をにらんで叫んだ。
「誰だ!」
エレベーターホールの角の壁に隠れて、防空頭巾を被った春木陽香が、必死に薄型カメラの操作パネルをいじっている。彼女は困惑した顔で言った。
「あれ? どうして? レーザー撮影って、このボタンじゃないの? どうして、こんなに強くフラッシュが……」
兵士たちは前に出るべきか、その場に留まって二人の警護を続けるべきか迷い、躊躇していた。業を煮やした津田幹雄が声を荒げる。
「誰かいるぞ。さっさと取り押さえろ」
春木陽香は焦った。
「わっ、――ど、どうしよう」
意を決した彼女は、顔のマスクを外して、角からエレベーターホールに飛び出した。
春木陽香は大きな声で、その白いドレスの女に言った。
「瑠香さん! 田爪瑠香さんですよね!」
兵士が春木を指差して叫ぶ。
「いたぞ、あそこだ。例の侵入者だ」
兵士たちは瑠香と津田の前に移動し、防御陣形を作って銃を構えた。
防空頭巾にモンペ姿の春木陽香は、瑠香に大きな声で尋ねた。
「あの論文を書いた『ドクターT』さんは、あなたですよね!」
前列の兵士たちが春木の足下にたて続けに威嚇射撃をした。春木の手前の床に次々に銃弾が撃ち込まれ、埃と絨毯の長い毛が舞い上がる。
春木陽香は防空頭巾の上から頭を抱えて床にしゃがみ込んだ。
「構わん、射殺しろ」
そう指示した津田の背後から、田爪瑠香が大きな声を出した。
「やめなさい! その人を撃てば、私はマシンに乗りませんよ」
津田幹雄が手を上げて射撃を止めさせた。
春木陽香は恐る恐る顔を上げる。
津田幹雄は、割れた大きな顎で廊下の先の春木を指して、兵士たちに取り押さえるよう指示を出した。防御陣形の後列の兵士たちが駆け出し、春木の方に走ってくる。それを見た春木陽香は、逃げることも忘れて、必死に瑠香に訴えた。
「瑠香さん、タイムマシンに乗っては駄目です! これは罠です! 絶対に乗っちゃ駄目ですよ!」
兵士たちが春木を取り囲み、彼女の両側から左右の腕を掴んだ。
両脇を抱えられ持ち上げられた春木陽香は、両足をバタつかせて抵抗しながら、瑠香に叫び続けた。
「瑠香さん、あなたの思いは、別の方法で示すべきです。私たちが手伝います!」
津田幹雄は近くに居た兵士に小声で指示を出した。
「他の侵入者とは別室に入れろ。捕らえたことを知られんようにするんだ。マシンの発射後に始末しろ」
必死に抵抗しながら、春木陽香は叫ぶ。
「私は新日風潮の春木です。あなたを助けたくて……ムググ……」
背後の兵士が春木の口を押さえた。
津田幹雄は隣の兵士に尋ねる。
「春木という記者は、捕まえたんじゃなかったのか」
「はあ。聞いていた記者たちは全員捕らえたはずですが……」
「捕らえた記者たちの氏名を再確認しろ。新日の黒木からの情報がいい加減なものなら、奴に金を払う必要は無い」
「了解」
津田がそう会話している間に、彼の背後で、田爪瑠香はウェアフォンで通話していた。
「――そうです。侵入者です。若い女性が一人、司時空庁職員に確保されました。新日風潮社のハルキさんだそうです。至急、そちらで身柄を引き取って下さい」
後ろを振り向いた津田幹雄は、すぐに隣の兵士に目配せして合図を送った。兵士は瑠香からウェアフォンを取り上げて通話を切ると、それを津田に手渡した。
津田幹雄は手に持った瑠香のウェアフォンを見ながら言った。
「どこに……」
田爪瑠香は答えた。
「警察です。すぐに来るそうですから、その人を傷つけない方がいいですよ。彼女の声も聞かれています。手を出せば、後々、問題になるはずです」
津田幹雄は振り返って春木の方を見た。口を押さえられた春木が必死にもがいている。津田は手を上げて、春木の連行を待つように指示した。田爪瑠香は続けた。
「彼女を解放しなければ、私はマシンには乗りません。もし、私が乗った後に彼女に手を出せば、警察の捜査の対象になるでしょう。当然、通報した私の行方も捜査の対象になります。それでは、この実験を秘密裏に実施する意味が無いのでは」
舌打ちをした後、下を向いて考えていた津田幹雄は、深く息を吐いた。口角を上げた顔を瑠香に向けた彼は、苦笑いしながら言った。
「交渉の上手い方だ。科学者にしておくには惜しい……」
そして、はっきりとした口調に変えて瑠香に言った。
「分かりました。彼女の解放は約束しましょう。すぐに下で解放しますよ。ゲート近くの総務ビルの中からなら見えるはずだ。それでいいですかな」
「いいわ。彼女たちの解放を確認したら、乗りましょう」
津田幹雄は手に持ったウェアフォンを顔の横で振りながら言った。
「ただし、この通信端末は回収させてもらいます。契約書にも、そう明記してあったはずですから」
田爪瑠香は黙って頷いた。津田幹雄は言う。
「では、行きましょうか」
兵士たちに囲まれて、田爪瑠香は津田と共にエレベーターホールへと歩き始めた。
エレベーターホールでは、左右から兵士たちに両脇を抱えられ、さらにもう一人の兵士に背後から口を塞がれている、防空頭巾を被ったモンペ姿の春木陽香がもがいていた。その横で春木から奪ったレーザーカメラを別の兵士が上官の兵士に手渡している。
津田と共に瑠香がエレベーターホールに姿を現すと、春木陽香は口を塞いでいる手を振り払って、エレベーターに乗り込もうとしている瑠香に必死に叫んだ。
「愛しているから頑張った、そうですよね。田爪博士と同じ方角を見ていたかった。そうなんですよね、瑠香さん! じゃあ、生きないとダメです。博士の分まで生きないと……ムググ……」
田爪瑠香は足を止めた。そして少し振り向くと、兵士に口を押さえられている春木の顔をじっと見つめた。
隣から津田幹雄が瑠香に言った。
「記者の常套手段ですよ。情に訴える。きっと、あなたや、ご主人のことを事前に調べたのでしょう。実験を妨害して、あなたの理論は間違えていたと記事に書くつもりなんですよ。どうせ高橋博士の信奉者か何かに違いない。さあ、行きましょう」
津田幹雄は瑠香に手を添えて、半ば強引にエレベーターに乗せようとした。
再び口から兵士の手を振り払った春木陽香は、必死に訴え続けた。
「もう、証明されています。十分です。田爪博士もそれは分かっているはずです。お母様も、光絵会長さんも会いたがっておられますよ。だから考え直して下さい、瑠香さん。お願いです、瑠香さん!」
田爪瑠香は津田に腕を引かれてエレベーターに乗せられていく。
金色のドアが静かに閉じ始めた。その向こうで、田爪瑠香は悲しげな笑みを浮かべて春木の方を見つめている。
ドアが閉まった。
扉表の金箔に、眉を寄せ涙を溜めた目を大きく見開いた春木の顔が映っている。エレベーターは動き出した。
春木陽香は大人しくなり、ぐったりとして項垂れた。
防空頭巾で隠れた彼女の顔に雫が伝い、モンペの上に幾つも落ちて、深く染み込んだ。
23
エレベーターの中では、兵士の一人が津田幹雄に耳打ちしていた。背後にいる田爪瑠香は目を瞑り、黙って立っている。
兵士に顔を向けた津田幹雄は、言った。
「なんだと? どういう事だ。警察は第三ラインまで下がっているはずだろ」
「国防指令本部の指揮で、配置が変更されました。現在のレッドコードでは防災隊の消火行動と民間人の救出が最優先任務となっています。我々STSと軍は最前線で活動する防災隊と警察の援護が任務と……」
「きさまらSTSは今、この私の指揮下にあるんだ! なぜ警察を食い止めなかった」
「すみません。警察庁長官から直々に連絡無線が届いたもので……」
「
その兵士はヘルメットに手を当てて暫く動きを止めると、無線で受けたその報告をすぐに津田に伝えた。
「武装警官四〇人前後だそうです。しかし、アーマースーツ部隊らしき連中も後方に待機しているとの報告です。場合によっては、我々と一戦交える覚悟かもしれません」
「くそ。こんな時に……」
歯ぎしりをしながら眉間に皺を寄せて考えていた津田幹雄は、ズレ落ちた眼鏡を指先で上げると、その兵士に指示を出した。
「とにかく、今日の発射の邪魔をされては困る。拘束した記者たち全員をさっさと引き渡せ。その代わり、速やかに警察関係者を警戒区域の外に退去させるんだ。現場検証も一切拒否しろ。それが呑めんようなら、攻撃すると伝えるんだ。万が一警察と戦闘になったとしても、実力も武器もおまえらの方が上だろう。押し切れ。何としても発射までに、警察も、あの記者たちも、全員を警戒区域の外に出すんだ。いいな」
「了解」
兵士は再びヘルメットに手を当てると、無線を使って指示を小声で伝えた。その隣で津田幹雄が鼻に皺を寄せて、エレベーターの階数表示をにらんでいる。
彼らの後ろで、田爪瑠香はただ黙って目を閉じていた。
暗いシャフトの中を、瑠香たちを乗せたエレベーターが静かに下りていった。
24
タイムマシン発射施設の正面ゲートの前には報道陣が待ち構えていた。フラッシュが点滅する中、少し開いたゲートの隙間から、真っ黒に汚れたワイシャツを着た神作真哉が出てくる。フラッシュの光が一斉に彼を襲った。その後から出てきた重成直人と上野秀則は手で閃光を遮る。永峰千佳は赤いパーカーのフードを被り、三人の後ろに隠れていた。
カメラを構える記者たちを押し退けて、背広姿の男たちが神作たちの前に出てきた。彼らが汚れた記者たちを取り囲むと、制服姿の警官たちが記者たちを退かしていく。背広姿の男の一人が重成に言った。
「警察だ。向こうに車が用意してある。急げ。時間がない」
制服の警官たちが左右に広げた記者たちの間を背広姿の男たちが歩いていった。神作真哉は重成直人と共に彼らの後を歩いていく。その後ろを歩いていた上野秀則は、少し振り返ると、モンペに半纏を羽織り防空頭巾を被った春木がゲートから出てきたのを確認してから、神作と重成の後を追った。永峰千佳は顔を覆って上野について行く。春木陽香は下を向いて肩を落としながら、その後ろを歩いた。
神作真哉がフラッシュから顔を逸らしながら呟く。
「やれやれ。随分と大袈裟なこったな」
横を歩いていた重成直人も、眩しそうに目を覆いながら言った。
「予定より多く集まったみたいだな。『ドクターT』の救出にも取材にも失敗して、逆にこっちが救出されたとなれば、こりゃ、元カミさんに頭が上がらんな」
重成に肩を叩かれた神作真哉は鼻に皺を寄せて舌打ちした。
二人の後ろを歩いていた上野秀則が前を指差した。足を止めた神作真哉が前を覗く。
「あれを見ろ。警察のハイパーSATだ。機関銃まで持っているぞ。どうやら本気で中に乗り込む気だったみたいだな」
「あれが副外骨格機動隊員かあ。ロボットみたいだなあ。本当に人が入ってるのかよ」
報道陣の間に切り広げられた通路の奥には、濃紺のAIバンが一台停車していた。その向こう側に、白黒にカラーリングされた機械装甲具で全身を覆った武装警官が数人、立ち並んでいる。人間よりも一回り大きなシルエットの彼らは、神作が表現したように、人型のロボットのようだった。その手に握られていた大きな機関銃が本物であり、威力も通常の機関銃よりも大きい物であることは、神作たちにも一目で分かった。
神作の横で立ち止まった重成直人が自分の頭を撫でながら、安堵したように言う。
「ドンパチにならなくて良かったよ。しかし、事が大きくなり過ぎたな。どうする」
上野秀則は一度大きく息を吐いてから、険しい顔を上げた。
「予想外の事ばかり起きたからな。不味いかもな。取材のためとは言え、俺たちは国の施設である『タイムマシン発射施設』に無許可で入ったんだ。今後いろいろと……うわっ」
後ろから永峰千佳が上野を強く押して、その前の神作に言った。
「キャップ、そんなことはどうでもいいですから、早く行ってくださいよ。顔を撮られたら恥ずかしいじゃないですか。メイクが落ちてるんですから」
振り向いた神作真哉は上野越しに永峰に答える。
「ああ。わかった、わかった」
そして、重成と顔を見合わせると、二人はAIバンの方に向かって再び歩き始めた。その後ろを不機嫌そうな上野と彼の背に隠れた永峰が歩いていく。最後尾を歩いていた春木陽香は、まだ下を向いていた。防空頭巾で覆った頭の前で何度も半纏の袖を動かしている。拭いても拭いても涙は止まらなかった。彼女は重い足取りでトボトボと先輩記者たちについていった。
神作と重成が濃紺のAIバンの前に辿り着くと、その車両の側面ドアが素早く開いた。中には地味なスーツ姿の赤毛の女が座っている。
赤毛の女は落ち着いた声で言った。
「早く乗って下さい。車はすぐに出ます」
神作真哉は中を見回す。車内には運転手とその女の他には誰も乗っていなかった。彼は少し警戒しながら車に乗り込んだ。続いて重成直人も乗り込んでいく。車のステップに足を掛けた上野秀則は、その赤毛の女の目を見て立ち止まった。彼が女の所属を確認しようとすると、後ろから永峰千佳がまた強く背中を押した。
「デスク、ほら、早く行って下さい。奥、奥」
「押すなっての。俺は上司だろうが……」
永峰に文句を言いながら上野が車に乗ると、永峰千佳は急いで車内に上がった。後列の座席を男の先輩記者たちが占領していたので、彼女はそのまま、前列のシートに浅く腰を載せて乗降口のほうを向いて座っている赤毛の女の隣に腰を下ろした。開いたままのドアの外では他社の記者たちが執拗にレンズを向けている。車内に射し込むフラッシュの光から顔を逸らして、永峰千佳は赤毛の女の方に顔を向けた。その時、彼女のスーツの上着の中に黒い拳銃を挿した革製のガンホルダーが提げられているのが見えた。視線を上げた永峰千佳は、その女の顔を見る。赤毛の女は一瞬だけ上着を少し広げて、中を見せた。スカートと白いブラウスの間には黒い財布のような物が挿んであった。女はそれを素早く広げて見せる。中には金色のバッジが付けてあった。永峰には、それが警察のバッジであり、彼女が警部補であることと、「京子」という名前であることは確認できたが、それ以上は読み取れなかった。彼女はもう一度、女の顔に視線を戻す。赤毛の女は静かに頷いて見せた後、まだ開いたままのドアを気に掛けるように永峰の背後を覗いた。永峰千佳は振り返った。外で防空頭巾の春木がこちらに半纏の背中を向けたまま立っていた。彼女は報道陣の方に顔を向けたまま、塀の向こうのビルを見上げている。永峰千佳はパーカーで顔を隠したまま腰を横にずらすと、手を伸ばして春木の半纏の襟を掴んだ。
「早く乗んなさいよ。警察の方も、すぐに出すって言ったでしょ」
永峰千佳は春木を無理矢理車内に引き摺り込んで、椅子に座らせた。車の横に立っていた背広姿の男がドアを閉め、外からドアを叩く。車は急発進して、その場を去った。
取材陣の人ごみとフラッシュの渦から脱出した濃紺のAIバンは、軽武装パトカーに先導されて市街地方面へと進んだ。春木陽香は窓から外を覗いている。タイムマシン発射施設の敷地の中では、建ち並んでいるビルの向こうで黒く太い煙が何本も立ち昇っていた。
