第3話 いざ、婚約破棄へ


 わたしとほぼ同時に、応接間へとやってきたお母様がお父様の隣に腰掛けたことで、わたしは自然とフィリップ様の隣に座る形になる。


 彼の隣に腰を下ろした後、小さく深呼吸すると、わたしはつんつんと人差し指で彼の肩をつつく。するとすぐに、眩しいくらいの2つの金色がわたしを捉えた。


「あの、素敵なお花、ありがとうございました。それに、フィリップ様がこんなに格好いい方だとは思わなくて……なんだかドキドキしちゃいます」


 もじもじしながらそう言って微笑めば、彼は何も言わずにふいとわたしから視線を逸らした。その反応を見た後、心の中でガッツポーズをする。彼は昔から、女性に見た目を褒められるのが好きではないのだ。


 正直こんな言動をするのは死にたいくらい恥ずかしいけれど、記憶がないせいでほぼ別人だという設定が、わたしの精神をギリギリのところで支えていた。


 バカなふりをしつつ彼からの印象を悪くしていき、婚約破棄へと持っていく。完璧な作戦だ。


 あと一押しだと思ったわたしは、彼の膝の上に置かれていたその大きな手に、そっと自分の手を重ねた。初対面のようなものなのに、男性に自ら触れるはしたない女だと思うに違いない。間違いなく彼の一番嫌いなタイプだ。ちなみにテーブルの影になっているため、お父様達からは見えていない。


 そして何より、フィリップ様は女性に触れられるのを嫌っている。彼は相手がどんなに美しい令嬢だとしても、少し触れられるだけで本気で怒っていた。わたしに対しても、エスコートをする際に最低限触れるだけで。


 だからこそ、予想通り彼はすぐにわたしの手の下から自身の手を引き抜いた。そう、そこまでは良かった。


(…………!?!?)


 けれど何故か、彼はそのままわたしの手を握ったのだ。


 訳がわからず、跳ねるように顔を上げてフィリップ様を見れば、彼はいつもと変わらない涼しげな顔のままじっと前を見つめていた。訳が分からない。


 彼は一体、どういうつもりでこんなことをしているのだろうか。いくら考えたところで、答えなど出るはずもない。温かくて少し固い手のひらに包まれ、わたしはだんだんと鼓動が早くなっていくのを感じていた。


 つい動揺してしまったものの、とにかく話を進めなければと、わたしは向かいに座るお父様に視線で合図を送った。どうやらしっかり伝わったらしく、軽く咳払いをするとお父様は真剣な表情を浮かべた。


「フィリップ様、この通り娘は記憶もなく、本当に何もわからない状態なんです。医者からは一生記憶が元に戻らないこともあると言われました。このままでは社交の場に出ることも厳しいでしょう。公爵様にも改めてお話させて頂くつもりですが、結婚についても考え直す必要があるかと」


 お父様は既に、完全にわたしの手の内だ。「何もわからないから外に出るのは怖い、難しいこともわからない、ずっとお父様とこの家にいたい」とメソメソしながら言えば、婚約破棄をお父様の口から提案すると言ってくれたのだ。


 けれどその結果、家族にも記憶喪失は全部嘘でしたとは言いづらくなってしまった。後から記憶が戻った設定にするしかない。ひとつ嘘をつけば、ボロが出ないよう嘘を重ねなければならなくなるのだと、身をもって学んだ。


 もうこんな嘘は二度とつかないと誓い、心の中で両親に何度も土下座した。最低な娘でごめんなさい。兎にも角にも、必ずこの作戦を成功させなければ。


 これで後はフィリップ様が「わかりました」と言ってくれさえすれば終わりだ。そう、思っていたのに。


「ヴィオラと、二人きりで話をしてもいいでしょうか」


 突如そんな提案をされ、たらりと冷や汗が流れる。何故ここですぐに了承してくれないんだ。結局断ることも出来ず、わたしの部屋へと移動することになってしまった。


 立ち上がる際、彼の手のひらに包まれた自身の手を引き抜こうとしたけれど、何故か解放される気配はない。戸惑うわたしを他所に、フィリップ様はそのまま立ち上がると、わたしの手を引き歩き出した。なんで?


 手を繋ぎその場を後にしたわたし達を、両親やメイド達が温かい目で見守っていたなんて、わたしは知る由もない。




◇◇◇




 わたしの手を引き、フィリップ様は黙って歩いていく。


 やがて部屋の中へと入ると、彼は向かい合う形で座るテーブルセットではなく、二人掛けのソファにまっすぐ向かい、そこに腰を下ろした。そして隣に座れと言いたげな視線をこちらに向けている。本当に、訳がわからない。


 とりあえず手を繋いだまま、大人しく彼の隣に座った。大きなものではないから、自然と肩と肩がくっつく形になる。


「…………」

「…………」


 そして、御家芸とも言える沈黙が二十分ほど続いた。


 何か話があるようだったけれど、結局いつもと同じではないか。ずっとへらへらとした笑顔を貼り付けていたわたしも流石に痺れを切らし、一言言おうとした時だった。


「本当に、俺のことは何一つ覚えていないのか」


 まるで確認をするように、彼はわたしにそう尋ねて。


「はい、本当に何も思い出せなくて……ごめんなさい」

「そうか」


 やがて繋いでいた手に少しだけ力を込めると、フィリップ様はわたしをまっすぐに見つめた。鼻先がくっついてしまうのではないかというくらい、顔と顔が近い。


 彼の透き通った瞳に映る、馬鹿みたいな顔をした自分と目が合う。こんなに近くで見ても、文句の一つもつけようのない圧倒的な美貌に、何故だか泣きたくなった。


「俺は、婚約を破棄するつもりはない」


 そして不意に告げられたその言葉に、頭を殴られたような衝撃が走った。一体、どうして。


 ……フィリップ様だって過去に、わたしとは何もかもが釣り合わない、嫌いだと言っていたではないか。


「どうして、ですか」


 少しだけ震える声で、そう尋ねる。


 すると彼は、息をするのも忘れてしまう程の美しい笑みを浮かべ、言ったのだ。



「君と俺が、愛し合っていたからだ」



 と。そして数秒後、理解の範疇を超えた彼の言葉を受け、記憶喪失のふりをしていることすら頭から抜けてしまったわたしの口からは、「は?」という言葉が漏れてしまった。

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