二十歳:帰り道には内緒話を

「俺ってさあ」


 学食のカウンター席でうどんを啜っていると、隣に座ってかつ丼を食していた祐理が唐突に話しかけてきた。


「なんでずっと師匠って呼ばれ続けてるん?」


 十年近く呼び続けて、初めて訊かれた。

 鈴蘭は口の中のものを飲み込んでから、横を向いてにこりと笑った。


「師匠は師匠やし。今さら他の呼び方は違和感あるっていうか」


 鈴蘭の答えに彼は不満げに鼻に皺を寄せた。


「ちょっと祐理って呼んでみて」

「いやー」

「何でえや」

「だって師匠は師匠やし」


 逃げるように彼の瞳から視線をそらす。艶のある黒髪が目に入った。高校までは野球少年らしく坊主頭だった彼の髪は大学生になってから少し伸びた。それはそれで時間の流れを感じさせて気まずい気がして、慌てて目線をうどんに戻す。


(名前で呼ぶとか、恥ずかしくて無理です)


 二人の大学生活は順調だ。祐理は陸上部という新しい環境に馴染んで短距離走者としてめきめきと力をつけているし、鈴蘭も小学生の頃の夢だった英語の先生になるべく、国際学部で教職課程を専攻している。学部は違っても、こうして予定が合えば一緒にごはんを食べたり時間をつぶす。高校生までとは違い、鈴蘭と祐理は頻繁に顔を合わせることが当たり前になっていた。


 祐理の近くにいたいという鈴蘭の願いはちゃんと形になっていて、本当に全てが順調である。祐理への浮ついた感情を持て余している、という問題以外は。





 同じゼミのあいちゃんに、ビアガーデンに誘われた。


「ビアガーデン行ったことない、興味あるー」

「ほんと? 良かった! 人数足りなくて困ってたんだよね。すずちゃんありがとう!」

「人数?」


 鈴蘭が首を傾げると、講義で配られたプリントをバッグにしまっていた藍ちゃんはきょとんと目を丸くした。


「ありゃ? 説明しなかったっけ。うちの学部とスポ学の合コンだよ。向こうがスノボの王子様連れてきてくれるっていうのにこっちが人数揃わなかったらどうしようって申し訳なくて焦ってたんだ」


 スノボの王子様って誰……? 考えているうちに合コンを断るタイミングを逃し、藍ちゃんは手をふって次の講義へ行ってしまった。


(まあ、ごはんとビールだけ楽しんで帰ればいっか)





 合コンで実際に対面したスノボの王子様は、王子というよりも見た目や喋り方がどことなくホストだった。前回の冬季オリンピックに出場していたらしい。鈴蘭の中で王子様といえばコバケンだったので、ちょっと思っていたのと違った。ちなみに現在コバケンはプロ野球界で絶賛活躍中である。あの爽やかさで女性ファンをがっちりつかんでいる。

 そんなことよりも鈴蘭がびっくりしたのは、スポーツ科学部側の男子メンツに祐理がいたことである。祐理は普段よりも少し不機嫌そうに席についていた。鈴蘭の姿を認めると一瞬目を見開き、さらに機嫌が悪そうになった。


「こいつ、陸上部の将来有望株。短距離で日本新記録出すポテンシャル持ってるって期待されてんだよ」


 幹事の男子が紹介がてら祐理を持ち上げてくれているあいだも、彼はにこりとも笑わなかった。

 どうやら日本代表や代表候補、連盟の強化選手といったような比較的有名な学生を男子勢は集めてきたようだ。心なしか女子たちの目がぎらぎらしている。

 女子側は藍ちゃんの人脈を中心になんとか寄せ集められた人たちで、有名人といえば昨年のミスコンファイナリストが一人いるくらいだろうか。だけど皆、国際関係の学問を学んでいる人たちだ。異文化を理解するにはまず交流から、とコミュニケーション能力に長けている社交的な子が多い。なんとなく会話の主導権は女子たちが握っているように見えた。


