命がけの演技
そのときフヨウは、最初に出会ったあの女性の里にいた。
西の空に黒点が見えた。最初は烏か何かかと思われたそれは、みるみる近づき大きくなって、その異形を見せつけた。
黒ずんだ重厚な鎧が、それの胴であり、
鎧の幅が、ざっとフヨウの身幅の三倍、頭から鉤爪までの高さが、おおよそフヨウの背丈の二倍。翼もないのに滑るように空を飛んでくるそれは、今までフヨウが出会った中で、一番大きな妖だった。一番濃厚な
肉を裂く音がして、肉を
こんな妖をフヨウは知らない。これまで一度も見たことがない。少なくともこれほど近くで、身に迫ったものとしては。フヨウはまだ攻撃されていなかったけれど、場に満ちた血の臭い、呻き声、泣き声、悲鳴、激痛、絶望、すべてが押し寄せてきて眩暈がした。自身が切られ抉られたように身体中が痛んでえずいた。
知らない、こんなものは知らない。フヨウにとって妖というのは、もっと漠然としたものだった。
ああ、そうだ。フヨウは、一部の人にしか見えないものや、当事者にしかわからないような
だれの目にも危険とわかる実体を持った妖が出れば、子どもは家に入れと言われた。足の速い若者がお社へ助けを呼びに走り、神官が到着するまでの間、男衆が農具を構えて里へ近づけまいとした。
だから、フヨウは知らない。だれの目にも脅威と映る、確かな実体と暴力を持って、里を襲いに来るような妖を見たことがない。あまりにも当然に守られていた。
かつてフヨウに微笑んでくれた老神官は、そしてアララギは、こんなものを相手にしていたのか。
己の浅さを思い知らされた。同時に、絡みついてくる
けれど、今フヨウにはいくつもの、期待の視線が向けられていた。
信じ切ったものではない。藁に、あるいは一縷の望みに縋るような、半信半疑の、切なる視線。それでも、たしかな期待がそこにはあった。かつてフヨウが欲しくて欲しくて、けれどついに得られなくて、得ることをあきらめたもの。
こんなに重いものだったのかと思った。それでも、裏切りたくなかった。失望されたくなかった。役立たずだと思われたくなかった。
だから、
「わたしが引きつけます」
フヨウは地面の石を掴むと、妖とすら呼びたくない、化け物に向かって投げつけた。
石は、フヨウに背を向ける形で里人に襲いかかっていた妖の、腰の辺りに当たって落ちた。
「こっちだ!」
あらんかぎりの声でそう叫ぶと、フヨウは里から離れるように走り出した。
妖を引きつけられるかは賭けだった。
動けなくなっていた人間は、あの場にたくさんいたのだから。フヨウが今まで見てきた妖のように、人に絡みつきたいだけならば、全力で走って逃げていくフヨウを追う必要はなかった。
しかし幸いと言うべきか。今回の妖は、意気揚々とフヨウの誘いにのって追ってきた。
だからひたすら走って、走った。少しでも里から遠ざかるように。
せめて里人の目があるうちは追いつかれないよう、全力で。
けれど里人の視線からはずれると、たちまち速度はがくりと落ちた。
幼い頃にくらべればだいぶ動けるようになりはしたものの、フヨウの身体は強くない。里人の視線がなくなってしまえば、足は無様にもつれだし、喉の奥に血の味がした。
低空を滑空する妖は、その気になればすぐ追いつけるだろうに、余裕をもって追ってきた。ゆっくりゆっくり、けれど少しずつ距離を詰めて、フヨウに恐怖と絶望を覚えさせるように。
いつのまにか陽は落ちていた。宵闇に景色の輪郭がぼやけていく中、自分の息づかいと足音が、ひどく際立って聞こえた。
やがてすぐ後ろで、鎧の擦れる音がした。かちかちと、両腕の鎌を打ち合わす音がした。可笑しげに嗤う声がした。
ここまでだと、頭の随が悟った。疲れのためか恐怖のためか、走る足が震えていた。唇も細かく震えて、いっそフヨウも笑い出したいような気分だった。だから、
「おいそこの、こっちだ。
突如聞こえた、えらく場違いな娘の声を疑う余裕なんてなく、反射でその指示の通り、いつしか行く手に現れていた、黒い泥濘へ走り込んだ。
どろどろになっている地面に足が埋まって手を突いた。嗤い声がすぐ頭上で聞こえて、鎌を振り上げたのだろう、風を切る音がして、
――目の前の泥濘が火を噴いた。
薄闇の中、朱色に渦巻き、金色に爆ぜて、膨れ上がった火の玉は、とっさに頭を下げたフヨウのつむじすれすれを通り抜けた。直後、頭上で人間のような断末魔が響きわたり、静かになった。
ぱらぱらと、黒い粉が降ってくる。そろりと首を巡らせば、フヨウを追いかけていた妖は、影も形もなくなっていた。重厚な鎧も、瘴気に
呆然と目を見開いたまま荒い呼吸を繰り返していれば、さっきと同じ、若い娘の声がした。
「――助かったか、助かったな? ではおまえも、我を助けよ」
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