第8話 嘘つきな味方


 ──どうして、こんなことに。


 肩から伝わってくる重みと温かさのせいで、ひどく落ち着かない。どうして良いかわからず固まったままのわたしは、指先ひとつ動かせずにいた。


 時折、風に揺られたフィリップ様の髪が首筋にあたり、くすぐったい。それと同時に、甘い良い香りが鼻をかすめる。


 そして、どれくらいの時間が経っただろうか。


 やがて視界の端で、お茶を淹れるつもりだったらしいポットを抱えて歩いてきたメイドが、わたし達を見た瞬間に顔を赤らめ、引き返していくのが見えた。


 あの様子を見る限り、色々と誤解されたに違いない。きっと、他の使用人にも伝わるだろう。今後、彼女らと顔を合わせるのが恥ずかしい。


 いつまでこの状態でいるのだろうと、何かかける言葉を探していると、先に口を開いたのは彼の方だった。


「…………今日、」

「は、はい」


「今日、来てくれてありがとう。嬉しかった」


 ──どうして今、そんなことを言うのだろう。


 わたしの肩に顔を埋めたまま、彼はぽつりとそう呟いて。戸惑ってしまったわたしの口からは、「こちらこそ、ありがとう、ございました」なんて言葉しか出て来なかった。


 数分の後、ゆっくりと顔を上げたフィリップ様にそろそろ帰ろうかと声を掛けられた。そしてそのまま二人で馬車まで並んで歩き、屋敷まで送って頂いたけれど。

 

 その日はそれから、一度も目が合うことはなかった。




◇◇◇




 あれから、3日が経った。自室でのんびりとお気に入りの本を読んでいると、ノック音の後に「お嬢様、お客様がいらっしゃいました」と声を掛けられた。


 今日のわたしに、来客の予定などない。事前に連絡もなしに訪ねてくる人物など限られている。大方、いつものように男性に振られたジェイミーでも来ているのだろうと予想しながら階段を降りていく。


 客人は応接間ではなく広間にいると言われ、首を傾げる。そして広間に足を踏み入れたわたしは、思わず後ずさった。


 今一番会いたくない人間が、そこにいたからだ。



「やあ、可愛い俺のヴィオちゃん。会いたかったよ」



 彼はソファに深く腰掛けて長い足を組み、わたしに向かって手をひらひらと振っている。どうして、彼が此処に。


「……ごめんなさい、どちら様でしょうか」


 そう尋ねると彼は、きょとんとした表情を浮かべた後、悔しいくらいに眩しい笑顔を浮かべた。


「あ、記憶がないんだっけ。さっき叔父様から聞いたんだった。大変だったねえ、俺は君の従兄弟のレックスだよ」


 ──レックス・ダウランド。わたしの5つ歳上の従兄弟である彼は伯爵家の生まれで、数十年だか数百年に一人の天才などと呼ばれ、王城で文官務めをしている。


 その上、話上手で金髪碧眼がよく似合う見目の良い彼は、女性達から絶大な人気を誇っていた。そんな彼が、わたしは昔から大の苦手だった。


 この男、とんでもなく性格が悪いのだ。


 ちなみにフィリップ様は子供の頃からレックスとは仲が良く、未だに定期的に食事に行ったりしているようだった。


「身体は大丈夫? 後から悪くなったりすることもあるから気をつけた方がいいよ。俺も時折、未だに古傷が痛むし」

「ありがとう、ございます……」


 まるで自分の家のように寛いでいる彼は、「あ、ヴィオラの分のお茶は淹れなくていいよ」とメイドに声を掛けた。


「えっ?」

「今からこいつの部屋に移動するから、そこでお願い」

「いや、あの」


 そんな勝手なことを言うと、レックスはソファから立ち上がり、広間の入り口で立ち尽くしたままのわたしの元までやってきて。そしてにっこりと笑顔を浮かべると、耳元で「このまま此処で話して、困るのはお前だろ?」と囁いた。


 わたしはその一言で全てを理解すると、大人しく彼の後をついて自室へと向かった。だから、会いたくなかったのに。

 


 やがてわたしの部屋につくと、レックスはメイドにお茶の準備をさせた後、出ていくよう指示した。わたしは彼の言う通りにするよう言うと、深い溜め息をついた。


「ねえ、なんで記憶喪失のフリなんてしてんの?」


 そして二人きりになると、彼はそう言って微笑んだ。まるで玩具を見つけた子供のように、その目は輝いている。


 そもそも彼を騙せる気なんてしていなかったわたしは、あっさりと観念し、「いつ、気が付いたの」と尋ねた。


「顔を合わせた瞬間だよ。お前、俺の顔を見た瞬間少し嫌な顔をしただろ? 仮に記憶がなくて初対面だとして、こんな顔のいい男が現れて、嫌な顔をする女なんている訳ないし」