車は暫く走り続けた。車内の記者たちも赤毛の女も運転手も、誰も口を開かなかった。
車が総合空港の横を通り過ぎた頃、赤毛の女が振り向いて口を開いた。
「怪我はありませんか」
「弁護士が来るまで、何も言わんぞ。一応、言っとくが、悪いことをするつもりで中に入った訳じゃ……」
赤毛の女は上野の発言を遮って言った。
「ご心配なく。我々は、あなた方を新日ネット新聞ビルまで安全に送り届けるだけです。逮捕するつもりはありません」
「どういうことだ」
神作真哉が訝しげに問い詰めると、赤毛の女は淡々としながらも強い口調で答えた。
「今日、あのタイムマシン発射施設の中には、不法に侵入した者は居なかった。それが捜査の結果です。我々の捜査を取材に来た記者の一部が誤って中に入り、道に迷ったようですが、捜査の途中、我々は偶然にもその記者たちに出会ったので、保護した。車で来ていないようですので、勤務先の会社まで送り届けた。報告書には、そう記載されます。司時空庁とも、そう確認が取れていますので。あなた方にも、一応、お伝えしておきます」
重成直人が上野越しに神作の顔を見て言う。
「こりゃ、政治的解決ってやつだな」
「くそ。津田の奴か。あいつが手を回したんだな」
神作真哉が悔しそうにそう言うと、赤毛の女は彼の目を見て首を横に振った。
「いいえ。とある民間企業からの通報です」
「民間企業? ウチの会社か」
小さな目を丸くしている上野に、神作真哉が呆れ顔で言った。
「警察をウチの会社が動かせるかよ。決まってるだろ、あそこだよ」
「まさか……ストンスロ……ムググ」
神作が上野の口を塞ぐ。
「何も言わんと言ったのは、おまえだろうが」
少し振り向いた永峰千佳が溜め息を吐いた。
「もう遅いですよ。あと一文字じゃないですか」
神作真哉は上野の頭を叩いた。上野秀則は首をすくめる。
「いてっ。あのな、俺はおまえの上司だぞ。上司!」
自分の顔を指差して神作に怒鳴る上野秀則に、赤毛の女は静かに言った。
「通報者の氏名は、一切公開できません」
すると、防空頭巾で覆った頭を下に向けたまま、春木陽香が擦れた声を発した。
「瑠香さんは……。田爪瑠香さんからの通報はどうなったんですか。どうして……」
赤毛の女は、また相手の発言を遮って途中から話した。
「この件に関する通報は一件のみです。他は何もありません。モンペに半纏姿の記者の氏名も、我々は一切把握していません」
後ろから神作真哉が声を荒げた。
「まだ中に居るんだぞ。警察は知らんふりか!」
赤毛の女はイヤホンマイクに手を添えると、何かを確認してから記者たちに言った。
「残念ですが、たった今、実験は終了したようです。警戒態勢が解除されました」
「くそっ!」
神作真哉は壁を強く叩いた。その音に驚いた前の席の永峰千佳が肩を上げる。
上野秀則は唖然として呟いた。
「そんな……。見殺しかよ……」
「デスク」
永峰に言われて、上野秀則は彼女の隣の春木に目を遣った。春木陽香は背中を丸めて大きな声で泣いていた。上野と神作は泣いている春木の小さな背中を見て、口を閉じた。二人とも春木が田爪瑠香の目の前に辿り着きながらも彼女を救えなかった自分を責めていることは分かっていた。春木の慟哭は彼らの胸にも強く響いた。車窓に顔を向けていた重成直人が深いため息を吐く。永峰千佳が春木の肩を包み、優しくさすった。後列の記者たちは皆、黙っていた。車内には春木の鳴き声だけが暫く響いた。車は走り続ける。
春木の嗚咽が静まると、重成直人が怪訝そうな顔を赤毛の女に向け、尋ねた。
「ところで、あんたらは警察のどこの部署なんだ? 警察庁か、警視庁か? その中の何て言う部署なんだ?」
「我々は、あなた方の氏名を伺うことはしません。あなた方は、ただ道に迷っただけの一般市民ですから。なので、そちらも我々の詳細を知る必要は無いでしょう」
上野秀則が厳しい視線をその女に向ける。
「そういう部署だってことか」
神作真哉は怒りに満ちた顔で赤毛の女をにらみ、彼女を強く指差して怒鳴った。
「あんた、それでも警察官か! 津田幹雄を立件することもしないのか! これはどう見ても『殺人』だろうが! 乗り込んで逮捕しろよ!」
赤毛の女は、その長身の中年男から視線を逸らすと、下を向いて黙っていた。更に罵倒しようとした神作の前に重成直人が手を出して言った。
「神作ちゃん。さっきのハイパーSATの武装隊員を見たろ。前と後ろもそうだが、他に止まっていたパトカーも、全部、軽武装パトカーだった。きっと、この人たちもそのつもりだったのさ。だが、上からストップがかかった。大方そんなところだろうよ。この人を責めても仕方ない」
上野秀則が頭を強く掻きながら上を向く。
「くっそー。根回ししたのになあ。津田の奴、庁の長官なのに、大臣クラスまで押さえられるってことかよ。この国は、どうなっちまってんだ……」
赤毛の女は話題を変えるかのように、端の席の春木を覗き込んで声を掛けた。
「大丈夫ですか」
春木陽香はまだ防空頭巾の中で嗚咽を繰り返していた。永峰千佳が代わりに答える。
「すみません。新人なんで、こういうのに慣れてないんですよ」
後ろから神作真哉と上野秀則がそれぞれ言った。
「慣れる訳ねえだろ」
「ていうか、全く素人って訳でも無いしな。甘やかすな」
赤毛の女は心配そうに春木を見ながら、彼女に言った。
「ある方から、あなたに幾つか伝言を頼まれました。もし、事に失敗したら、あなたに伝えるようにと。ですから、お伝えします」
嗚咽を必死に抑えながら春木陽香が少し顔を上げると、赤毛の女には言った。
「まず、あなたに責任はない、だから、決して悔やんではいけない、と。それから……」
彼女は、後ろの席の記者たちを一瞥してから春木の方に視線を戻し、静かに言った。
「雉を討ちたければ、鳴かせればいい――だそうです。新聞記者である他の方にも、そう伝えるようにと」
後方の席で、神作と上野は顔を見合わせる。
春木陽香は防空頭巾で隠した顔を下に向けたまま、膝の上のモンペを握り締めていた。
汚れた恰好の記者たちを乗せた濃紺のバンは、南北幹線道路に乗り、朝日に照らされた摩天楼に向かってまっすぐに走っていった。
二〇三八年
1
新首都の中心に湖面を浩々と広げる「
昭憲田池の南部にある
水の中から上半身を出しているように見える永山の像は、少し透き通っていて、薄い。
イヴフォンで神作の脳内に再現された永山の像が言う。
『へえー。じゃあ、情報を津田長官に流していたのは、黒木局長だったんですか』
背中を丸めたまま継ぎ竿の袂を握っている神作真哉は、虚ろな目をして答えた。
「ああ。もう、総務の課長補佐だがな」
地球の反対側から永山が再び尋ねた。
『降格人事ですか。どこに異動になったんです?』
「なんて言ったかな、どっかの離島だ。ほら、領海線近くの小島で国防軍が秘密裏に防衛基地を作ってる所があったろ。あの近くの島の臨時連絡所の所長だと」
『あっららー。職級が課長補佐で、連絡所の所長任務じゃ、定年まで帰れないですね』
神作真哉は持ち上げた釣竿の糸先に何もかかっていないことを確認すると、もう一度竿を振って、少し遠くに針を飛ばした。浮きを眺めながら、彼は再び永山に話しかける。
「ま、こっちも只じゃ済まなかったけどな。俺は自宅謹慎三ヶ月。シゲさんと永峰は、厳重注意と減俸一ヶ月。うえにょは減俸二ヶ月に一週間の謹慎」
『デスクにしては、軽いですね』
「殴られて怪我したからじゃねえか」
『部長は?』
神作真哉は一度だけ顔をしかめると、言った。
「谷里部長はそのまま。何にも関与してないからな。ま、何にも仕事してない訳だから、当然だが……」
『うえにょデスクが処分されて、部長はお咎め無しですか』
「ああ。俺たちのことをサボりの常習犯だと思って、逐一、人事の連中に報告してたんだそうだ。人事部の方からは功労者扱いだよ」
『ふーん。相変わらず要領がいい人ですね。――で、空いた編集局長のポストには、誰が就いたんです?』
「甲斐さん」
『国際部長の? 珍しいですね』
「ま、今回の件で、司時空庁や他のお役所とも軋轢が出来ちまったからな。引き受ける人間がいなかったんだろ」
永山哲也の像は両眉を上げて尋ねる。
『下の人たちは、どうなったんです?』
「紀子は、訓告プラス一ヶ月の自宅謹慎。復帰しても暫く、雑誌編集からは外されるそうだ。別府が編集室室長代理に昇格。と、ボーナスのカット。ライトは契約更新を見送り。暫く旅に出るそうだ」
『旅に?』
「全国の風景写真を撮りに回るんだとさ」
『あの人が。どういう心境の変化でしょうね』
「応えてるのさ。田爪瑠香を救えなかったことがな。タイムマシン事業も、そのまま続いている。家族機の発射も確定だそうだ」
『警察の検証も無しですか』
「いや、なんでも、警察庁がかなり抗議したらしく、それで、次回の発射の際には午前中の家族機の発射を警察・検察関係者と国会議員の立会いの下で行うんだと。実際に『時空の壁』とやらをマシンが突破する瞬間を見せるんだってよ」
『じゃあ、やっぱりタイムトラベルはしてるんだ……』
「発射して消えるところだけじゃ、分からんじゃないか。問題は、その先だよ。安全に到達しているのかどうか。だが、昨日、ウチ以外の全紙に載った司時空庁の実験結果の発表だと、タイムトラベルの安全性は実証されたんだと。そっちにも送ったろ」
永山の像は目を丸くして言う。
『ウチ以外の全紙って、特オチになっちゃったんですか。あの記事を載せた一社だけが抜いたんじゃなくて? それじゃ、キャップに赤点が付いちゃうじゃないですか』
「それは無いそうだ。司時空庁が、ウチ以外の全新聞社に情報を提供して、ウチには提供しなかったってことだからな。やられたよ、まったく。それに、仮に情報提供があったとしても、他社のように『無人タイムマシンでの安全確認試験成功』なんていうガセネタを堂々と載せる訳にもいかんし、結果は同じさ。まあ、ウチの会社としては、一応は正式に抗議すると、杉野副社長は言っていたが……」
『司時空庁に、完全に嫌われましたね』
「当然だな。今もこうして、向うから監視されてるよ。――まったく、暑くなってきたって言うのに、こんな所で二人してスーツ姿で、ご苦労なこった」
神作真哉の背後では、そこから少し離れた林の中で、二人の背広姿の男たちが立ったまま神作の姿を見つめていた。
池の水の上に大きな「浮き」の様にして浮かんで見えている永山哲也の像が、怪訝な顔をして首を傾げた。
『司時空庁に監視されてるんですか』
「ああ。四六時中な。あいつら、よっぽど暇なんだろうな」
永山の溜め息が聞こえる。彼は神作に尋ねた。
『キャップも釣りなんかしていていいんですか。自宅謹慎でしょ』
「自宅軟禁じゃないからな。こうして、昭憲田池の湖面を眺めながら、注意深く、慎んで釣りをだな……」
「五人いる」
背後から声がした。
「あ?」
神作真哉は反射的にそう言って振り向いた。そこには、黒いブーツに網タイツを穿いた女性の足があった。視線を上げる。黒の革の半ズボン、派手な太いベルト、ペンキを投げつけたような柄の短いシャツ、その上に羽織った革ジャン、首に巻いた鎖。鼻と耳に大きなピアスをしたその若い女は、銀色の髪を逆立てている。釣竿を肩に乗せ、反対の肩の後ろには、背中に何かを担いでいた。
その子は無愛想な感じで神作に言った。
「あの背広の二人の他に、後ろの森に戦闘服が二人、あっちの岸にも一人いる」
神作真哉は周囲を見回しながら言った。
「な……五人? 他に、あと三人もいるのか……」
その子は立ったまま神作を一睨みすると、言った。
「あんた、うるさい。魚が逃げるから、帰る。じゃ」
その子はくるりと振り向いて、去っていった。
「――ああ……お疲れ……さま……」
神作はそう言いながら、その子の後姿を目で追った。その子の背中には、その子の身長と同じくらいの体長の魚が担がれていた。その銀髪のパンク少女は、巨大魚の背びれを地面に引きずりながら、スタスタと林の奥へと歩いて行く。
神作真哉は釣竿を握ったまま、口を開けて、その子を見送った。
通話中の永山哲也が尋ねる。
『どうしました?』
「いや、銀髪のパンクな姉ちゃんだが……また、でかい魚を……あんな魚が居るのか、この池……」
神作真哉は池の方に顔を向け直して、改めて水面を観察した。
『知り合いですか』
神作真哉はもう一度後ろを向いて少女を捜しながら、永山に答えた。
「いや、知らん奴だ。何だ、あいつ……」
『聞こえてましたけど、あっちの岸って、見える訳ないじゃないですか。昭憲田池ですよね、そこ。一番狭い所でも、対岸まで何キロあると思ってるんです。肉眼で見えるわけないでしょ。からかわれたんですよ、きっと』
「だよな……くそっ。どいつもこいつも、馬鹿にしやがって、腹立つなあ」
神作真哉は竿を上げると、荒っぽく先を振って、針を遠くに投げた。
永山哲也は会話を続ける。
『結局、ウチとしては何も記事に出来なかった訳ですか……』
「ああ。写真も撮れなかったしな。ただ記者の雑感を載せても、仕方ないだろ。だからと言って、今あの論文を載せたところで、田爪瑠香が間違えていましたで終わりにされちまう。打つ手無しだ。まったく、骨折り損のくたびれ儲けさ」
神作真哉は再び背を丸めた。
永山の像が腕組みをしながら言う。
『それにしても、土曜日に田爪瑠香を飛ばして、月曜日の朝刊には実験結果の掲載だなんて、準備が良過ぎですね。事故だか攻撃だか知りませんけど、軍が緊急警戒態勢を布くほどの大事があったのに、知らん顔して実験データをまとめてたって言うんですかね。おそらく、事前に作ってあった適当な実験データなんでしょうね』
「たぶんな。だが、どのマスコミも、一切抗議なしだ。例によって例の如く、事実関係はお上の発表したことが大前提。呆れるぜ、まったく」
『で。キャップはどうするんです? このまま慎ましく三ヶ月過ごすんですか』
「な訳ねえだろ。臥薪嘗胆って奴よ。見てろよ、くそっ」
神作真哉は再び竿を振った。
波紋の上に浮かぶ「浮き」の前の永山の像が言う。
『まあ、こっちで例の謎の科学者のインタビューを録れたら、タイムマシンの謎も明らかになるかもしれませんしね。そしたら一発、周りをギャフンと言わせてやりましょうよ』
「こっちは散々ギャフンと言った後だからなあ……はー」
珍しく深く弱気な溜め息を吐いた神作に、永山哲也は明るい声で言った。
『元気出して下さいよ、先輩。――あ、そうだ。ハルハルはどうなったんです?』
「一ヶ月の自宅研修だそうだ」
『自宅研修? そんな処分、聞いたことないですね』
「上が工夫したのさ。たぶん、紀子が頑張ったんだろ」
