命がけの演技

 そのときフヨウは、最初に出会ったあの女性の里にいた。れた陽はほとんど沈みかけ、暗みを帯びた夕焼けが里の家々を赤く染めていた。


 西の空に黒点が見えた。最初は烏か何かかと思われたそれは、みるみる近づき大きくなって、その異形を見せつけた。


 黒ずんだ重厚な鎧が、それの胴であり、もとであるらしかった。鎧の左右から、両腕のかわりに大きな草刈り鎌が生えて、てらてらと赤黒く光っていた。両足は猛禽の鉤爪で、こちらも爪の先端がずいぶん黒ずんでいた。もっとも異質だったのは鎧の上に乗った頭部で、そこには目も鼻も耳もなく、青黒く変色した唇に縁取られた、巨大な口だけがあった。そしてその口は、現れたときからずっと、まるで人間のように笑い続けていた。


 鎧の幅が、ざっとフヨウの身幅の三倍、頭から鉤爪までの高さが、おおよそフヨウの背丈の二倍。翼もないのに滑るように空を飛んでくるそれは、今までフヨウが出会った中で、一番大きな妖だった。一番濃厚な瘴気しょうきを纏う妖だった。一番、悪意に満ちた妖だった。


 彷徨さまよかつえて縋るように、人に絡む妖とは違う。それは両手の鎌を振りかざし、わらいながら、明らかな殺意をもって、恐慌状態になった人々に襲いかかった。


 肉を裂く音がして、肉をえぐる音がした。血の飛び散る音がして、何かが落ちる音がした。悲鳴と絶叫、それに被さる狂ったような哄笑が、茜の空に響きわたった。


 こんな妖をフヨウは知らない。これまで一度も見たことがない。少なくともこれほど近くで、身に迫ったものとしては。フヨウはまだ攻撃されていなかったけれど、場に満ちた血の臭い、呻き声、泣き声、悲鳴、激痛、絶望、すべてが押し寄せてきて眩暈がした。自身が切られ抉られたように身体中が痛んでえずいた。


 知らない、こんなものは知らない。フヨウにとって妖というのは、もっと漠然としたものだった。


 ああ、そうだ。フヨウは、一部の人にしか見えないものや、当事者にしかわからないようなおぼろな陰りを感じ取っては、自分にしかわからない、恐ろしいものがあるのだと、ひとり腐っていたけれど。一方で、だれにでも見える明確な脅威からは、かつての里の大人たちが、ほかの子どもと同じように、フヨウも遠ざけてくれていたのだ。


 だれの目にも危険とわかる実体を持った妖が出れば、子どもは家に入れと言われた。足の速い若者がお社へ助けを呼びに走り、神官が到着するまでの間、男衆が農具を構えて里へ近づけまいとした。


 だから、フヨウは知らない。だれの目にも脅威と映る、確かな実体と暴力を持って、里を襲いに来るような妖を見たことがない。あまりにも当然に守られていた。


 かつてフヨウに微笑んでくれた老神官は、そしてアララギは、こんなものを相手にしていたのか。


 己の浅さを思い知らされた。同時に、絡みついてくるかそけきものや、じゃれついてくる小さなものをいなせる程度のフヨウでは、今目の前にしているような妖にはかなわないことも。


 けれど、今フヨウにはいくつもの、期待の視線が向けられていた。


 信じ切ったものではない。藁に、あるいは一縷の望みに縋るような、半信半疑の、切なる視線。それでも、たしかな期待がそこにはあった。かつてフヨウが欲しくて欲しくて、けれどついに得られなくて、得ることをあきらめたもの。


 こんなに重いものだったのかと思った。それでも、裏切りたくなかった。失望されたくなかった。役立たずだと思われたくなかった。

 だから、


「わたしが引きつけます」


 フヨウは地面の石を掴むと、妖とすら呼びたくない、化け物に向かって投げつけた。


 石は、フヨウに背を向ける形で里人に襲いかかっていた妖の、腰の辺りに当たって落ちた。いかつい鎧に覆われたそれには、痛みなどない、わずかな衝撃に過ぎなかっただろう。けれど、妖の頭部がぐるりと回転し、笑いの形のまんまの口がフヨウを向いた。


「こっちだ!」


 あらんかぎりの声でそう叫ぶと、フヨウは里から離れるように走り出した。




 妖を引きつけられるかは賭けだった。

 動けなくなっていた人間は、あの場にたくさんいたのだから。フヨウが今まで見てきた妖のように、人に絡みつきたいだけならば、全力で走って逃げていくフヨウを追う必要はなかった。


 しかし幸いと言うべきか。今回の妖は、意気揚々とフヨウの誘いにのって追ってきた。


 だからひたすら走って、走った。少しでも里から遠ざかるように。

 せめて里人の目があるうちは追いつかれないよう、全力で。


 けれど里人の視線からはずれると、たちまち速度はがくりと落ちた。


 幼い頃にくらべればだいぶ動けるようになりはしたものの、フヨウの身体は強くない。里人の視線がなくなってしまえば、足は無様にもつれだし、喉の奥に血の味がした。


 低空を滑空する妖は、その気になればすぐ追いつけるだろうに、余裕をもって追ってきた。ゆっくりゆっくり、けれど少しずつ距離を詰めて、フヨウに恐怖と絶望を覚えさせるように。


 いつのまにか陽は落ちていた。宵闇に景色の輪郭がぼやけていく中、自分の息づかいと足音が、ひどく際立って聞こえた。


 やがてすぐ後ろで、鎧の擦れる音がした。かちかちと、両腕の鎌を打ち合わす音がした。可笑しげに嗤う声がした。なまぐさい血の臭いがした。


 ここまでだと、頭の随が悟った。疲れのためか恐怖のためか、走る足が震えていた。唇も細かく震えて、いっそフヨウも笑い出したいような気分だった。だから、


「おいそこの、こっちだ。泥濘ぬかるみのほうへ走ってこい」


 突如聞こえた、えらく場違いな娘の声を疑う余裕なんてなく、反射でその指示の通り、いつしか行く手に現れていた、黒い泥濘へ走り込んだ。

 どろどろになっている地面に足が埋まって手を突いた。嗤い声がすぐ頭上で聞こえて、鎌を振り上げたのだろう、風を切る音がして、


 ――目の前の泥濘が火を噴いた。


 薄闇の中、朱色に渦巻き、金色に爆ぜて、膨れ上がった火の玉は、とっさに頭を下げたフヨウのつむじすれすれを通り抜けた。直後、頭上で人間のような断末魔が響きわたり、静かになった。


 ぱらぱらと、黒い粉が降ってくる。そろりと首を巡らせば、フヨウを追いかけていた妖は、影も形もなくなっていた。重厚な鎧も、瘴気にまみれた大鎌も、破片たりとて残ることなく。唯一そこに残っているのは、鼻につく焦げ臭さだけだった。


 呆然と目を見開いたまま荒い呼吸を繰り返していれば、さっきと同じ、若い娘の声がした。


「――助かったか、助かったな? ではおまえも、我を助けよ」




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