十八歳:ささやかなわがまま

 高三の夏休みは受験勉強の苦しみと、ちょっとした楽しみでいろどられた。

 祐理が甲子園に出場したのだ。


 彼は野球の強豪で有名な近所の男子校に進学して練習に励んでいた。少し遠くの進学校に進んだ鈴蘭とは疎遠になったが、彼が部活を頑張っていることは風の噂で間接的に知っていた。

 甲子園のテレビ中継でグラウンドに立つ祐理の姿を発見したときはとても興奮した。勉強どころじゃなくて、参考書を放り投げてルールもわからないくせにリビングのテレビ前を陣取り一人で応援した。


(たぶん、師匠のドラフト1位の夢まであともう少しだ)


 同じチームのコバケンがばんばんホームランをぶっ放す姿よりも、祐理が堅実に打って少しずつ塁を進めて、外野を守る姿のほうが、鈴蘭にとっては輝いて見えた。

 彼の高校は準優勝という結果に終わった。




 そんな夏が過ぎ、秋が来た。

 ドラフト会議の日、鈴蘭は塾で授業だった。自分には自分の進路のための戦いがあることはわかっている。授業中はしっかりと勉強に集中し、帰りの電車でスマホをいじってドラフトの結果を確認した。

 コバケンの名前を1位指名で見つけた。祐理の名前はなかった。

 2順目以降にも育成枠にも、祐理はいない。

 くまなく画面をスクロールしたけれど、星川祐理はどこにもいなかった。



 こんなにも祐理の連絡先を知らないことを後悔したことはない。ぼんやりしていて中学を卒業するときに電話番号もメールアドレスもSNSのIDも交換することを忘れていた。

 翌日の放課後、ストーカーじみていることを承知で自宅から徒歩十分ほどの男子校を訪れた。敷地の外からフェンス越しに学校のグラウンドを眺める。野球部は練習していたけれど、祐理がいるかどうかは目を凝らしてもよくわからなかった。今の時期はもう三年生は引退していて一、二年しかあそこにはいないのかもしれない。

 祐理がいたらどうというわけでもない。ただ、彼が元気かどうか確認したかっただけ。

 あきらめてのろのろとフェンスから離れる。帰ろうかな、とフェンスに沿って敷かれた歩道をゆっくり歩き出した。


「あれ、野口さん?」


 爽やかな男子の声につられて顔を横に向けると、校門のそばにコバケンがいた。


「久しぶり。学校帰り?」


 制服に手ぶらな姿を一瞥されてそう尋ねられ、鈴蘭は小さく首を横に振った。一度家に帰ってスクールバッグを置いてからここに来たのだ。


「小林くん、師匠は……」

「師匠? あ、祐理か。今日進路相談や言うてたし多分まだいるよ。連絡しよか?」


 コバケンは快くスマホで祐理に連絡を入れてくれた。


「終わったら来るって。じゃあ俺は帰るね」

「わかった、ありがとね。それとドラフト指名おめでとう」

「うん、ありがとう」


 コバケンは王子様みたいにキラキラした笑顔を振りまいて帰っていった。

 校門の横に突っ立って祐理を待つ。男子校の入り口に女子が一人立っているのはかなり目立つみたいだ。下校する生徒たちからときおりじろじろと視線を感じる。そういう好奇の眼差しをあまり気にしないようにして、鈴蘭は薄青色にオレンジ色を混ぜた空をぼーっと見上げて時間をつぶした。

 どれくらい待っていただろうか。空に浮かぶ雲がマシュマロみたいだなあなんて考えていると、控え目に肩をつつかれた。


「鈴蘭?」


 久々に会う祐理は、想像以上に背が伸びていた。顔を上向けて笑顔を作る。


「師匠、おひさ~」

「おう。わざわざ来てくれて、どうしたん?」

「えっとね」


 探るように祐理をじっと見る。


(なんて言おう)


 顔を確認しても、あからさまに落ち込んだ様子があるわけでもない。昨日の出来事に対してどれくらい傷ついているのか、それとも平気なのか。上手に隠して穏やかな態度を取られてしまうと慰めることもできない。

 迷った挙句、言葉そのものは当たりさわりのないものを、だけど声には物凄く気持ちをこめて質問した。


「師匠は元気かなあって、思って来た。元気?」


 祐理は数秒固まり、そして唇をゆがめるようにして苦笑した。


「あんま元気じゃないかも」





 二人で道端に転がっていた小石を蹴りあいながら、小学生みたいに帰った。鈴蘭のほうから昨日のことを話題に出すことは気が引けてできない。言葉少ない祐理に対して鈴蘭は最近の学校や家族の面白い話を聞かせ続けた。

 鈴蘭の家の前に着くと、小石蹴りも鈴蘭の口も止まった。祐理の家は、ここからさらに歩いて数分かかる。


「師匠、うちでお茶飲んでく?」


 誘ってみたけれど、無言で首を横に振られた。祐理はそのまま項垂れるようにうつむいて黙り込んでしまった。


(何か、言おうとしてくれてる)


