死に損ないの役立たず

 桜の森が焼けたあの晩、フヨウは夜中ずっと、山中で息を潜めていた。


 凍えるような夜だった。雪はまだ降っていなかったし、立ち並ぶ木々が夜風を遮ってくれてはいたものの、寒くて寒くてたまらなかった。両膝を抱えてしゃがみこみ、膝小僧に額をつけて、ひたすら小さくなっていた。


 ようやっと、山中に漂う湿った空気が白み始めてきた頃に、フヨウはのろりと顔を上げた。そうして、やしろとは逆の方向へ、ぐるり迂回して山を降りた。しだいに明るくなっていく冷えて乾いた空気の中を、ただひたすらに歩き歩いて、ようやく里まで辿り着いた。


 フヨウが育ったかつての里は、あの若者の言った通り、焼かれ、踏みしだかれていた。

 昇った金色の朝日の中で、フヨウはしばし呆然と、焼け跡にたたずんでいた。


 それから何日もかけて浅いながらも穴を掘り、見つけられたかぎりで、残っていた亡骸を埋葬した。失ったものへの嘆きよりも、理不尽への憤りよりも、生き延びてひとり立っている自分がただひたすらにいたたまれなくて、とにかく何かをしなければという衝動に突き動かされていた。


 里の人口に比べて、亡骸の数は少なかった。焼け落ちた家の中に埋もれたものもあるのかもしれなかったけれど、逃げられた人もそれなりにいたのだろう。そうであると信じたかった。


 ようやっと、見えているかぎりの亡骸をすべて埋葬し終えた日には、精魂尽き果てて倒れ込んだ。

 冷たい地面に背をつけたまま、薄い色合いの冬空を見上げて、長い時間ぼんやりしていた。


 あれから社がどうなったのか、改めて確かめに行く勇気は湧いてこなかった。


 目を閉じれば、凄絶に燃えていった桜の精が甦った。逃げるしかなかった自分を再び思い知らされた。

 美しい桜の森が囲むあの場所に、フヨウはたしかに救われたのに。フヨウのほうは、あの場所に何一つ返せなかった。

 焼失を受け入れて微笑わらっていた桜の精が、フヨウに何事も望んでいなかったのはわかっている。それでも、無力感が胸を刺した。


(……ばかみたいだ)


 閉じた目の上に片腕をのせて自嘲した。


(逃げることしかできなかったのに)


 そして逃げた先では里も焼けていて、フヨウひとり、まだここにいる。かつて流行病が猛威を振るったとき、弱い者からばたばた死んでいったのに、フヨウは死ななかったときのように。

 結局何も変わっていない。フヨウは無力で何もできない役立たずのまま。ましなものになんて、少しもなれていはしなかった。静謐で美しいお社のあの環境が、そう思わせてくれていただけだった。美しい場所にいたから、自分も少しは綺麗なものになれたかのように錯覚していただけだった。


(生きていたって、なんにもならないくせに。なのにどうしてそんなわたしだけ、図々ずうずうしくまだこうして生きてるんだろう)


 情けなくて、煩わしくて、唇に歯を立てた。ぬるい血の味が口の中に広がって、こんなささやかな自傷をしたところで何一つ変わりはしないのにと、自分の浅ましさにさらにみじめになって、あああの夜も、自分は唇を噛むことしかできなかったなと思い返して、


 ――「おまえはお行き。裏からならまだ外に出られる」。


 あの夜、爆ぜる炎と煙の中で柔らかく背中を押した桜の木精の声を思い出した。


 鼻の奥がつんとした。目の奥から溢れ出てきそうな感情を散らしたくて、フヨウはのろのろと身を起こした。


   ◇


 それからは当てもなく放浪した。

 木の根を囓り雨水を啜り、ときどき野垂れ死にしかけながらも。


 道中何度か妖や、それ未満の存在に絡まれたが、あえて己が身に抱き込むようにして深くゆっくり呼吸をすれば、それらは程なく消え去るか、するするほどけて離れていった。おやしろかそけきものたちを相手にしているうちに、このやり方は上達していたようだった。