『だからノンさんは一ヶ月の謹慎付きなんですか』
「たぶんな。だが、俺たちを救うためとは言え、取材情報の一部をテレビ局の友人に漏らしたり、取材ネタで財務大臣の女にプレッシャー掛けたりしたんだ。取材倫理規定違反の処分にしちゃ、軽いうちだよ」
『でも、ノンさんも、このまま大人しくはしてないでしょ。キャップの元奥さんだし』
「後半のは余計だが、確かに、あいつの性格からして、このままジッとはしていないな」
神作真哉はニヤリと片笑む。それとは対照的に、永山哲也の像は眉を寄せて言った。
『また何か企んでいるんじゃないでしょうね。今は大人しくしておいた方がいいのに』
「だよな」
『家に行ったらいいじゃないですか。キャップも、せっかく時間ができたんですから、長期休暇だと思って。朝美ちゃんとも時間を作ってあげないと』
「言われなくても分かってるよ。ただ、お付きの者を連れて行くってのもなあ……」
神作真哉は少し振り向いて、林の中に立っている背広姿の男たちを視界の隅に捉えた。
永山の呑気な声が聞こえる。
『気にすることはないですよ。ボディーガードだと思えばいいじゃないですか』
神作真哉は首を傾げながら言った。
「お前、細かいことには心配性な割りに、こういうことには意外と能天気だよな。どっちなんだよ、まったく」
少し笑った永山哲也は言った。
『とにかく、家には行ってあげて下さいよ。じゃあ、僕、そろそろ行きますから』
「行くって、どこに。そっちは夜だろ」
『協働部隊側が、イロ空軍基地を奪還したらしいんです。アメリカ人の記者チームが軍のオスプレイで基地まで行くらしいので、一緒に載せてもらうことになりました。あそこからの方が、第十三戦闘区域には近いですから』
それを聞いた神作真哉は、少し強い口調で永山に言った。
「十三って、馬鹿かおまえ。いちばん戦闘が激しい区域じゃねえか。あそこは第一級戦闘地域のド真ん中だろ。ドンパチに巻き込まれて体がバラバラになるぞ。やめとけ」
永山の像が手を振りながら答える。
『直接そこに行く訳じゃないですよ。ですが、例の謎の科学者に関する全ての情報を整理すると、どうもその区域に内容が集中するんです。だから、そこから近いスラム街を順に回ってみようと思います。もう少し確かな情報が欲しいので』
「回ってみようって、お寺廻りじゃないんだぞ。お遍路さんじゃあるまいし」
永山哲也は笑いながら言った。
『白装束は持ってきてませんよ。とにかく、時間なんで。プラズマステルスでの夜間飛行の方が撃墜される確率は低いらしいですから。じゃ、そういうことで。行ってきまーす』
「おい、待て、おい……ったく。しょうがねえ奴だな……」
神作真哉はブツブツ言いながら、シャツの胸ポケットに挿したイヴフォンを操作した。
通話をオフにした神作真哉は、釣竿を立てて糸先の針を掴むと、言った。
「後輩が体張ってんのに、釣りなんかしてらんねえよな」
神作真哉は愛用の釣竿を丁寧に分解し始めた。一匹の魚も釣れないまま。
2
春木陽香はマンションの外廊下を歩いていた。下に見える住宅街の家々の屋根は疾うに朝日を照り返していたが、北側にあるその廊下は少し薄暗い。
立体パソコンが入った虹模様のトート・バックを肩にかけてトボトボと歩いてきた春木陽香は、一枚のドアの前で立ち止まった。
「おはようございまーす」
インターホンのボタンを押して、そう彼女が挨拶すると同時に、目の前のドアがこちら側に開いた。
「わっ」
中からドアを開けた制服姿の少女は、春木に驚いて声を上げた。彼女は春木の顔を見て言った。
「あ、なんだ。虹色パンツのお姉ちゃん。おはよ」
そして、左右のお下げ髪を振り回すように後ろを向くと、廊下の奥に向かって大きな声を出す。
「ママあ、虹パンのお姉ちゃんが来たよお」
廊下の奥から更に大きな声が返ってきた。
「コルァ、朝美い! さっさと学校に行きなさい! 遅刻でしょうが!」
「はあーい。行ってきまーす」
山野朝美は、ドアノブを春木に預けると、外の廊下を駆けていった。途中で立ち止まった朝美は、体ごとクルリと振り返り、拳を握った手を立てて春木に言った。
「お姉ちゃん、ネバー・ギブアップ! ファイト、ファイト」
「はあ……ど、どうも……」
春木陽香がそう言うと、朝美はまた振り返って、背負った四角いリュックを左右に揺らしながらエレベーターへと走っていった。
朝美の元気な後姿を見つめる春木に、室内の廊下を歩いてきた山野紀子が声をかけた。
「ああ、ごめんね。さ、上がって、上がって」
「お邪魔します」
春木陽香は一礼して玄関の中に入り、ドアを閉めた。
狭い玄関を上がると、フローリングの廊下が正面に真っ直ぐ延びていた。左右には個室のドアが一つずつあり、その次の右側に浴室の前の脱衣所と思しき通気口が付いた引き戸がある。向いにはトイレのドアがあった。廊下の突き当たりのカットガラスがはめられたドアを開けると、そこに広いリビングが広がっている。二十畳ほどのLDKには、手前にカウンター式のキッチンがあり、そのカウンターの向こうに、ダイニング・テーブルが置かれている。その向こうにソファーが置かれ、その前の壁に掛けてある少し古い薄型テレビとの間には、カーペットの上に長方形の広いリビング・テーブルが置かれていた。そのリビングの突き当たりは一面がサッシで、外には奥行きのある広いベランダがあり、大きな鉢に植えられた幾つもの観葉植物が風に当てられている。ベランダの手すりの向こうには、寺師町や有多町の街並みや、その向こうの超高層ビル群、海の方に延びる昭憲田池の南部分、その奥の都南田高原が小さく見えていた。
春木陽香は、山野に促されてダイニング・テーブルの洒落た椅子に座った。
キッチンでコーヒーを注いでいる山野に彼女は言った。
「素敵なお宅ですね」
山野紀子はコーヒーを注いだカップをソーサーに乗せながらカウンター越しに答える。
「中古でね、安かったのよ。もうすぐ築二十年くらいになるのかな。リフォームしたから見た目は新しいけど、いろいろと大変」
春木の前にソーサーに乗ったコーヒーカップを差し出した山野紀子は、春木に言った。
「ごめんね、遠いのに、わざわざ」
軽く御辞儀してコーヒーを受け取った春木陽香は、首を横に振った。
「いえ。自宅に居ても、朝寝して生活リズムが狂っちゃうだけですから。呼んでもらった方が良かったです」
山野紀子は春木の向かいの席に座りながら言う。
「一ヶ月で呆け言われたくないものね。仕事のリズムは失わないようにしましょ」
「でも、本当にすみません。ライトさんから聞きました。編集長が私を随分と庇ってくれたって。それで私は再研修扱いで済んで、その代わり編集長が自宅謹慎に……」
山野紀子は自分のラップトップ型の立体パソコンをテーブルの上に置き、それを起動させながら言った。
「ったく、あいつ余計なことを。違うのよ。どっちにしても、あんたは私の指示に従っただけじゃない。私はそれなりのことをしているんだから、当然よ。でもね、ウチの上層部は分かってるのよ。今、私が現場に出ても、どこかしらから邪魔されて動きが取れないって。それなら、自宅で仕事した方がいいじゃない。だから、自宅謹慎にしてもらったの。ハルハル付きで」
腰を折ってトート・バッグから自分のパソコンを取り出していた春木陽香は、キョトンとした顔を上げて山野を見た。
「私付き……ですか?」
山野紀子はニヤリとして答えた。
「そうよ。あんた、自宅研修なんでしょ。じゃあ、しっかりと研修しなきゃね。私の自宅で。それから、研修には指導する先輩が必要でしょ。それに、教材も」
彼女は手に持ったMBCを春木に見せた。
「パソコン、持ってきた?」
「はい」
春木陽香がテーブルの上に立体パソコンを置いて起動させると、山野紀子は姿勢を正してから春木に言った。
「では、これから、写真編集の基本研修を始めます。はい、これを挿して」
山野から手渡されたMBCを自分の立体パソコンのスロットに差し込んだ春木陽香は、その中の画像データを平面ホログラフィーで空中に投影させた。水着姿の女たちが山野と別府が作った手製の幕の前でポーズをとっている。
「これ、この前の
「そ。結局、お蔵入りになったけどね」
「え。どうしてですか。せっかくライトさんが撮影したのに」
「国防省の空軍司令部の地下にある無人機の遠隔操作施設がハッキングされたのよ。一大事じゃない。それが誰の仕業なのか、まだ分からない段階で、あの日にあの場所で撮影された写真が世に出たら大変でしょ。六機も墜落させられて、さらに四機を撃ち落とさなければならなかったのよ。原因は操縦施設でこんなことをしていたからだって世間様に言われかねないじゃない」
「また圧力ですか」
山野紀子が首を横に振る。
「ううん。彼女たちのプロダクション側から掲載を断ってきた。世論を気にしているのは政府だけじゃないってことよ。ただでさえ批判の多いギリギリ路線のパーチクリンお下劣セクシーアイドルなのに、無人機墜落の原因にまでされたら、たまんないものね」
春木陽香は目の前に浮いている画像から横に顔を出して山野の顔を覗きながら尋ねた。
「でも、こっちとしては、最初からそれを狙っていたんですよね」
「一機くらいはね。操縦をミスるとか、違う所に飛んでいくとか、何かしでかして現場が混乱した隙に真ちゃんたちが中に入れるだろうとは思っていたけど、まさか全機が落ちるとはねえ。まして多久実基地から三個中隊もすっ飛んで来る事態になるとは誰も思ってはいなかったわよ。その原因を彼女たちに押し付けるのは、ちょっとねえ」
画像の前に顔を戻した春木陽香は、改めてそれを見ながら言った。
「じゃあ、本当にお蔵入りなんですね、これ。勿体ないですね……」
今度は山野紀子が横に顔を出して春木を覗きながら言った。
「あら、あまりグラビア掲載に前向きでないハルハルにしては、意外な感想ね」
「まあ、前向きでないのは確かですけど、ライトさんが撮った写真なんで、なんか……」
「旅に出ちゃったから?」
「お別れ会も無しにですよ。寂しくないですか」
「お別れ会をする気になる?」
春木陽香は少し声のトーンを落とした。
「いいえ……ならないです。瑠香さんのこともありますし……」
山野紀子は姿勢を戻して言った。
「でしょ。それにね、あいつは前々から芸術写真を撮りに世界を回りたいって言ってたのよ。まずは国内制覇ですって。心配しなくても、そのうちヒョコッと帰ってくるわよ。死んだ訳じゃあるまいし」
「瑠香さんも、生きているんでしょうか」
咄嗟にそう尋ねた春木に、山野紀子は真顔で答えた。
「分からない。でも、生きていても会えないわよね。違う時間軸上に行っちゃったから」
春木陽香は少し下を向いた。
山野紀子は春木のパソコンとリンクさせた自分の立体パソコンを操作しながら言った。
「コーヒー、冷めるわよ」
「――あ、すみません。いただきます」
春木陽香はソーサーの上のカップに手を伸ばし、それを取ってコーヒーを一口飲んだ。
カップをソーサーの上に戻した彼女は、山野に尋ねた。
「そういえば、瑠香さんのご実家には伝えていたんですか」
山野紀子は、春木のパソコンの上に投影されている画像ホログラフィーと同じ画像ホログラフィーを自分のパソコンの上に投影させながら、答えた。
「光絵会長?――うん。でも、駄目だった。真ちゃんたちが有働とコンタクトを取った時から、こっちの言うことには耳を貸さなくなったから。私も何度か、執事の小杉さんだったかな、あの人に直接電話したけど、取り合ってもらえなかった。ストンスロプ社は現職の総理大臣・辛島勇蔵のスポンサーでしょ。辛島の政敵である有働武雄と絡んだ私たちの言うことは信じなかったみたい。前日まで、私やシゲさんが連絡を入れたんだけどね」
「でも、私たちを迎えに来てくれた警察の人たちを動かしてくれたのは、ストンスロプ社なのですよね」
「あれはね、杉野副社長が光絵会長に頼み込んでくれたの」
「副社長さんが。――そうだったんですか」
春木陽香は少し驚いていた。山野紀子が言う。
「ね、びっくりでしょ。私も彼が現場記者をしていた時代から知ってるけど、あんな所があるとは思わなかったなあ。正直、驚いた。てっきり、ただの社長の操り人形だと思っていたから。だって、ほら、そんな顔しているでしょ。あの人」
「ええ……まあ……」
春木陽香は少しだけ頷いた。
山野紀子は腕組をすると、椅子の背もたれに背中を付けて言った。
「それにしても、光絵会長がもう少し早く本気になれば、司時空庁の実験の一つや二つくらい簡単に止められたと思うんだけどね。他人の言うことに耳を傾けないからいけないのよ。自分の養女を救えたかもしれないのよ。あのオバサン、馬鹿じゃないかしら」
実際に光絵由里子と対面し会話をした春木陽香としては、どうも納得できなかった。
「光絵会長、どうして実験を止めなかったんでしょう。瑠香さんが連れて行かれる前に、警察車両は発射施設前に到着していたんですよね。ということは、その前に事態を知っていた訳ですよね」
「まあ、杉野副社長から光絵会長がどこまで話を聞いていたかにもよるけど、確かに何か変よね……」
腕組みをしながら考えていた山野紀子は、春木の目を見て言った。
「私ね、あの無人機の墜落が、何か関係があるんじゃないかと思ってるの」
「無人機ですか?」
「うん。だって、国防省の通信システムは、あの
「確かに、そう言われれば……」
「IMUTAは
「軍の公式発表では、実弾演習中の事故なんですよね」
「それも二転三転しているわ。信用できない。それに、私たちが居た操縦施設では、確かにハッキングだと言っていたわよ。モニターも全て赤くなって、あの場所からは制御できないって感じだった」
「瑠香さんの件と、どう関係しているんでしょう」
首を傾げた春木に向けて、山野紀子は人差し指を振りながら、ニヤリとして言った。
「それを探るんじゃない。ハッキングの犯人と理由が分かれば、光絵会長が実験を止めなかった理由も分かるかもしれないし、この写真も無駄にならない。一石二鳥でしょ」
片笑み顔で目の前のホログラフィーを指した山野紀子は、そのグラビア画像を次々と横にずらしてスライド表示させていった。春木陽香は、連動して横に動く目の前の画像に怪訝そうな顔を向けてから、山野の顔を覗いた。
「どうして写真が無駄にならないんですか」
「ハッキングの犯人が分かれば、この写真を雑誌に掲載しても問題ないでしょ。プロダクションだって了承するはずよ」
春木陽香は自動で次々とスライド表示されていくLustGirlsの画像に目を戻した。後の画像になるに連れて、水着ギャルたちのポーズは徐々にエスカレートしていき、後半の画像は明らかに下品なものになっている。春木陽香は眉間に皺を寄せて言った。
