八  残り火

血迷い乙女

(……くさい)


 水の腐ったような臭いがする。

 それの探知に特化した龍の鼻には刺激が強すぎる。

 その悪臭に鼻をつまみ上げられるようにして、龍の意識は浮上した。


 ゆっくりと開いた視界は一面、塗り込めたような曇天だった。絞ったならばぼたぼたと、水気がしたたりそうな空だ。


 今まで傷を癒すため、深い眠りに落ちていた。

 やっと修復が終わって目を覚ますことができたものの、寝覚めは最悪である。


 水の腐ったような臭い。停滞しよどんだ臭い。そんな臭いをはらんだ瘴気しょうきが、あたり一帯の地面から、蒸気のように立ちのぼっている。地面についている背中には、じわじわ浸蝕するかのごとく、ぬるい水気が染み込んでいた。


 アララギとの最後の死合いにおいて龍が食らった一撃は、呪符の当たった場所から体が崩れ落ちていくという、じつに凶悪な術だった。


 その崩壊の連鎖を食い止めるため、龍は本能的に己の体の崩れた部分を切り離した。そして無事な箇所だけを、回復に専念するための小さな体に凝縮するべく作り替えているうちに、こんなところまで飛ばされたのだ。


 とはいえ、術がぶつかった衝撃のみで、ここまで飛ぶはずがない。ましてやちょうど都合良く、こういった、よどの真ん中に落ちるはずも。おそらくあの、人の娘に憑いていた影蛇かげへびどもが、ばらばらになり意識をなくしていた龍をわざわざここまで運んだのだろう。たとえ時間をかけてでも、確実に龍を殺しきるために。


(いくら傷つき身体が砕けていたと言え、あのときのあやつらごときの力で我を殺せはしなかったろうからな)


 ふふんと誇らしく鼻を鳴らすも、でははたしてやつらの目論見もくろみ通りこの場所が龍を殺せるのかといえば、残念なことに答えは是である。

 己にとって、澱み湿った気は、そのままでは猛毒だ。完璧な状態だったときでさえそうだったのだから、体の、崩壊の及んだ部分を切り捨ててだいぶ小さくなり、傷を癒すため多くの力を使ってしまった、今の状態ならなおさらである。


 遙か昔に体を得ていて良かったと思った。実体がない形透かたすのままでこの場に放り込まれていたなら、一瞬で消滅していただろう。実体のないものは、それがゆえ自由に強くもあるが、反面、とても移ろいやすく脆いのだ。だから、ある程度熟した魑魅などは、躍起になって体を求める。


 さて、しかしその体も……。


 視線をそろりと下にずらして、龍は小さなため息をついた。


 紅と黒の袖口からのぞいているのは、血の透けるような薄い皮の手だ。鱗に覆われていやしないし、硬い外皮も爪もない。いや、爪はあるが、何かを引っかいたらこちらが剥がれそうなやわいものである。


 今の龍は、人の姿をしていた。


 せめて元の、絡繰灯龍からくりどうろうとして恐れられた体をそのまま縮めた姿であったなら、まだもう少し防御力があったかもしれないものを。体を小さく作り替えるなら、そのほうがずっと自然だったはずなのだ。なのにどうしてわざわざこんな、やたら精緻な人の娘の姿をとってしまったのか。


 ……いや、理由はわかっている。


 攻撃を受けて対処を考える刹那の間に、小さい体、と思ってとっさに浮かんだのがアララギと、それに寄り添う人間の娘の姿であったのだ。気の迷いというやつである。いや、血迷った、のほうが正しいか。どっちにしても大混乱だ。


 しかし、それなら冷静になった今、改めて体を作り替えればというわけにもいかない。体を作り替えるには、一度体をほどく必要がある。ごくわずかな間とはいえ、その間は中身がむき出しになる。こんな澱み場の真ん中で、たとえ瞬きの間だろうと中身を晒したりなどしたら、一瞬にして消滅だろう。火花を沼に落とすようなものだ。

 だからどうにかこの体のままここを出て、澱みのない、乾いた場所まで行かねばならぬ。話はすべてそれからだ。


 そうと決まれば長居は無用、仰向けに倒れた状態のまま地面に向けて肘を突き出し、腹に力を入れて上体を起こし、膝を曲げ立ち上がろうとして――、


 ずべしゃ、と龍は尻餅をついた。


 現世うつしよの、この場の湿地に重なるように広がっている、幽世かくりよの沼地の水面下から、ひそやかなわらい声が聞こえた。


(え、ちょっと待て)


 一瞬呆然としてしまってから、龍はあわてて記憶をさらう。


(これが足だろう? 人というのは、これを動かして移動するものだっただろう?)


 この棒きれのように細っこく、今にも折れそうなこの足で。龍としてはにわかに信じがたいのだけれど、でもたしかにそうだったはずだ。


(けど立てんぞ?)


