第20話 ひとつだけ


「庶民の飲み物、割とうまいな。礼を言う」


 小さく切った数種類の果物が入ったジュースを片手に、少年は小さく笑った。生意気だけれど、しっかりお礼を言えるあたり、悪い子ではなさそうだ。少し可愛い。


 妙に偉そうな態度や近くで見た装飾品から、かなりの上位貴族なのではと思い始めたけれど、気づかないふりをした。


 そうして適当な会話をしていると、やがて「ナイジェル様!」という声が辺りに響いて。そんな声に少年は、跳ねるように顔を上げた。どうやら迎えが来たらしい。


 むすっとした顔をしながらも、ほっとした雰囲気は隠せていない。無事合流できて良かったと、わたしも安堵した。


 彼の従者らしき人にも何度も丁寧にお礼を言われ、礼をしたいからと名前を尋ねられたけど、結構です、で通した。


「まあ、お前らのお蔭で退屈はしなかった。ありがとう」

「どういたしまして」

「そうだ、あれをやろう」


 そう言って彼が従者に何やら耳打ちし、やがて渡されたのは二枚のチケットのような紙だった。よく見るとそこには、数ヶ月先まで予約が取れないという、王都一の人気最高級ホテルの名前が書かれている。


「それで、スイートルームに泊まれる」

「えっ」

「あとはナイジェルという俺の名前を出せ。そうしたらすぐに予約はとれるだろう。食事もかなり美味いぞ」


 そして「またな」なんて言い、少年はあっという間に去って行ってしまった。あまりの勢いに、お礼を言いそびれた。一体彼は、何者だったのだろう。


 そして彼と入れ替わるようにして、フィリップ様が戻ってくるのが見えた。その手に飲み物はないけれど、全てどこかで飲んできたのだろうか。


 彼は少し離れた場所に腰を下ろし、わたしの顔を見た後、再び「はー……」と深い溜め息を吐き、俯いた。


「さっきの子、無事にお迎えが来ました」

「ああ」

「ええと、大丈夫ですか?」

「ああ」


 見たところ、全然大丈夫ではなさそうだ。一体どうしたのかと心配になっていると、少しの沈黙の後、フィリップ様は顔を上げ、二つの金色でじっとわたしを見つめた。


「……嘘だと分かっていても、君に好きだと言われたのがあまりにも嬉しくて、動揺した」

「え、」

「嘘ではなく本当に、君にそう言って貰えるよう努力する」


 そう言ってフィリップ様は、熱を帯びた瞳を向けてくる。


 わたしといえば「そ、そうですね」なんて言葉を言うのが精一杯で。この妙に甘い空気をなんとかしようと、何か別の話題をと必死に考えた結果、気が付けば手に握りしめていたチケットをまっすぐ彼の前に差し出していた。


「よ、良ければ一緒に!」

「………………」


 するとフィリップ様は、チケットに書かれている文字を見た後、石像のように固まった。隠し切れない戸惑いが、その美しい顔に滲み出ている。


 そんな様子を見て初めて、わたしは「さっきの少年がくれた」「美味しいらしいので、食事だけ食べにいこう」という大事な部分を言葉にしていない事に気がつく。


 これでは突如、一緒に泊まりに行こうと言っているように聞こえてもおかしくはない。


「ち、違うんです! さっきの子がくれて、泊まりたいとかではなくて、美味しいらしいので食事だけでもと思って!」


 自分でも何を言っているかわからなくなっていたけど、一応伝わったらしく、フィリップ様はやがて少し赤い顔でこくりと頷いてくれる。


 そうして、近いうちに日時を決めて夕食を食べに行くことにしたわたし達は、馬車へとゆっくりと戻った。




 ◇◇◇




「ああ、すみません」

「こちらこそ、」


 それから、数日後。暇を持て余していたわたしは、何気なく刺繍の練習をしていたのだけれど、そのうちに糸が何色か切れてしまった。たまには外に出ようと気分転換も兼ねて、自らの足でセルマと共に街へ買いに来ている。