「そこまでして載せないといけないんですか。グラビアって」
スライドを止めて画像を固定した山野紀子は、春木の前の画像ホログラフィーの前に手を伸ばして、指差しながら言った。
「理由があるのよ。ここ、拡大してみ」
言われたとおり山野が指差した部分を拡大表示してみた春木陽香は、声を上げた。
「ああ!」
驚いて口を開けている春木の顔を見ながら、山野紀子は勝ち誇ったような顔で言った。
「載せんといかんでしょ」
春木陽香も山野の顔を見て答える。
「載せんといかんですね、これは」
山野紀子は頷いてから続けた。
「だから、載せられるように、誤解を解かないといけないの。あの墜落が、この子たちや訓練パイロットたちのせいじゃないってね」
「ですね……」
画像編集用のアプリケーションを起動させていた山野に、春木陽香は言った。
「それから、私、一つ気になっていることが」
「なに?」
「高橋博士の
山野紀子はパソコンを操作しながら言った。
「ああ、あの『謎の足長おじさん』から大金を送ってもらった人。あの人が、どうかしたの?」
春木陽香はまた横に顔を出して言った。
「いえ、あの人ではなくて、お金の送り主です」
山野紀子も横に体を傾けて春木の顔を見た。
「誰か、それらしい人でもいるの?」
春木陽香はそのままテーブルの上に肘を乗せて凭れた。
「高橋博士の奥さんの高橋千保さん。あの方が一番有力だとは思うんですけど、何か、どうもしっくり来ないんですよね。高橋諒一博士本人なら、たぶん送らないなって人に、その奥さんが送りますかね」
姿勢を戻した山野紀子は、またパソコンを操作しながら言った。
「あまり知らなかったとか。旦那から従兄弟の話を聞かされてなかったんじゃない?」
「まあ、それも有り得ますけど、私、ずっと気になっている点があるんです」
身を起こした春木陽香は、今度は真っ直ぐに座ったまま山野に言った。
「従兄弟さんの父親が倒れたのは、二〇二八年のお正月だそうですが、高橋博士は二〇二七年の九月十七日に第一実験で失踪していますから、その方が倒れたという事実を知らないはずなんです。ですが……」
「田爪健三は知っている」
パソコンを操作する手を止めた山野紀子がそう言った。春木陽香は頷く。
「はい。田爪博士が第二実験で失踪したのは、二〇二八年の三月三十一日です。つまり、その方が倒れた後で、しかも、一番ビビットなタイミングですよね」
再び腕組みをした山野紀子は、天井を見ながら言った。
「そうよね。倒れて、手術とかして、リハビリの最中かあ。家族としても一番大変な時期だったかもね。しかも時期としては、田爪健三はその状況を知り得るわね」
「その従兄弟さんは言ってました。田爪健三がさっさと負けを認めていれば、父親は倒れずに済んだかもしれないって。第一実験の後も、マスコミは高橋博士の親族を追い掛け回したんですよね。田爪博士がそれを知っていても不思議ではないですよね」
前を向いた山野紀子は、もう一度、体を横に倒すと、春木の顔を見て言った。
「ちょっと待って。何が言いたいのよ」
春木陽香は再びテーブルに凭れて、山野に顔を近づけてから言った。
「もしも、もしもですよ。田爪博士が生きていたとしたら、自分のせいで倒れた人のためにお金を送るってことをしても不思議じゃないのかなって。手紙の『御尊父様』っていう呼び方も、それなら不自然じゃないですし。お金が送られてきたのが二〇三〇年の今頃だという話が本当なら、第二実験から二年ちょっと後。タイムトラベルして過去に行ったとすれば、それ以上の時間が経過しているはずですよね。田爪博士なら、それくらいのお金は作れるかもしれないと思うんですけど」
山野紀子はテーブルの上に上身を倒して春木に顔を近づけてから言った。
「でも、送られてきたのは、結構、大金なんでしょ。お金貯めるのって、あんたが思っている以上に大変なのよ」
「あるいは、瑠香さんが協力したとか」
体を起こした山野紀子は手を一振りした。
「まあ、彼女はストンスロプ社の会長のご令嬢だもんね。間違いなく、お金持ちではあるわね。じゃあ、彼女が送ったんじゃない?」
「でも、それは無いと思うんです。もし、瑠香さんが送ったのなら、きっと田爪博士の名前で送ると思います。論文にも『田爪健三博士に捧ぐ』って書いていたくらいですから。もし、匿名で送るとしても……」
「ドクターT?」
春木陽香は大きく頷いた。
「はい。夫の懺悔の気持ちを代行するのなら、何か、田爪博士だと分かるヒントみたいなものを残すんじゃないでしょうか。それに、ダンボールに詰めて送るっていうのは、どうも女性的ではないような」
「確かにね。雑って訳じゃないけど、女の私なら、しないわよね。そんな、何ていうか、乱暴なこと」
「そこは少し疑問ですけど……」
「あん?」
テーブルに凭れたまま首を傾げた春木陽香に、山野紀子は眉間に皺を寄せて下あごを突き出した。春木陽香は体を起こして言った。
「冗談です。――でも、光絵家で育った瑠香さんにしては、ちょっと似合わない発想ですよね。だけど、田爪博士がやって、瑠香さんが手伝ったのなら、分かる気もするんです。あるいは、瑠香さん抜きで、田爪博士が直接送ったか……」
「つまり、田爪健三は生きていると言いたいの?」
「はい。だって、瑠香さんも何か変じゃないですか。タイムマシンに乗りたがっていたみたいで。やっぱり瑠香さんは、司時空庁が自分の命を狙っていることには気付いていたと思うんです。それなのに、司時空庁の言うとおりにマシンに乗るなんて、不自然だなと」
「その点は真ちゃんとも話したじゃない。津田に騙されていたんじゃないかなあ」
「私も、神作キャップや編集長と話していた時はそう思いました。でも、あの施設で実際に瑠香さんと会って、彼女の目を見て、何か違うなって」
「違うって?」
「騙されているって感じがしなかったんですよね。なんか、凄く頭のいい人って感じでしたし。全部分かっていて、それでもタイムマシンに乗るっていうか、覚悟しているっていうか、私は、彼女がそんな目をしているように感じました」
「細工されていると分かっていて、乗ったってこと? つまり自殺同然の覚悟でタイムマシンに乗ったと」
「それはオーバーかもしれませんが、瑠香さんには、何か別の算段があったような気がするんです。何か、そういう凛とした目でしたから。自信というか、確信というか……」
山野紀子はテーブルの上に肘をついて、その手で額を押さえた。
「田爪瑠香の方が司時空庁を手玉に取っていたというの。うーん……」
「とにかく、その理由も、田爪博士が生きていると確信していた、あるいは知っていたからじゃないでしょうか」
顔を上げた山野紀子は言う。
「まあ、いろいろと整合性はあるわね、一応は」
「光絵会長が実験を止めなかったのも、その辺と関係があるのかも」
「そうねえ……」
テーブルから体を離した山野紀子は、春木を指差しながら尋ねた。
「あ、そうだ。あの日、あんたたちの他にも発射施設に入った連中がいるって言っていたわよね」
「ええ。しかも、武装していたみたいです。兵隊さんたちがそう話していました」
「うん。真ちゃんも言ってた。自分を襲ったのは、そいつじゃないかって。ハルハルは、その侵入者の姿は見ていないのね」
「はい。それらしい人は全く」
「何者かしら……」
「ハッキングの犯人の一味じゃないでしょうか」
「――ということは、ただのテロ? まさかあ。話がシンプル過ぎるでしょ。この件は、もっと複雑だと思うわよ。こっちが思っている以上に」
「はあ……」
山野紀子はテーブルの上に両手をつくと、話を仕切った。
「とにかく、SAI五KTシステムから調べてみましょ。それと、ストンスロプ社も。墜落事件についての真相が分かれば、何か糸口が見えてくるかも」
「ですね。じゃあ、私、まずはシステムの概要と設置プロセスから調べてみます」
「うん、頼むわね。私は、この前のアクセス・コードを使って、もう一度だけ防災省のコンピューターにアクセスしてみるわ」
山野紀子は目の前の水着ギャルの画像ホログラフィーと編集アプリケーションを閉じると、インターネットの立体ブラウザを立ち上げた。
春木陽香も同じようにして、ブラウザ・ソフトを起動させる。
活き活きと立体パソコンのホログラフィー・キーボードの上で指先を動かす春木を見て、山野紀子は少し安心したように口角をあげた。
二人の記者は、中古マンションのダイニングで事件の再調査を始めた。
二〇三八年七月二十二日 木曜日
1
「おはようございまーす」
新日風潮社の編集室に、イートンカラーの半袖のワイシャツにフレアスカートを穿いた春木陽香が入ってきた。彼女は他の記者たちに挨拶をしながら、一番前の自分の席まで急いだ。再出社して一週間以上が経っていたが、まだ新鮮な感じは抜けきらない。彼女は安物の事務椅子を引いて、そこにパソコンが入ったトート・バッグを置いた。
「おはよ。もう、みんな集まってるわよ」
近くに来て声をかけた山野紀子が会議室を指差しながら言った。彼女はショールカラーのノースリーブに膝下までのタイトスカートを穿いている。山野はそのまま会議室へと歩いていった。春木陽香は他の記者たちに挨拶しながら山野の後を歩いて行く。
会議室の中に入ると、突き当りの窓はブラインドが閉じられていた。蛍光灯だけで照らされ、エアコンが効いている。真ん中の楕円形の会議机には、中央に一台の立体パソコンが置かれていて、その隣には、複数人が同時にホログラフィー通話をするための複眼レンズ付きの特殊カメラが設置されていた。そのブロッコリーのような形のカメラを囲むように、馴染みのメンバーが顔を並べて座っている。
オープンカラーの半袖シャツ姿の少し日焼けした神作真哉。ワイドカラーの半袖シャツの一番上の釦を外し、シックな柄のネクタイを緩く締めている上野秀則。スタンドカラーのストライプの半袖シャツを着こなしている重成直人。丸襟の半袖シャツの上から薄手のテーラードカラーのサマージャケットを重ねている永峰千佳。普通の半袖ワイシャツ姿の別府博。――皆、サマースタイルに衣替えしていた。
春木陽香は永峰の隣に座ると、向かいの神作に挨拶した。
「あ、神作キャップ。お久しぶりです」
腕組みをしたまま椅子に深く凭れて座っていた神作真哉が、そのままの姿勢で答えた。
「おう、元気だったか。『自宅研修』はどうだった」
「はい。バッチリです」
少し自信有り気に答えた春木に、神作の隣の上野が尋ねた。
「いつから出社したんだ」
「先週の月曜からですから……七月十二日からですね」
神作真哉は怪訝な顔で窓の方を向く。
「紀子もか?」
窓を背にした上座の指定席に腰を下ろしながら山野紀子が答えた。
「私は、その前の土曜日から」
神作真哉は腕組みをしたまま天井を仰いで言う。
「そうか……俺は、あと二ヶ月も謹慎期間が残っていたんだけどなあ……」
山野紀子が彼に尋ねた。
「連絡は、いつ来たの?」
山野に顔を向けて神作真哉が答える。
「昨日の夜だ。明日から出て来いって。杉野副社長から」
上野の隣から重成直人が体を前に出して神作を覗き込みながら言った。
「水曜日に? 副社長、水曜日は休みだよな」
神作真哉も体を前に出して、上野を邪魔そうに避けながら重成の方を見て答えた。
「そうなんですよ。あの副社長が、わざわざ俺に直接の電話です。最初は誰かのイタズラかと思いましたよ」
二人の間に座っている上野秀則が首を傾げながら言った。
「しかし、こりゃ、どういうことなんだ。急に全員の処分が取消しって。減俸分も追加払いで、立場も回復。処分履歴も消すと来たもんだ」
神作真哉が腕組みしながら付け足した。
「しかも、俺たちを正式に『タイムマシン事件』の兼任取材チームに抜擢だと。いきなり出勤命令が出たんで慌てて出社してみれば、立場の回復どころか兼任チームの臨時デスクだ。まあ、どうせ形式的なものなんだろうが、いったいどういう風の吹き回しなんだよ。紀子も編集長に復帰だろ?」
「そうなの。しかも週刊号の編集は、これまでどおり編集室長代理の別府君に任せて、私とハルハルは、この件に集中しろって。つまり、前と同じ」
山野の隣に座っている別府は、慌てて口を挿んだ。
「いやいや、前とは違うでしょ。編集長は特殊事件の取材に集中できるんですよ。『週刊新日風潮』の編集指示は、僕がして」
山野紀子は大袈裟に首を傾げる。それに気づかないまま、別府博は目を瞑って頷きながら話した。
「まあ、会社もやっと僕の実力を認めたってことじゃないですかね。このままヒラの記者に戻すのは、もったいないと」
春木陽香が隣の永峰に小声で言った。
「別府先輩は編集長が居ない時に電話番をしてただけなんですよね。ほとんど毎日編集長に立体電話してきて、指示を仰いでましたし……」
別府博は体を前に出して、永峰越しに春木を覗く。
「うるさいなあ。それだって重要な『室長代理』の仕事でしょうが。ていうか、なんでハルハルが知ってんだよ」
春木と山野は視線を合わせ、笑いを堪えた。
別府の向かいの重成直人が話をまとめる。
「ま、とにかくこれで皆、もう会社で肩身の狭い思いをしなくても済むわけだ」
神作真哉は先輩に謝罪した。
「すみませんでした。シゲさんにまで迷惑を掛けてしまって……」
重成直人は神作に対し、顔の前で一度だけ大きく手を振って見せた。
永峰千佳が山野の方を見て尋ねた。
「ライトさんは?」
山野紀子は眉を八字にして言った。
「連絡が取れないのよ。携帯も繋がらないし。先週いつもの通り風景写真が送られて来たんだけど……」
「何処の写真だ」
神作真哉も心配そうな顔で尋ねた。山野紀子が答える。
「木曽山脈の駒ヶ岳。題名は、『天と地・大自然のカオス』だって」
「遭難したんじゃねえか」
茶化すようにそう言った上野に、山野紀子は真剣な顔を向けた。
「今日まで待って連絡が取れなかったら、地元警察に問い合わせてみる」
春木陽香は小声で呟いた。
「大丈夫かな……ライトさん……」
別府博が無理に話を戻そうとした。
「でも、なんで急に処分が取り消されたんでしょうね。神作さんも自宅謹慎を解かれて、繰上げで出社でしょ。おかしいですよね」
「俺の謹慎が解かれたら、おかしいのかよ」
「まあまあ、神作ちゃん、落ち着いて」
重成直人が上野の前に手を出して神作に振る。山野紀子が呆れ顔で神作に言った。
「ここにいる全員に対して急に掌を返したような辞令が出たことがおかしいって言ってるのよ。別府君は」
「だから、それはさっき俺が言っただろうが。――トゥン!」
上野の末尾の発言は威嚇なのか、掛け声なのか、春木陽香には分からなかった。
神作真哉が隣を向いた。
「うえにょ、何か聞いてるか」
