第5話 思いがけない過去


「帰る前に、君の両親に挨拶をしたい」

「わかりました」


 そうしてフィリップ様と共にソファから立ち上がったけれど、相変わらず手は繋がれたままで。


 このまま両親の元へと行くのは、流石に恥ずかしい。婚約破棄を提案してくれたお父様だって、不思議に思うだろう。


「あの、フィル。そろそろ手を離しませんか……?」

「嫌なのか」

「そういう訳ではないんですが、汗もかいてきましたし」

「分かった」


 そしてようやくわたしの右手は解放された、けれど。


 ほっとしたのも束の間、いつの間にか彼の右手はしっかりとわたしの左手を掴んでいた。そういう問題ではない。


 ……そもそも、最初に彼に触れたのはわたしの方だ。完全に作戦失敗だと反省しつつ、これ以上手を離してもらうための理由が思いつかなかったわたしは、大人しく彼と共に両親がいるであろう広間へと向かった。


 二人は手を繋いだまま戻ってきたわたし達を見て、「やっぱりなあ」なんて言い合いながら、それはもう嬉しそうな顔をしている。嫌な予感しかしない。


「どうか、彼女との婚約を継続させて頂きたい」


 そして開口一番そう言った彼に、もう帰るという挨拶をするのかと思っていたわたしは、思わず咳き込んだ。


「ですが今の記憶のない状態では、フィリップ様の支えになるどころか、ご迷惑をかけてしまうかと」

「ヴィオラはただ、俺の側に居てくれるだけでいいんです。記憶のない彼女が不自由しないよう、全力を尽くします。何よりも大切にしますし、彼女の為ならどんな事でもする覚悟です。一生、彼女を守ると誓います」


 フィリップ様はひどく真剣な表情で、プロポーズにも似たそんな言葉を並べ立てている。そして最後に、「彼女を愛しているんです」と、はっきりと言ってのけた。


 両親はそんな彼の言葉にいたく感動している様子で、お母様なんてハンカチで目元を押さえている。


 もちろん全て嘘だと分かっているわたしは、フィリップ様はこんな長文も喋れたんだ、という感想を抱いていた。


「フィリップ様のお気持ち、しかと受け取りました。ヴィオラ、お前はどう思っているんだ?」

「えっ? ええと、わたしは」

「彼女も先程、俺の傍にいると言ってくれました」

「おお、そうでしたか。それなら良かった」


 もしやそれは、先程の「離れていこうとしないでくれ」という言葉に、頷いてしまったことを言ってるのだろうか。


 色々と言いたいことしかなかったけれど、ひどく安堵した表情を浮かべている両親を見ていると何も言えなくなってしまい、わたしは大人しく口を噤んだ。


 そしてフィリップ様は両親の前で、来週わたしと会う約束をしっかりと取り付けた末、帰って行った。

 



◇◇◇




 一週間後。ローレンソン公爵家へと向かう馬車に揺られながら、わたしは今後どうしようかと頭を悩ませていた。


 この状況では、今すぐの婚約破棄は無理そうで。色々と考えた結果、ひとまず今は一番気になっていた、何故彼があんな嘘を吐いているのかを探ることにした。


 やがて公爵家へと着くと、いつもは応接間に通されていたのに、今日は何故かフィリップ様の部屋へと案内された。彼の部屋を訪れるのは、数年ぶりな気がする。


 質の良い大きな対面型のソファに座るよう勧められ、腰を下ろすと、彼は何故かわたしのすぐ隣に座った。


「君とはいつも、こうして話をしていた」


 どうやら今日も、彼の嘘は絶好調らしい。


 メイドがお茶を淹れてくれている間、何気なく部屋の中で視線を彷徨わせていたわたしは、壁に飾られていた一枚の姿絵の前で視線を止めた。そこにはフィリップ様と公爵夫妻、そして彼の弟であるセドリック様の姿が描かれている。


 絵の中の彼は腰まである紺色の長い髪をひとつに結んでいて、なんだか懐かしい気持ちになった。


「あれは、俺が13歳の頃だ」


 わたしが姿絵を見ていることに気が付いたらしいフィリップ様が、そう教えてくれた。


──そういや、どうして彼はあんなにも長く美しかった髪を切ってしまったんだろう。


 ある日突然、彼は今の姿である襟足が肩につくくらいの長さまで、ばっさりと切っていたのだ。彼の場合、どんな髪型をしても似合ってしまうのだろうけど。


『髪を切った』

『はい、とても素敵です』

『……そうか』


 確かその直後、わたしは彼とこんな会話をした。誰が見たってわかる変化なのに、わざわざ自ら報告してきた彼を不思議に思った記憶がある。


 あの時は彼が「そうか」とだけ言って立ち去ってしまったせいで聞きそびれたけれど、記憶のないふりをしている今、チャンスなのではないか。そう思い、わたしは口を開いた。


「髪の毛、昔はとても長かったんですね。今も素敵ですけれど、どうして短くされたんですか?」

「君が、短い方が好きだと言っていたからだ」

「なるほど、わたしが……わたしが?」

「そうだ」


 思わず聞き返してしまったわたしに向かって、フィリップ様はこくりと頷いた。


 間違いなく、彼にそんなことを言った記憶はない。わたしの記憶がない設定なのをいいことに、また適当な嘘を言っているに違いない。そう思っていたわたしに、彼は続けた。


「正確には、君が友人にそう言っているのを聞いた」

「……友人、ですか?」

「ああ。プレストン男爵令嬢に長髪と短髪、どちらが好きだと尋ねられていた君は、短い方だと答えていた」


 プレストン男爵令嬢こと、ジェイミー・プレストンはわたしの親友とも言える令嬢だ。


 彼女にそんな質問をされたことがあっただろうかと、記憶を辿っていくうちに、わたしは思わず「あ」と声を漏らしそうになった。


 確かに彼の言う通り、数年前の夜会で彼女にそんなことを聞かれた気がする。肉食な彼女は、その返答次第で今日声をかける男性を決めるだとかなんとか言っていたのだ。


 そしてその日の夜会には、ジェイミーを可愛いと言っていた知人男性が参加していたから、彼の髪型である「短髪」と答えた記憶がある。個人的にはどちらかと言えば短髪の方が好きだけれど、似合ってれば何でもいいと思っていた。


 ……フィリップ様は確かその時席を外していたけれど、まさかそんな会話を聞いていたなんて。


 そしてよくよく考えてみれば、その夜会と彼が髪を切った時期は一致するのだ。


 と言うことは、つまり。


「た、たったそれだけの理由で、切ってしまったんですか」

「俺にとっては、それ以上の理由なんてない」


 わたしのそんな何気ない、適当な一言のせいで。


 彼は何年も伸ばし続けていた、あんなにも美しく長い髪を切り落としてしまったというのか。


「……どうして、」

「少しでもヴィオラに、良く思われたかった」


 そう言って柔らかく微笑んだ彼に、心臓が大きく跳ねた。


 どうして、そんなことを言うのだろう。けれど何故か今は、先程までのようにフィリップ様がまた訳の分からない嘘をついているだなんて思えなかった。


 かと言って、今の言葉が本当なはずもない。


 ──だって、そうだとしたら。まるでフィリップ様が、本当にわたしのことを好いているみたいだ。

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