 混乱しつつも、再び、地面に手をつくところから始める。焦ったせいか、はたまた、さっきはたまたまうまくいっただけだったのか、片手だけずぶりと泥に沈んで体勢を崩した。肩口からべちゃりと汚泥の中に逆戻りする。

 今度はうつぶせになり、獣のような四つ足からどうにか二本で立とうとするが、やっぱり崩れるように倒れ込んだ。……今度は頭から。


(むっずかしいわ!)


 くすくすくすくす、嗤い声が響く中、必死になって記憶を辿る。人間は、いったいどうやって立っていただろうか。

 とはいえ人間の姿など、いちいち細かく記憶していない。

 唯一はっきりと思い出せるアララギは、


(……普通に立って、飛んで、きりきり我の炎を弾いておったな)


 ……ずべしゃ。


(むっずかしいわ!)


 嗤い声が聞こえるほかはそれまでとくに動きのなかった、幽世の沼地の水面が、ふいにどぷりと波打った。それと呼応するように、現世の湿地から立ちのぼる、赤み青みを帯びた闇色の、瘴気の勢いが強くなる。噴き出した瘴気はゆらり揺らぐと、無数の手へと形を変え、いっせいに襲いかかってきた。影でできたようなその手は、今は人型の龍の肩に、腕に、首に絡みつき、龍を泥濘ぬかるみへ沈めようとするかのように圧をかける。


 龍はとっさに火を吐いた。こんなやわこい人のなりで火など吐いて大丈夫なのかと、吐いてしまってから思ったが、幸いどこが焼けただれることもなく、敵も無事に消え去った。


 だが、と龍は目をすがめた。


(……これは、だいぶまずいのではないか)


 今の火は、己が人の娘姿にまで小さくなっていることを差し引いても、ひどく弱々しい炎だった。絡繰灯龍と呼ばれていたかつての面影などどこにもない。幸い相手がまだおぼろな連中だったから問題なく消し飛ばせたが、これがもし実体のある妖や、もっと密度の濃い存在であれば――。


 ――くすくすくす、とぷとぷとぷ。


 手が、胸が、腹が、足が、ふれている深泥みどろから、重なりあった幽世の沼から、嗤い声が聞こえてくる。


 ――いつまでもつかな。

 ――はやくはやく。おちておちて、とけておいで。

 ――とけてとけて、いっしょになろうよ。


「ええいやかましい!」


 振り切るように声をあげて、龍は再び手をついた。えたような足を叱咤し、


「待っておれアララギ、今度は負けぬ!」


 ずべしゃ!


   ◇


 立とうとしては転び立とうとしては転び、虫のように泥の中を這いずり続けること二日。


 ――まったく前に進めている気がしない。


 不吉なほどの夕焼けの下、色濃く立ちのぼり続ける瘴気の中で、龍はうつ伏せに力つきた。そのままだと顔が泥に埋まって息ができなくなることは骨身に沁みて学んでいたので、せめて顔だけは横に向ける。


 傷の回復などといって暢気に眠っていた間、どれだけこの澱み場にいたのか、考えたくもない。回復するどころか、むしろ力を吸われ大幅に弱体化したのではなかろうか。立つことさえままならない理由は、慣れない姿も一因だろうが、そもそも体を動かす力が残っていないからな気がした。


 ――それから、力が出ない理由は、もうひとつある。

 くん、と自分の肩口を嗅いで、龍は苦く顔をしかめた。


 一帯に漂う澱みの悪臭にまぎれて、それでもたしかに臭う別のもの。


 香の臭いだ。むせかえるほど濃厚な、鼻を潰すほどの香り。それがまるで縄のように龍の体に絡みつき、龍を締め上げている。


 ――ゆるさない、ゆるさない、あのこをそこなうものはゆるさない。


 アララギとの最後の戦いにおいて龍を縛りつけたそれは、気を抜けばたましいごと圧し潰されそうな、強力な呪縛だった。澱み場の瘴気に加え、これのせいで力が戻らず、力が出ない。


 龍は、恨みがましく小さくつぶやいた。


「これはもう立派な呪いではないか、神霊の残り香め……」


 このまま弱って澱み場に呑まれるのだろうか。

 ……いや、そんなことになってたまるものか。

 ぐっと腹に力をこめ、再び立ち上がろうとしたときだった。


 血の臭いと、腐臭がした。濃厚な瘴気の塊が、低空飛行でじわじわこちらに近づいてくる気配がした。まるで獲物をなぶるような、悦に入ったわらい声がした。

 同時に、小刻みに地を蹴って近づく、今にももつれそうな足音と、荒い必死の息づかいも聞こえた。


 なんとなく、状況は知れた。

 だから、声を上げた。


「おいそこの、こっちだ。泥濘ぬかるみのほうへ走ってこい」


 ……後から思うと龍はこのとき、自分で思うよりだいぶ参っていたのかもしれなかった。




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