 ある日の道中で、濃厚な黒い靄に取り巻かれている人を見かけた。社に上がって別れたきりの、母くらいの年頃の女性だった。フヨウは、いつも通りその靄をこっちにおいでと抱き込んで、霧散させた。


 一連の流れをぽかんと見ていたその人に、会釈だけして立ち去ろうとしたが、その人が追いかけてきた。その人にも黒い靄はうっすら見えていたらしく、お礼に食べ物をくれると言うので、ついていった。


 冬に入り、食糧事情は厳しいだろうに、雑穀のお粥を振る舞ってもらった。久しぶりの温かい食べ物が腹の底に落ちると、ようやく、うつつに戻ってきたような気がした。


 噛みしめるようにして粥を食べ進めるフヨウに、その人がぽつぽつ話してくれたところによると、都に妖が押し寄せているせいで、その余波が里にまで届いているのだということだった。都から周辺の里に派遣されていた符術師ふじゅつしたちは、都を守るためとして軒並み引き上げられてしまい、残された里の人々は、増えた妖を前にして途方に暮れているのだと。


 それからフヨウは、その近辺をうろうろしては、小物の妖を霧散させたり、退散させた。そのお礼として食べ物を分けてもらったり、家に泊めてもらったりして、生きながらえていた。


 ある日、お社の方角へ向けて、物々しい符術師と兵士の集団が向かっていくのを見かけた。山の廃社を根城とし、都を呪詛している蛇の目の邪術師、アララギに対する討伐隊なのだと、里の人々がささやいていた。


 ああ、まだ当代様はあの場所で戦っているのだと思った。


 けれどそれがわかったところで何ができるわけでもなく、フヨウは変わらず、近くのいくつかの里を転々としては、実体のない黒い靄や、ごくごく小物の妖を退ける日々を送っていた。


 都から遠いおかげだろうか、辺りにいるのは、実体のある妖であっても、狸の尻尾だけが走っていたり、いたちの骸がぷかぷか宙に浮いていたりといった小物ばかりだったから、フヨウでもなんとかなった。


 フヨウの妖の対処法は、退治というより濾過に近い。実体のあるなしにかかわらず、妖の核となっているのは、よどんだ気や念の塊だ。たいていは暗い靄のように見えているその塊を、いったん我が身に乗り移らせて深く呼吸をすることで、フヨウの中に巡らせる。あとはひたすら、吐く息とともにもやもやと暗い澱みを吐き出し、吸い込む透明な空気で、体内に取り込んだ澱みを薄める。それを何度か繰り返して、やがて澱みを吐ききってしまえば、ただの空気と変わらぬほどに軽やかになった気や念は、吐く息とともに外に出て、風にのって消えていく。


 あまりに濃厚な澱みであれば、逆にフヨウが乗っ取られたり、窒息する危険もはらんでいるが、幸いそこまでのものを相手にしたのは、フヨウがこのやり方を身につけるきっかけとなった、あの赤黒い靄の塊、一回きりだった。むしろ大半の澱みは、フヨウが我が身に取り込んで深呼吸を始めたその時点で浄化されることを悟って、いやだいやだと泣きながら、あるいは、離して離してと訴えながら、透明になって消えていく。それは、問答無用で澱みを散らしてしまうのが哀れになるほどに。とは言え、小動物の骸を被って人里に来るような妖は、人を脅かすことで生まれる恐怖の感情を吸い蓄えて力とするものが多いから、退治するなら早いほうが良いし、早いほどに退治は容易たやすい。


 けれど今後もし、噂で都を襲っているような強い妖が出てきたら、フヨウのやり方はきっと通用しない――。小物の妖を退けるたび、それに感謝されるたび、フヨウが抱いていた漠然とした不安は、やがて現実のものとなった。




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