第2話 赤い水玉

 いつからこのようなことになってしまったのか、このような人間になってしまったのか、はっきりとしたことは何もわかりません。私にも誰にも。

 

 ただ私がはじめて血を流した日のことははっきりと、けれどうろ覚えています。


 それは夢か現か、曖昧で掴みどころがないピンぼけのファインダーから見た風景のようなぼんやりとしたものなのに、なぜか現実味のある記憶です。


 黴びた畳、ずっと干していない布団、部屋干しの下着、灰皿に山積みになった煙草、それらの生温かい匂いがかわりがわり香っていました。カーテンは閉め切られていて、昼間なのに夜の一歩手前のような暗さが立ち込め、カーテンのむこう側から照らされているほのかな明かりだけが頼りでした。


 布団の上で母が男の人に馬乗りにされて、殴られ首を絞められ、色々な種類のぼうりょくを振るわれており、私はそれを障子の隙間からただただ観察していました。どうだっていいことですが、今にして思うとあの男が私の父親だったのかもしれません。どれくらいの時間が経ったのか、数えていなかったのでわかりません。数分とも数時間とも感じられる出来事でした。しばらくして気が済んだのか、男は無言で母の財布から何枚かお札を抜き取って、後ろポケットに突っ込むとアパートから出ていきました。どうしてこういう時のドアの閉まる音はあんなにも乱暴に鳴るのでしょう。


 皺くちゃになってぴくりとも動かなくなっていた母でしたが、しばらくすると布団からスローモーションで起き上がり、障子脇に立ち尽くす私にもたれかかるように近づいてきて、私は何をすれば、何を言えば良いのかわからずに母の目をみつめていると、母は私の目線に合わせて座り、しばらくただ見つめ合うかたちになりました。私はその時間を二秒三秒と頭の中で数えていたのですが、突然強く握られた手が私の顔を打ちました。最初はゆっくりと、しだいに軽やかに、重く加速するように、何度も何度も。その間もずっと私は母から目を逸らしませんでした。母も私を見ていました。いや視界には入っているようでしたが、光が通っていないような目をしていました。黒い瞳はただ黒く、何かが反射したり、像を結んだりせず全ての光を飲み込むように乾いていて黒かったのです。


 もう何秒まで数えたかはわからなくなっていました。母が打つのをやめると、痛みの余韻が顔全体に広がって、鼻の中から温かなしるが垂れてくるのがわかって、くちびるが織り成す凹凸を伝い、顎に溜まってゆき、やがて耐え切れなくなり、落ちました。


 キャンバス地にも似た私の麻地の白いスカートをぽつぽつと、赤い水玉模様に染めていきました。それは母のお気に入りのスカートでよく私に着せていたものでした。私は茫然とスカートが染められていくのを俯いて見ていると、今度は透明な液体が落ちてきて、スカートを無色にうすく滲ませました。それは先ほどとほとんど同じ温かさだったので、その頃の私には判別がつかず、目から頬を伝って赤い液体が流れ出ているのだと思っていました。ただそれは母から打たれるよりもっとずっと前から流れ出ていたものでした。

 

 この時の私にはスカートを染めていく、この血の赤がとてもとても綺麗に見えたのです。


続く。

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