「いや、俺もさっき辞令を受け取ったところだからな。だが、ここ数日、妙な噂を耳にしていたところだったんだ。どうもウチの本社の会長がストンスロプ社のビルに何度も呼び出されているらしい。何か関係があるのかもな。ていうか、上野だ」
「覚えてたか……」
「当たり前だ。自分の名前だ、忘れるか! なに残念がってるんだ!」
いつも通りの会話をしている二人に背中を向けて、重成直人が山野に確認した。
「ストンスロプ社……この前、警察庁長官の子越を動かして俺たちを迎えに来させたのもストンスロプ社の光絵会長だったよな」
山野紀子は頷いた。
「ええ、そうです。杉野副社長が光絵会長に話をしてくれて」
上野秀則が眉間に皺を寄せて言う。
「じゃあ、杉野副社長から頼まれて、ストンスロプ社の会長が動いたっていうのか。まさか。光絵会長はウチの会長を呼び出すくらいなんだぞ。その下の、更にその下の杉野副社長から頼まれたくらいで、光絵会長が動くかね。あり得んだろ」
永峰千佳が怪訝そうな顔を上野に向ける。上野の隣で考えていた神作真哉が言った。
「副社長の奴、裏取引きしたんじゃねえか」
「裏取引き? 何の」
そう言って横を向いた上野に、神作真哉は答えた。
「例の技術盗用の記事だよ。ストンスロプ社のGIESCOが開発した新型兵員輸送機、それに使われているテクノロジーが第三者の特許権を侵害しているかもしれんという奴。あれに絡めたとか」
上野秀則は頭を斜めに傾けて言った。
「ストンスロプ側に有利な記事を載せることと交換条件か? 相手は最大手のスポンサー様だぞ。こっちから提示しなくても、既に向こうから釘を刺してきてるんじゃないか?」
神作真哉は椅子の背もたれに体を倒して言った。
「だな。――しかし、それにしても、立体通話で地球の裏側に居る人間とも対面で会話できる時代に、わざわざ呼び出しとはね。しかも、ウチの堅物の会長を。あの光絵って女、相当なツワモノだな」
山野紀子が机の上の立体パソコンを指差して言った。
「あ、そう言えば、哲ちゃんは? 待ってるんじゃないの」
「ああ、そうでした」
永峰千佳が目の前の立体パソコンを操作した。立ち上がった春木がドアの横の壁の摘みを回して部屋の照明を少し暗くする。春木陽香は急いで席に戻った。暫らくして、日焼けした永山哲也の上半身のホログラフィーが等身大で立体パソコンの上に浮かんだ。春木陽香は久々に見る先輩の姿をしっかりと観察する。彼は現地で床屋に行ったらしく、髪を短く切り逆立てていた。派手な柄のアロハシャツを着ていて、観光客らしき風貌だ。半袖から出た腕は日に焼けていて依然として逞しく、ちゃんと鍛えられているようだった。よく見ると、所々に切り傷がある。
宙に浮いた永山哲也は、周囲を見回しながら言った。
『やあ、皆さん御揃いで』
永山の方で、こちらの七名分を同時に立体ホログラフィーで正確に再生できていると確信した永峰千佳は、山野の方に親指と人差し指で輪を作って見せた。山野紀子はウインクしながら親指を立てて返事をする。
神作真哉が永山に言った。
「見ての通り、再会記念パーティーの最中だ」
続けて山野が尋ねる。
「哲ちゃん、今どこなの?」
『第十二戦闘区域にある街の安ホテルです』
神作真哉は目を丸くして言った。
「じゃあ、まだ地区境界のその街にいるのか。すぐ近くは、十三区だろ。あぶねえから移動しろって言ったじゃねえか」
『大丈夫ですよ。ここは隣のスラム街も含めて街全体が非戦闘協定地域に指定されていますから。結構、静かなものですよ。時々、衛星からミサイルが降ってきますけど……』
「だろうが。真明教の最初の布教地だか南米最大のスラム街だか知らんが、そんな物騒な所はさっさと移動しろ。そこも第一級戦闘地域なんだぞ。腰を下ろしてどうするんだ」
『ところが、そうもいかないんですよ。重要な情報を二つも掴んだので』
「重要な情報?」
『ええと……周りに人はいませんか。大丈夫ですか』
見えているはずも無いのに周囲の景色を見回すふりをした永山に、上野秀則が言った。
「ああ、いつものメンバーだけだ。今、『風潮』の会議室で通話している。大丈夫だ」
永山哲也はシャツの胸ポケットから手帳を取り出して、それを開きながら言った。
『そうですか。では、まず重要情報その一です。こっちで親しくなった米軍の下士官から聞いた話ですが、どうやら、こっちでも例の赤い兵団が暴れていたみたいなんです』
上野秀則が身を乗り出した。
「赤い兵団って、まさか……」
神作真哉が頷いて言った。
「たぶん、国防軍が極秘に編成していると噂されている例の部隊だ。戦地での目撃者の話では、全身を赤で塗られた鋼鉄の鎧で覆っている大規模な武装兵団らしい。世界中の戦地での目撃談がある。それで……」
山野紀子が神作の発言に被せて言った。
「ああ、分かった。『
「れっどぶりっぐ?」
春木陽香が頭を傾けた。上野秀則が永山のホログラフィーをよけて、春木に説明する。
「深紅の旅団って意味だ。本当は師団規模らしいんだが、全員が揃いの赤い鎧を着ていて、あっちこっちにまとめて遠征に出されるから、軍内部では『
「ふーん……」
春木陽香は隣の永峰の顔を見てみた。永峰千佳も初耳と言わんばかりに、両肩を上げて見せた。体を反らして別府の方も見てみた。彼は深刻な顔をして頷いている。たぶん、知らなかったのだろうと春木陽香は思った。
永山のホログラフィーが報告を続けた。
『その米軍の下士官の話では、彼らが最前線で戦線を押し上げていたらしいんですが、五月になって急に撤収したらしいんです』
「それで戦局が一時逆転したのか」
ホログラフィーの永山哲也は神作の方を向いて首を縦に振った。
『たぶん。ですが問題は、なぜ彼らがここを去ったのかですよ。下士官の話では、日本から緊急の帰還命令が出て、彼らも仕方なく帰って行ったそうなんです』
上野秀則が腕組みをしながら唸った。
「うーん……そいつらがホンモノの
別府博も腕組みをしながら上野の真似をする。
「今回の件と何か関係があるんでしょうか……うーん……」
怪訝そうな視線を別府に送った山野紀子は、反対を向いて上野に言った。
「タイムマシンとも司時空庁とも、
考えていた上野秀則が言った。
「いや……財政的な部分で絡んでいるんじゃないか」
「タイムマシンか」
そう言った重成の方を見て上野が意見を述べる。
「ええ。司時空庁が管理しているタイムマシン事業、もしかしたら、その渡航費として国に入った金のほとんどが、実は
山野紀子が割って入った。
「でも、そうなると変よね。司時空庁は家族乗り用のタイムマシンも飛ばし始めたのよ。収益は倍増どころか、何倍にもなっているはずじゃない。それなのに、
上野秀則は首を傾げながら言った。
「国防軍の奴ら、またどこか別の地域の戦争に首を突っ込むつもりなのか?」
神作真哉は椅子に身を投げたまま両手をあげる。
「どっちにしても、こりゃ政治部のネタだな」
神作の方を見て、ホログラフィーの永山哲也が言った。
『ま、たまたま聞いた話ですから、対処はそちらで。メインはもう一つの方ですから』
今度は、神作真哉が身を乗り出して言った。
「まさか、例の謎の科学者について何か掴んだか」
ホログラフィーの永山は興奮気味に答えた。
『掴んだも何も、ビンゴですよ。重要情報その二。この街に隣接するスラム街で、目撃者の話を聞けました。この男の』
永山のホログラフィーが手帳から取り出して顔の前に立てた写真を見た神作真哉は、思わず声を上げた。
「こ、この男……田爪じゃねえか、その写真!」
春木陽香と山野紀子は顔を見合わせる。
ホログラフィーの永山哲也は、上野、重成、山野、別府、永峰、春木の順に写真を見せて回りながら言った。
『いや、はっきりとこの男だとは言っていませんでしたが、この男に似ているとは言ってました。もう少し老けていると』
「それ、十年以上前の写真でしょ。だったら話も整合するわね」
ホログラフィーの永山哲也は、春木に写真を見せながら山野に言った。
『でしょ。しかも、この男はかなり機械に詳しいらしく、その目撃者の知り合いの古物屋は時々街に現れるこの男を頼りにしていて、壊れた家電製品の修理をよく頼んでいるそうです。しかも、この男は立体パソコンやAI内臓型の冷蔵庫など高度な専門知識がないと扱えない物も簡単に修理するそうで、きっと精密機械か何かのエンジニアだろうって話です。さらに僕が聞いた別の噂では、この男は戦地で拾い集められた戦闘ロボットのパーツなどから全く別のマシンを作ったり、トラックや輸送用ヘリを修理したりもするそうなんです。僕が話を聞いた目撃者も衛星ネットに使用する量子通信用の中継機器の修理をしてもらったそうです。これらの話が本当なら、この男がただのエンジニアではないことは確かですね。どうやら、かなり広範囲にわたって理科学系の知識と技術を持っている人物であるようです。しかも、相当高度な知識を』
上野秀則が背もたれに背中をぶつけるほどに身を引いて、驚いた顔で言った。
「マジか……大当たりかもな……」
ホログラフィーの永山哲也はゆっくりと上野の方を向き直した。そして、首を横に振ると、両肩を上げて言う。
『まあ、現地人には東洋人の顔の区別がつかないことも多いですから、よく似た全くの別人かもしれませんけどね。――ただ、今までで一番有力な情報ではあります』
神作真哉が永山のホログラフィーに向かって尋ねる。
「時々現われるってことは、近くに居るってことか」
永山のホログラフィーは首を縦に振った。
『そうみたいです。近々、会いに行ってみます』
重成直人が尋ねた。
「居場所も分かったのかい」
『いいえ。ただ、その男の所に案内できるっていう現地人の家族と出会いました。その人のご主人は、その男のことをよく知っているそうなんです。だから、そのご主人とこれからお会いして、話を聞いてきます。準備を整えたら、その田爪健三らしき男と直接、週末にでも面会してみようと思っています』
神作真哉は眉間に皺を寄せて永山に言った。
「そうか……とにかく、気をつけろよ。撮影機器は常に持っておけ。記者のIDも。静かな街でも、そこは戦地だからな。気を抜くなよ」
宙に浮いた永山哲也は、笑みを見せながら神作に言った。
『大丈夫です。とにかくそういう訳で、これからその家族と夕食なんで、結果は後ほど』
「わかった。気をつけろよ」
神作真哉がそう言うとすぐに、春木陽香が口を開いた。
「あの、永山先輩……」
『ん? なに?』
永山哲也のホログラフィーが振り向く。
春木陽香は他の記者たちの視線を気にしながら、少し恥ずかしそうに言った。
「あ……ええと……とにかく、気をつけて下さい。蚊とかも多いし、変な蛇とかも……」
永山哲也の幻影は、笑いながら答えた。
『大丈夫だよ、ハルハル。ジャングルの中の激戦地に行くんじゃないから。今日は、その仲介者の家で家族と食事をするだけさ。――じゃあ、後で。夕食会から戻ったら、また連絡します。ええと、そちらの時間だと、昼休みの時間あたりになると思いますが……』
見覚えのある腕時計を見ながらそう答える永山のホログラフィーを見ながら、春木陽香は嬉しそうに顔をほころばせた。その様子を見て、山野紀子は呆れた顔で苦笑いする。
神作真哉は永山のホログラフィーに手を上げて言った。
「おう。イヴフォンも忘れるなよ」
『了解です。それじゃ』
永山哲也の様子を再現していたホログラフィーが消え、通信が切れた。部屋の中が少し暗くなる。山野紀子はリモコンを操作してブラインドの羽の角度を変えた。光は入ってくるが、窓の外は空が曇っていて、やはり少し暗い。壁のスイッチを操作して照明の輝度を上げた春木陽香が席に戻ってきた。その途中、彼女が山野を見ると、山野は心配そうに眉を寄せていた。
山野紀子は神作に言った。
「大丈夫かしら。第十三戦闘区との境界沿いにある非戦闘地域なら、南米連邦政府軍の兵士の家族とゲリラ軍の兵士の家族が入り混じって生活しているはずでしょ。周囲の情報を鵜呑みに出来る状況ではないと思うんだけど……」
神作真哉は険しい顔をして黙っていた。上野秀則も眉間に皺を寄せている。春木陽香の表情が曇った。それを見ていた重成直人が、若い記者たちに少し大きな声で言った。
「永山ちゃんは運がいい。大丈夫だよ。皆が心配していると、彼の運も逃げちまうぞ」
神作真哉が椅子から腰を上げながら言った。
「とにかく、その男のインタビューを聞いてからこっちも仕切り直しだな。その男がもし本物の田爪健三なら、パラレルワールドは無かったってことだからな。他の渡航者たちもこの時間軸上のどこかで生存している可能性がある。田爪瑠香も」
最後の言葉を言いながら、彼は春木の方を向いた。春木陽香は顔を上げると、少しだけ目を大きくして神作を見た。
山野紀子も立ち上がって言った。
「田爪瑠香を見つけ出すことが出来れば、司時空庁に一泡吹かせられるわね」
座ったまま別府博がガッツポーズをする。
「イェス! 見てろよ、津田の奴う」
上野秀則は机の上に両手をつくと、勢いよく椅子から腰を上げた。
「よし。希望が出てきたな。昼飯は一緒に食うぞ。官庁街裏の『サノージュ』でいいな」
立体パソコンを片付ける手を止めた永峰千佳が、顔を上げて上野を見上げた。
「オーガニック・レストランの? わーい。上野デスク、ご馳走様でーす」
「俺は奢らんし、こんな時だけ上野か!」
永峰を指差しながら歯を剥いている上野の肩を叩いて、後ろを重成直哉がニヤニヤ笑いながら歩いていった。
椅子に座ったままの春木陽香は、机の上の一点を見つめたまま、呟いた。
「瑠香さんが生きている……」
後ろを歩いて会議室の出口へと向かっていた山野紀子は、春木の肩に手を添えると、耳元に顔を近づけて小声で言った。
「よかったわね、ハルハル」
振り向いた春木陽香は、顔に笑みを浮かべて元気よく頷いた。横で機材を片付けている永峰千佳が微笑む。
春木陽香は椅子に座ったまま、揃えた両足を上げたり下げたりして、いつまでも嬉しそうに笑みを浮かべていた。
外は雨が降り始めている。窓にポツポツと水滴が当たっていた。
2
濃緑の葉が夜を埋める熱帯雨林。月の光も、夜行性の獣の声も、どしゃ降りの雨に掻き消されている。暗く湿った森の中には、舗装されていない細い道があった。路面の轍と窪みに泥水が溜まっている。その上を黒いタイヤが踏みつけ、茶色い水を撥ね飛ばした。一台のトラックがライトを点けて走っていく。そのトラックの荷台の
大粒の水滴を振り払いながら早く動くワイパーの向こうで、煙草を咥えた男がハンドルを握っている。助手席の迷彩服の男は、荷台との間を仕切る壁の小窓に顔を向けて、ポルトガル語で何かを言っていた。