 鈴蘭は向かいに座っていたのが偶然選手ではなく競技用車いす開発の研究室にいるという男子だったため、成り行きに任せて彼の話をぼーっと聞いていた。どうやらパラスポーツオタクらしい。パラリンピックの歴史についてオタク特有の早口で語られる。内容は面白いけれど、スピードが早すぎて途中から頭がパンクした。

 斜め向かいの男子には、しょっぱなから「野口さんてハーフ?」と訊かれた。確かに自分の顔立ちは少々彫が深く、瞳や髪の色も真っ黒ではなく少し茶色がかって薄い。人生の中で言い飽きた返答を繰り返す。「クォーターやねん。母方のおばあちゃんがフランス人」と。

 ふと視界の端に見慣れた黒髪を映してしまう。祐理は祐理で近場に座る女子に何か質問されていた。


「星川くんて普段何してんの?」

「練習」

「練習休みの日は?」

「トレーニング」

「トレーニング以外は?」

「……トレーニング」


 返ってくる返答のひどさに、質問した女子は絶句していた。本当は休みの日には祐理だって遊んでいるのを知っている。一人暮らしの鈴蘭の部屋に来て一緒に映画を見るときもあるし、逆に鈴蘭が祐理の部屋にお邪魔するときもある。そう、祐理の最近の趣味の一つは映画鑑賞だ。

 だけど本人はそれを話すつもりがないみたいだし、鈴蘭がしゃしゃり出て祐理の趣味を暴露する必要性も感じなかったため、そのまま放置しておいた。


 興味があったビアガーデンは、想像していたほど楽しい場所でもなかった。

 夏の季節に屋外で飲み食いするのは暑い。むっとした熱気に食欲が負けて、なんだか体力を奪われた。なるべく気づかないふりをしていたけれど虫もいた。冷たいビールは美味しかった気もするが、もう一度来たいとはあまり思わなかった。


 合コンは二時間ほどでお開きになった。ミスコンファイナリストとスノボの王子様は腕を絡めて二人でどこかへ消えてしまった。藍ちゃんはスポ学側の幹事役だった男子が彼氏で、二人で帰っていった。

 鈴蘭はパラスポーツオタク男子に二人きりで二軒目に行くことを誘われたけど丁重にお断りした。他にも何組かペアで去っていったり、数人でカラオケに行こうと話しているグループがいる中、祐理は特に誰かに誘われることもなくぽつんとその場に立っていた。寂しそうにも見えたし、わざと人を寄せ付けないオーラを出しているようにも見えた。

 鈴蘭は彼にそっと近づき、彼の顔をのぞきこんだ。


「一緒に帰る?」


 頷いた祐理の表情が一瞬安堵のようなものを滲ませたのを確認して、鈴蘭もなぜだか少しほっとした気分になった。




 鈴蘭と祐理の家は同じ方向にある。実家がご近所さんだったのは偶然でしかないけど、大学生の今はあえて近くに住んでいる。鈴蘭がなるべく彼のそばにいたかったから。だけどその選択は、もしかしたら見たくない彼の生活もいつか垣間見てしまう日が来るのかもしれない。例えば彼に恋人ができて、その人と一緒にいる姿とか。


「師匠が合コン来たの、彼女ほしかったん?」

「んなわけない。飯食いに行こって誘われてついてったら男女の数が半々やっただけ」

「そっか。うちらが来るんは知らんかったんや」

「そう」


 騙された、と苦々しく文句を言う祐理の低い声が、夜風と一緒に心地よく耳に残る。さっきまで暑くて疲れていたのに元気になってきた気がした。鈴蘭は足取り軽く夜道を歩いた。


「鈴蘭は? 彼氏ほしかったん」

「まさかあ。私はビアガーデンに興味あっただけー。あと、友達が人数足りんくて困ってたから」


 答えながら、どうして自分は言い訳っぽく合コンに来た理由を祐理に説明しているのだろうと思った。祐理もどうして合コンに来たのは自分の意思ではないとでも言わんばかりに後ろめたそうなのだろうか。


(どうしてって、師匠が好きやから男漁りしてるって誤解されたくないだけなんやけど――)