 彼が再び口を開くまで、気長に待つことにした。

 鈴蘭はせっかちではないけれど、適度に飽き性だ。じっと祐理の様子を観察して待つような我慢強さは持ち合わせていない。今日の晩ごはんのこと。明日の授業のこと。毎週録画している連続ドラマのこと。彼と向かい合わせになって色々と考え事をしながら静かにしていた。

 やがて祐理は水滴を落とすようにぽつんとつぶやいた。


「鈴蘭……」

「うん。なあに?」

「選ばれへんって、きついな」


 泣いてはいなかったけれど、心は涙を流しているみたいに苦しそうだった。だから鈴蘭は彼の背中をあやすようにさすった。幼い頃に転んで痛くて泣いているとき、親がそうしてくれたのを思い出しながら。


「ずっと何位でもいいからって思って待ってたけどあかんくて、でもコバケンが指名されたからみんな喜んで大騒ぎになって俺も喜んでるふりして……しんどかった」

「そっか」


 鈴蘭は祐理の大きな身体に抱き着くようにして、しばらく背中をさすり続けた。

 少し失望した。彼が一番きつかったその瞬間、塾でただ勉強していることしかできなかった自分に。




 秋の終わり。鈴蘭と祐理はハンバーガーチェーン店で向かい合って座っていた。

 テーブルの上には鈴蘭のシェイクと祐理のコーラと、食べ終わったバーガーの包み紙、それからいくつもの大学の資料。

 あれから祐理は大学進学することを決めた。鈴蘭はもともと進学のつもりで受験勉強していたけれど、祐理と同じ大学を受験することに決めた。

 祐理には「そう言ってもらえるんは嬉しいけど、後悔せんか」と心配されたから、「大丈夫」とだけ返事した。それ以上、自分がそうしたかった理由は言っていない。はっきりと言葉にしてしまうと、祐理が鈴蘭にとっての友達ではなくなってしまう予感がしたから。


(師匠がしんどいとき、なるべく近いところにいたい。でもそれは本人に言わんくても問題ない)


 ドラフトでは指名漏れとなったものの甲子園でそれなりにチームの勝利に貢献していた祐理には、複数の大学からスカウトが来ていた。


「私、どこでも師匠の行くとこについてくから好きな学校選んでな。師匠が好きな場所で野球できるのが一番の優先事項」

「偏差値高いとこでも?」

「東大とか言われたら厳しいけど、それ以外やったらまあ。こう見えても私勉強できるから」

「東大からはスカウト来てないから大丈夫」


 祐理はちょっと笑ってそう言った。それから何かを言い淀むように口をぱくぱくと開いた。


「師匠? ほかにも何か不安なことでも?」

「あー……あの。鈴蘭って、野球じゃなくても応援してくれたりする?」

「?」


 実は、と言いながら祐理はパンフレットの束から一つの大学のものを引き出して鈴蘭に見せた。


「この大学の陸上部からスカウト来てて、興味あって……」


 瞬きをして、そのパンフレットを凝視する。中堅~難関と言われるレベルの総合大学。野球部じゃなくて陸上部がスカウト……。


(それって、それって……)


「師匠、すごぉい!」


 鈴蘭の突然の賞賛に祐理は面食らったように首を傾げた。


「ど、どこが?」

「えっ、だってだって、すごくない? 野球部が野球選手を探して野球やってる人をスカウトするのはわかるよ。でも他のスポーツの人がわざわざ野球やってる師匠を見に来て見つけてくれたんやろ! すごいよ~」


 色んなスポーツをしている高校生たちの中で祐理をいいなと思ってくれたことが、自分のことのように嬉しい。この間のドラフトでは残念な結果だったかもしれないけれど、意外なところから彼を選んでくれる人だっているんだ。

 鈴蘭がにこにこと喜んでいると、嬉しい気持ちが伝染したみたいに祐理の口元が弧を描く。


「言われてみれば、すごいかも。声かけてもらえるとか、ありがたい話やんな」

「うん、うん。師匠がその大学を第一志望にするなら、私もそうするよ」

「……鈴蘭、ありがとう」


 祐理に微笑まれて、鈴蘭の心臓がとくんと一度、大きく跳ねた。

 彼がしんどいときだけじゃない。嬉しいことがあったときも、夢や目標の形が変わる瞬間も。


(どんなときも近くにいたいって思うのは、わがままやろうか)


 わがままでも今の鈴蘭の願いだから。とにかく合格するために勉強を頑張ることにした。




 冬。祐理が一足先にスポーツ推薦でスポーツ科学部に合格した。

 春。鈴蘭が一般入試で国際学部に合格した。

 二人は晴れて、一緒に同じ大学に入学した。

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