荷台の中は暗い。雨粒が幌を叩く音と旧式エンジンの荒音だけが響いている。左右には浅い奥行きの長椅子が平行に置かれ、その上に、迷彩柄の戦闘着に身を包んだ汚れた顔の男たちが、小銃を床に立てて並んで座っている。彼らは皆一様に疲れた顔をしていて、会話もせず静かだった。背中を丸めて座っている男たちの列の中に一人だけ、汚れたジーンズの上に派手な柄の半袖シャツを着た男が混じっていた。彼の首から上は分厚い布袋で覆われている。膝の間に下げた両腕は手首にはめられた手錠で繋ぎ合わされていた。周りの兵士たちは気づいていなかったが、彼のシャツの胸ポケットの中では、小さなライトを薄く点滅させながら、イヴフォンが彼の脳に着信を伝えていた。永山哲也の脳の聴覚野にだけ着信音が響き渡る。彼の真っ暗な視界には「神作先輩」という文字が浮かんでいた。それでも、彼はじっとして動かない。向かいの兵士が永山のシャツの中で微かに光るモノに気付き、声を上げた。隣の兵士が永山のシャツのポケットに手を入れて、その親指大の通信機を取り上げる。それを見た彼は驚いた顔をして「グレンネイジ(Grenade)!」と叫んだ。それは「手榴弾」を意味するポルトガル語だ。車内の兵士たちが慌てて伏せる中、叫んだ兵士は永山のイヴフォンを車外に投げ捨てようとした。永山哲也がポルトガル語でやめるよう叫ぶ。兵士が投げる動作を一瞬止めると、永山哲也は布袋の中からポルトガル語で必死に説明した。兵士はそれを聞きながら、手に持ったイヴフォンを見つめていた。
車体は激しく振動し、兵士たちの体を細かく揺らした。時折、強く上下すると、タイヤが撥ねた泥水が荷台の幌を外側から激しく叩く。
旧式の動力で悪路の上を走るそのトラックは、ガソリンエンジンの回転音と排気ガスを発しながら、降りしきる雨の中を走り、そのまま深い森の奥の闇間へと消えていった。
3
新首都有多町の官庁街にある裏通り。そこにある人気のオーガニック・レストラン「サノージュ」のランチタイムは客で賑っていた。奥の壁際の席に四人用の机を二つ繋げて並べ、春木たちが座っている。
食事を終えていた神作真哉は、手に持ったイヴフォンを覗き込んでいた。彼は険しい表情で首を傾げながら言った。
「おかしいな。永山の奴、出ないぞ」
「呼び出しは鳴ってるの?」
山野紀子が神作の顔を見て尋ねた。
左目を緑色にした神作が答える。
「ああ。電波は届いているはずなんだが……あら? 切れたぞ」
「何かあったのかしら」
心配そうな顔をしている山野の隣で、永峰と別府が、遅れて出されたペペロンチーノとカルボナーラを急いで食べている。
パスタを吸い込む音を立てる別府に山野紀子が不機嫌そうに顔を向けていた。
重成直人が神作に言った。
「メールを送ってみたら」
神作真哉は、もう一度発信してもただ呼び出しを続けるだけのイヴフォンを切ってから、重成に答えた。
「さっき送りました」
山野紀子が尋ねた。
「開封はされてるの?」
神作真哉は首を横に振った。
「いや。未開封のままだ。現地と丁度十二時間違うとすれば、あっちは今、二十二日の午前一時前だろ。いくらなんでも、ホテルには戻っているはずなんだが……」
上野秀則がサラダを頬張りながら言った。
「忘れてるんじゃないか。メールにも気付かないで寝てるとか」
山野紀子が首を傾げて言う。
「哲ちゃんが連絡を忘れるかしら。それに、イヴフォンなら脳に直接、メールの着信を知らせるはずよね。気付かないなんて有り得ないけど」
神作真哉は眉間に皺を刻んで呟いた。
「何かあったんじゃないだろうな……」
永峰と別府がフォークを止める。
山野紀子と重成直人は険しい顔で見合わせた。
上野秀則はレタスを咀嚼しながら、神作と目を合わせた。
「もう、三十分近く、掛け続けてますよね」
永峰千佳がそう言うと、全員が壁の掛け時計に目を遣った。掛け時計のホログラフィーの分針が昼休みの終了時刻を告げようとしている。
突然、春木陽香が大きな声を上げた。
「時計! 私が送った腕時計なら、スーパーGPS機能付きですから、位置情報を発信し続けているはずですけど」
上野秀則はフォークの先を春木の方に向けながら言った。
「あのな、向こうが位置情報を発信していても、こっちはそれを受信する術を持ってないじゃないか。向こうに時計だけあっても、何にもならんだろ」
春木陽香は頬を膨らませて言う。
「じゃあ、受信装置か何かを買えば……」
腕組みをして背もたれに身を倒していた神作真哉が、春木に顔だけを向けて言った。
「馬鹿か。小型機械が発する微弱な信号を拾うとなれば、かなり高度な受信作業と信号の解析が必要になる。そんなのは、衛星を管理している軍とか防災隊なんかじゃないと無理だろ。おまえ、完全に店員に騙されたな」
「ええー! そうなんですか」
春木陽香は目を大きくして言った。
重成直人も苦笑いしながら春木に言う。
「俺たちの給料じゃ、人工衛星は買えないな」
春木陽香は顔の向きを変えた。
「永峰先輩! 先輩なら、いつものように、パパッと……」
永峰千佳は紙ナプキンで口を拭きながら答える。
「無理。軍事用の特殊暗号がかかってるはずだから」
「そんなあ……」
落胆している春木に、別府博が追い討ちをかけるように言った。
「素人が簡単に位置を特定できるような代物なら、軍人さんたちは危なくて使えないじゃないか。考えろよ、少しは」
春木陽香は息を吐いて項垂れる。
山野紀子が腕時計に目を落としながら言った。
「もうそろそろ時間だけど、どうする?」
神作真哉が背もたれから身を起こして答えた。
「ああ。じゃあ……会社に戻るか。俺は続けて電話してみる。おまえ、永山が滞在している現地のホテルに電話してみてくれ」
「わかった」
山野紀子は頷いて立ち上がった。隣の春木陽香が呟く。
「永山先輩……」
店内の隅に置かれているテレビで午後一時のニュースが始まった。
春木たちが顔を向ける。
アナウンサーは、悪化する南米戦争の現状を深刻な顔で伝え始めた。
二〇三八年七月二十三日 金曜日
1
今日はタイムマシンの発射日である。その日も、春木陽香と山野紀子は高台にある葉路原丘公園まで山野の車で行き、発射を確認しようとした。しかし、例の通り国防軍のオムナクト・ヘリに追い払われ、発射を見ることはできなかった。
その後、二人は会社に戻り、いつものように仕事に取り掛かった。今日が「週刊新日風潮」の発刊日であることも、給料日であることも、週末であることも、二人は忘れて仕事に取り組んだ。タイムマシンの危険性を知らせる記事の作成に。そして二人とも、連絡が取れなくなった永山のことを気に掛けていた。
山野のイヴフォンに永峰から着信があったのは、二人が社員食堂で昼食を取っている時だった。
昼休みを切り上げて、新日ネット新聞の社会部フロアに山野紀子と春木陽香が駆け込んで来た。二人は真っ直ぐに一番奥の机の島に向かう。
神作真哉が自分の席に座ったまま、宙を向いていた。
山野紀子は神作の隣に立っている小柄な男に言った。
「うえにょ、哲ちゃんと連絡がついたって?」
「ああ、今、神作と話してる」
上野秀則は深刻な顔で神作を指差した。左目を緑色に光らせてイヴフォンで通話している神作真哉。机の上には食べかけの菓子パンが置かれたままだ。
山野の視線に気付いた上野秀則が言った。
「永山のことを心配して、昼休みも自分の机から動かなかった。昨日もここに泊まったみたいだ」
「そう……」
山野紀子が視線を向ける。神作真哉は椅子の背もたれに身を投げて呟いた。
「――マジか……信じられん……」
神作の脳の視覚野に浮かぶ永山哲也の像が言った。
『とにかく、ICレコーダーに入れたインタビュー記録をそっちに送ります。大至急対処してもらえますか。まだ午後のタイムマシンの発射までは時間が残ってますよね』
神作真哉は見にくそうに腕時計を覗きながら言った。
「単身機の発射は午後四時だから……くそ、あと三時間と少しか」
脳内の永山が言う。
『すぐに送りますから、パソコンの準備をお願いします』
背もたれから背中を離した神作真哉が答える。
「わかった。その後でいいから、その、田爪から預かったっていうデータ・ドライブとエネルギー・パックとやらの写真も送れ。データ・ドライブに適合するインターフェースを探してみる。それから、そのエネルギー・パックにはあまり近づくな。安全な物かどうかまだ分からんからな」
『分かりました。とにかく夕方の単身機は何としても止めてください。田爪博士がエネルギー・パックを僕に渡して、もう彼の量子銃が使えないとしても、ゲリラ兵たちはそれとは別に量産型の量子銃を持っています。機体から降りてきた渡航者は絶対にゲリラ兵たちに殺されるはずです。口封じのために。これ以上犠牲者を出す訳にはいきません。絶対に止めてください』
「わかった。絶対に何とかする。とにかく、そのインタビューの音声を早く送れ」
神作真哉は急いでイヴフォンの通話を切った。彼はそのまま少し間、呆然としていた。
山野紀子が尋ねる。
「どうしたの? 哲ちゃん、無事だったの?」
神作真哉は口を開いた。
「聞いてくれ……」
彼は山野の目を見たまま息を吐いた。そして椅子から立ち上がると、フロアの方に体を向けて、大声で叫んだ。
「みんな聞いてくれ!」
フロアに居た社会部の記者たちの視線が集まる。
神作真哉は大きな声で続けた。
「南米に取材に行った永山から連絡が入った。十年前に失踪した田爪健三博士が生きていたそうだ」
フロアの中が大きく騒めいた。
山野紀子は目を見開いて神作に尋ねる。
「直接会ったの? 本人なの?」
神作真哉は山野の顔を見て答えた。
「ああ。体内の生体チップから防災隊時代の個人識別コードが読み取れたそうだ。本人であることに間違いは無い」
春木陽香が思わず口を挿んだ。
「じゃあ、タイムマシンはやっぱり同じ時間軸上に……」
「ちょっと待ってくれ」
春木に掌を向けた神作真哉は、その手を高く上げて、フロアの方に向けて再び大きな声を放った。
「みんな、手を止めて聞いてくれ!」
騒めいていた記者たちが静かになり、皆、フロアの奥の神作に顔を向けた。
神作真哉は大きな声で事情を伝えた。
「司時空庁のタイムマシンはタイムトラベルなんかしていなかった。これまでのタイムトラベルは全て失敗していた。どの機体も南米の戦場の地下に到着していたそうだ。時間もそのままで」
またフロアの中が騒めいた。記者たちは互いに顔を見合わせて口を開く。誰かが神作に言った。
「ちょっと待ってください。じゃあ、ただのワープですか」
神作真哉が即答する。
「そうらしい」
その答えを聞いて、更にフロア内が大きく騒めいた。
神作真哉は両手を上げて記者たちに言った。
「もう少し聞いてくれ」
フロアの中が少し静かになった後、神作真哉は深刻な顔で事の核心を伝えた。
「しかも、南米の地下に到達したマシンから出てきた搭乗者は全員、田爪健三によって、『量子銃』という新型武器で殺されていたらしい。この十年間ずっと」
社会部のフロアに一瞬、沈黙が走った。そして今度は静かに少しずつ、騒めきが広がっていった。上野秀則と山野紀子が目を大きくして、神作に言った。
「こ、殺されていた? 全員がか!」
「じゅ、十年間って……タイムマシンで渡航した延べ人数は百二十人以上よ。嘘でしょ」
神作真哉は険しい表情を山野に向けた後、大きな声でフロアの記者たちに説明した。
「永山は、今日の午前中に発射されたマシンが到達するところも、そのマシンから出てきた家族全員が殺されるところも、実際に目撃したそうだ。音声の記録もあるらしい」
春木陽香が愕然とする。
「そんな……」
神作真哉は声を張った。
「田爪健三は永山のインタビューに応じて、長々と一連の経緯と真相を話して聞かせたそうだ。今、永山がそのインタビューを記録した音声データをこっちに送ってくる。だが、それを悠長に聞いている時間は無い。今日の四時には次の単身機が発射される。全員で協力して、何としても次の単身機の発射を止めるんだ。昼休みで出ている人間は至急呼び戻してくれ。それから、誰か政治部と科学部から人を集めてくれ。コンピューターに詳しい人間と官邸にパイプのある人間が必要だ。それと、送られてくる音声データーを大至急文字に起こしたい。手伝ってくれる人間は上野デスクのところに集まってくれ。上野……」
神作真哉が上野の顔を見ると、上野秀則は頷いて答えた。
「分かってる、任せろ」
手を叩いて前に出た上野秀則が、大きな声でフロア内の記者たちに言った。
「いいかあ、チーム間の競争は無しだ。垣根も無し。先に知った俺たちが何もせずに次のタイムマシンの発射をただ見ていたら、ウチの会社はこの特ダネを記事にすることは出来なくなるぞ。全員協力して取り掛かれ! 活字起こしに各チームからライターを一人ずつ出せ。そいつらに指示を出す。残りは、そいつらのバックアップだ。いいな」
山野紀子が神作に尋ねた。
「活字にして、官邸に届けるつもりなの?」
「ああ。止められるのは、一人しか居ない」
ヘッド・マウント・ディスプレイを顔に装着している永峰千佳が手を上げた。
「キャップ、届きました。音声データです」
「急いでコピーして、みんなのパソコンに振ってくれ。シゲさん、杉野副社長か甲斐編集局長に連絡して事情を伝えて下さい。社会部は夕刊の記事のアップが出来そうにないです」
「分かった、掛け合ってみる」
重成直人は急いで椅子から腰を上げると、ゲートへと駆け出していった。
永峰千佳が大きな声で言う。
「キャップ、永山さんから、またメールです。写真が添付されています」
「さっきの音声データと一緒にMBCに落として、こっちに渡してくれ。それから、科学部の連中に渡す分も準備しておいて」
神作の指示が終わらないうちに、永峰千佳は机の隅に置かれた外付けドライブからMBCを抜き取って、肩越しに後ろの春木に渡した。
神作真哉は春木が手に持っているMBCを指差しながら山野に早口で言った。
「紀子たちは手分けして、その中の画像に写っているデータ・ドライブらしき物に適合するインターフェースを探してくれ。永山が田爪健三から渡されたもので、中に重要なデータが入っているらしい。科学部の方にも情報を回すから、詳しくはそっちに聞いてくれ。売っている店からパソコン接続用のコードを買ってきて欲しいんだ。できたら、南米で手に入る店も調べて欲しい。永山がデータを引き出せなくて困っている」
山野紀子は困惑した顔で言った。
「とにかく、一度哲ちゃんを帰国させてから調べたら」
「駄目だ。技術検疫に引っかかって、空港や港で南米連邦政府に没収されちまう。中に書き込まれているデータをパソコン上に引き出せれば、画像データにでも偽装して、メールでこっちに送れるだろ。MBCに落とすとか、イヴフォンの中に記憶させるとかして、検疫官に見つからないよう何かしらの方法も取れるはずだ。――とにかく随分と古いタイプのドライブらしいんだ。今のパソコンと接続する方法を見つけてくれ」
