蚯蚓もどきと影の蛇
「からくりどうろう?」
影絵のようなさっきの手は、たしかにそう呼んでいた。
「――あなたが?」
息を詰め、慎重に尋ねたフヨウに対し。
「なんだ」
しごくあっさり、娘は
娘は、仰向けに倒れて脱力していた。着物の裾から白い脚がはみ出しているのをまるで気にするふうのない、潔いまでの大の字である。綺麗に泥を落としたならば艶やかなのだろう黒髪が、乾いて白茶けた土の上に扇のように広がっている。小造りに整った人形のような顔が、薄闇に白く浮き上がって見えた。
いや、顔だけではない。
ぬばたまの黒髪の下、長いまつげに深赤の瞳、乳色の肌に珊瑚の唇。まとう着物は、泥だらけではあるものの、紅が裾へ近づくにつれて紫を帯びた黒に変わっていく、さながら夕焼けから宵闇への移ろいを表したようなあつらえだ。
身を乗り出し、瞬きもそこそこに見つめるフヨウをどう思ったか、娘がきゅっと眉間に皺を刻んだ。
「言っておくがな、今の我は長らく相性最悪の澱み場にいて、おまけにまっこと
「噂の、あの
弁明を遮って確認すれば、一拍の間のあとに答えがあった。
「……少なくとも、人間どもに絡繰灯龍と呼ばれていたのは我だな」
「それがどうしてこんなところに、こんな姿で」
「いろいろあったのだ」
苦虫を噛み潰したような返事だった。それ以上の詮索はしてくれるなという気配が、ありありと滲んでいた。だから、気にはなったけれど、話題を変えた。
「どこかで水浴びでもする?」
「殺す気か」
間髪容れず、真顔で返してきた娘に、えっ、とフヨウは瞬いた。
「ごめん、普通の水も苦手?」
あの、いろんなものが溶け込んでいそうな泥濘に力を吸われているふうだったから、その残滓である泥を洗い流せれば、少しは回復するかと思ったのだけれど。
そんなフヨウの思いを感じ取ったのかどうなのか、娘は毒気を抜かれた様子で、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
「我は実体持ちだから、循環している自然の水ならさほど害にならんが――今はだめだ。もうちと待て」
「わかった。……あの、大丈夫?」
口の動きは達者だが、身体のほうは相変わらず、指の一本も動かせなさそうに脱力しきっている娘を窺う。
ふん、とまた鼻を鳴らして、娘が口の端を歪めた。
「この我を案ずるか」
「いや、だって」
「言うな。これがあの絡繰灯龍などとはどこからどう見ても信じられぬ、まこと情けない姿であるのは我が重々わかっておるわ――」
はた、とそこで娘は、深赤色の瞳を見開いた。
「姿――そうだ、姿だ」
そう言って目を閉じた娘の身体の輪郭が、ほのかに赤く発光した。
赤い光は、娘の輪郭を縁取ったまま、消えかけの炎のごとく不安定に明滅した。
そしてほどなく、力尽きたように消えた。
「……できぬ」
愕然としたつぶやきが、発光前となんら変わらぬ娘の唇からこぼれた。
「……なにが?」
「元の姿に戻れぬ」
ひゅるりと、フヨウと娘の間を、乾いた夜風が吹き抜けていった。
「――仕方がない。我を澱み場から連れ出した時点で、縁切りしてやるつもりだったが……そこな娘、近う寄れ」
もう十分近くにいるよ、などと無粋なことは言わず、フヨウは両膝に手をついて、娘の顔をのぞき込んだ。
「はい」
「うむ。――業腹だが、先までいた場所の澱み湿った気は、我にとって猛毒であった。ゆえに、元の姿に戻れぬ。そんで歩けぬ」
「うん」
「解決方法はひとつだ。
たぶんって、という言葉も呑み下し、フヨウはゆるく首をかしげた。
「影蛇?」
「
「蚯蚓もどき」
「澱みを食らい消化する、透明な蚯蚓のような連中だ。わりとそこらにいるはずだが、知らんか」
フヨウの脳裏を、お
「……見たことがあると思う。透明じゃなくて、黒いのだけど」
