第7話 やさしい眼差し


 やがて川へと到着し馬車から降りると、川岸までは木の板で足場がしっかりと作られており、ご丁寧に絨毯まで敷かれていた。ドレスや靴が汚れることはなさそうで安心する。


 座り心地の良さそうな椅子も二つ、用意されていた。この川釣りの為に、一体どれだけの準備をしたのだろうか。ここまでして川釣りをする理由が、気になって仕方ない。


「ヴィオラ、これを」


 二つ並んだ椅子に座ると、フィリップ様に立派な釣竿を渡された。いまいちやり方が分からずに戸惑っていると、彼が不思議そうな顔でこちらを見つめていることに気が付く。


 やがてフィリップ様は「そういうのも全て、忘れてしまうものなんだな」と何かを納得したように呟いた。忘れるも何も、釣り自体初めてなのだ。彼のあまりに設定に忠実な迫真の演技に、わたしは恐怖すら感じ始めていた。


 そして彼に教えて貰いながら、水の中に糸を垂らす。


 日傘のお陰で眩しくもなく、時折心地よい風が頰を撫でていく。川のせせらぎの音や、時折聞こえてくる小鳥のさえずる声に耳を傾けているうちに、わたしはとても穏やかな気持ちになっていくのを感じていた。


 いつもの彼との沈黙も、全く苦ではない。川釣りと聞いて正直げんなりしていたけれど、いざこうしてやってみると悪くないどころか、わりと好きになりそうだった。


「なかなか、釣れませんね」


 30分程経ったけれど、お互い魚がかかる気配はない。


 別に魚を釣りたい訳ではなく、こうして外の空気を吸ってのんびりとしているだけで満足していたわたしは、本当に何気なくそう言ったのだけれど。


 フィリップ様は突然、後ろを向いて。何か気になることでもあったのだろうかなんてぼんやりと思っていた、数分後。


 突如、上流から魚群がやってきた。


「…………?」


 わたしには川や魚の知識などは全くないけれど、目の前の光景が明らかにおかしいというのだけはわかる。人為的な何かを感じていると「ヴィオラ、魚が」と声を掛けられた。


「えっ?」


 呆然としていたわたしは、フィリップ様にそう言われて初めて、自身の釣竿に魚が食いついているらしいことに気が付く。もっとこう、ぐいぐい引かれるものかと思っていた。


 よく分からないまま慌てて釣竿を手前に引けば、糸の先には親指ほどの小さな魚が引っかかっている。


「フィル、釣れましたよ!」


 目に見えない怪しい力が働いていた上に、こんな小さな魚一匹が釣れただけなのに、何故かとても嬉しくて。ついはしゃいでしまい、そう言って隣にいる彼へと視線を向けた瞬間、わたしは息を呑んだ。


 フィリップ様は柔らかく目を細め、ひどく優しげな表情を浮かべてわたしを見つめていたのだ。


 その姿に思わず見惚れていると、どこからともなく現れた公爵家の使用人達が、小さすぎる魚を釣竿から外しバケツに入れてくれて。その後「おめでとうございます!」と、皆で拍手をしてくれた。恥ずかしいから本当にやめて欲しい。


「楽しいか?」


 そして不意に投げかけられたそんな問いに、照れながらもこくりと頷けば、彼は「良かった」とだけ言い、再び視線を水面へと戻した。




 何匹か小さな魚を釣り、なんだかんだかなり楽しんでしまった後、近くの草原に移動した。てきぱきと公爵家のメイド達がシートを敷き、昼食の準備をしてくれて、野外とは思えないほどの豪華なランチを堪能出来た。


 ちなみにフィリップ様は、食事中の所作までとても美しい。子供の頃はわたしも彼のようになりたくて、テーブルマナーを猛特訓した記憶がある。


「とても美味しかったです」

「そうか」


 食後のデザートまでしっかりいただき、のんびりお茶を飲んでいると「みゃあ」という可愛らしい声が耳に届いた。


 きょろきょろと辺りを見回せば、少し離れた所にいる子猫が、金色の大きな丸い目でこちらを見ているではないか。


「か、かわいい……!」


 おいで、と両手を広げて声をかければ、子猫はぴょこぴょことこちらへと歩いてくる。その可愛らしい姿を見ているだけで、胸がきゅんと締め付けられた。


 やがて目の前まで来た子猫を撫でてやれば、気持ちよさそうにぐるぐると喉を鳴らしている。まさに天使だ。


「フィルも抱っこしてみますか?」

「いや、見てるだけでいい」


 そういえば、彼は昔からわたしが犬や猫を撫でていても、決して撫でようとはせず、じっと見ているだけだった。あまり生き物が好きではないのだろうか。


 しばらく撫でていると、子猫は満足したのかわたしの元から離れていってしまう。少し寂しくなりながらも、元気でねと呟きその背中を見つめているうちに、ふと気が付いた。


「あの子猫、フィルに似ていましたね」

「……そうだろうか」

「はい、とても」


 黒に近い紺色の毛と金色の瞳をした子猫は、彼と同じくとても綺麗な顔立ちをしていた。女の子だったけれど。


「おいで、……なんて」


 今日一日を思った以上に楽しんでいたわたしは多分、少し浮かれていたんだと思う。滅多に言わない冗談を言った後、フィリップ様の方を見たわたしは言葉を失った。


 戸惑っているように見えるフィリップ様の顔は、何故か赤くて。


 先程のように「いや、いい」と言われて終わりだと思っていたわたしは、予想外過ぎる反応をされて戸惑ってしまう。


 心臓に悪い沈黙がしばらく続いた末、彼はゆっくりと立ち上がり、わたしの目の前までくると、向かい合うように座った。熱を帯びた瞳と近距離で視線が絡み、逸らせなくなる。


 ──何なんだろう、この状況は。


 そしてフィリップ様は少しだけ躊躇う様子を見せた後、こてんとわたしの肩に、額を当てるようにして頭を乗せた。

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