「わかった」
春木からMBCを受け取りながら、山野紀子はそう答えた。立ち去ろうとした彼女に更に神作真哉が指示を出す。
「それから、別府をタイムマシンの発射施設の近くまで行かせてくれ。発射場の状況を知りたい」
「うん、やらせてみる。ハルハル、行くわよ」
山野紀子は足早で歩いていった。
立ち止まったままの春木陽香は、神作真哉に尋ねた。
「瑠香さんも……田爪瑠香さんも、犠牲に……」
神作真哉は春木の顔に視線を据えてから、一度だけゆっくりと首を縦に振った。
「そんな……瑠香さん……」
春木陽香は、ただその場に立ち尽くした。
フロアの中では、記者たちが猛然と動き出していた。
2
絨毯が敷かれた幅の広い長い廊下を車椅子に座った老人が移動している。その車椅子は燻し銀のパーティースーツを着た中年の男に押されていた。NNJ社の社長・西郷京斗である。彼の端整な顔の前には、緑色の点滴液を入れたパックが車椅子に立てられた棒の先から吊り下がっている。パックから伸びた点滴チューブは、老人のガウンの袖の中に入っていた。
老人は西郷に問う。
「奴は行ったか」
「はい。先程」
老人はこけた頬を引き攣らせながら言った。
「だから言ったのじゃ。ワシも、今となってようやく分かったよ」
西郷京斗が首を傾げながら尋ねた。
「それは、どういうことでしょうか」
老人は険しい顔をして言う。
「貴様の知ったことではない。余計なことを詮索するな」
「申し訳ございません。――ですが、ストンスロプ社の動きは、いかがいたしましょう」
「うむ。今は民間企業に構っている暇は無い。これからが正念場じゃ。事が動き出す。こちらの仕事に専念するんじゃ」
西郷京斗は少し考えてから老人に確認した。
「そのままにしておけと……」
「そうじゃ。田爪瑠香には気の毒な事になったが、そうなる運命じゃったのじゃ。仕方あるまい。それより、ウチのコンピュータはどうなっておる」
「……」
「どうなっておる!」
「はい。依然として活発に活動中です」
「そうか……。準備は出来ておるの」
「はい。着々と。来月中には、ご計画を実行に移せるかと」
「よろしい。それでよろしい」
二人は中庭に面した大きな窓から射す光りを受けながら、長い廊下を進んでいった。
3
新日風潮社の編集室で、山野紀子は自分の椅子に座り受話器を耳に当てていた。彼女は眉間に皺を寄せて言う。
「そうですか、分かりました。お忙しいところ、どうも有難うございました」
受話器を置いた山野紀子は、顔を上げて言った。
「ハルハル、そっちはどう?」
受話器を置いた春木陽香は、横を向いて答えた。
「駄目です。どの電気店もメーカーも、こんな形のインターフェースは見たことが無いって言ってます」
「そう。こっちも同じ。専門の大学にも尋ねてみたけど、適合する形状のものは無いそうよ。上の科学部は、その後何か言って来た?」
春木陽香は再び受話器を持ち上げると、立体パソコンに平面ホログラフィーで表示させた電話帳に目を遣り、受話器の裏のボタンを押しながら答えた。
「さっき電話してみました。やっぱり分からないそうです」
「そう。困ったわね」
腕組みをして高い背もたれに身を投げた山野紀子は、視界に入った春木の横顔を観察して、彼女に言った。
「ハルハル」
「はい」
ボタンを押す手を止めてこちらを向いた春木に、山野紀子が優しく尋ねた。
「大丈夫?」
「……」
黙って少し下を向いた春木に、山野紀子は言った。
「今は田爪瑠香のことは忘れて、目の前のことに集中しなさい。ドライブのことが何とかならないと、哲ちゃんだって南米から出られないし、次の搭乗者も救えないのよ」
「はい……。分かってます」
春木陽香は再びボタンを押し始めた。
山野紀子は春木の辛そうな横顔に向けて言う。
「しっかりね」
すると、春木陽香が立体パソコンの上に新たに表示されたホログラフィーの封筒を指さしながら、山野に言った。
「あ、上から、文字起こしの終わった分が届きました」
背もたれから身を起こした山野紀子も、自分の立体パソコンの上に浮かんだアイコンのホログラフィーを見ながら答えた。
「ああ、本当だ。こっちも届いてる。ハルハル、上に行って、こっちの状況を知らせてきて。で、上の状況も見てきて」
「分かりました」
受話器を置いた春木陽香は急いで立ち上がり、廊下の方に駆けていった。
彼女の後方で、編集室内の他の記者たちに向けて、山野の大きな声が響いていた。
「みんな聞いてちょうだい。今から一時間以内に、この写真のドライブに接続できるインターフェース用の接続機器を探してくれたら、その人に一週間、ランチを奢ってあげる。はい、よーいドン」
山野が手を叩いた音が響く。
春木陽香は狭い廊下を駆けていき、ドアを開けて出ていった。
4
社会部フロアのある階でエレベーターから春木陽香が急いで降りてきた。隣のエレベーターから降りてきたダークスーツの二人の男が前を歩いている。その一人が隣の男に言っていた。
「まったく、なんで社会部に俺たちが呼び出されなきゃいけないんだよ」
「緊急の協力だってよ。例のタイムマシン、大変なことになってるみたいだな」
「それ聞いたけどよ、俺たちには関係ないだろ。だいたい、誰のせいで議員の先生たちに取材しにくくなったと思ってるんだよ。今更、どの面さげて政治部に協力を求めてんだ。図々しい」
「ちょ、すみませーん。通して下さーい。急いでまーす」
後ろから声を掛けた春木陽香は、振り向いたその二人の間を通り抜け、社会部フロアのゲートを通っていった。
フロアの中では記者たちが慌しく動いていた。中ほどの隅の方で、大きな鼻の痩せた初老の男と髪を綺麗に整えた姿勢のよい中年男性が立って話し込んでいる。副社長の杉野浩文と編集局長の甲斐克弘だった。
その近くで上野秀則が記者たちに指示を出している。
「とにかく、送られてきた音声ファイルは雑音で聞き取りにくい部分が多い。そっちの三人は音声をスキャニングして、増幅処理でクリアにしてくれ。三人別々に処理して、ズレがないか確かめろ。高感度の音声データが再圧縮されて送られてきてるんだ。復元した音声データには相応のズレが生じていると思え。お前らは音声認識ソフトで活字にしたものを手打ちしたものと照らし合わせるんだ。手打ちの担当は急げよ。もう二時間以上も経っちまったぞ。自分のパートを全力で仕上げろ。時間がねえぞ!」
杉野と甲斐に御辞儀をした春木陽香は、上野の後ろを通って神作たちの机の方に向かった。
神作真哉は出来上がった活字のインタビュー録を読みながら、パソコン上で修正をしていた。確認が終わった分を随時プリントアウトして取り出し、黙って永峰に回す。永峰千佳は隣の机に置いた立体パソコンの上にその原稿を置くと、その前の分をスキャナーから取り出し、重成に回しながら神作に言った。
「キャップ、二十四頁目が終わりました。次の分を送ってください」
神作真哉は立体パソコンの上に浮いた平面ホログラフィーに目を凝らしながら答えた。
「ああ、ちょっと待ってくれ。先に、そのプリントした分の誤字確認を頼む。シゲさん、最終チェックお願いします」
「ああ、やっているよ」
眼鏡を動かしながら机に顔を近づけていた重成直人は、左手を上げて答えた。
春木陽香は遠慮気味に神作に声を掛けた。
「あの……」
「なんだ」
平面ホログラフィーに顔を近づけたまま無愛想に応えた神作に、春木陽香は報告した。
「インターフェースの種類が判明しません。科学部も外部のメーカーさんとかも、見たことが無いモノだって……」
「そうか」
神作真哉は原稿データに目を凝らしながら、また無愛想にそう応えた。
春木陽香は言った。
「あの、私も何かお手伝いしましょうか」
「永峰に訊け」
神作真哉は春木に顔を向けずに永峰を指差した。自分の机でヘッド・マウント・ディスプレイをして作業していた永峰千佳は、それを頭の上にずらすと、春木に言った。
「ああ、丁度良かった。ハルハル、スキャナーで取り込んだ分を、そっちのパソコンで伏せ字になってるものがないかの確認と、改行のチェックをしてちょうだい。向うでは、そのまま打っているだけだから」
「あの、永峰先輩、これ何で一回プリントアウトしてからスキャナーで取り込み直しているんですか」
神作真哉が作業しながら口を挿んだ。
「永山から送られてきているレポートの暗号データを展開するアプリが、うちの会社で使っている原稿アプリと互換性がないんだ。文字データに展開した分を一度校正チェックして、それをプリントしてから文字認識ソフトで取り込み直している」
春木陽香は怪訝な顔を神作に向けた。
「なんか効率悪いですよね。ネット上にデータ互換ソフトとか、調整アプリみたいなものはないんですか?」
「そんなものを探している時間が惜しいんだよ! 確実な方法からやってる。早く手を動かせ!」
神作真哉は珍しく癇声を荒げた。永峰千佳が春木の肩をパタパタと叩いて言う。
「永山さんが技術検疫に引っかからないように、あえて超マイナーな暗号ソフトで送ってきてくれたのよ。インタビュー録の方は他のチームが展開して、音声そのものから耳で聞いて手打ちしてる。人海戦術で勝負するしかない。前と同じよ。ほら、ハルハルも早くチェックをお願い。こっちは、どんどん印刷されて出てくるわよ」
「分かりました」
春木陽香は昔座っていた永峰の隣の席に座り、机の上に置かれた立体パソコンに手を伸ばした。社会部のアシスタント時代を思い出し、懐かしさが込み上げてくる。時間に追われるこの緊張感がいい。少しだけ笑みを浮かべた春木陽香は、以前やっていた様に、手際よく原稿の伏せ字と改行チェックを始めた。
そこへ社会部部長の谷里素美がやってきた。彼女は腰に手を当てて、憤慨した様子で神作に言った。
「ちょっと、これ、どういうことなのよ。私の許可も無く、また司時空庁の記事を作ってるの? 夕刊に穴をあけるですって。馬鹿じゃないの」
神作真哉はホログラフィーの記事原稿に目を通しながら怒鳴った。
「うるさい! 仕事中だ!」
「ちょっと、何よ、その態度。みんなも、勝手なことは許さないわよ!」
そう声を荒げた谷里部長に杉野副社長が言った。
「谷里君。いいから」
顔を向けた谷里部長は、急に口調を柔らかくして言う。
「あ、これは、これは。杉野副社長。見てください、こんなに勝手なことを……」
杉野副社長は眉間に皺を寄せて言った。
「いいと言ってるだろ」
谷里部長は困惑した顔で訴える。
「ですが副社長、これでは夕刊の社会面に空白が……」
杉野副社長は斜め後ろにいる甲斐局長に尋ねた。
「どのくらい空くんだ」
甲斐局長が即答する。
「八テラバイトってところですかね」
杉野副社長は、甲斐局長の後ろに立っていた上野次長に尋ねた。
「上野君、今やってる記事で、どれくらい埋められる」
上野秀則は腕組みをして答えた。
「一テラいくか、いかんかでしょう。活字ばかりですし」
甲斐局長が上野に言った。
「その音声データもアップしたら」
杉野副社長が厳しい顔をして首を横に振る。
「いや、それはテレビ・ラジオ各社との協定違反になる。ウチは制止データのみだ」
そして神作の方を見て言った。
「神作、覚悟は出来ているんだな」
ホログラフィーから顔を離した神作真哉は、杉野の目を見て答えた。
「もちろんです」
そこへ、ダークスーツ姿にきちんとネクタイをした政治部の記者たちが現われた。さっきの二人である。彼らは神作たちのチームの机を見回しながら、口々に言った。
「どうせ覚悟するなら、もっと早くしてくれませんかね。今更こっちを頼られてもなあ」
「おい上野、おまえ政治部に居たんじゃねえか。分かってるだろ、俺たちの苦労が」
「慌てて頼んで、政府関係者とすぐに話しが出来るなら、苦労はしないんですよ。政治の世界は、そう甘くは無いんでね。苦労して築いた政治家との信頼関係を横から壊された僕らの身にもなって下さいよ。神作さん」
横で聞いていた杉野副社長は声を荒げた。
「斜に構えて御託を並べている暇があったら、さっさと官邸と繋いで来い! 何のためにおまえらに高い給料を払っていると思っているんだ。おまえらが築いた信頼関係は、あの程度で崩れるものなのか。文句はルートを持ってきてから言え!」
ダークスーツの記者たちは反論する。
「ですが、副社長。まだこの調子じゃ、証拠も揃えられていない段階じゃないですか。これで官邸に繋げと言われても、無理ですよ」
「先生方に、自分たちの政治責任に繋がるミスを認めろと言う様なものなんですよ。みんな関わらないようにしますって。こっちからアポを取っても逃げられるのがオチですよ」
杉野副社長は更に大きな声を出した。
「おまえら、それでも記者か! 相手が逃げたら追いかけろ! 何を官僚のようなことを言っているんだ。いったい誰に雇われているつもりだ!」
「分かってますよ、そんなこと。ですが、急にそんな無茶を言われましても、我々にも立場ってものがありましてね。現場で『新日政治部』の看板を背負っている、こっちの身にもなってくださいよ!」
男たちが怒鳴りあっている横で、春木陽香がこっそりと電話の受話器を持ち上げた。
甲斐の後ろでイヴフォンの通話をしていた上野秀則が通話を切って神作に言った。
「別府からだ。やはり発射施設には近づけんそうだ。司時空庁は発射のための警戒態勢を解いていないらしい。どうやら、こっちが司時空庁に送ったメールは、津田長官に届いていないようだ」
神作真哉は椅子に座ったまま、険しい顔で言う。
「届いていても、津田が読まないんだろ」
杉野副社長が上野に尋ねた。
「直接、連絡はしたのか」
「はい。ですが、例の如くで、まったく取り合ってもらえません」
横に居たダークスーツの記者の一人がニヤニヤしながら言った。
「でしょうね。手順が違いますから」
「いいから、さっさと行け! その手順とやらで、官邸と繋いで来い!」
杉野副社長が再び怒鳴ると、政治部の記者たちは渋々顔で帰っていった。顔を紅潮させた杉野副社長は、神作のチームの机を見回しながら言った。
「電話はどこだ」
そこに在るはずの内線電話の子機は春木の耳に当てられていた。甲斐局長はその隣の席の散らかった机の上から別の内線電話の子機を探し出すと、それを取って杉野に渡した。杉野副社長は手早くボタンを押して受話器を耳に当てる。
「ああ、私だ。司時空庁の津田長官と話したい。急いで繋いでくれ」
別の子機を使っていた春木陽香が、それを肩の上に載せて、小声で言った。
「あの、神作キャップ、ちょっと……」
「なんだ」
「編集長です。あの、もしかしたら、力になれるかと……」
春木陽香は子機を手渡した。神作真哉は怪訝な顔でそれを受け取った。
杉野副社長は通話方法を切り替えると、子機を春木と神作の間の机に置いた。子機から秘書の声が聞こえてきた。