「蚯蚓もどきは澱みがあればあるだけ食い続けるからな。多量の澱みを前にすると消化が追いつかなくなって、食った澱みで濁ってくるのだ。透明だった体が黒くなるまで濁りきった頃にはもう、その蚯蚓もどき自体が、新たな澱みの塊と化している。そうして、丸々肥えた黒い蛇のようになったかつての蚯蚓もどきたちは、群れ、ときに共食いしながら澱みの密度を増していく」
お社へ至る山道で、境内を浸した黒い水面下で、見かけた黒い蛇を思い出す。
「そして往々にして、密度が増せば意志が生まれる。意志を持ち、生き延びるため、強くなるため動くようになったやつらを、我は影蛇と呼んでいる。
――で、そんなやつらを、我は食う」
フヨウは、記憶の中の黒蛇と、目の前の娘を見比べた。
「……あれを、食べるの?」
「うむ」
「でもその影蛇は、濃密な澱みの塊なんでしょう。あなたにとって澱んだ気は猛毒なのに、そんなの食べて平気なの」
「うむ。澱み湿った気そのものは我にとっての猛毒だが、澱みを食った蚯蚓もどきのなれの果てたる影蛇は、我にとっての獲物となる」
「……美味しいの?」
おそるおそる尋ねたフヨウの眼下、絡繰灯龍の仮の姿たる、赤目の娘は片眉を上げた。
「さてな。ただ昔からそうなのだ。我は影蛇が増えてきた頃に目覚めて、そのとき一番やつらが密集している場に向かい、その集団を丸ごと呑み込んで、体内で消化し灰にして、また眠る。その流れだけをずっと繰り返してきた」
夜が深まる空に目をやり、娘はそこで言葉を切った。濃紺の空にはいつしか、無数の星が瞬いていた。フヨウもなんとなく同様に、星を仰いで沈黙を守った。
「――というわけで娘。これも縁だ、影蛇の溜まり場まで我を運べ」
星空から視線を転じれば、いつのまにかこちらをじっと見ていた娘の、深赤の瞳と目が合った。
「案ずるな、おまえは運ぶだけでいい。先のように、道中出くわす有象無象は我が焼き払ってやる」
わかった、とフヨウがうなずくと、なぜか娘は、眉をひそめた。
「……物わかりが良すぎぬか」
「あなたはわたしを助けてくれた。そのあなたの役に、わたしで立てるなら、できることはするよ」
「変わっておるな」
「あなたも。わたしが絡繰灯龍に抱いていた印象と、ずいぶん違う」
炎の大妖、絡繰灯龍に都が苦戦しているらしいとの噂は、かつてフヨウがいた里にも届いていた。ただそれだけの情報だったので、フヨウはぼんやりと、火を吐き荒れ狂う、恐ろしい大妖を想像していた。
「そりゃ違おうよ。この見た目ではな」
「見た目の話じゃなくて。いや、それもあるけど――こんなふうに話ができると思ってなかった」
「我の本性は精霊だからな、影響されやすいのだ。人と近しくあったなら、人のようになりもする」
親しくしていた人がいたの、と、フヨウが聞こうとするより先に、
「そろそろ運べ、あっちだ」
娘が、細い顎だけわずかに動かして、方角を示した。
フヨウはうなずいて立ち上がると、再び娘の腕を取って、引っ張り上げた。まるで足に力が入らない様子の娘に肩を貸し、どうにかこうにか、地面に立たせる。そうすると、娘のほうが、フヨウより頭半分ほど背が高かった。
風が出てきたようだった。切り裂くような冬の夜風、のはずなのに、あまり気にならなかった。密着している娘の身体はぽかぽかと熱いくらいで、フヨウは火に当たっているような暖かさに包まれていた。
「――これが人の目線か」
前方の、暗い冬枯れの地に遠くを眺める視線を投げて、娘がぽつりとつぶやいた。
「あやつに見えておった世界か」
その声は、冷えた夜の空気にしみじみと響いて、なんとなくフヨウは、娘の身体をしっかりと抱え直した。
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