落花
――前都主は読み間違えた。だが自分はまるでわかっていなかったのだと、鳥居の前に散らばった、符術師や兵士の屍を前にして思った。
焦げた臭いの風が吹く。境内を囲っていた桜の森の、花はすっかり燃え尽きた。幹や枝の輪郭はそのままに、影絵さながら、真っ黒く焼けた骸と化した。
火矢に射られた香神木の骸も、さらに燃え崩れることはなく、境内に立ち続けていた。けれどその幹の上部には、複数の矢が突き刺さったままになっていた。痛々しい有様だったが、アララギの背では刺さった矢に手が届かず、触れただけでも木肌が剥がれる骸に登る真似もできなかった。
アララギに向けられた憎悪が香神木の骸を
そうだ、アララギは憎まれていた、あるいは恐れられていた。前都主はその程度を読み違えた。何せ、前都主の息子であり、新たに座についた今の都主は、披露目の儀もそこそこに、アララギへと討伐軍を差し向けたのだ。アララギを匿う里は諸共に滅ぼせと命じてまで。
アララギはずっと、人のことなど見ていなかった。自分のことしか見ていなかった。人が自分をどう思っているかということに、興味などとっくになくしていた。
その結果が、このざまだ。
桜の森も、社務所も焼けた。香神木の骸には敵意の
焦げ臭さと、腐臭と死臭。境内に漂い染み着くそれに、強く奥歯を噛みしめた。
(また僕が、あなたに害をなした)
百を超えようかというそれはすべて、アララギを呪う呪詛だった。
そしてまた、討伐隊がやってきた。
社へは一歩も入れるまいと戦った。けれど防ぎきれなかった火矢が、またいくつか社の中へ落ちた。
アララギが自身より社を気にかけて守っていることは、やがて討伐隊に気づかれた。三度目からの討伐隊は、アララギの隙を作るように、アララギよりも社に向けて攻撃を放つことが多くなった。
放たれる呪符で、石槍で火矢で、石鳥居に傷をつけられることも、桜の骸が砕かれることも、香神木の骸が狙われることも許せなかった。そしてアララギはなおいっそう、苛烈に討伐隊を打ち払った。
そのたび屍は増えて、社の周囲に血溜まりができた。
せめて社は損なわせまいと戦えば戦うほど、社の神気は濁っていった。
アララギがここでこうして生きながらえているかぎり、アララギの身から出た錆である都の憎悪は向けられ続け、香神木とその社を損ない続ける。
罪深さに死んでしまいたかった。けれどそれは許されなかった。
アララギが苦しみから逃れるために死を選ぶなら、アララギを守るために燃えた、香神木の犠牲は無駄になる。そしてアララギのいなくなった社は、都の勝利の証のように、完膚なきまでに踏みにじられて、叩き壊されることだろう。――そう、今では想像できるようになってしまっていた。
(あのとき死んでいれば良かった。せめて最後に一目だなんて、社に戻るべきじゃなかった。僕は、どこをどう考えたって、あの方と引き替えに生き残るべき命ではなかったのに)
どうしていいかわからなかった。討伐隊との戦いにおいて、矢を受けようと火に巻かれようと、香神木の加護の香りをわずかも感じることはなかった。
当たり前だ。これだけ人を殺し続けたアララギはもう化け物だ。あの優しい神霊の加護など、二度と与えられるはずもなかった。
境内を満たしていた黒い沼が、鳥居の外にまで広がっていく。
鳥居の外に散らばった、討伐隊の屍を呑み込んで、打ち落とされた呪詛の残骸を呑み込んで、死臭も腐臭も怨嗟の念も丸ごとすべて呑み込んで、周囲の大地を浸蝕していく。
あんなにも美しかった香神木の社が、広がる穢れの中心になっていく。
止めたくて、許せなくて、けれどアララギには、どうすることもできなかった。
腐った水の臭いがする。アララギの腰まで浸した黒い沼の水面の下を、肥大した蛇に似た影たちが、埋め尽くすように泳いでいる。
――ひどいわ、と、声が聞こえた。
――ひどいわ、ひどい。どうして、どうしてこんなにも、わたしのことを貶めるの?
耳の奥、脳裏に反響するそれは、いつだって穏やかだった香神木の精が、ついぞ聞いたことのない声で、アララギを
――ひどい、ひどい、ひどい。
喉を、胸を掻き
許してくださいと祈ることさえ許せなかった。いっそ罰してくださいと願うことも恥知らずだった。アララギは香神木に対して何もできなかった。いたずらにその
(だから、せめて)
据わった瞳を、空に向ける。彼方の空から近づいてくる、染みのような点がひとつ。それは次第に近づいて、複数の獣の骸を繋ぎ合わせた異形をもった、一体の妖へと姿を変えた。
広がった沼の瘴気を嗅ぎつけて、ここまでやってきたのだろう。この場を根城とするために。あるいは、この場の
妖が、金物を擦り合わせたような、耳障りな声で鳴いた。頭部の犬の顔についた猛禽の
呪符が当たった二カ所を起点に、妖が爆散する。
ばらばらと降る肉塊の中で、アララギはぽつりつぶやいた。
「――せめて、僕以外のだれにも手出しはさせない」
黒々澱む沼の水面下、沈んできた肉塊を丸呑みにした影の蛇たちが、
水面が揺れて、瘴気が上る。
そこはもはや、神域ではなかった。
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