『津田長官は、所用のために電話に出られないそうです。伝言を賜るとのことです』
杉野副社長は眉を寄せて言う。
「わかった、もういい。ストンスロプ社の光絵会長と繋いでくれ」
『少々お待ち下さい』
上野秀則が杉野に進言した。
「副社長、それは不味いのでは。スポンサーに必要以上の借りを作ると、後々面倒なことになるかもしれませんよ。私が言うのもなんですが、我々の人事に口を挿んできたのも、光絵会長なのではないですか。たぶんそれは、何かこの件と絡んでいるんじゃ……」
神作真哉も春木から受け取った子機を耳から離して言った。
「俺も同感です。スポンサーとは広告スペースの提供だけで、その他はイーブンにしておいた方がいいのではないでしょうか。外部に頼ると、後々それを餌にして、こっちの記事内容に要望を付けて来ますよ。そうなると、こっちが書きたい内容が書けなくなる。それじゃ、東京での紙新聞の頃の二の舞じゃないですか」
甲斐局長が神作と上野を交互に指差しながら言った。
「外部に借りを作る原因になったのは君らじゃないか。助けてもらっといて、何を言ってるんだ」
上野秀則が甲斐に反論した。
「だから、これ以上、借りを作るべきじゃないと申し上げているんです」
杉野副社長は渋い顔をして言う。
「そうも言ってられんだろう。それに、今日の単身機に乗るのが誰か、おまえらは知っているのか」
「いいえ。誰なんです?」
そう尋ねた上野に杉野副社長は答えた。
「アキナガ・メガネ社の秋永社長だ。先週、壮行会に招かれたばかりでね」
「ああ! 副社長、それ不味いです、早く電話をキャンセルして。光絵会長と話したら、絶対に駄目ですよ」
そう言った神作の剣幕を見た杉野副社長は、机の上に立ててある子機を急いで持ち上げると、秘書に電話のキャンセルを告げた。
子機を机の上に戻しながら、杉野副社長が神作に尋ねる。
「どうしたんだ、慌てて」
神作真哉は机の上に両手をついて、前屈みのまま答えた。
「いや、だってですね、ストンスロプ社のGIESCOとアキナガ・メガネ社は、特許訴訟で争うかもしれないんですよ。アキナガ・メガネ社が開発した透過式フォトダイオード技術をGIESCOが盗用しているかもしれないんです。ウチは、その記事を載せる準備をしている最中じゃないですか。ウチからストンスロプ社に伝えても、官邸とは繋いでくれませんよ。ストンスロプ側にとっては、秋永社長が消えてくれた方が都合がいい。もし繋ぐとしても、相当な条件をつけてくるはずです。俺たちの記事内容に。それに、何も無しに繋いでくれたとしても、今後のウチの記事の信用に影響を及ぼすじゃないですか」
「なるほどな。今後の記事が、どちらかの当事者に偏頗した記事だと言われかねんな。特にストンスロプ社に……」
杉野副社長は顎を掻いた。甲斐局長が眉間に皺を寄せながら悔しそうに言う。
「辛島総理に直接繋いでもらえる唯一の窓口なのに、こっちが手を出せないか……」
上野秀則は自分の腿を一度だけ強く叩くと、天井を見上げて言った。
「くそお。あそこがウチのスポンサーや取材対象者じゃなかったらなあ」
杉野副社長は神作の顔を見て、対応を告げた。
「わかった。私の方で財界の他の人間を当たってみよう。閣僚の誰かか、運がよければ辛島総理に直接繋いでくれる人間がいるかもしれん」
「お願いします」
神作真哉は頭を下げた。甲斐局長が横から杉野に尋ねた。
「夕刊はどうします。臨時休刊にしますか」
杉野副社長は腰に手を当てて厳しい顔で考えている。そんな杉野に神作真哉が言った。
「その件なんですが……ハルハル」
杉野副社長は神作が顔を向けた方を見た。春木陽香が立体パソコンの上に画像を表示させている。彼女はホログラフィーで宙に浮かんで表示された写真画像の前でパッと両手を広げて杉野たちに示しながら言った。
「はい、届きました。修正作業も全て済んだものです」
杉野副社長は顎に手を当てながら画像を見て、神作に言った。
「なんだね、これは。グラビア写真じゃないか」
神作真哉は首を縦に振る。
「はい。
甲斐局長が杉野の後ろから画像を指差しながら言った。
「この画像データで、社会面の空き容量分を埋めるって言うのか。馬鹿言うな。日刊の時事新聞に女性アイドルグループの水着写真なんか載せられるか。スポーツ新聞じゃあるまいし」
神作真哉は冷静に答えた。
「ですが、これなら静止画ですから、協定違反にはならないですよね」
甲斐局長が反論する。
「報道としての時事性が無いだろ。載せられんよ」
杉野と春木の間から顔を出して画像を覗き込んだ谷里部長が、すぐに目を背けて声を裏返した。
「まあ、はしたない。こんな下品な写真を載せたら、新聞の品位と権威を落とすだけじゃない」
神作真哉は谷里をにらみ付けて言う。
「人一人の命も救えなくて、何が新聞の権威だ!」
杉野副社長は画像をにらんだまま神作に尋ねた。
「誰がどこで撮った写真だ」
神作真哉は答えた。
「下の新日風潮が、先日の国防無人機墜落事故の際に、無人機の遠隔操縦施設内で、国防省のPR動画の撮影に便乗して撮影したものです。撮影者は、下と契約している勇一松頼斗。ウチでも何度も使っている、信用できるカメラマンです」
杉野副社長は神作に顔を向けて更に尋ねる。
「お前の算段は」
神作真哉は自信のある顔で頷いて答えた。
「はい。確かに時事性はありませんが、証拠写真としては使えるはずです。今、俺たちがやっていることの確かな証拠として。読者に拡大して見てもらう手間を省くためという名目で、最初から画面ギリギリまで拡大した状態でサーバーにアップすれば、空き容量は埋められるのではないかと」
杉野副社長は、もう一度画面を覗き込んで言った。
「証拠写真か。面白いな」
甲斐と谷里は顔を見合わせた。平面ホログラフィーの写真画像から顔を離した杉野副社長は、神作と上野の顔を順に見て、言った。
「分かった。任せる。甲斐君、新聞協会に事前に根回ししておきたまえ。これは、記事掲載のための一つの手法だとな」
甲斐局長は合点のいかない顔で答えた。
「は、はあ。――分かりました」
「急いで頼むぞ」
そう言いながら背中を見せた杉野副社長は、その場から去っていった。
神作真哉が春木に口角を上げて見せた。春木陽香も神作に笑みを見せて返した。
神作真哉はすぐに横を向くと、立ち去ろうとしていた甲斐を呼び止めた。
「局長。――それから、夕刊のネットへのアップ。社会部の頁だけ先に出来ませんかね」
振り向いた甲斐局長は再び歩いて戻ってきながら、神作に言った。
「技術的に無理だろ。五時に一斉掲載するシステムになっているからな。それまでは、インターネット上へのアップロード・システムにロックが掛かっている」
上野秀則が神作に言う。
「何とか、官邸の注意をこっちに向ける方法はないかってことだな」
神作真哉は首を縦に振った。
「ああ。他の大臣は司時空庁の津田に気を使っているし、津田も、こっちの言うことは聞かんだろう。伝えるのなら、官邸の総理に直接じゃないと駄目だ。だが、政治部の連中が本気で繋いでくれるとは思えん。ストンスロプ社も駄目。あとは財界人に期待するしかないが、時間が無い。それなら、向うから目を向けるようにするしかない」
椅子に座って男たちを見上げていた春木陽香が言った。
「警察に言えばいいんじゃないですか。これ、殺人事件ですよね」
一瞬、沈黙が流れた。
神作真哉が首を傾げながら口を開いた。
「いや……警察が動くかな。政府のやっていることだしな」
上野秀則も言う。
「それに、普段、警察の捜査手法についてケチョンケチョンに書いている俺たちだからな。聞き入れてもらえるか……。総理に伝えてもらわないといけない訳だし」
甲斐局長が追加した。
「逆に揉み消されるかもしれんぞ。警察は危険過ぎると思うがな」
春木陽香は口を尖らせて言った。
「でも、基本的に真面目な人が警察官になるんですよね。この事を知ったら動いてくれるんじゃないでしょうか」
横から谷里部長が口を挿んだ。
「権力と距離を置くのがジャーナリズムでしょ。警察はその権力の象徴的機関じゃない。そんなところを頼れないわよ。信用できないわ」
上野秀則が谷里を何度も指差しながら言った。
「あんたがジャーナリズムを語るんですか……」
春木陽香は谷里や上野、神作の顔を見上げながら訴えた。
「でも、この前はタイムマシンの発射施設まで私たちのことは助けに来てくれましたよね。警察の皆さんも、ちゃんと仕事をしているだけじゃ……」
「子供ねえ、あんたは」
呆れ顔でそう言った谷里部長は、自分の部屋に戻っていった。
春木陽香は諦めずに神作に尋ねる。
「神作キャップ。あの技官さんも警察の方ですよね」
「岩崎か。いや、あいつは捜査官じゃないしな。それに、もっと上の人物じゃないと。警察庁長官の
上野秀則が言った。
「検事総長は」
甲斐局長が答える。
「もっと時間がかかる。彼らは官邸との接触には慎重になるはずだ。動きが鈍い」
上野秀則はもう一度言った。
「じゃあ、裁判所」
神作真哉が眉の横を掻きながら言う。
「そもそも動かないじゃないか。あそこは法適用の判定機関だろ」
上野秀則は更に言った。
「弁護士管理機構はどうだ」
甲斐局長が首を横に振って言った。
「無理だな。話にならん。昔の弁護士会なら動いてくれたかもしれんが……」
上野秀則は地団駄を踏んで言う。
「何だよ。この国は、どこを頼ればいいんだよ。まったく……」
神作真哉は椅子に腰を下ろしながら、吐き捨てるように言った。
「あんなくだらん司法改革なんかするからだよ。それより、辛島総理の地元の後援会は。そこからなら……」
神作真哉は視界の隅で何かが動いているのに気づいて、そちらに目を向けた。ヘッド・マウント・ディスプレイを右手で額の上に持ち上げた永峰千佳が、左手で隣の女を必死に指差している。春木陽香が電話の子機を耳に当てて話していた。
「もしもし、一一〇番ですか。あの、殺人事件です。大量殺人事件なんですけど、もう一人被害者が出るかもしれないので……」
驚いた上野秀則が声を上げた。
「ハルハル! おまえ、なにやってんだ!」
春木陽香は机の方を向いたまま、淡々と話を続けている。
「――はい、そうです。新日風潮社の記者の春木と申します。春夏秋冬の春に、月火水木の木。――いや、『はるき』です。『き』。――はい、下は陽香です。太陽の陽に……」
机の上に肘をついた神作真哉は、その手を額に当てて言った。
「受け付ける訳ないだろ。遺体も無いのに。それに、警察は事件が起こってから動くんだよ。記録を取られて終わりだって」
春木陽香は更に話を続けていく。
「――はい。それに、もしかしたら、総理のお命や政府関係機関も狙われるのではないかと思いまして……。――はい、そうです。――いえ、証拠の音声もあります。今、それを文字に起こしているところで、系列の新聞社の方で夕方のネット新聞に掲載する予定なんです」
甲斐局長は首を傾げながら呟いた。
「こいつ、何を言ってるんだ」
春木陽香は聞いていない。彼女は電話口で必死に説明している。
「――ですから、ワープするんです。事情が日本国内に伝わった以上、それに核爆弾とか毒ガスとかを乗せて、飛ばしてくる可能性もあるのではないかと。――はい。そうです」
春木の説明を聞いて、上野秀則は腕組みをして頷いた。
「まあ……言われてみれば、そうだわな」
春木陽香は、まだ続ける。
「――そうなんです。だから、最初に狙われるとしたら、政府の中枢機関じゃないですかね。例えば、総理官邸とか。ポンと現われるので、防ぎようが無いですもんね。――そうです。その現場を見た記者がいて、音声も録音してあります。あと一時間くらいで司時空庁からタイムマシンが発射されますけど、それもどっか行っちゃうかもしれないんです。例えば総理官邸とか」
上野秀則は顔を上げて春木の方を向いた。
「そうじゃないだろ、そうじゃ……」
神作真哉は机の上で頭を抱えて俯いた。
「ああ……」
それでも春木陽香は止まらない。
「――あの、すみませんけど、お名前をお伺いしても。――ホンゴウさんですね。ホンゴウ、ジュンイチさん。あ、少々お待ち下さい。もしかしたら政府の中枢機関が攻撃されるという国家の一大事まで、あと一時間も無いですけど、私では説明が拙いでしょうから、ちゃんと説明してくれる人に電話を替わります」
上野秀則は神作と顔を見合わせて言った。
「おいおい……」
神作と上野が自分に子機を渡されるのではないかと焦っていると、甲斐局長がその場を去ろう静かに後ろを向いた。上野秀則が彼の袖を掴んで止め、春木の電話に出るよう手で促す。甲斐局長は顔の前で必死に手を振って拒絶した。話し続ける春木の隣の席で、額の上にヘッド・マウント・ディスプレイを上げたまま、永峰千佳が目をパチクリとさせて春木を見ている。その向かいの席で重成直人が怪訝そうに春木を見ながら湯飲みの中の冷めたお茶を啜っていた。上野秀則が神作の背中を前に押す。神作真哉は机に手を突っ張ってそれに耐えていた。
耳から子機を離した春木陽香は、その子機の何かのボタンを押すと、再び耳に子機を当ててから言った。
「あ、杉野副社長の秘書さんですか」
お茶を噴く重成直人。永峰千佳は口を大きく開けたまま固まっている。
春木陽香は杉野の秘書に言った。
「すみません、リダイヤルでかけました。あの、今、警察の方と話しているんですけど、杉野副社長さんからも説明をしていただくよう、お伝え下さい」
『え?――あの……、杉野と替わるのですか』
戸惑う秘書の返答を意に介しないかのように、春木陽香は淡々と続ける。
「はい。このまま警察の方と替わります。ホンゴウさんです。では、どうぞ」
耳から離した子機のボタンを押した春木陽香は、その子機を隣の机の上に戻した。そして、額の汗を拭きながら頬を膨らませて息を吐く。
「ふう」
神作の背中を押したまま固まっていた上野秀則が春木に言う。
「ふ……ふう、じゃないだろ。おまえ、なに副社長に無茶なパスを回してるんだ……」
神作真哉は机に腕を突っ張ったまま、春木の顔をじっと見ていた。
甲斐局長が春木を指差しながら、紅潮させた顔で言った。
「き、君は、自分が何をやっているのか分かっているのか。記者が警察を頼ってどうするんだ。いい恥さらしじゃないか。ウチは記事にしないといけないんだぞ。こういうことは裏から慎重に根回ししてだな……」
椅子を回して横を向いた春木陽香は、大きな声を出した。
「そんなことをやっていたから、こんなにたくさんの人が死んじゃったんじゃないですかあ!」
春木陽香の怒声はフロア中に強く響いた。
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