墨染の痛切

 桜が、外からは見えないように押し隠した、認めたくない己の陰。地中に埋め隠されたまま、時の経過とともによどみ、けがれと化したその陰に、澱みを餌とするモノたちが集まってきた。鳥居の結界をくぐることはできずとも、蚯蚓みみずのようにしゅるしゅると、地中を伝って。


 多少ならかまわなかった。陰の気を放つ澱みを餌とするものたちは、その性質もまた陰であって水気に近く、少なくとも燃えさかる火の気よりは、木である桜と相性がいい。澱みを地中に蓄えて、蚯蚓もどきを根に食いつかせ、それでも美しく咲けるのが桜であるはずだった。


 けれど、澱みに引かれてやってくる、蚯蚓もどきは増え続けた。それら透明な蚯蚓もどきたちは地中の澱みを喰らい続け、次第に肥えて黒ずんでいき、黒い蛇のような姿に変わった。変わって、澱んだ陰気を放つようになった。


 そしてまた、気というものは類を呼ぶ。地中深くに押し隠されて澱んだ陰気のところには、同じく重い因縁情念を抱えて停滞した気が寄ってくる。そうして濃度を増した陰気は湿度を増して水となり、やがては沼を形成した。


 その頃になると、桜の、木精としての姿にも、明らかな異変が現れていた。


 月のように白かった衣が、少しずつ黒く染まっていった。裾からしだいにじわじわと、まるで地中の澱みを吸い上げるように。

 木精は、桜の森の魂の顕現だ。その姿が黒く染まっていくということはすなわち、地中に押し隠し、見ないふりをした己の陰に、魂が侵食されていることを意味していた。

 ――染まりきったら、悪霊に堕ちる。

 至った考えに戦慄した。

 だから――もうこれ以上、不心得者を排除できない。


 しかし幸いと言うべきか。香神木こうしんぼくに恋着した神官が謎の死を遂げることは、後継たる神官たちも気づきはじめたようだった。おそれをもって距離をとって、香神木に仕える神官が続いた。

 それで桜も少し気を緩めていた、その矢先だった。

 また一人、やしろの神官が香神木に恋着した。今までで一番幼いうちから、隠すことのない慕情を、まっすぐ香神木に向けた。

 そして香神木もまた。今までで一番、その神官に目をかけていた。

 だめだ、と思った。

 だめだ、変質する。

 香神木が変わってしまう。その神性が失われてしまう。

 それは。それだけは――。


 だから桜はその神官に、そっとささやくことにした。直接手を下さなければいい。香神木と同じ時を生きる方法があると、そう耳打ちさえしてやれば、不相応で愚かな欲の果てに、みずから滅びてしまうだろうと。

 そして桜の思惑通り、社の外で妖招きの禁術を使ったかの神官は、香神木の目の届かぬところで朽ちていくはずだった。

 それなのに。

 心身をぼろぼろに喰われながらも、その神官は社に戻ってきた。招き寄せた妖どもや、その他諸々の忌まわしい有象無象まで引き連れて。

 けれどそんなもの、香神木の目に触れる前に桜が神官ごと、浄化できるはずだった。香神木ほどではなくとも、長年香神木と同じ空間を共にした桜も、そのくらいの神気は得ていた。

 なのに、できなかった。愚かにもそのときはじめて桜は、自分がとうに堕ちていたことに気がついた。そして、そんな桜の目の前で。


 香神木は、神官を救って燃えてしまった。


   ◇


 結局己も人と変わらぬ、浅ましい情に囚われた、卑しいいきものだったのだ。

 百年も仕えない新参者の人間が、香神木のそばを許されていることが憎かった。遠慮も畏敬も何もなく、心のままに身勝手な熱情を向ける人間が憎かった。

 だから殺して、そそのかして――巡り巡って桜の憎悪が、香神木を焼いたのだ。


 その最後の神官であるアララギを追ってきた軍勢の放った火矢で、桜の森に火がついたとき、笑い出したい気持ちになった。


 黒い沼が蓄えた力を振るえば、人の放った炎など消せた。けれど、桜が押し隠してきた情念のなれの果てである沼の力を振るうということは、その存在を認めるということだ。どろどろとした情念を自分は抱いていたのだと、認めてしまったならばもう、自分で自分を騙せなくなる。美しいものの振りはできなくなる。


 これよりさらに醜く、生き長らえるつもりはなかった。


 桜は、香神木の社にふさわしい、美しいものでありたかった。けれどそれはかなわなかったから。最後の最後見せかけだけでも、香神木の神域に存するものにふさわしく、儚く消えた美しい桜として終わりたかった。


 だから桜は、立ち尽くしていた痩せっぽちの人の子に告げた。訪れる者もない山奥の、陰鬱な寂しい社でひとり、まつ神霊かみの失われた境内を、来る日も来る日も己を磨き上げるかのごとく、精魂込めて掃除していた、哀れで物好きな娘に。


「おまえはお行き。裏からならまだ外に出られる」


 そうして最後まで取り繕って、少しでもいものの振りをして、儚く潔く散った木精として終わりたかった。

 けれどそんな思惑とは裏腹に、消滅するには時間がかかった。


 甘んじて受けた炎はなかなか、桜が消滅するに足るだけの熱を与えてはくれなかった。花と葉こそ瞬く間に焼け落ちたけれど、桜の根は、それから幹の中心は、炎でもそうそう乾かせないほど、どろどろと腐りよどんだ陰気を溜め込んでいた。

 だから、じわじわと身を焼かれながらも、桜の意識はまだ生きていた。


 罰だろうか、と思った。


 とろ火で煮込まれるような苦痛が昼夜続いても、かつての香神木のように、ひと思いにみずからを焼き滅ぼす力は、桜にはなかった。

 ゆえに桜は、くすぶる炎にさいなまれながら、残った意識で見ることになった。


 社から神気が消え失せて、瘴気しょうきに堕ちていくさまを。



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