 流行りの雑貨店で糸を購入し帰ろうとすると、不意に誰かとぶつかってしまって。謝罪の言葉を言い、相手の顔を見た瞬間、わたしは思わず「あ」という声を漏らしていた。


「こんにちは、ヴィオラ。こんなところで会えるとは思っていなかったよ。嬉しいな」

「こ、こんにちは、シリル様」


 そう、そこには今日も眩しいくらいに爽やかな笑みを浮かべた、シリル様がいたのだ。そしてその隣には、同じくらいに眩しく美しいローラ様の姿がある。


「あら、ヴィオラ様もお買い物ですか?」

「そんなところです」

「刺繍糸ですね! それもフィリップ様のお色ね」

「そ、そういうつもりでは……」

「隠さなくてもいいんですよ、素敵だわ。良かったら少しお茶でもしましょう!」


 そんなことを言い出したローラ様に「用事が……」なんて言っても、「ほんの少しだけですから」と押し切られ、あっという間に腕を組まれてしまう。やがて店の外へ出たわたし達は、二つ隣のカフェへと入った。


 そうして飲み物を注文したところで、慌てた様子のクレイン家の従者がローラ様に何か耳打ちをして。すると彼女ははっとしたような表情を浮かべると、立ち上がった。


「すみません、少しだけ席を外しますわ」

「えっ」

「すぐ戻ってきますので!」


 そうして、彼女は慌てて店から出て行ってしまう。


 テーブルを挟み向かい合う形で座り、シリル様と二人きりになってしまったわたしは、どうしてこんなことになってしまったのだろうと、心の中で頭を抱えていた。


 気まずさを感じているわたしとは裏腹に、彼は変わらずに爽やかな笑みを浮かべている。


 やがてシリル様は、先程買ったばかりの糸が入った紙袋へと視線を移すと、なんとも言えない表情でわたしを見た。


「……本当に、記憶がないと人は変わるものだね」

「えっ?」

「君は元々、刺繍もフィリップのことも苦手だったのに」


 今この場に、フィリップ様がいなくて良かったと心の底から思った。彼のことだ、取り乱していたに違いない。


「記憶、早く戻るといいね。どうしたら戻るんだろう」


 知り合いの医者にも聞いてみるよ、なんて言う彼は真剣に悩み、考えてくれているようで。


「どうして、そこまでしてくれるんですか?」


 思わずそう尋ねると、彼は眉を下げて微笑んだ。


「俺は、君が好きだったから」


 そんな言葉に思わずどきりとしてしまいつつ、それが過去形であることに、ついほっとしてしまう。


「君の記憶がなくなったと聞いた時、君の中から俺の存在が消えてしまったんだと思うと、寂しかった」

「……シリル、様」

「俺にとっては、ヴィオラと過ごした時間はとても大切なものだったんだ。君にとっては、違ったかもしれないけれど」


 そう言った彼の表情は、ひどく切ないもので。


「君とフィリップの婚約は絶対に揺るがないものだとわかっていたし、どうにかなりたいと思っていたわけじゃない」

「…………」

「それでも、少し位は君の中にいたいと思ってしまうんだ」


 困ったように微笑む彼に対して、わたしはなんと言っていいのかわからなかった。


 シリル様がそんな風に思っていたなんて、想像もしていなかった。本当に彼は、わたしのことを好いてくれていたのが伝わってくる。それと同時に、そんな彼にも嘘をついてしまっている罪悪感で、ずきりと胸が痛んだ。


「すみません、お待たせしました! なんの話ですの?」


 やがて戻ってきたローラ様に、内心ほっと安堵した。


 それからはさっきの会話がまるでなかったかのように、他愛無い話をして。結局小一時間ほど経った後、そろそろ帰ろうかと会計を済ませ、外に出た。


 すると不意に、わたしに背を向けてローラ様と何か話しているシリル様の肩に、糸くずがついているのが見えた。


 二人の話の邪魔をするのも良くないと思い、何も言わずにそっと手を伸ばしてそれを取ろうとすると、急に振り返った彼の頬に手が当たってしまう。


 その瞬間、シリル様の顔が、赤く染まって。彼は小さく溜め息を吐くと「駄目だな」なんて言い、眉を下げて笑った。



「……ごめんね。君に嘘はつかないと言ったのに、さっき一つだけ嘘をついた」



 そして、そんなことを耳元で囁かれる。


 何のことだろうと立ち尽くすわたしに手を振ると、二人は人混みの中へと消えて行った。

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