第10話 たとえ何があっても
エイベル殿下の誕生日パーティーの5日前である今日、わたしはローレンソン公爵家に招かれていた。
フィリップ様の弟であるセドリック様が、記憶のないわたしに会って話がしたいと言ってくださったらしいのだ。彼は二つ歳下で、昔からわたしに良くしてくれていた。
けれど公爵家へと向かう道中、ひどい渋滞が起きていて予定よりも一時間半以上遅れてしまった。
なんとか到着し、すぐに中へと案内される。今日はセドリック様も一緒のせいか、広間でお茶をするらしい。
「すみません、お待たせしました」
そう声をかけて中に入っても、広間の奥にある小さな机に向かっているフィリップ様は、こちらに気付かない。手にはペンが握られており、何か仕事をしているのだろう。遅れてしまった身だ、彼の邪魔はしたくない。
メイドにはお茶の用意はセドリック様が来てからで良いと小声で伝え、わたしは少し離れた場所に腰を下ろした。
「…………」
ひどく真剣な顔で、机に向かっているフィリップ様をじっと眺めてみる。男性にしては少しだけ長い髪を片耳にかけている姿は、思わずどきりとしてしまう色っぽさがある。
そんな彼は、かなり集中しているようだった。かと思えば突然、遠い目をしてため息をついたり。とても難しい内容の作業なのだろうと思っていると。
「…………?」
自身の足元に、一枚の紙が落ちていることに気が付いた。きっと彼の仕事関連の書類だろうと、何気なく拾い上げたわたしは、言葉を失った。
そこには、わたしの名前が何回も繰り返し書き綴られていたのだ。それも、フィリップ様の字で。
……これは、新手の呪いか何かだろうか。しかもそもそもの紙は、結構大事な書類のようだった。
落ちていましたよと言って、この不気味な紙を彼に渡す勇気などわたしにはない。間違いなく見てはいけないものだと思い、とりあえずそっとソファの隙間に隠しておく。
そうしているうちに、室内に明るい声が響いた。
「ヴィオラ、来てくれてありがとう!」
「は、はい」
「………は?」
セドリック様が来たことで、ようやくフィリップ様はわたしの存在に気が付いたらしい。彼はわたしの姿を見るなり立ち上がると、こちらへやって来た。
「いつからいたんだ」
「10分ほど前でしょうか。一応声はかけたんですが、お忙しそうだったので……」
「すまない、考え事をしていた」
渋滞で遅れたことを話し謝れば、彼は何故かひどくほっとした表情を浮かべていた。
それからは、初対面のように丁寧に自己紹介をしてくれたセドリック様と、三人でテーブルを囲んだ。お茶を飲みながら、他愛ない話をする。とは言っても、わたしとセドリック様が会話しているだけのようなものだったけれど。
「そういや先週、知り合いの夜会に出席したんだけど、兄さんてば令嬢達に囲まれて襲われる勢いだったんだよ」
そう言われて初めて、事故に遭った日、彼に夜会に誘われていたことを思い出していた。
わたしの体調を心配し、彼は何も言わずに一人で参加してくれたようで、申し訳なくなる。
「ヴィオラが事故に遭ったせいで、顔を怪我をしたとか足が悪くなったとか色々噂が流れていてさ、だから兄さんが婚約破棄するんじゃないかって、皆期待してるみたい」
そんなことになっていたとは知らず、わたしは驚きを隠せずにいた。元々、皆噂好きなのだ。根も葉もない噂が流れるのもよくあることだった。
傍から見ても、元々わたし達の仲は良く見えていなかったに違いない。それがまた、噂を助長させているのだろう。
元々、わたしという婚約者がいてもフィリップ様の人気は凄まじいものがあった。彼は家柄も見目も頭も、何もかもが良いのだから。悪いのは女性に対する愛想くらいだ。けれどその冷たさが良いという人も一定数いるのも事実だった。
「そしたら、兄さんがめちゃくちゃキレて」
「えっ?」
「ヴィオラに何があっても俺は気にしない、彼女以外との将来は考えられない、そうじゃないなら一生一人でいい、って言い切ったんだよ。僕も周りも、超びっくりしてさ」
何故、そんなことを。
驚いてフィリップ様へと視線を向ければ、彼は「余計なことを言うな」と言い、顔を背けた。
「フィル……」
その言葉がたとえ嘘だとわかっていても、先程の紙さえ見ていなければ、わたしも心を打たれていたことだろう。本当にあれは何だったんだろうか。気になって仕方ない。
けれど公の場でそんなことを言ってしまっては、余計にわたし達のことが話題になっていそうで。来週のパーティーに行くのが余計に緊張してしまう。
やがてセドリック様はわたしの隣へと移動してくると、わたしの手をとった。フィリップ様が「おい」なんて言っているけれど、彼は無視をして続けた。
「ヴィオラ、なにか困ったことがあれば僕にも言ってね」
「はい、ありがとうございます」
「ていうか雰囲気も変わったね。前より大人っぽいし」
実は未だに、服装や髪型を以前と変える作戦は継続しているのだ。レックスにもそこだけは褒められた。やはり見た目の印象というのはかなり大切らしい。
「そうでしょうか?」
「うん、綺麗になった」
そんな彼の言葉に、お礼を言おうとした時だった。
「ヴィオラはもともと綺麗だ」
突然、フィリップ様がそんなことを言い出したのだ。そんな彼の発言に、セドリック様はわたし以上に驚いている。
「に、兄さんこそ頭を打った……?」
「打っていない」
「僕の知ってる兄さんは、そんなことをさらっと本人の前で言えるような人じゃないんだけど」
もちろん、わたしの知っているフィリップ様もそんなことを言う人ではなかった。
「ん? なにこれ……えっ、こわ」
そんな中、そう言ってセドリック様が手に取ったのは、先程の呪いの紙だった。それを見たフィリップ様は慌てて立ち上がると、ものすごい勢いで引ったくった。
「……ヴィオラは、見ていないよな」
「見てないと思うけど」
しっかり見たとは、もちろん言えるはずもない。やはり、わたしが見てはいけない類のものだったらしい。
「ねえ、何それ。本当に引くんだけど」
「……待っている間、何かあったのかもしれないとか、来るのが嫌になったのかもしれないとヴィオラのことを考えていたら、無意識に書いていた」
「重いよ」
小声で話す二人の会話が、わたしの耳に届くことはない。
「とにかく、僕も殿下の誕生日には招待されているから、何かあったらすぐ声をかけてね」
「俺もついているから、大丈夫だ」
「お二人とも、お気遣いありがとうございます」
そして、当日まであっという間に時間は過ぎていった。
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