 そこまで考えて、鈴蘭の足は止まった。


「鈴蘭?」


 青信号なのに横断歩道を渡ろうとしない鈴蘭に気づいた祐理が怪訝そうに振り返る。視線がかち合い、彼の瞳から放たれるまっすぐな光に射抜かれた。


(師匠も私に誤解されたくない?私と同じ気持ちやったら、いいな。違ったら……嫌やなあ。どうなんやろ、同じなんかなあ)


 これまでに何度も心のうちで持て余していた迷いが再び大きくなる。だけどいつもと違うのは、「違うかも」よりも「同じかも」の期待が大きくなっていること。

 鈴蘭の戸惑いを反射して、祐理の瞳がほわりと熱を帯びた気がした。「同じかも」のほうにもっと気持ちが傾く。慌てて視線を引き離して信号機を見た瞬間、点滅していた青信号が赤になってしまった。


「師匠ぼーっとしててごめん、信号、」

「祐理」

「へ?」

「俺、師匠じゃなくて祐理」


 もどかしそうに祐理が主張する。祐理が鈴蘭に求めているものは、名前を呼ぶことだけじゃなくて、もっとたぶん別の何か。同じだったらいいなと期待していた何か。でも、そうだとしても……。


「あの、ごめん。無理……というか、待って」


 目の前にいる彼から逃げられるわけでもないのに、身を隠したくなってその場に小さくしゃがみ込んだ。うずくまると自分の心臓が想像以上に早鐘を打っているのがよくわかる。


「待ってって、なんで?」


(だって、そんなん、)


「名前呼んだら、好きなのがあふれて私きっと、おかしくなる……」


 下を向いたままぼそぼそとつぶやいただけのそれが祐理に聞こえていたのかは、わからない。平静を装って隣にいるのがもう限界だから、これ以上おかしくなりたくない。おかしくさせないでほしい。


「……すず」


 思いのほか近い距離から慣れない呼び名を囁かれ、鈴蘭の肩は大きく跳ねあがった。

 俯けていた顔を上げる。祐理は鈴蘭の隣にしゃがんでこちらを見つめていた。内緒話をするような距離感。

 どぎまぎしている鈴蘭を見つめたまま、祐理は小さく笑った。見たことないくらいに優しい笑みだった。


「すず。ほんまやな」

「な、何が?」

「俺も好きなん、あふれた」

「……おかしくなる?」

「なる」


 でも大丈夫、と祐理が言う。


「ひとりじゃなくてすず……好きな子と一緒にいるから。おかしくなっても幸せやと思うわ」


 祐理からあふれてこぼれる眩しくて切ない、形のないもの。違うかもとずっと怖がっていたのが馬鹿みたいだ。何も違わなかったのに。

 私も同じものをあなたに対して抱いているよと、コントロールができなくなってあふれてしまってもいいから伝わってほしい衝動に駆られた。


「ゆ……祐理」


 声に反応して、すぐ隣の大きな身体が身じろぎをした。


「祐理」

「うん」

「祐理祐理祐理祐理」

「……あんま意味なく連呼すんな。恥ずい」

「あはは」


 ずっと抑えていたものが吐く息からこぼれ落ちた。


「祐理。好き……」

「ん」


 彼の手が吸い寄せられるように伸びてきて、鈴蘭の頬にかかる髪を耳にかけられる。その柔らかく優しい手つきにも、指がかすかに触れた頬や耳が熱くなる感覚にも。二人からこぼれ落ちた甘さの欠片が散りばめられていて、空気に溶けて広がる。

 祐理が好きだという思考に塗りつぶされていく。おかしくなっている。幸せだ。

 もう少しだけこのまま内緒話をするように身を寄せ合っていたかったから、他のものが何も見えないように祐理で視界をいっぱいにした。彼の瞳が愛しいものを眺めるように細められる。


(今、この人のそばにいることができて嬉しい)


 信号機が永遠に赤のままだったらいいのにと、無茶なことを思った。

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あまりものの幸福日和 中村ゆい @omurice-suki

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