泥人形を負って

 ここに至ってようやくフヨウに、辺りを見る余裕が戻ってきた。


 寒風吹きすさぶものの雪は降らない、乾いた日々が続いていたはずなのに、目の前の、広さにして里の家が四軒ほど入りそうな地面は、宵闇の中でもひときわ黒く、どろどろにぬかるんでいた。葉が落ちて枝が剥き出しの、痩せてくねくね曲がった木々が、まばらながらも目印のように周りを丸く囲んでいる。

 じゅくじゅく沈む地表からは、水や植物が腐ったような、よどんだ臭いが立ち上っていた。こちらのほうには来たことがなかったから、人里のわりと近くにこんな場所があったとは知らなかった。


「聞いておるのか、聞こえておるだろう?」


 またまた、フヨウにとって救いとなった、若い娘の声が響いた。陰気の澱んだこんな場所でもよく通る声だと思いつつ、フヨウは声の主を探す。どうも下のほうから聞こえる気がして、だいぶ暗さに慣れてきた目で周囲の地面に視線を飛ばせば、泥濘ぬかるみのちょうど中心に、どろどろの黒い土にまみれて尺取り虫か何かのごとく、うごめいている影を見つけた。


「たーすーけーよー」

「えっ」


 それが何かに気づくと同時、フヨウはあわててかけよった。


 泥塗れになりながら泥濘の中でもぞもぞ動いていたのは、声から受けた印象通りの、若い娘だった。つむじからつま先まで塗りたくったように泥だらけ、ほとんど泥人形のようになっているものの、ところどころに長い黒髪や血の透けるような白い肌、紅の衣が覗いている。中でもこちらに向けられている、まるで焔を閉じこめたような深い赤色の双眸は、薄闇の中にあってもはっとするほど鮮やかだった。


 娘のそばにしゃがみ込んで、フヨウはわずかに眉を寄せた。泥濘の中心にあたるこの場所は、澱んだ腐臭がひときわきつい。ぐにゃりと、目の前が歪んで渦を巻いていくような感覚に襲われたが、細く息を吐き出して、どうにか自身を取り戻した。


 こんなところによくもまあ、とフヨウが見下ろした先で、娘もまた、唖然としたような目でフヨウを見ていた。


「……ほんとに来おった」


 ぱちぱちと、まあるくなった赤い目が瞬く。そうすると、娘はずいぶん幼く見えた。たぶんフヨウより少し年上、十六、七の姿なのだが。


瘴気しょうきへの耐性高すぎぬか、加護持ちか? ……そんな臭いは感じぬが」

「吐き気と頭痛はなかなか酷いし、体中重怠おもだるいけど。でもまあなんとか動けるよ」


 どうやら瘴気が満ちているらしいこの場に持って行かれないよう、意識して細く深い呼吸を繰り返しながら、フヨウは娘をしげしげと眺めた。


 今は、泥塗れでもわかるほどすらりとしなやかな娘姿だが、元は何か、もっとずっと大きくて強いモノだったのだろう。こうして近づいたことで感じる、存在感が凄まじい。中身がぎゅうぎゅうに詰まっていて今にも弾け飛びそうな、圧迫感が威圧になって、びしびし肌を叩いてくる。


 だけどそれを、恐ろしいとは感じなかった。


「さっきの火は、あなた?」


 そっと尋ねると、娘がわずかに顎を反らした。


「そうだ。感謝せよ」

「ありがとう、助かった。それでわたしは――とにかくあなたをここから引っ張り出せばいい?」

「理解が早くて何よりだ」

「わかった」


 泥塗れな娘は細身だが、背はおそらくフヨウより高い。さすがにおんぶは無理だな、と頭の中で計算し、肩を貸そうと結論づけて、フヨウは娘の左手を取った。泥に汚れていてもわかる、ほっそりと白く柔らかい手を、フヨウの首の後ろに回し、左の肩を掴ませる。そのまま、足腰に力を込めたフヨウがゆっくり立ち上がれば、自然と娘の身体も泥濘から引き上げられていった。


 そうして持ち上がってきた娘の胴を右手で抱え、うまく立たせられそうになったそのとき、まわりの黒い泥濘から、無数の黒い手が湧き起こった。


 ――にがさないよ、からくりどうろう。


 影絵のようなそれらの手は、フヨウと娘の首に、腕に、脚に絡みついた。再び泥濘へ引き戻そう、引きずり込もうと力を込めてくる。


 フヨウは深く息を吐きながら、左肩に回させている娘の手を引っ張って強く握りしめた。右腕で娘の身体をさらにしっかり抱え込み、絡みついてくる黒い手に抗って、歩きだそうと足を上げた。


 ――なまいき、な!


 泥濘が波打った。伸びた無数の黒い手が絡まり合って一本になり、巨大な一つの黒い手になって、フヨウと娘を叩き潰さんと振りかぶられた。

 息を呑んだフヨウの右肩で、


やかましい!」


 娘がごうと火を吐いた。


 立ち上る湿った瘴気に触れてわずか勢いの落ちたその炎は、けれど襲いかかってきた黒い手を、過たず真っ赤に燃やし尽くした。

 大量の煤が泥濘に降って、そこからまた、無数の黒い手に再生される。

 それを見るや、フヨウはかけだした。肩に負った娘をなかば引きずりながら、泥濘を思い切り蹴りつけて、元来たほうへひた走る。


「そうだおまえは振り向くな、足も止めるなよ!」


 娘が、ぐったりとした身体のわりに威勢のいい声で言いながら、顔だけ後ろへ振り返って、再び盛大に火を吐いた。膨張した熱気が背中を炙り、すぐ背後まで迫ってきていたいくつもの気配が消え失せる。もっともフヨウは、あえて注意されるまでもなく、娘を抱えた状態のまま泥濘を走るのに必死だった。のろくさしたその逃走に黒い手の群れが追いついてくるのを、娘が焼いて、フヨウは走る。

 それを何度も繰り返して、ようやく乾いた地面の場所までどうにか戻ってきたときには、フヨウは精魂尽き果てていたし、肩の娘も荒い息をしていた。


 娘をそろそろと地面に降ろして、そのままフヨウも座り込んだ。本当は、四肢を投げ出し倒れ込んでしまいたいくらいだったが、その前に確かめておくことがあった。




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