落花

 ――前都主は読み間違えた。だが自分はまるでわかっていなかったのだと、鳥居の前に散らばった、符術師や兵士の屍を前にして思った。


 焦げた臭いの風が吹く。境内を囲っていた桜の森の、花はすっかり燃え尽きた。幹や枝の輪郭はそのままに、影絵さながら、真っ黒く焼けた骸と化した。


 火矢に射られた香神木の骸も、さらに燃え崩れることはなく、境内に立ち続けていた。けれどその幹の上部には、複数の矢が突き刺さったままになっていた。痛々しい有様だったが、アララギの背では刺さった矢に手が届かず、触れただけでも木肌が剥がれる骸に登る真似もできなかった。


 アララギに向けられた憎悪が香神木の骸をさいなんでいるようで、居たたまれなかった。


 そうだ、アララギは憎まれていた、あるいは恐れられていた。前都主はその程度を読み違えた。何せ、前都主の息子であり、新たに座についた今の都主は、披露目の儀もそこそこに、アララギへと討伐軍を差し向けたのだ。アララギを匿う里は諸共に滅ぼせと命じてまで。


 アララギはずっと、人のことなど見ていなかった。自分のことしか見ていなかった。人が自分をどう思っているかということに、興味などとっくになくしていた。

 その結果が、このざまだ。


 桜の森も、社務所も焼けた。香神木の骸には敵意のやじりが突き刺さり、神域であるべき境内の周りには、アララギ自身が返り討ちにした、討伐隊の屍と血溜まりが点在している。風が吹くたびそこからは濃厚な死臭が立ち上り、怨嗟が聞こえるようだった。


 焦げ臭さと、腐臭と死臭。境内に漂い染み着くそれに、強く奥歯を噛みしめた。


(また僕が、あなたに害をなした)


 やしろを清めるなんの手立ても浮かばないまは、七日後には都の方角から、禍々しい人形ひとがたの群れが、社目指して飛んできた。

 百を超えようかというそれはすべて、アララギを呪う呪詛だった。

 瘴気しょうきき散らすそれらの呪詛が鳥居の上空を越える前に、呪符を放ちすべて叩き落とした。


 そしてまた、討伐隊がやってきた。


 社へは一歩も入れるまいと戦った。けれど防ぎきれなかった火矢が、またいくつか社の中へ落ちた。


 アララギが自身より社を気にかけて守っていることは、やがて討伐隊に気づかれた。三度目からの討伐隊は、アララギの隙を作るように、アララギよりも社に向けて攻撃を放つことが多くなった。


 放たれる呪符で、石槍で火矢で、石鳥居に傷をつけられることも、桜の骸が砕かれることも、香神木の骸が狙われることも許せなかった。そしてアララギはなおいっそう、苛烈に討伐隊を打ち払った。

 そのたび屍は増えて、社の周囲に血溜まりができた。

 せめて社は損なわせまいと戦えば戦うほど、社の神気は濁っていった。


 アララギがここでこうして生きながらえているかぎり、アララギの身から出た錆である都の憎悪は向けられ続け、香神木とその社を損ない続ける。


 罪深さに死んでしまいたかった。けれどそれは許されなかった。


 アララギが苦しみから逃れるために死を選ぶなら、アララギを守るために燃えた、香神木の犠牲は無駄になる。そしてアララギのいなくなった社は、都の勝利の証のように、完膚なきまでに踏みにじられて、叩き壊されることだろう。――そう、今では想像できるようになってしまっていた。


(あのとき死んでいれば良かった。せめて最後に一目だなんて、社に戻るべきじゃなかった。僕は、どこをどう考えたって、あの方と引き替えに生き残るべき命ではなかったのに)


 どうしていいかわからなかった。討伐隊との戦いにおいて、矢を受けようと火に巻かれようと、香神木の加護の香りをわずかも感じることはなかった。


 当たり前だ。これだけ人を殺し続けたアララギはもう化け物だ。あの優しい神霊の加護など、二度と与えられるはずもなかった。


 境内を満たしていた黒い沼が、鳥居の外にまで広がっていく。

 鳥居の外に散らばった、討伐隊の屍を呑み込んで、打ち落とされた呪詛の残骸を呑み込んで、死臭も腐臭も怨嗟の念も丸ごとすべて呑み込んで、周囲の大地を浸蝕していく。

 あんなにも美しかった香神木の社が、広がる穢れの中心になっていく。


 止めたくて、許せなくて、けれどアララギには、どうすることもできなかった。


 腐った水の臭いがする。アララギの腰まで浸した黒い沼の水面の下を、肥大した蛇に似た影たちが、埋め尽くすように泳いでいる。


 ――ひどいわ、と、声が聞こえた。


 ――ひどいわ、ひどい。どうして、どうしてこんなにも、わたしのことを貶めるの?


 耳の奥、脳裏に反響するそれは、いつだって穏やかだった香神木の精が、ついぞ聞いたことのない声で、アララギをなじる言葉だった。


 ――ひどい、ひどい、ひどい。


 喉を、胸を掻きむしる。


 許してくださいと祈ることさえ許せなかった。いっそ罰してくださいと願うことも恥知らずだった。アララギは香神木に対して何もできなかった。いたずらにその御霊みたまを失わせ、遺された社を、骸を、穢し損なうこと以外、何も。


(だから、せめて)


 据わった瞳を、空に向ける。彼方の空から近づいてくる、染みのような点がひとつ。それは次第に近づいて、複数の獣の骸を繋ぎ合わせた異形をもった、一体の妖へと姿を変えた。

 広がった沼の瘴気を嗅ぎつけて、ここまでやってきたのだろう。この場を根城とするために。あるいは、この場のよどみを取り込んで、己の力とするために。


 妖が、金物を擦り合わせたような、耳障りな声で鳴いた。頭部の犬の顔についた猛禽のくちばしを大きく開き、猿の上体で風を掻き、鹿の下半身で空を蹴って、沼に突っ込んでくる。その眉間と、胸元めがけて、アララギは呪符を投げつけた。


 呪符が当たった二カ所を起点に、妖が爆散する。

 ばらばらと降る肉塊の中で、アララギはぽつりつぶやいた。


「――せめて、僕以外のだれにも手出しはさせない」


 黒々澱む沼の水面下、沈んできた肉塊を丸呑みにした影の蛇たちが、わらうように泳ぎ回った。

 水面が揺れて、瘴気が上る。


 そこはもはや、神域ではなかった。




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