 そんなことを、目の前の男は真顔で言ってのけた。


「っていうのは冗談でもなく本気なんだけど、まあ確信したのはその後かな。古傷が痛むって言ったらお前、迷わず俺の左腕を見ただろ。どことも言ってないのに」

「…………」

「お前が俺を騙せる訳ないんだよ、浅い浅い。むしろよく今まで誰にもバレなかったな。奇跡だろ」


 そして何も言えなくなっているわたしに、「で、何で?」とレックスはしきりに尋ねてくる。わたしは大人しく、全てを話すことにした。ここで彼の機嫌を損ねるよりはマシだ。


 記憶喪失のふりをして婚約破棄をしたかったこと、ついでにフィリップ様が突然訳の分からない嘘をつき始めたことも話せば、レックスは腹を抱えて笑い出した。


 彼は涙まで流してひとしきり爆笑した後、「なんでそんな面白い話、すぐ教えてくれなかったんだよ」なんて言ってわたしを責めた。一度、胸に手をあてて考えてみて欲しい。


「それにしても、あいつも大きく出たな」


 目元の涙を拭いながら、レックスはそんなことを呟いた。


「フィリップも、お前のそのしょっぼい演技が嘘だってことくらい、気付いてもおかしくないんだけどな。あいつは昔からお前のことになるとポンコツになるから無理か」

「…………?」

「あ、だからあいつこないだ、今更お前が好きそうなデートスポットなんて聞いてきたのか」


 何かを納得したようにそう呟いたレックスに、わたしは顔を上げる。そんなフィリップ様の問いになんて答えたのかと尋ねれば、彼はへらりと笑いながら言った。


「お前の好きそうな場所なんて知らないし、フィリップもどうせ誘いもしないだろうと思って、あいつは隠してるけど、実は川で釣りをするのが好きだよって言っといた。あと森で虫取りをするのもハマってるって」

「ちょっと待って」


 本当に、いい加減にしてほしい。フィリップ様が突然、川に釣りに行こうなどと言い出したのも全て、この男が原因だったらしい。彼が後者を選ばなくて本当によかった。


 そもそも、尋ねる相手を間違え過ぎている。レックスの馬鹿みたいな冗談を真に受けるのもやめて欲しい。どうかしている。正直、釣り自体はかなり楽しんでしまったけれど。


 つまり先日の釣りは、完全なる善意の元で行われていたと言うことになる。そして釣竿を前にしてわたしが困っていたのを見て、彼が本気で不思議がっていたのにも納得がいく。迫真の演技だと思っていたけれど、違ったらしい。


 疑って申し訳ないとほんの少しだけ思いつつも、彼には実際沢山の嘘を吐かれているのだ。


 何が本当で何が嘘かなんて、わかるはずがない。


 その嘘のせいで実際に二人で釣りをしたことを話せば、彼は「ひっ、息ができない」なんて言い、また大笑いをした。


「あー、フィリップのこと大好きだわ、俺」

「人をからかうのも大概にしなさいよ」


 やがて落ち着いたらしい彼は、ティーカップに口をつけた後、わたしへと視線を戻した。


「で、なんで婚約破棄なんてしたいわけ?」

「なんで、って」

「フィリップのこと、嫌いな訳じゃないんだろ」


 ……過去には彼に大嫌いだと言ってしまったけれど、今は別に、嫌いだとまでは思っていない。


 婚約破棄をしたかったのは、彼とは釣り合わないことも嫌われているということも、分かっていたからだ。何より、彼と一緒にいると、息が詰まりそうなくらいに気まずかった。


 そんなことを考えているうちに黙ってしまったわたしを見て、レックスは口角を上げた。


「まあ、あいつは絶対にお前を悪いようにはしないから安心しなよ。せっかくの機会だしあんな本を読むくらいなら、言葉通りまっさらな気持ちで恋にでも落ちてみれば?」


 そう言ったレックスの視線は、わたしが先程まで読み、机に置きっぱなしだった「私だけの王子様♡」という激甘な恋愛小説へと向けられていた。余計なお世話だ。


「う、うるさいわね、他人事だと思って」

「普通に他人事だし。でも俺はヴィオラの味方だよ」


 嘘をつけ、と心の中で言い溜め息を吐くと、わたしはじとりと睨むようにレックスを見つめた。


「そもそも、今日は何しに来たの」

「あ、そうだ。忘れてた」


 そう言って彼が胸元から出したのは、一通の招待状で。


 やけに笑顔のレックスと、その封蝋の刻印を見た瞬間、わたしはとてつもなく嫌な予感がした。

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