第2話 嘘つきのはじまり


「……………う、」


 ゆっくりと目蓋を開ければ、痛いくらいの眩しさにわたしは慌てて目を閉じた。何度か瞬きを繰り返しているうちに、少しずつ瞳が光に慣れてくる。


 やがて見慣れた天井がはっきりと見え、自室のベッドの上にいるのだと理解した。


 なんだかとても長い間、眠っていたような気がする。


 ふと視線を動かせば、ベッドのすぐ横に立ち、目に涙を溜めたメイドのセルマと目が合った。彼女は「だ、旦那様と奥様を呼んできます」と震える声で言うと、そのままパタパタと部屋を出て行ってしまう。


 そしてすぐに、彼女と共に両親が部屋へと入ってきた。


「ヴィオラ!? 目を覚ましたのね……!」

「ああ、本当に良かった。一週間も眠っていたんだよ」


 二人ともわたしの手を取り、涙ぐんでいる。一体どうしたんだろうと、うまく働かない頭で考えているうちに、だんだんと記憶が蘇ってきた。


 ……ああ、そうだ。ローレンソン家からの帰り道、婚約破棄の方法を考えていたら、馬車がひっくり返ったんだった。


 もしもあのまま死んでいたなら、ある意味婚約破棄は成功していたと一人苦笑いをしつつ、自身の身体へと意識を向ける。身体が重いだけで、痛みは一切ない。


 それにしても、まさか一週間も眠っていたなんて驚いた。やけに空腹感があるわけだ。とにかく身体は大丈夫そうだと、両親に伝えようとした時だった。


「ヴィオラ、大丈夫? 私がわかる?」


 未だに一言も喋っていなかったわたしを心配したらしいお母様に、そう尋ねられたのだ。それと同時に、わたしはひとつの名案を思いついてしまっていた。


 ──もしやこのまま記憶喪失のふりをすれば、フィリップ様と婚約破棄できるのではないだろうか?


 「記憶がないので、何にもわかりません! エヘヘ!」という馬鹿なフリをしていれば、公爵夫人など務まらないと判断されるに違いない。これならお互い揉めることもなく、仕方ないと円満に婚約破棄できるのではないだろうか。


 心配してくれている家族には申し訳ないけれど、後から本当のことを話し、ひたすら謝るしかない。フィリップ様との結婚に関しては今しかチャンスのない、一生の問題なのだ。


 敵を欺くにはまず味方から、という言葉があるくらいだ。誰にも言わずに一人で作戦を実行することを決める。


 やがて一息つき、自分は女優だと自身に言い聞かせると、わたしは静かに口を開いた。




◇◇◇




「お嬢様、旦那様が広間でお呼びです」

「わかったわ。ありがとう」


 目が覚めてから、三日が経った。必死の演技のお蔭で、何とか皆わたしが記憶喪失だということを信じてくれている。


 ちなみに馬車は崩れた崖の一部が直撃したことにより半壊したらしく、わたしがこうしてかすり傷程度で済んだのは奇跡だという。御者も手足を骨折してしまったものの命に別状はないらしく、本当に良かった。


 お医者様には記憶がないと伝えたところ、目に見える外傷はないけれど、揺れなどの衝撃で脳にダメージがあったのかもしれないとの診断を受けた。実際のところ、ダメージも何もないのだけれど。


 一生記憶が戻らなかった症例もあると言われ、両親はひどく動揺していた。心が痛んだけれど、もう後には引けない。流石にお医者様には嘘がバレるかもとヒヤヒヤしていたけれど、なんとかやり過ごせて安堵した。


「……しっかりしなきゃ」


 軽く両頬を叩き、気合いを入れる。


 記憶のないふりをするのは、意外と大変だった。当たり前のようにしていたことすら、わからないという顔をしなければならないのだ。1日中、気を張っている必要がある。


 広間へと行くと既にお父様がソファに腰掛けていて、柔らかい笑みを浮かべ、わたしに向かって手招きをしていた。お父様は昔からわたしに甘い。本当に甘いのだ。事故に遭ってからというもの、その甘さに拍車がかかっている。


 お父様の向かいに座ると、すぐにメイドがわたしの好きなお茶とお茶菓子を用意してくれた。


 お父様は他愛のない話をした後、一息置くと「実はな」と真剣な表情を浮かべて。わたしはいよいよ来たかと、これからお父様がするであろう話の内容を察した。


「ヴィオラにはフィリップ様に会ってもらいたいんだ」

「フィリップ様、ですか?」

「ああ、ヴィオラが生まれた時から婚約している方だよ。事故に遭ったお前をとても心配していて、毎日自ら花を届けに来てくださっているんだ」

「えっ」


 思わず驚きの声が漏れてしまい、わたしは慌てて口元を手で押さえた。お父様はどうやら婚約者がいるということに驚いたと思ったらしく、いきなり婚約者と言われては驚くよななんて言って、困ったように微笑んでいる。危なかった。


 どうやら目が覚めてからというもの、日替わりで部屋に飾られている素敵な花は全て、フィリップ様が毎日自ら届けてくださっていたものらしい。まさかあの彼がそんなことをしてくれていたとは思わず、驚いてしまう。


「お前の顔を見るのは、体調が良くなったらで良いと言ってくださっていたんだ。だからこそ、そろそろお会いして記憶がないことも話さなければならないと思ってな」

「そうだったんですか。フィリップ様はとてもお優しい方なのですね。ぜひ、お会いしてみたいです」

「そうか、それならすぐに手筈を整えよう」


 お父様は嬉しそうにそう言うと、執事に何やら指示を出している。わたしは紅茶を飲みながら、ここからが本番だと、心の中で一人気合いを入れ直したのだった。




 そして翌日。毎日訪ねて下さっていただけあって、早速フィリップ様との対面の時がやってきた。


 メイドから彼の来訪を告げられた後、わたしは全身鏡の前に立ち、最終チェックをした。記憶がないアピールのひとつとして、今まで好んで着ていなかった系統のドレスばかりを着るようにしている。いつもアップヘアにしていた髪も下ろしていることで、大分印象は変わったように思う。


 やがて応接間へと行くと、そこには相変わらず恐ろしいほどに美しい顔をした、わたしの婚約者が座っていた。


 彼はわたしを見るなりいつもの無表情を崩し、安心したような、今にも泣き出しそうな、なんとも言えない顔をした。その様子に思わず動揺しかけたけれど、なんとか堪える。


 ちなみにわたしが来る前に、お父様の口からわたしの記憶がないことをフィリップ様に伝えてもらっていた。


「えっと、こんにちは……?」


 躊躇うように、且つ少しだけ恥じらいながら。そして記憶喪失中のわたしのテーマである頭の悪さを出すため、フィリップ様に向かってへらりと笑顔を向ける。


 すると彼は驚いたように、切れ長の瞳を見開く。


「……本当に、記憶がないんだな」


 信じられないという表情を浮かべ、そう呟いた彼を見て、わたしは心の中で「いける」と確信していた。

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